金英男(キム・ヨンナム)さんは29日の記者会見で、自身や横田めぐみさんの拉致の経緯、ヘギョンさんとの関係など、関心を集める点をほぼ網羅し、予想通り北朝鮮の主張に沿った内容に終始した。南北関係筋は会見について「肉親との再会を果たした本人の言葉は見る人をそれなりに引き込む。北朝鮮はそこまで計算したはずだ」と指摘する。(2006/6/29朝日新聞)
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独裁者が統治する国の国民ほど、不幸な民はない。今夜の記者会見のニュースを観ていて、金英男さんの拉致ではなく、自然の流れで北朝鮮で生活をはじめ、勉強のために滞在して家庭をもったという会見内容に、嘘の仮面を見る。と言っても、金英男さんも仮面を被せられ踊れる被害者である。その仮面をつけたのは、誰か。
毎月1日に届く雑誌「選択」で、一番最初に開くページが精神科医の遠山高史氏の「不養生のすすめ」である。社会現象を精神科医としてメスをふるう技は、切れ味鋭く凡人の意表をつく。(文面からご年配の印象を受けていたが、1946年生まれ)
3月号では、”独裁者が失う共感能力”について、興味深いエッセイが載っていた。
東北大学の川島隆太教授による脳の活性度の実験によると、碁の相手が人間の場合とコンピューターとでは大きな違いがあったという。人間相手の場合、最も高次の脳機能とされる想像力、知性をつかさどる脳の前頭前野の部分が活動するのだが、相手がコンピューターだと脳の一部しか使わない。その原因として、コンピュータのもたらす情報は多彩に見えるが、所詮システムの枠の中での出来事なのでパターンの繰り返しだからだろう、という理由で説明される。人の脳は、相手とコミュニケーションをしながら、システムそのものを変えていく。お互いに、それを繰り返すことによって”共感”できる場にたどりついていく。前頭前野は、その機能を果たすボックスかもしれない。
学生時代、東北旅行をした時に、こけしに目や鼻を筆で描いたことがある。そのこけしを見た友人から、「樹衣子に似ている、こけしらしくない」と言われた。なるほど、彼女のこけしは、こけしらしく友人にそっくりだった。誰にもこのような経験があるだろう。人は、なにを描いても、なにを表現しても、そこに自画像という投影図を残す。それを遠山医師は、「作品は脳の中身を映す一種の鏡」と解説している。人がものづくりに励むのも、私がブログを更新するのも、脳が外部に自分を刻印として残そうとする性質があるからだ。
しかしながら、自分の作品を客観的に判断するのは難しい。人は人との関係性において、類推するしかないのである。そこにも真実や事実があるかと言えば、100%本音というのも難しい。ここで遠山氏は、自分自身を知るのは相手の中に自分と共感の響きを見つけたときと伝えている。私がGacktを好き、好きな映画や音楽、感動した本を語るとき、それはやはりそこに自分自身を映す鏡を見ているのかもしれない。
けれども、独裁者はどうなのだろうか。北朝鮮の金正日総書記は、無類の映画好きともれ伝わってくる。多くの美しい物語が、映画にはある。専用ホームシアターまでつくって鑑賞する映画を観ても、この方に感情に”共感”という文字はないのだろう。自分ひとりでは、自己を知ることはできない。にも関わらず、共感しようという努力が独裁者には欠けていく。ルーマニアのチャウチェスク政権の崩壊を考えると、いずれは北の独裁者も自分への復讐がはじまるものだ。民衆への共感への努力を怠った罰として。
金英男氏は北朝鮮に渡った後「労働党の懐に抱かれ、本当に幸せに暮らしている」と強調した。
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独裁者が統治する国の国民ほど、不幸な民はない。今夜の記者会見のニュースを観ていて、金英男さんの拉致ではなく、自然の流れで北朝鮮で生活をはじめ、勉強のために滞在して家庭をもったという会見内容に、嘘の仮面を見る。と言っても、金英男さんも仮面を被せられ踊れる被害者である。その仮面をつけたのは、誰か。
毎月1日に届く雑誌「選択」で、一番最初に開くページが精神科医の遠山高史氏の「不養生のすすめ」である。社会現象を精神科医としてメスをふるう技は、切れ味鋭く凡人の意表をつく。(文面からご年配の印象を受けていたが、1946年生まれ)
3月号では、”独裁者が失う共感能力”について、興味深いエッセイが載っていた。
東北大学の川島隆太教授による脳の活性度の実験によると、碁の相手が人間の場合とコンピューターとでは大きな違いがあったという。人間相手の場合、最も高次の脳機能とされる想像力、知性をつかさどる脳の前頭前野の部分が活動するのだが、相手がコンピューターだと脳の一部しか使わない。その原因として、コンピュータのもたらす情報は多彩に見えるが、所詮システムの枠の中での出来事なのでパターンの繰り返しだからだろう、という理由で説明される。人の脳は、相手とコミュニケーションをしながら、システムそのものを変えていく。お互いに、それを繰り返すことによって”共感”できる場にたどりついていく。前頭前野は、その機能を果たすボックスかもしれない。
学生時代、東北旅行をした時に、こけしに目や鼻を筆で描いたことがある。そのこけしを見た友人から、「樹衣子に似ている、こけしらしくない」と言われた。なるほど、彼女のこけしは、こけしらしく友人にそっくりだった。誰にもこのような経験があるだろう。人は、なにを描いても、なにを表現しても、そこに自画像という投影図を残す。それを遠山医師は、「作品は脳の中身を映す一種の鏡」と解説している。人がものづくりに励むのも、私がブログを更新するのも、脳が外部に自分を刻印として残そうとする性質があるからだ。
しかしながら、自分の作品を客観的に判断するのは難しい。人は人との関係性において、類推するしかないのである。そこにも真実や事実があるかと言えば、100%本音というのも難しい。ここで遠山氏は、自分自身を知るのは相手の中に自分と共感の響きを見つけたときと伝えている。私がGacktを好き、好きな映画や音楽、感動した本を語るとき、それはやはりそこに自分自身を映す鏡を見ているのかもしれない。
けれども、独裁者はどうなのだろうか。北朝鮮の金正日総書記は、無類の映画好きともれ伝わってくる。多くの美しい物語が、映画にはある。専用ホームシアターまでつくって鑑賞する映画を観ても、この方に感情に”共感”という文字はないのだろう。自分ひとりでは、自己を知ることはできない。にも関わらず、共感しようという努力が独裁者には欠けていく。ルーマニアのチャウチェスク政権の崩壊を考えると、いずれは北の独裁者も自分への復讐がはじまるものだ。民衆への共感への努力を怠った罰として。
金英男氏は北朝鮮に渡った後「労働党の懐に抱かれ、本当に幸せに暮らしている」と強調した。