千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

GacktがNHK大河ドラマで上杉謙信に

2006-03-31 23:57:00 | Gackt
毎日、世界は動いている。

(3/31毎日新聞より)--------------------------------------------------------------

民主党を揺るがせた「偽メール」問題は31日、とうとう前原誠司代表の退陣に発展した。国会質問の失敗をめぐり党首が引責に追い込まれたのは前代未聞だ。仮に永田寿康衆院議員が辞職しても死に体化した前原体制の立て直しは困難との判断があったとみられるが、初動対応のつまずきという危機管理の失敗が致命傷となったことは党の政権運営能力に大きな疑問符をつけ、解党的出直しを迫られそうだ。

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民主党の前原誠司代表が偽メール事件の責任をとって、とうとう辞任。後任は、噂どおりの小沢一郎前副代表に出馬要請とのこと。確かに正当な理由ではあるが、どうも舞台裏での格闘技を想像してしまう。小沢さんはどんなに笑顔で頑張っても、女性からは敬遠されるタイプだ。人相が悪いからだけではない。”優しさ”というキーワードを求める女性の嗅覚は、けっこう鋭いものがある。もっとも小泉首相のかっての人気の高さを考えると、見た目に騙されることもままある。いずれにしろ、小沢さんでは自民党に対抗できないのでは。

しかし、最大のニュースは、最大の事件は、
GacktがNHK大河ドラマ「風林火山」に、上杉謙信役で出演!!
(毎日新聞より)--------------------------------------------------------------------
NHKは31日、07年に放送する大河ドラマ「風林火山」(井上靖原作、大森寿美男脚本)の出演者を発表した。主役の軍師、山本勘助役は文学座の内野聖陽(まさあき)さん▽上杉謙信役は歌手のGackt(ガクト)さんと、異色の顔合わせ。内野さんは「ものすごい重圧ですが、最初から飛ばして今までにない勘助役をつくりたい」、Gacktさんは「戦いの先にある死さえ超える強い意志と志を持った魂が大好きで、僕自身、侍スピリットを大切にして生きてきた。日本人の内面の美しさや共感できる侍スピリットを表現したい」と抱負を語った。
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昨年末、来年は少し違うことをやってみたい、とGacktさんは言っていた。また、今年は国内でツアーの予定がなかった。
・・・となれば、恒例のエステのCM出演での露出度だけが、わずかな楽しみだった。(それも続投か不明)なんだかまるで気合の入らない、日々だった。それが、NHKの大河ドラマに、しかも上杉謙信という大役を射止めていたのだ。そういえば、昨年は妙に馬に乗っているシーンが続いた。クリスマスには、東京ドームの中まで馬に乗って走り回っていたっけ。長髪をなびかせ、中世の騎士のように馬を走らせる姿は、よく似合っている。諸々のジクソーパズルのピースがようやく組み合わさったような気がする。
テレビ放送の商品としては”キワモノ”だけれど、意外とGacktのパーソナリティを最もよく知っているのがNHKである。「今裸にしたい男たち」では、マダガスカルまで彼を密着取材。(何故、私を連れて行かないのか?あのレポーターは、全然Gacktさんを理解していない)ともあれ、現地のこどもと遊ぶ珍しい姿や、格闘技に飛び入り参加して勝つ勇姿に熱くなった。紅白歌合戦での起用。「POP ジャム」では、王様待遇。2002年夏には、「HERO’S HERO」で若者向け教育番組に出演して、彼の好きな伊達政宗、ナポレオン、アインシュタインの3人の人生を語るナビゲーターも勤めたこともある。(不健康な夜のお水系の雰囲気と理知的で説得力ある解説のミスマッチ感が魅力)

そして、とうとう大河ドラマ出演である。常日頃Gacktさんを”暴れん坊将軍”と揶揄していたのだが・・・。
ただひとつだけ心配なのが、NHKは長期間拘束されるが出演料が安いこと。なにしろこの将軍さまはお金のかかる方なのだ。こういう心配までするのが、Gacktファンらしさでもある。
それはともかくとして彼は、以前から次のように語って、そして実践してきた男でもある。

「日本人は侍魂で、やるかやられるかの世界で生きてきた。対峙した時に、生きぬくことが大切。そのために訓練する。」
自らを”武士”(もののふ)という彼らしく、鋭い演技に期待。嗚呼・・・萌え。

「ルイ・ヴィトン」通信販売を開始

2006-03-29 23:41:09 | Nonsense
(2006年 3月27日 読売新聞)-------------------------------------------------------

仏高級ブランド「ルイ・ヴィトン」を扱う「LVJグループ ルイ・ヴィトンジャパンカンパニー」が、2007年1~3月をめどに、インターネット上の公式サイトで商品を販売するオンラインショッピングを始める。  欧州の主要な高級ブランドが日本でオンライン販売を本格展開するのは初めて。老舗のルイ・ヴィトンの参入で、高級ブランドもネットで買う時代がやってくる。  「ルイ・ヴィトン」は05年10月にフランス国内でオンラインショッピングを始め、今年1月にイギリスにも広げた。4月からはドイツでも始める予定で、ネットでも店舗と同様に新作を含むほとんどの商品を販売している。
日本からは公式サイトは見られても注文はできなかったが、来年から、バッグやアクセサリーなど新作を含む商品を注文できるようにする。取り扱う品目は、既存店での販売との兼ね合いにも配慮して、慎重に決めていく考えだ。 ブランド企業はこれまで、格式やイメージを損ないかねないとの懸念から、自社商品をネット上で販売することに慎重だった。しかし、04年の電子商取引市場が100兆円を超え、多くの並行輸入業者らはすでにブランド品をネット販売している。このため最近では、ネット上でのイメージ低下を防ぐため、自らネット販売する方が得策、という考えに変わりつつある。

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街を歩いているとヴィトンのバッグを見かけない日はない。渋谷風ちょいエロ系の女の子(←このテのタイプに本当に可愛い子はいない)から、一部上場企業勤務の気取った女性、銀座や青山で優雅なランチするマダムからださいおばさま族まで、もっているバッグは同じである。少なくとも、この点だけは平和なことにこの国では”格差社会”がない。ともすれば、日本人のブランド信仰の象徴とも男性軍から揶揄されるヴィトンであるが、1200億円もの売上を支えているのが、格差のない製品だからではないだろうか。
身内の者で、ハワイに家族旅行に行くたびに、ヴィトンのバッグが増える者がいる。妻よりも夫の方がお買物には熱心である。エピ、モノグラム、ダミエ、大型ボストンタイプからお財布まで、着実に旅の戦利品がクロゼットを埋めていく。たまにはグッチやセリーヌ、ティファニーのアクセサリーになる時もあるが、ヴィトンは飽きないし、流行遅れということもなく、服装を選ばないからやっぱりヴィトン!ということらしい。

1821年に生まれたヴィトンは、貴族や有閑階級の旅行の荷造りを生業としていた。大事な顧客の大切な衣装や生活用品を綺麗に持ち運ぶために工夫して、木枠を積み重ね、その周囲を麻布で何枚も重ねて漆ようなものではりあわせて衣装ケースを作ったのが33歳の時。貴族から重宝されるにつれ、コピー製品がでまわるようになると、後継者の息子のジュルジュ・ルイ・ヴィトンがLとVの刻印を押して、差別化を図るようになった。本国フランスでは、95%の庶民はヴィトンは知っていても無縁であるという。わずかな上流階級の富裕層が、生活様式を楽しむための道具として、”ルイ・ヴィトン”を消費していたのだある。1989年に革製のバッグを本格的に製作する。頻繁にしかも永く使用するバッグに傷がつかないよう考えたのがエピ(麦の穂)だった。

日本で何故、これほどヴィトンが売れるのか。日本人は、質の高いものを好む。匠の技を伝統的に愛するタイプでもある。また食品、大学、車等ブランド志向も強い国民性もある。ヴィトンのバッグは、殆どがいかにも特徴のあるヴィトンらしい。誰が見ても、離れた所から眺めてもすぐにヴィトンとわかる。誰にでも”高級品”と即座に認知できる点が、人気の秘密かもしれない。貴族が使い勝手のよさに重宝していた商品が、他者との差別化、自分を一歩格上げさせるための道具という無意識の自己顕示欲が所有者にあったとしたら、これだけ大量に市場に流通している日本では、”みんな同じ”という均質化のパラドックスに落ちる。
かくいう私もヴィトンのバッグを昨年初めて購入した。それまで、ヴィトンに全く興味のなかった私が、身内の者がもっていたバッグにひとめぼれしたからだ。(当然ながら、それと同じバッグを持っている人を見かけたことはない。)翌年のハワイ旅行で頼んだが在庫がなく、銀座松屋にあるヴィトンでもなく、結局銀座の路面店で型違いの小さなバッグを購入したのだが、品物を選ぶ時間、店員さんとの会話、すべてが満足の行く”お買物”だった。デパートで品物を選んだり、ショップでバッグを買うのとは異なる時間だった。”選択”&”支払”は、人生の中で重要なお仕事とつい思ってしまうくらいの充実感。ネットでワン・クリック、後で品物と請求書がくるのとも違うだろう。アマゾンの手軽さは、本当に必要なのだろうか。
「東京タワー」でリリー・フランキーさんが、ポケットの中の100円玉は貧しくないが、ヴィトンのバッグの中の財布に1000円は貧しいと言っていた。益々大衆路線を走りながら、100円ショップ並に愛されるヴィトンだが、にも関わらず高級ブランドを維持できるのは、価格の設定ばかりでもあるまい。今後、利益率の高い衣服にも力を入れていくらしいが、肥大化したヴィトンは、もはやブランドとしてのヴィトンではなくなる日がやってくると思うのだが。

世界最強投資銀行

2006-03-28 23:25:22 | Nonsense
サントリーホールの目の前にあるアークヒルズでは、米国テロ事件直後警備員が増強され、当時入居していたゴールドマン・サックス入口は厳戒態勢がしかれていた。さすがに、世界最強の投資銀行。テロに狙われやすいのだと妙に納得した。
昨夜「巨大投資銀行」を読み終えたので、知名度抜群、世界に冠たるゴールドマン・サックスの研究。

知れば知るほど、やっぱり「巨大投資銀行」の主人公が感嘆するほどの狩猟民族の勢力である。
ドイツからの貧しい移民マーカス・ゴールドマンが創業し、親戚であるドイツ系ユダヤ人のサックス家とともに同族会社を興し、全米から優秀な人材が募る今日の投資銀行にいたった。1974年東京に上陸して以来、M&Aの仲介ビジネスではトップクラス。新聞紙上でも主幹事としてお馴染のブランドである。

ゴールドマンは、投資銀行部門とトレーディング部門のツートップ制であるが、投資銀行部門を統括しているのが、持田昌典氏である。「通信」「金融」の時価総額の大きい案件を中心に、自ら経営者のもとに脚を運び、戦略を教示して獲得したのが、NTTドコモの公開主幹事や旧日本長期信用銀行の営業譲渡先選定に係るファイナンシャル・アドバイザーである。M&Aは地味な仕事とソロモン・スペンサーに勤務しはじめたばかりの桂木は言われるが、持田氏は「プリティ・ウーマン」におけるリチャード・ギアばりのスターぶりである。最近では、「地方の温泉宿泊施設については今後の有望な投資対象として、積極的に関わっていく」との公言とおりに、老舗温泉旅館にせっせと投資しているらしい。これらの投資は主にファンドを通しているが、自己資金は一部で、大半は海外投資家の資金である。ハイリスク・ハイリターン戦略を得意とする「ハゲタカ」ぶりを遺憾なく発揮。99年5月には、パートナー制をうちきり、株式上場。パートナーには、1人平均68億という巨万の富がころがりこむ。(あまりにも有名なエピソードであるが、マネックス証券の松本大氏は史上最年少のパートナーになりながらも、ストックオプションの権利を行使する前に退職して起業する。)

しかし日本で順調に実績を積んできたゴールドマン・サックスも、ここのところ他社の猛追撃にあって苦戦を強いられている。花王とカネボウ化粧品の買収失敗、UFJ、武富士でも敗戦気味。しかも国内での風当たりも少々強くなる。
04年2月新生銀行が東証に上場するや、ゴールドマンの仲介で買収したリップルウッドが、予想どおり2300億円の売却益を得たことは記憶に新しい。まさかその投資組合なるものの国籍がオランダで、課税逃れまでしていたとは驚きだったが、さすがにその事実が発覚した時は、国内で非難ごうごうだった。しかしこの手法は、日本の不良債権を買い叩いて転売、50億の利益をオランダ法人へ投げて、15億の追徴金を支払わされた過去を彷彿させる。とびきり優秀な人材のチームワークと定着率を誇るゴールドマン・サックスだが、これでは”りずむ銀行”のCEOに就任した桂木英一のような人物に、米国企業で培った能力を今度は日本のために活かして欲しいとつい思ってしまう。小説「巨大投資銀行」の表紙の写真の”自由の女神”が背中を向けているのが何故だろうか。世界最強、その栄光にほんのわずか陰りを感じる今日この頃ではあるが。

「巨大投資銀行」黒木亮著

2006-03-27 23:58:58 | Book
評価:★★★★★ 本作品の感想をひとことで述べるとしたら、この星5つにつきる。

大ヒットした映画「プリティ・ウーマン」のリチャード・ギアが演じた主人公は、極めて有能なビジネスマンだった。初めてこの映画を観た時は、企業同士の結婚の仲人を生業とするだけで、何故あんなにもリッチなのか謎だった。その後、あまりなじみのなかった投資銀行によるM&Aなる事業が国内で認知されるようになり、ホテルのスイートルームも趣味のオペラもブランド街でのショッピングも、決して誇張ではないことをわかる。米国では、ビッグ・ディールをものにすると年収が億を超す。

本書は、リチャード・ギア(映画侍さん?)のように女性経験は豊富ではないが、ひとりの日本人が米国投資銀行に転身し、厳しい競争に勝ち抜き、最後に55歳にして金融・経済財政担当大臣の要請により、金や自分の将来のために仕事を選ぶ人生の段階は通過したと感じ、新しい銀行の会長に就任して日本の金融システム変換に一石投じる決意をするまでの「課長 島耕作」の金融界を舞台にかえた小説版のような物語である。

主人公である彼の名前は、桂木英一。京大を卒業して東都銀行に入行するも、理不屈な人事システムに納得がいかず、1985年投資銀行モルガン・スペンサーに37歳にして転職する。この時代、一流の都市銀行を退職して外資系企業で働くことに対して、まだ理解もなく偏見が残っていた。出世できないから、外資にフェード・アウトしたと同期から陰口をたたかれながらも、着実に仕事をこなし、M&Aのノウハウを身につけていく。CP部門マネー・マーケット部門が突然閉鎖されると、所属していた職員は年配のベテランからハーバードでMBAをとった新人までいっせいに解雇される。能力だけでない運も必要である。桂木は誠実に仕事をすすめ、バブル景気に浮かれるジャパン・マネーの追い風も手伝い順調に出世の階段を登っていく。
しかし、なにかが心にしこりが残る。大学時代の恩師の「君たちが勉強するのは社会に貢献するためだ。自分の判断は、社会に役に立つものか考えて欲しい。そして日本のために尽くすしてほしい」という祈りのような言葉を決して忘れることはなかった。やがてバブルが崩壊し、日本経済は出口の見えない暗黒時代を迎える。

桂木とは対照的な人物として登場する竜神宗一。中央大学を卒業し、縁故で山一證券に入社するもソロモン・ブラザーズ東京支店に移る。トレーディングでも麻雀でも美しく大きく勝つことを流儀とする竜神は、裁定取引で巨額な富を築く。いまだ未成熟だった当時の日本の市場は、儲ける機会は多い。儲けが薄くても確実に儲かるところに途方もない金額を注ぎ込む。価格の歪みが修正されて、市場があるべき姿に戻るconvergenceは、裁定取引者にとって天地創造のような出来事である。彼は、宇宙を支配し、豊饒なる果実を摘み取る。それは莫大な収益を会社にもたらすことである。やがて時代も変わり市場も洗練されるにつれ、裁定取引が成立する機会も減り、竜神は巨万の富を築いて若くして引退する。

そして桂木の友人になるファースト・スイス証券東京支店資本市場部ディレクターの藤崎清司。几帳面で最もロマンチストであると私には思える彼は、資産を貯えてヘッジファンドを設立する。

実名と実在する企業を一部織り込みながら、1980年代から金融の歴史を振り返りながら金融商品の説明を巧みに紹介している本書は、ビジネスマンお薦めである。ともすれば日本企業対外資、同じ外資の中でも狩猟民族である欧米人に対する日本人、投資銀行と商業銀行の単純な対比におちいりがちだが、それも上下巻かなりの長編に収めるためにはやむをえないかもしれない。バブル時代、その崩壊後、日本の銀行はどう戦ったのか。不毛なビジネスに精をだし、脚のひっぱりあいにエネルギーを費やしていたかに見える日本の銀行。経済小説の賞味期限は短い。文庫本化する頃には、すでに鮮度は落ちている。しかしこのように過去を検証しつつ現代につながる四半世紀の経済史的側面をもつ小説は、地味ではあるが時間経過とともに陳腐化することのない格好の金融経済史でもある。

最も印象に残るエピソードは、やはり12章のナイジェリアの炎であろう。1995年ケン・サロ=ウィワをはじめとする少数民族活動家を、当時のナイジェリア軍事政権は国際的批判をしりぞけ処刑する。しかし、ナイジェリアに対する制裁は発動されずに、米系石油会社の株と債権は予定どおり発行されることになった。
「9人の命や世界の片隅の小さな正義より、ナイジェリアの石油の方が重かった」
こう喝破したヘイヤーは、その後引退して船乗りに戻っていく。

『魔笛』監督:イングマル・ベルイマン

2006-03-26 12:27:31 | Classic
W・A・モーツァルト生誕250周年というハレー彗星に遭遇したかのような記念すべき年にあわせて、我が愛するモーツァルトの音楽を聴いているのだが、巨匠イングマル・ベルイマン監督1975年スウェーデン製作のオペラ映画「魔笛」を観て、自分がモーツァルトの真実の姿から遠くにいることに気がつき焦燥めいた気分の落ちる。

ここは、エジプトのある森。大蛇に襲われ、気を失った王子を3人の官女が救い出す。よく見ればこの王子タミーノは、若く、スタイルもよくイケ面ではないか。彼女達は、この収穫を喜び早速「夜の女王」に報告する。そこへ、日本でいえば田舎の嫁飢饉にいるような道化師役・パパゲーノが登場して、女の子が欲しいと嘆き節を歌う。やがて正気を取り戻した王子に、官女たちは姫パミーナの肖像画を見せるが、王子は彼女の美貌にひとめぼれをする。古今東西、姫君は美しくなければならない。
「夜の女王」は娘にほれた王子の様子を見てコトが首尾よく運んだことに満足し、次に悪魔ザラストロに我が娘を奪われた母としての悲しみをせつせつと訴え、王子に救出を依頼する。救出できたご褒美は、勿論パミーナ姫。恋に萌える純粋な王子は、パパゲーノとともに3人の童に導かれてザラストロの神殿に向かう。手には、童たちから授かった魔法の笛「魔笛」と、パパゲーノには魔法の鈴。



映画の冒頭は、ベルイマンらしく趣向を凝らしている。「魔笛」の序曲の演奏が始まると、いかにも北欧の少女らしい顔立ちの聡明そうな表情が長く映される。やがて劇場でオペラの開幕を待っている様子だと理解する頃に、次々と他の観客の表情が音楽の旋律とともに挿入される。老いた顔、若い顔、男性、若い娘、老人、こども、老女、白人、黒人、東洋人、日本人、インド人、アフリカ人・・・幅広い年齢、さまざまな人種の人々がこの劇場に集い、一心にオペラの開幕をいまかいまかと待っているのである。モーツァルトのオペラ「魔笛」の。

モーツァルト映画の傑作「アマデウス」を観た時の「魔笛」の感想ではあるが、当時の音楽はその多くが宮廷音楽として貴族社会のものだったが、この「魔笛」は一般大衆相手の一座をひきいる俳優と歌手もかねた興業主エマヌエル・シネカーダに依頼されて作曲したモーツァルト最後のオペラである。きどった貴族相手ではなく、大衆相手のこのオペラの内容は単純。王子のひとめぼれの恋の成就と彼女をゲットするための試練なのだが、貧しい大衆相手のジングシュピール(歌芝居)には、謎と毒が盛り込まれていると思うのは、うがった見方だろうか。
就寝中の姫を襲おうとする奴隷頭モノスタトスの歌にこめられた、女ができないのは自分の黒い肌のせいという嘆き。彼女にふられるのは、肌の色でなく貴方の心のありようだと伝えたいではないか。そこへ「夜の女王」がやってきて復讐を誓う有名なアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」 がははじまる。玉がころがるような難技巧コロラトゥーラを披露して盛り上がる女王の歌は、娘への威嚇でもある。姫にとっては父であり、自分にとっては夫であるザラストロを刺すようにと命じて剣をおしつける「夜の女王」の豹変ぶりに驚きおびえる姫。おびえるのは姫だけではない。
悪魔とののしられたザラストロが、思慮深く娘思いのパパだったと理解するにつれ、ママ「夜の女王」の憎い夫謀殺案の手口には、夫婦の深い溝と憎しみに笑えるくらいに戦慄する。悪と善が完全に入れ替わる意外性は、このオペラに大衆をあきさせないおもしろみと、社会のシステムへの不満のガスぬきをも与えている。これは、現代でも充分に通用する。またこのあたりの母と娘の関係は、妊娠中の安達祐実さんと、ヌード写真集を出すというママのあり方を彷彿させる。

軽率で野卑だが本音を炸裂するパパゲーノと、真面目でいいつけをきちんと守る王子の対比。一度は、王子の心変わりを疑い、絶望のあまり剣で自殺しようとまで思いつめた姫の純粋さと底の浅さ。未来の婿殿の肝試しをする父としてのザラストロの威厳と絶対性の息の詰まる迫力、復讐のためだったら娘さえも道具とする女の凄みを感じさせる夜の女王。
あくまでも格調高く芸術作品に撮ったイングマル・ベルイマンの映画をきっかけに、モーツァルトを再発見し、オペラの魅力にめざめつつある、かもしれない。やっぱりオペラは、CDで聴くだけではね・・・。

*主催は長編オペラ映画を主に扱っているオリエント映画。会場は、銀座ブロッサムホール。

作曲 ‥‥ W・A・モーツァルト
監督 ‥‥ イングマル・ベルイマン
指揮 ‥‥ エリック・エリクソン
演奏 ‥‥ スウェーデン放送交響楽団および合唱団
歌手 ‥‥ タミーノ/ヨーゼフ・ケストリンガー(テノール)
      パミーナ/イルマ・ウッリラ(ソプラノ)
      パパゲーノ/ホーカン・ハーゲゴード(バリトン)
      パパゲーナ/エリザベット・エリクソン
      夜の女王/ビルギット・ノールディン(ソプラノ)
      ザラストロ/ウールリグ・コール


ビクトリア・ムローバのブラームスVn協奏曲

2006-03-24 23:54:34 | Classic
「007に登場するほどの純然たるロシアの美女なんです。神秘的といってもいいほどの美しさでした。」
このようにピアノ演奏を嗜むcalafさまがあまりにもビクトリア・ムローバを絶賛するので、改めて92年1月25日サントリーホールでのクラディオ・アッバード指揮、ベルリン・フィルと共演した「ブラームスVn協奏曲」のビデオをとりだして拝聴。そしてとくとくとムローバの容姿を観察する。ロシアの美女というラベルは、米原万理さんも納得するのか。

ビクトリア・ムローバは、1959年旧ソ連ウクライナ出身。モスクワ音楽院でレオニード・コーガンに師事する。1982年チャイコフスキー国際コンクールで優勝し、一躍世界のトップに踊り出るが、翌年フィンランド旅行中に亡命して、現在はロンドン在住。世界中の一流オケと共演する一方録音したCDが、グラミー賞などを受賞する。近年では、古楽器オケを指揮する反面ポップスやジャズの録音などその活動範囲は女性ヴァイオリニストには珍しく広い。

「ヴァイオリン界の女王」アンネ・ゾフィー・ムターと並んで、このようなオーラに満ちた表現をされるムローバであるが、あらためて音楽歴とこれまでの軌跡を考えると、その音楽性とともに女王の名にふさわしく威厳さえ感じられる。1963年生まれのムターが、女優のような美貌とスタイルで、セレブな感覚を漂わせて”女王”の座に君臨しているとすれば、かたやムローバーは指揮者も兼務するように統率力と地味だが威厳ある風格で、実力派女王と呼ばれるタイプであろう。優美さと亡命までする力の違いともいえようか。

さて、そのムローバが演奏するブラームスであるが、一本の沁が強靭なしなやかさで流れている。冷たくストイックな印象さえも与える。確かにこの演奏は、007に登場する鍛錬されたアストリートのような肉体を彷彿させる音楽性を感じる。実力は、勿論女王と称えられるにふさわしい。指揮者のアッバードの端整な指揮とも”お似合い”ではある。けれども、何かがものたりない。第三楽章の祝祭的な冒頭で考える。
ひと言で言ってしまえば、彼女の演奏は、整っているが色気に欠ける。

衣装は黒いズボン。そして霧に包まれた湖をイメージするほのかに紫がかった水色の長袖ブラウスには、同じ色と深いミッドナイトブルーの(ジョーゼット素材?)ポンチョに似た形の布が重なっている。かなり特徴のあるデザインではあるが、現代曲にふさわしく、ブラームスのこの音楽には違和感を感じる。かといって、当時の彼女の風貌では、ロングドレスは似合わないだろう。まして、ムターのような肩を出して体のラインを強調したオートクチュール姿は、申し訳ないが見たくもない。。。髪型は肩までのストレートロングで、金髪でなく本来の栗色。耳のわきを演奏のじゃまにならないようにピンでとめている。長身で、名女優のメリル・ストリープに似ている。
CDのポートレイトは、その後の金髪、ボブカットに女性らしく変身した時と思われ、当時とは印象がかなり違う。ムローバの「四季」は、瑞々しく美しく、清冽な印象を与える文字どおり清らかな色気に溢れているが、このブラームスはいただけない。何故ならば人生の悲哀と喜び、そして色気を感じられない「ブラームスはお好き」と尋ねられたら、返答に窮するだろう。
その後、共演した指揮者と一緒に暮らしているという!!(←calafさま情報)確か、こどもも産んでいるはずだ。だからというわけではないが、今こそ、40代半ばを過ぎたムローバの女っぷりのいいブラームスを是非聴きたいと願っている。

大学全入時代に

2006-03-22 23:45:30 | Nonsense
国立大学の後期合格発表もそろそろ出揃い、今年度の受験決算報告は終了。見事大輪の桜の花を咲かせた受験生もいれば、捲土重来を期す者もいるだろう。
一部の頂点となる難関大学の関門は、あいかわらず厳しいが、推薦入試、受験回数を増やして入りやすい大学もあるという。来年は、いよいよ大学全入時代がやってくる。大学を選びさえしなければ、誰でも大学に入れる。学びたい者が、学べる場と機会の増加、それ事態は好ましい豊かな社会ではある。しかし、それはまた選抜の厳しい難関大学と事実上大学生たる学力に到達していない者も経営上受け入れざるをえない底辺大学という”格差”も生じる。教育機会の裾野の広がりは、誰にでもチャンスを与えたが、大学という学び舎にふさわしくない大学の増加という質の低下も招きかねない。

現在国公立大学は149校、私立大学は574校ある。過去3年に私立大学が62校新設され、既設の大学でも学部、学科が増殖中。(母校の経済学部も新たに学科が増えていた)まるでバブル期のマンションの乱造のていがある。かっては、大学や学部学科の新設には、設置諸条件を満たしていることが、その大学以外の第三者機関に事前認証してもらう必要があった。ところが、04年4月法改正により、大学関係者自らが新設後に点検結果を評価し、結果を公表すれば了解となった。
それでいいのか。一度新設された大学は、最悪だとしても簡単に閉鎖できない。しかも、自己評価という客観性も透明性もない成績をどこまで信頼してよいものか。

文部科学省の私学振興助成金(一般補助&特別補助)は、昨年度で3200億円だった。内訳として教育研究条件の継続を目的として教員・学生数を基準に自動的にふりわけられるせいだろうか、1位日本大学129億円、2位早稲田大学95億円、3位慶応大学93億円と続く。問題は、今後大学間で競争原理を導入して手厚くする方針の特別補助金の獲得である。この助成金を多くもらうポイントは、教員数に比較して学生数が少ない=教育の質が高い、という評価をえることだ。この助成金をねらうのは、簡単。
①設備費というハードにお金がかからない大学や学部の新設
②学生定員数を少なくする
③各省庁の役員や教員などを天下りで迎えて教員の増加
いざとなったら、アジアから留学生を受け入れ、水増し合格もあり。

世界的に活躍されている建築家の安藤忠雄氏は、高卒でも東京大学の教授である。これは「専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者」という大学設置基準の教員資格条文に該当しているからだ。安藤氏のように学歴はなくとも、貴重な実力者登用のためだったのだが、これも誰でも教員になれる使い勝手のよいシステムになりつつある。いつかGacktだって、”教授”として教壇にたつ可能性がある。(←これはいけるかも)
その一方で国立大学では独立法人化に伴い、短期間に実績を挙げることが困難な基礎科学分野は、研究費削減で泣いている。産学協同と言っても、ビジネスにすぐに直結するわけでもなく、民間資金をえることも叶わない。

近頃の大学案内を眺めたら、専門学校なのか、職業訓練校なのか、判別できない大学もある。逆に、どこの大学出身かというブランドの選別にもつながる。大学全入時代を迎えて、大学そのものの地盤沈下がすすむ。フランスのカルチェラ・ラタンでは、若年層の雇用促進策「初期就業契約(CPE)」に反対する抗議デモが続いている。この雇用促進策の是非はともかくとして、この国では、大学生はやはり今でも大学生らしいと。******************************************************************************
(3/23追記 共同通信より)
「浅井学園前理事長を起訴 経費を自宅の補修費に流用」

札幌地検は22日、浅井学園大などを運営する学校法人浅井学園(札幌市)の経費約5300万円を自宅の補修費に流用したとして背任罪で、前理事長の浅井幹夫(57)と同大学元管財課長の穴沢貢(49)、工事の元請け業者で会社役員酒出信二(36)ら3容疑者を起訴した。地検によると、浅井被告は起訴事実を否認。穴沢被告らは認めているという。
道警は今後も、別の学園経費の流用や補助金適正化法違反での立件を視野に捜査を続ける方針。
起訴状によると、浅井被告らは共謀の上、学園経費から浅井被告の自宅補修工事代金を支出しようと計画。2001年8月から10月にかけ、浅井学園大学・短期大学の校舎外壁補修工事の代金として約1億3300万円を酒出被告の会社に振り込み、うち約5300万円を浅井被告の自宅の補修工事代に充て、学園に財産上の損害を与えた。

この工事に対しては、その後文部科学省の補助金約5700万円が支払われた。

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札幌国税庁は、3億2千万円の経費流用を認定。そのうち1億円は、女性用高級スーツ、時計、かばんや靴などの物品購入に消えた。
「職員1人雇っても、学生1人を入学させても補助金がでる。学校経営ほどおいしいものはない。
カネがないなら、授業料を上げろ。」
これが、浅井容疑者の残した言葉である。この事件は、あくまでも例外だと思いたいが、一番の被害者は学生である。


ある韓国人留学生が遺したもの

2006-03-21 23:14:54 | Nonsense
「NHKクローズアップ現代」より感想。

5年前の01年1月26日雪のふるJR新大久保駅で、酒に酔って線路に転落した男性を救助しようと、ふたりの男性が命を落とした事故を、ご記憶の方も多いことだろう。彼らの勇気ある行動への敬意と不運に対する大きな悲しみだけでなく、その1人が日本に留学中だった韓国の青年だったことも両国の歴史を考えると、人々になお深い印象と感銘を与えたのだと思う。

あれから5年。日本は女性を中心に韓流ブームにわき、もっとお隣さんとしてお近づきになりたい親しみと共感をもちながらも、政治的には小泉首相の靖国参拝問題、竹島領土問題と摩擦は一向に解消されない。そんななか、亡くなった留学生李秀賢(イ・スヒョン)さんの行動を通して、彼のとった行動の意味を問う、花堂純次監督の国交樹立40周年記念の日韓合作映画「あなたを忘れない」が製作中である。

しかし、製作に携わる日本と韓国は、さまざまな局面で意見が異なる。花堂監督は、スヒョンさんが映画の主題を韓国の”ウリ(仲間・同胞)”という仲間を大切にする伝統を日本人にもひろげたこと、徴兵制度による入隊経験が培う他人のために自己を犠牲にする精神を描きたいと考えたが、韓国人スタッフから反対される。韓国人の彼らに言わせればウリには特別な意味もなく、民族性を強調するよりも普遍性をもたせたいこと、また軍隊には近年、暴力や古い体質が社会問題になっていることから、事実を歪曲することになる。この映画が韓国で関心が高いことから、パク・チョルハン助監督は、誤った認識で描かれてはいけないと懸念を禁じえない。
結局、韓国の特殊性を強調しないで普遍性を出すことに着地した。

イ・スヒョンさんのご両親は、今どうされているのだろうか。大切な息子を異国でなんら彼には過失のない不運な事故で失っても、恨み言や怒りをあらわにすることもなく毅然とした態度は、日本人の”共感”をよんだ。「かけはしの会」の会長である北垣善男さんは、かって韓国人に偏見があったが父イ・ソンデさんの姿勢に感銘を受け、日本にくる韓国留学生を支援する奨学金制度「エルエスアイ奨学金制度」を設立した。

この話題は、花堂監督の映画製作における抱負と同様、美談にしてはいけない。
その奨学金を受けているキム・ジョンさんは、日本の若者は近代史には無関心である、しかし小さい頃から繰り返し歴史を学んできた自分は、逆にあの時代から逃げられないと語っている。韓国人の彼女のこの言葉は、非常に鮮烈だ。日本と韓国のかけはしに欠けている重要ななにかを示唆しているのような気がしてならない。
韓流ブーム以前から韓国映画が好きで、多くの作品を観てきたと自負していたが、韓国、韓国人を理解するのは難しい。「共感」には、背景や出自よりもひとりの人間としてのごく当り前の誠実なこころが何よりだと考えていたのだが。

http://www.korea-japan.jp/

「フィッシュ!鮮度100%ぴちぴちオフィスのつくり方」

2006-03-20 23:35:54 | Nonsense
シアトルの魚市場、パイク・プレイスは活気がある。売上も活気があるのは、従業員のモチベーションとお客との抜群のコミュニケーションによるところが大きい。好きな仕事に携わり、日々充実しているラッキーな人ばかりではない。その市場の盛況の秘訣が社員教育用にビデオ化され、ベストセラーになって多くの賞を受賞しているという。なにしろあのマクドナルドから、米国陸軍まで世界中で4000もの組織が、この著書から成功している、らしい。
そのノリノリのお兄さんとおじさんが威勢良く働く魚市場のビデオを観ながら、自分の目標を決めるという社内研修を受講。

本著のポイントは4つある。132ページあるが、要はこのポイントだけ把握すればよい。

①態度を選ぶ
魚市場の人たちは、自分の態度を選んでいる。ひとりに人が言った。「仕事をしているとき、どんな人間になる?いらいらしたり、退屈している人?それとも世界的に有名な人?世界的に有名な人間になろうと思うと行動もちがってくる。」わたしたちは仕事をするとき、どんな人間になりたいだろうか。

②遊ぶ
魚市場の人たちは仕事をしながら楽しみ、それがエネルギーになっている。わたしたちはどうすればもっと楽しみ、エネルギーをつくりだせるだろうか。

③人を喜ばせる
魚市場の人たちは、お客といっしょに楽しんでいる。お客を参加させることで、活気と和気藹々とした雰囲気をつくりだしている。私たちにとって、お客とは誰?どうすればお客と自分たちを楽しませることができるか。楽しいときは、創造性も高まる。

④注意を向ける
魚市場の人たちは、仕事に全力を注いでいる。自分とお客に注意を向けることを、どんな風に彼らから学べるか。

格別意識はしていないが、職場に遊びこころとユーモラスは必要と考えているのでさして目新しいこともない。ビデオ自体は、20分程度。パイク・プレイスの主人公は、勿論市場で働く労働者と脇役としてお客さんたち。みんなおそろしく元気がよい。市場に買物に来た女性に早速エプロンをつけて、大きな魚を放り投げてキャッチさせるというゲーム感覚。しかし、しかしである。なんたることか、すでに、もはやこの時点で私はついていけない。気持ちがすっかりひけている。私だったら、このにぎやかさと参加型を勘弁して欲しいと願うだろう。静かにじっくり魚を選びたい。むしろ市場の方へは、迷っている時の的確なアドバイスや質問した時の専門的な知識をご教示願いたいものだ。

私と同様天邪鬼、独断と偏見の持ち主を自認しておられる藤原正彦先生だったら、この騒々しい光景をどうお感じになられるだろうか。もしこの活気に満ちた風景が日本にも上陸し、築地市場だけでなく、銀行、病院、駅、次々と100%明るい職場に変身したら、「国家の品格」に光りはさすのだろうか。全体主義でサービス業のようなスマイル0円のマクドナルド、命知らずの高いモチベーションの維持を必要とする軍隊だったら、このビデオと中学生向けのような単純でわかりやすい内容の本も効果があるだろう。ついでに管理もしやすい。或いは、一般企業でも営業など数値目標が決められていて、部課ごとにみんなで目標達成に頑張れる職場単位だったら効果あり。本書の発祥の地が米国だと思えば、わかりやすい。シュワルツネッガー、カルフォルニア知事が、100人この市場で働いてると思えばよい。

「過去は歴史  未来は謎  現在は贈物  
   だからプレゼント(現在)と呼ばれる」本書より引用

                 -ぴちぴち鮮度75%の小魚のぼやき

白楽ロックビル先生と謝恩会

2006-03-19 23:43:34 | Nonsense
春の嵐が吹き荒れた今日。もうすぐ卒業式と入学式を待つ地方のある大学のキャンパスを車で走り抜けて、ほんのりと感傷的な気持ちになったのは気候のせいだろうか。
通勤途中に、ぼちぼち見かける振り袖に袴をはいた女子学生の姿。彼女達の姿を見かけると毎年春の訪れに気がつき、懐かしい感情がわいてくる。自信もなく迷いの多かったけれどなにがしかの矜持とともに大学時代を封印した自分の卒業式の袴姿が、ぼんやりと浮かんでくる。
私立大学のマス教育にただ参加する大量学部生には、ホテルでの謝恩会なんぞなかった、と思う。(周囲に出席したという話もなかったから)この点でわずか2クラス、女性上位の華やかな英文科や、女子大のイベント的な謝恩会風景の盛り上がりは、ちょっとうらやましかったりもした。

白楽ロックビル先生という、売れないお笑い芸人のような芸名?をもつお茶の水女子大学理学部(専攻は、バイオ政治学)の教授がいる。
ロックビル先生の「博士号とる?とらない?徹底大検証!―あなたが選ぶバイオ研究人生」という本は、論文以上に有名で?、理系学生が一度は手にとる名著である。くだけた調子で寒いギャグ連発なのだが、ロックビル先生は博士号を「足の裏についた米粒みたいなものだ。取らないと気になるが、取っても食えるわけではない」と断言する。この真意は、本をお読みになっていただければおわかりいただけるだろうが、欧米のように博士課程修得者は修士と比較してそれほど学歴の差にみあった待遇の違いもなく、文部科学省はポストドク1万人計画の太鼓を鳴らしたが、その高い専門知識と技能にみあった受け皿もない現状を憂えているのである。

チーーーン、と電卓をはじいて、諸々の経費のお金を計算しつつ、純粋で、だから現実を知らない無知・無邪気ともいえる未来の研究者をめざす卵たちに、シビアに、せつなく、日本の博士の現実を訴えている。

さて、その白楽ロックビル先生が謝恩会に関する思い出をせつせつと語っている。

ある年、家庭が貧しくてアルバイトをしながら通学していた女子生徒が先生の研究室で昼食をとる。メロンパンたったの一個。授業料免除(国立大学には、世帯の所得によって授業料免除あり)、奨学金の申請をつかう小柄でやせている生徒に、白楽先生は本気で学業を継続できるのかと心配をする。学費を援助しようかとも考えたが、生徒のプライトを傷つけることや、人間性が育たないとやめる。そしてようやく卒業式を迎えることとなった。式の後の謝恩会は、ホテルで開かれる。教授は招待なので参加費を知らなかった先生は、彼女もおつきあいで出席することを聞き及び、はじめて会費が3万円だと知った。諸々の経費を考えると、この金額は妥当だと思える。けれども、ロックビル先生は、学生のパンをかじる姿が脳裏にやきつき、その年から謝恩会に出席することはないそうだ。

貧しい彼女への哀れみの同情ではない。
ロックビル先生は、「謝恩」が目的ならば、卒業後10年後自分の働いたお金で「謝恩会」を開いてくれたら喜んで出席したいそうだ。
「卒業写真」を眺めながら、過ぎた日々に思いをはせる今夜だ。