千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

5月にブルッフを聴きながら考えること

2009-04-30 23:05:51 | Classic
どうせなら、連日マスコミで報道されている人気タレントの泥酔の果ての全裸事件や、パンデミック領域に届きそうな新型インフルエンザではなく、あまり人が注目しない内容について語りたい。。。

昨日の新聞で「不況とクラシック音楽」という寂しい記事が掲載されていた。先日、鑑賞してきた東京フィルの定期演奏会は、晴天の日曜日の昼下がりということもあり、オーチャードホールのおよそ2000席は殆ど観客でうまっていた。いかにも高級住宅街からやってきたと思われるインポートもののスーツをお召しになられた熟年のご夫婦、とても熱心にブルッフを鑑賞されている紳士、ヴァイオリンを抱えた学生やプロもしくはアマチュアの演奏家らしき方々。不景気とはいえ、音楽好きの者にとっては、音楽のない生活はありえない。ところが、日本で最も古い東京フィルハーモニー交響楽団では、昨年の秋以降から法人会員の退会が20社以上に及ぶという。実質約1000万円近い運営資金の減少のため、設立100周年の節目として予定されていた2011年欧州での演奏旅行の延期が決定した。日本フィルハーモニー交響楽団でも、26社が退会。ご存知「すかいらーく」が1988年から億単位の支援を行っていた東京交響楽団では、業績悪化で経営陣が交代して支援がストップ。経費削減はこのご時世当たり前だが、楽員・職員の給与を平均8%カット。それでも公演の質は落とさないと頑張っている。

音楽事務所の「KAJIMOTO」によるとクラシック音楽の公演は次の理由で厳しい状況にあるという。
①市町村合併でひとつの自治体で複数のホールをもつことにより、各ホールの予算縮小。
②指定管理制度の実施で集客力重視で、クラシック公演は敬遠される。

寂しいというよりも悲しい事情だ。だったら、自治体が音楽を興行する意味がないではないか。大阪の橋本知事が在阪楽団の補助金を大幅に!削減した時も、賛否両論あったにせよ、経費削減イコール文化面の予算を削ることには疑問に思う。こうした流れは音楽事務所にも波及し、「ムジークレーベン」や「日本交響楽協会」が倒産した。理由も招聘予定だった海外のオーケストラが金融危機のため来日中止になってことがきっかけだという事を聞けば、他国のオケの台所事情も厳しいことがわかる。豊かな国で、豊かな時代に、金銭的に余裕があって”文化的”なことにちょっと支援をするのであれば、それは金満家の発想でしかない。勿論、受ける側も支援に甘えることなく集客力につながる工夫、社会への存在価値のアピール、質の高い演奏への努力も必要だが、真の支援とは、多少苦しくとも継続して続けることで本当の価値を誇れる。
米国では、世界大恐慌後の1930年から35年にかけて人々がお金をだしあって複数のオーケストラをたちあげた歴史がある。音楽は、決して甘いケーキではない。不景気で暗い時代こそ、音楽は必要なのだから。

■こんなこともつぶやいていたっけ
秋にブラームスを聴きながら考えること

『まなざしの長さをはかって』

2009-04-29 22:35:42 | Movie
イタリア北部のポー川河口のひなびた小さな村。美しい平原が広がり、のどかな村人がまったりと暮らしている以外、な~~んにもない村。
(以下、内容にふれておりまする。)
そこへ、精神状態が不安定になった老女教師のかわりに代理教員としてやってきたのが、真っ赤なコートを着たマーラ(ヴァレンティーナ・ロドヴィーニ)。バスから降り立った清潔な美貌に、なんの刺激もたいした娯楽もない村の男達の視線が、くぎ付けになってしまうのは自然の摂理であろう。ジャーナリスト志望の18歳のジョヴァンニは、得意のIT知識をいかしてネットの接続を手伝ってマーラーの信頼をえるが、自宅のパソコンで彼女のメールをこっそり読むことに成功する。こんなルール違反の青年だが、未成年ゆえになんとなく罪が軽い感じもするのが、こんな悪巧みが最後に伏線となる。結婚を控えたバスの運転手の若者グイド、ルーマニア人の妻の尻にしかれている店を経営するアモスも彼女の存在が気になるのだが、所詮彼らにとっては、彼女はくどいて寝られればラッキーな単なる遊び相手。お気楽な雰囲気の彼らにくらべて、チュニジア人の移民で自動車の修理工、独身のハッサンは彼女を遠くからじっと見つめるだけである。寡黙なハッサンは、仕事ぶりは真面目で誠実。そんな彼がストーカーのように、林の中のマーラーの自宅で寛ぐ彼女のエロチックな姿態を夜眺めるために庭までやってくる。”のぞいている”わけではないのだが、なんともあやしい。。。フェルザン・オズぺテク 監督の映画『向かいの窓』やあの!『マレーラ』ではないが、窓の向こうの憧れの女性を男どもがひそかに鑑賞するのは、イタリアの伝統、文化だろうか。見てもいいわよ・・・なんちゃってそそられるようにさえぎるカーテンもない。

しかし、ハッサンが他の尻軽でお調子のよい男どもと違って、気楽に彼女をくどけない事情や忖度もじんわりとわかってくる。じっと遠くから彼女を見ていたのも、実は思いのたけが大きいからだという理由にも、恋の経験者だったら納得するだろう。やがて最初は彼をストーカーと思い(実際の行為はストーカーに近いのだが)嫌っていたマーラーも、生真面目で男気があるハッサンを知るうちに惹かれていくようになる。相手に好意をもてば、自宅を暗闇のかげがら眺めていても許せるのは古今東西共通か。ハッサンの恋は急転直下のごとく成就。それもマーラーが感情を優先する自由奔放な女性だからなのだが、そのマーラーの生き方と男女の性愛を一時のものと考えられないハッサンは、互いに愛しあいながらもすれ違っていくのだったが。。。

小さなコミュニティの中で、代理教員のマーラーも移民のハッサンも所詮よそ者であり、『ブロデックの報告書』ではないが、誰も本気で彼らとつきあおうとしていない。地元の人々から自分たちよりも格下扱いを受ける彼らチュニジア人家族の複雑な心情が、イタリア映画鑑賞の要。と言っても政治的でも社会派でもなく恋愛にサスペンス要素をあわせて、ジョヴァンニが本物のジャーナリストへと成長して村を卒業していく過程が映画のタイトルにこめられている。小さな村にやってきた美しい女性の登場が、次々と波紋をよぶさまを淡々と描くところに、ハッサンの絶望が深い。そんな小さな村の閉塞感から抜け出すように、もっと広い世界に飛び立っていく少年の姿は、これまでも繰り返し描かれてきたイタリア映画らしさがある。本作は、2008年恒例のイタリア映画祭でも好評をはくした作品とのこと。画像は、マーラーがハッサンの逃げられた婚約者の花嫁衣裳のベールを見つけて被っている場面だが、ここで彼女がその婚約者のことをたずねるとハッサンが「綺麗な人だった」と応え、マーラーははっとする。はじめてハッサンの孤独な心の痛みにふれたからだろう。心に訴えるものはそれほど大きくないが、ヴァレンティーナ・ロドヴィーニが本当に綺麗でさりげない伏線の効果がよく練られた作品である。

監督:カルロ・マッツァクラーティ(Carlo Mazzacurati)

■イタリア映画祭に出品された作品
『ベッピーノの百歩』
『輝ける青春』
『夜よ、こんにちは』
『風の痛み』
『ぼくの瞳の光』
『向かいの窓』
『マルチェロ・マストロヤンニ 甘い生活』

東京フィルハーモニー交響楽団 第769回定期演奏会

2009-04-26 21:21:15 | Classic
初夏の陽気に誘われて、休日の昼下がりに渋谷の喧騒の中を向かうはオーチャードホール。
何度来ても渋谷の雑多で、しかも騒音の洪水にはうんざりする。しかも、シューズボックス型のオーチャードホールは今ひとつ。しかし、されど、曲目が名曲ながらなかなか演奏される機会のないブルッフのVn協奏曲。尚且つソリストが、三浦章広氏と聞けば行くしかない。

最初のショスタコーヴィチの「ジャズ・バンドのための組曲第1番」は、プログラムの解説によるとショスタコーヴィチは1934年に「私はジャスそのものには反対ではない。けれども(中略)・・・これらの音楽はみな、概して下品でないまでも未熟である。信じやすい大衆のうちにある人々は、それでもまずい『料理』に夢中になっている」と声明文を書いたそうだ。そこまで豪語したショスタコーヴィチが、本当の極上の美味なる料理を創作したのがこの組曲1番。
あの黒ぶち眼鏡をかけたいつも暗く陰気なショスタコーヴィチが、こんなに軽快であかるく楽しい曲を作曲していたとは!ワルツ、ポルカ、フォックストロット(ブルース)。まぶしいばかりに音がはずんでしかも完成度が高い。(逆に完成度が高いゆえに、こなれていないスーツを着たジャズという感じもしなくもないが。)指揮者のダン・エッティンガー氏は長い腕で指揮をしながら祝祭的な雰囲気を盛り上げていく。私の中で、ショスタコーヴィチがにやりと笑っている像がうかんだ。

お次はブルッフのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン好きの者には、とても耳になじんだ親しみのある名曲なのだが、意外にもこのドイツ・ロマン派の代表的なヴァイオリン協奏曲は演奏される機会は少ない。ターナーの名画を見るような印象的な出だしから始まり、抒情的な旋律が美しい。ソリストの三浦氏はよく曲想をとらえていて、音の奏でる旋律が休日の心を優しく包み込むようだ。

休憩をはさんでレスピーギは、華やかな熱演にわく。指揮者のこの曲の楽しみ方が聴衆にも伝わり、なんだか一緒に祝祭気分を共有するような感じだ。「東京フィル」とダン・エッティンガーの親密な関係が、よきオーケストレーション、よき指揮、よき音楽へと今後も発展していくことが期待できる。

音楽とは関係ないのだが、作家の篠田節子さんをお見かけする。新聞や本で拝見するお写真よりも、実物は素敵な女性だった。そして徳永ニ男氏も。。。いつもお若くって男前!

-------09年4月26日 オーチャードホール -------------------

ショスタコーヴィチ:ジャズ・バンドのための組曲第1番
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番 op.26
レスピーギ:交響詩「ローマの祭」
指揮:ダン・エッティンガー
ヴァイオリン:三浦章広


労働市場からフェイドアウトする男たち 米労働市場の男性比率が過去最低に

2009-04-24 22:52:05 | Nonsense
女性の社会進出が進んでいる米国では、労働省労働統計局(BLS)と全米経済研究所(NBER)によると、米国人の成人女性の就業率は、1965年の37%程度から2008年には55%に上昇したそうだ。「メモリー・キーパーの娘」のノラは、経済的に不自由のない医師の専業主婦の立場から社会で働くことを選択し、自らの道を切り開き事業を発展させた。米国女性の半分は、家事だけでなく社会での仕事をもっている。ところが、女性進出に反比例するかのように、男性軍は約81%から2008年には69%に低下している。まだまだほんのわずかだが、専業主”夫”の数も過去10年で15万9000人に増加傾向にある。日本でも宇宙飛行士になった妻を支えるために、一時専業主夫になった方もいたから、そのような選択もありだと思う。

こうした傾向の背景として、景気後退が始まってからの失業者が圧倒的に男性が多かった事情にもよる。男性で主に構成される建設部門、メーカーの失職者が多く、逆に女性が活躍する教育や医療サービス分野では、逆に12%雇用が増加していることもある。米国の現在の失業率は、8.5%。但し、この場合の失業率とは、就職できる状態にあり実際に求職活動、働くために積極的に就職活動を行っているにも関わらず現在のところ失業している人の数字である。さらに、仕事についておらず仕事探しをあきらめた人が労働省労働統計局によると2007年11月には、女性84万4000人と男性65万2000人がこの「仕事探しを諦めた」組に移動したとされている。女性の場合は、失業という社会的コストは男性ほど大きくないので、従来から専業主婦という別の職場に安住の地位を求めてきた。(専業主婦が決して楽というわけではないが・・・。)

ところが、2009年3月にBLSが発表した2月の統計では、女性116万2000人と男性123万8000人が「求職中」から「仕事探しを諦めた」組に移動した。今や男も女も同じ人数だけ労働市場から去っていく時代がやってきたのだ。主たる生計者、外で働き稼ぐ女性が増えて男の専業主夫もりっぱなしごと、というばかりではないはずだ。男が主に活躍できた労働市場の収縮、働きたくても働く場所がない悲哀もうかんでくる。そんなことを考えていたら、こんなニュースが目に付いた。

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クライスラー、来週にも破産法申請か 米2紙報道
 【デトロイト=小高航】米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)とウォールストリート・ジャーナル(同)は23日、米クライスラーが早ければ来週にも米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請する可能性があるとそれぞれ報じた。破産法申請後、イタリア・フィアットとの提携を実現するとの見方が出ているという。ただ政府や債権者らとの交渉は継続しており、実際に破産法申請に踏み込むかはなお不透明だ。

NYタイムズは関係者の話として、米財務省がクライスラーに対し、来週にも破産法11条を申請する準備をするよう指示していると伝えた。


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今とても観たい映画がクリント・イーストウッド監督・主演の映画『グラン・トリノ』である。主人公のウォルト・コワルスキーは、パブスト・ブルーリボンを呑み、かって自動車工として勤務していたフォードの1972年製のグラン・トリノを大事にしている。アメリカ経済の先行きは従来の男女の役割をも変えていくかもしれない。

『十二人の怒れる男』

2009-04-21 22:47:45 | Movie
来月、5月21日からいよいよスタートする裁判員制度の準備が大詰めを迎えている。
佐賀地裁では、評議に疲れず集中できるように1脚14万円の椅子を用意し、京都地裁では景色で心を休めながら議論してもらえるように京都御所や比叡山も眺望できる4回に評議室も設置。その他待合室には、ガーデニングの本を設置したりゲーム持参もOKなど、裁判員に「快適・安心」の配慮がされている。しかし、人を裁くことの難しさ、厳しさ、重さを実際どこまで国民が理解できているのか、量刑をくだした責任をどこまで裁判員は背負うべきなのだろうか。

1957年、ヘンリー・フォンダ主演・製作、シドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』は、何度観ても密度が濃くて完成度が高い。物語の展開をすでに知っていても、セリフのひとつひとつ、陪審員の表情の動きに、ついつい真剣に見入ってしまう。猛暑でエアコンも壊れていて、彼らはすでに審理で充分疲れきっていた。誰もが犯人と疑ってしまう少年。11人が有罪(死刑)を主張してすぐに審理を終えたい中、たったひとり第8番の陪審員が無罪を主張する。そして次々と証拠をひっくりかえし、陪審員の評議を無罪に替えさせて行く。

ヘンリー・フォンダが演じた第8番の陪審員は、米国の民主主義の良心の象徴である。父親殺しとして逮捕された少年は、誰が考えてもかなり疑わしい。予断の偏見を許せば、父からいつも暴力をふるわれ家庭環境や地域の環境も最悪な状況の中で、父殺しの動機は充分。むしろたとえ犯人だとしても未成年であることや、情状酌量で死刑は免れてもよいと思えるくらいだ。あの裁判で、推理小説さながらに少年の有罪をひっくりかえし無罪にするのは、現実的には難しいのでは。しかし、少年の不幸な境遇に同情した第8番は、議論を尽くすことを提案する。ここで、脚本があまりにもさえていて謎解きのように有罪から無罪にひっくり返すセリフの応酬に興味をひかれがちだが、少年が犯人だったかどうかということは本作では重要ではない。12人全員で徹底的に議論を尽くし、全員総意の無罪に決着すること、そこに民主主義の勝利がある。

この映画は、最初の倦怠感のある様子から白熱する議論、陪審員たちのそれぞれの職業や背景がいつのまにかその言動に雄弁に表れ、最後にお互いに名前も知らずに裁判所を去っていくさわやかさと達成感の残る夕暮れの景色、と後世に語り継がれるべき米国映画の最高傑作のひとつであることに誰も異論はないだろう。室内劇としても実に完成度が高く、リメークやパロディ作品が続くことからも法定劇の決定版のようなものである。私も大好きな映画である。しかし、前述で述べたように少年の犯行かどうかよりも、陪審員たちの議論が民主主義の勝利であることがテーマーだとしたら、一種のディベートのように逆にみんなが無罪を主張して、第8番が少年の有罪を主張していたとしたらどうであろうか。頭脳がきれ、能弁で弁論が巧みなタイプの人間が、他の陪審員をリードして総意をまとめることも可能ではないだろうか。皮肉な見方をすれば、陪審員制度そのものを疑うこともできる映画でもある。O・J・シンプソン事件では、5億円もの大金を使って弁護団を結成、弁護団は陪審員を黒人が多い地区から選出することを要求して、陪審員は12人のうち9人までが黒人だった。1995年、陪審員全員が無罪で一致したことは記憶に新しい。

■あなたは人を裁けますか
『12人の怒れる男』
『12人の優しい日本人』
・「O・J・シンプソン氏が告白本を出版

「ブロデックの報告書」

2009-04-20 22:45:25 | Book
「僕はブロデック、この件にはまったく関わりがない。僕は何もしなかったし、何が起ったのかを知ったときでも、できればいっさい語らず、自分の記憶に縄をかけ、金網の罠にはまった貂のようにおとなしくさせるためにきっちり縛り上げておきたかったのだ。」

本書は、このようにはじまる。この件とは、いったい何のことであろうか。読む者の関心をひく巧みなすべりだしから、「ブロデックの報告書」のあまりの重さに、人間心理の不可思議な残酷さに沈みながら、私は暗い道のりをブロデックに連れられて歩くことになってしまった。
戦争が終わって間もない頃、ドイツ国境に近いフランス、ロレーヌ地方の小さな小さな辺鄙な寒村。ひとりの余所者が、村人たち全員が見守る中で殺されてしまった。いや、たったひとり、その場に居合わせていなかった、”呼ばれていなかった”ブロデックは、だからこそこの事件を記録するように命じられる。

集団殺人を扱った冒頭から、ガルシア=マルケスの「予告された殺人」を連想するような骨太な展開は見事に裏切られ、繊細で技巧的に凝った表現の文章が散りばめられている。あまりにも素晴らしい文章を、繰り返しながら堪能したために読むのにすっかり時間がかってしまったくらだ。物語は、ふたつの流れが村の歴史とともに交錯してすすんでいく。その地方の言葉で”他者”という意味をもつもの静かで紳士的な「アンデラー」がどこからかやってきて、たった一軒ある村の宿に常宿しているうちに、とうとう最後に殺されてしまった事件をブロデックは調査していく。村長や牧師に会ったりしながらアンデラーが村に現われてきた時の様子から記録する一方で、ブロデック自身も孤児でフェドリーヌに拾われて村にたどり着いた余所者だった出自や、村の寄付金で首都にある大学に進学しながらも民族浄化の嵐のために収容所に連行されて、奇跡的に生きのびた告白も綴られていく。

最初に「僕はブロデック」と伝え、何度もブロデックの名前が登場する。彼と同じ余所者、村では同じように異質であり、殺された「アンデラー」の方は本名は誰も最後までわからない。というのも、結果的に村人たちにとってはアンデラーの名前はさして重要ではなかった。何故ならば、彼は彼自身であることよりも彼らにとっては神からの最後の使者のような「鏡」としての存在の方に意味があったからだ。自らの醜い顔、自分の行いをそのままに映し出す鏡。誰もが顔をそむけたいものをそのまま映されたら、鏡は壊れるしかなかったのだ。そしてブロデックにとっては、収容所に送るために単なる異邦人の象徴ではなく固有名詞のある「ブロデック」という名前が必要だった。しかし、やがて、その名前も収容所では「余所者」という名前にとってかわり、みな同じ名前になり、個人として存在しなくなっていった。ブロデックは、首を鎖で繋がれ地面をはい、犬にされた。

時代設定も不明瞭、村も収容所もフラテルゲガイメの兵士たちもすべて実在しない架空のものと私は読みたい。著者の優れた才能を実感するのは、実際の固有名詞や民族名、収容所名を使用せずに、いくつもの精緻な寓話のようにブロデックの告白が続く形式をとることで、物語に奥行きと人類がはじまって以来の現代にも通じる問題に普遍性を与え、読者の想像性をひろげた点にある。しかも、文章が素晴らしく(おそろしく?!)巧みで重厚な映像感覚にたけていることである。収容所に連行される6日間、ブロデックは、裕福な家庭に育ったケルマールと親しくなる。過酷な状況の中で彼らは、哲学、政治、音楽、文学を語り合う。最後の日、あることからケルマールは自ら死ぬことを選び、逆にブロデックは生き延びることができた。ブロデックには、どうしても生きなければならない理由があった。しかし、なんとか生き延びて村に帰った彼を待っていたのは、あまりにも苦しく冷酷な現実だった。そして、いつまでも人間の尊厳を賭けた体験の傷から逃れることができないブロデック。その体験と理由が最後にあかされる。

ところで、本書は「高校生ゴンクール賞2007」を受賞している。この賞は2000人の高校生が選ぶのだが、有名な「ゴンクール賞」の第一次候補作の中から二ヶ月かけて3冊にしぼりこみ、地方審査委員会に出るクラス代表1人を送り込み、更にそこで3冊と全国大会出場する審査員を選び最終決定される。「高校生ゴンクール賞のほうが優れた作品を選ぶ」と評価するジャーナリストもいるそうだが、商業ベースとは無縁に表紙の装丁も含めて議論にたえる本物の良書をきちんと見わけるフランスの高校生に脱帽だ。

「ブロデック、それが僕の名前だ。
ブロデック。
どうか覚えておいてほしい。
ブロデック。」
最後は、こう結ばれている。名前のもつ意味と個人の尊厳をこれほど深く書いた本はない。さすがに、哲学の国、フランスの高校生の意識は高い。決して読みやすい文章ではなく、読者に考える力を要求させるこの小説は、だから読後の満足感は最高である。

『フロスト×ニクソン』

2009-04-19 17:44:46 | Movie
米国のケネディとニクソンが第35代の大統領の椅子をめぐって争った選挙の討論会で、ラジオの視聴者の6割がニクソンの勝利を予感したにも関わらず、実際はケネディが勝利した。テレビ映りを意識したケネディが紺の背広に赤いネクタイで溌剌とした若さと清潔感をアピールしたのだが、対するニクソンは全体的にグレーで暗い印象を与えたからだ。このよく知られているエピソードは、テレビ時代の幕開けと同時に、階層やイデオロギーを超えたところに存在する「大衆」をコントロールできるテレビの力をも立証した。テレビの力に遅まきながら気がつき、捲土重来を謀ったニクソンだが、大衆をあやつるための”嘘”が暴かれて真実の素顔が一瞬さらけでてしまうのもテレビだった。

物語はウォータゲート事件でニクソン大統領が辞任したところから始まる。
英国人のトーク番組人気司会者のデビット・フロスト(マイケル・シーン)は、全米中がテレビに映されたこの辞任劇を見守っていることから、米国進出へのより高いステップアップの脚がかりとしてニクソン元大統領から謝罪の言葉をひきだすための生放送テレビ会談を思いつく。一方、ニクソン陣営の方は、コメディアン出身でジャーナリストでもないフロストをくみし易い相手として逆にフロストを利用しようと、その話にのることになる。しかも、法外な出演ギャラまで請求して。米国の3大ネットワークは、両者を格違い、最初からフロストの負けを予想して話にはのらず、結局、莫大な借金というリスクを背負って自主制作を決意したフロスト。4500万人の視聴者の前で果たして勝つのはプロのテレビ・マンか、稀代の老練な策士か。ゴングは鳴った。。。

ニクソンを演じたフランク・ランジェラの方が話題性があるようだが、私はむしろフロストを演じたマイケル・シーンの存在に注目したい。このこてこてのもみ上げとズラっぽい髪型、今ではちょいダサめに見えるラインのスーツにネクタイ、そしてあっぱれな晴れやかな笑顔。1977年の時代の雰囲気とケンブリッジ大学出身のコメディアンあがりの司会者、小公子と揶揄されるプレイボーイで人の心をつかむ人気者、資金繰りのために奔走するしたたかさをひょうひょうと楽しげに演じている。確かに、このフロストだったら私も魅了されるだろう。彼は、まさしくテレビの申し子だった。
前FRB議長のアラン・グリーンスパン氏の著書「波乱の時代」によると、ニクソン大統領の印象は飛びぬけて頭脳明晰、意見を述べる時もセンテンスとパラグラフが見事に整った文章になる話し方をし、たった今入手したニュースも大学教授並の知識を感じさせられる記者会見ができる政治家の才能があった。その反面、口汚く卑猥な言葉で民主党を罵ったりと人間嫌いでとんでもなく偏執的だった。フロストは、鋭い嗅覚でニクソンの性格と内層心理をかぎつけ、巧みな役者の話術で決定的な言質を彼から引き出すことに成功した。

老獪な政治家に連戦連敗。窮地にたたされたフロストが、最後に一発逆転するまでのセリフの応酬が見どころ、というよりも聞きどころなのは元々は舞台劇の映画化だからだ。しかし、成功した舞台劇を時代の巧みな雰囲気と主役ふたりの顔の表情をアップにした映像で、ロン・ハワード監督の映画化は成功した。単なる言葉の応酬だけでなく、人間ニクソン、フロストをも描いた点も★に価する。それにしても、タイムリーなことにブッシュ政権を連想させられるニクソンの熱弁なのだ。
ところで、ニクソン役を演じたフランク・ランジェラは撮影の32日間、キャラクターになりきるために周囲の人から「大統領閣下」と呼ばせたそうだ。孤独だったが、それは正しい選択だったというのがご本人に弁。今でも大統領と呼ばせているの、という「ニューズウィーク」記者の質問には、「ベッドでだけだよ」と答えている。こんなチャーミングさが本物のニクソンにあれば、もう少し政治家としての評価をえられたのに。

■こんなアーカイブも
『ニュースの天才』
「現代アメリカを観る」鈴木透著

100年前の婦人の貞操論

2009-04-18 22:48:59 | Nonsense
読売新聞で連載されている「家庭面の一世紀」がなかなか興味深いのである。これは、現代の「人生案内」の原型、およそ100年前のよみうり婦人付録「身の上相談」からたどる当時の女性像や女性問題である。
1917年(大正6年)3月27日、18歳の女性が悩みを寄せたのが「消ゆる時なき嘆き」である。今からほぼ90年前の”清純”な乙女の悩みとは。

彼女は、男性からの暴力によって「女子に最も大切な操を汚された」ので生涯独身を覚悟している。相談は、勧められる結婚を断る方法なのだ!女性史研究家によると、大正時代は家制度のもとで「良妻賢母」が称揚されて、処女で結婚すべきという考え方が強かったそうだ。回答者の歌人の窪田空穂(うつほ)は、「婦人が自意識が足りないためとか、また勇気が足りないためとかいうのではなく、男子が暴力をもって、婦人を蹂躙していることがわかります。(中略)記者は良縁があったら結婚される事を希望します。良縁というべき縁であったら、必ずその事は許されるべき事だろうと思います」と締めくくった。社主夫人も読むに忍びないと言われた女子の悩みに対する模範回答は、当時としてはあまりにも革新的?で大衆の理解をえられなかったようだ。何故ならば、この「貞操問題」によって空穂は辞職に追い込まれてしまったのだから。

「貞操を守るに死を賭してこそ、価値が尊いものに感じられる。不可抗力として不幸の一語にあきらめたならそれは愚かなことです」という反論が投稿され、14年には、雑誌「青鞜」を中心に、女性は命を捨てても貞操を守るべきかという「貞操論争」が勃発。よみうり新聞婦人付録も15年、「生命か貞操か」の特集をくむほど議論をよんだが、教育者を中心に「貞操は女子が命がけで守るべきもの」という意見が多数を占めていた。

女性に厳しい貞操を求めるが、一方で男性軍は女性関係は自由、セクハラもOKの時代だった。そう言えば「貞女兩夫にまみえず」という言葉もありながら、男は未亡人に妄想を抱くものらしい。その後も貞操問題は身の上相談に何度も登場するとは、今とは隔世の感がある。。。

と、終わるはずだったのだが、アフガニスタンではなんと夫婦間のSEXの回数を廻って大紛糾!
「(イスラム教シーア派の女性は)4日に1度の夫との性交渉を拒否できない」(注、妻の体調不良の場合は、オツトメ免除可)それだけではなく、妻の外出には夫の許可を必要とする条項も盛り込まれた法案が議会を通過して、国家を二分する騒ぎになっているそうだ。欧米では、勿論女性の人権侵害と強く批判し、オバマ米大統領も「忌まわしい」と表現した。背景には、米国寄りのカルザイ政権の求心力が落ちたための人気取りという分析もある。しかし、イスラム教の経典「コーラン」を厳格に適用するとこのようなとんでもない法案もありで、実際アフガニスタン国内では支持する声が圧倒的だとか。こういうのも文明の違いと言っちゃっていいのか。「文明の衝突」は避けたいが、女性は男の奴隷ではないぞ。
しかし、夫は逆に4日に1度は妻と性交渉をすることが義務化されている。4日に一回という数字の根拠はいったいどこからくるのか。このノルマは男性にとって多いのか少ないのか。こっそり聞いてみたい気もする。

『レインボウ』

2009-04-14 22:37:41 | Movie
英国、ビクトリア朝時代、アーシュラ(サミ・デイヴィス)は、家族を思いやる父と良妻賢母のような母の間に育ちながら自由闊達で夢みがちな少女だった。そんな彼女の存在は、コケティッシュで魅力的な体育の女教師ウィニフレッド(アマンダ・ドノホー)の目にとまる。その女教師に招かれて、彼女の素敵な別荘に遊びに行ったアーシュラは、革新的な思想をもつ彼女によって性の手ほどきを受ける。すっかりウィニフレッドに魅了されたかのようにみえたアーシュラだったが、やがて彼女が炭坑を経営する資産家の叔父と結婚をし、こどもを出産して一般的な女性とかわらなくなると失望を覚えるようになった。
そこへ颯爽と現われたのが、軍人のアントン(ポール・マクガンだった。アーシュラは、アントンに恋をするようになったのだが。。。

ケン・ラッセル監督のD・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は、かなりお気に入りの作品だが、同じくケン・ラッセル監督によってD・H・ロレンスの同名小説を映画化された作品が、この『レインボウ』である。美しい田園地帯を背景に、貧しくも愛情あり保守的な両親。そして、当時としては開放的で自由な思想をもち行動的なウィニレッドをすっかり気に入り、長かった独身生活に別れを告げて妻にした叔父の家庭。アーシュラをとりまく環境は、新旧の価値観の対比であり、また産業革命によって有資産階級と無産階級の対立という時代の分かれ目を感じさせられる。それも原作者がD・H・ロレンスだから、という当方の思い込みもあるかもしれないが、経済的な自立をめざして、両親の猛反対を押し切って教師になったアーシュラの行動は、「チャタレイ夫人の恋人」の女性の自立、性の開放と重なる。

アーシュラの中で、女性でありながらひとりの人間として自由な精神と独立をめざすこと、旧来の夫に従属するかのような関係からの脱却が、まず性の開放ありき、という点が逆に当時の時代の女性の立場における閉塞間を私には感じさせられた。しかし、女性の開放と階級社会への移行を予感させられる優れた映画でありながら、主人公のいらだちが今ひとつ伝わってこないのは、物語の展開に終始してしまった感がある構成にもよる。
映像は、さすがに文芸映画にふさわしく?、性描写や裸体の露出はかなり大胆。ふたりの女性同士がベッドの中で愛撫する場面は、本当にロレンスの時代だったら相当スキャンダルだっただろうが、むしろ美しい裸体の戯れ的な印象で絵画のようでもある。逆に、製作当時の日本の映倫の無粋なボカシの方が、本来の作品の意図を裏切り淫靡なダメージすら与えてしまっているのが残念。それにしても、ロレンスは自然の中で男女が生まれたままの姿で走り回る場面が好きである。これは、作家の欲望だろうか。それでは、自分は?・・・と聞かれたら全裸で太陽の下を走り回る元気も無邪気さもないのだが。

やがて、両親を説き伏せて、アーシュラは街で下宿生活を送りながら教師を務めるようになる。この学校生活の模様もこの映画のみどころでもある。権力者としてふるまう校長、その校長におもねる女教師とあきらめ顔の古株教師、そしてサルのようにすきあらば野放図にふるまおうとする生徒たち。ここでの学校教育とは、教え諭し導く以前に、生徒達を鞭で支配して矯正するような感すらある。下町の未成熟な公教育の姿は、なかなか考えさせられる。なかでも、校長の気に入らないひとりの生徒を感情的に激して罰を与えた時のアーシュラの表情と行動の意味が、気にかかる。
話題性にも乏しく、B級映画としてうずもれてしまうには惜しい作品である。機会があったらレンタル・ショップの文芸コーナーを一度探して、ご鑑賞あれ。

監督:ケン・ラッセル
1989年製作


■こんな映画も
『レディ・チャタレー』

『ある公爵夫人の生涯』

2009-04-13 23:06:25 | Movie
18世紀後半の英国。ジョージアナ・スペンサー(キーラ・ナイトレイ)は、本来恵まれた美貌と健康に、母親(シャーロット・ランプリング)の営業トークも功を成し、英国の貴族社会のなかでも最も裕福とされるデボンシャー公爵(レイフ・ファインズ)の妻に選ばれた。とんでもなく大きな大きなお城の邸宅、年長で落ち着いた夫、期待に胸をふくらませる17歳の新妻のジョージアナだったが、初夜の営みも後継ぎの男児懐妊のためのオツトメだった。つまり、彼女は女、妻である前に、お後継ぎを産むため重要な任務を果たすために選ばれた”性”の存在でしかなかった。所謂名門の家に嫁ぐのは21世紀の今だってけっこう大変なんだからね。
やんごとなき身分の殿方は、おおむね他人の心に忖度したり相手の立場を考えるよりも、自分のコト、自分の関心事の方がはるかに大事。繊細で知性もある公爵夫人の感情に思い及ばず、スキャンダラスで自己中心的な行動や言動を次々と行使する。ここで反旗を翻したのが、さすがに故ダイアナ妃の祖先のジョージアナである。散財するおしゃれだけでなく、政治活動にも関心をもち、持ち前の行動力と知性を英国政治の近代化を推進するホイッグ党の応援で発揮し、やがて社交界の華として君臨していくことになったのだが。。。

今最も旬で輝いている女優といえば、全くタイプが異なるスカーレット・ヨハンセンと本作の主人公を演じたキーラ・ナイトレイだろう。豊満まお色気がはじけるスカーレット・ヨハンセンに比較し、透明感のある陶器のような美貌で華奢なキーラ・ナイトレイ。この映画は、なんと言っても1メートル以上もあるウィッグをつけたり、重いし着るのにたいそう時間もかかったという豪華な衣装と装飾品をまとい、悲しみや怒り、絶望と再生を見事に演じたキーラ・ナイトレイのまさに大輪の百合の花が咲き誇ったばかりの美しさの記録でもある。映画『プライドと偏見』では、これほどまで感じなかった美しさ、女性としての魅力に、スクリーンに吸い込まれそうである。衣装やメイクの効果ばかりではないだろう。本当に、綺麗な女性なのである。一時、拒食症と中傷されてしまった細いスタイルも、たくましく豊かな胸を誇らしげにつきだしているハリウッド女優の中では、逆に新鮮にも感じられる。

世間知らずの少女が波乱の人生の中で、しかも女性の地位がなかった時代に、才気煥発に自分の世界を切り開いていく姿は、定番とはいえ豪華絢爛の絵の中で”鑑賞”の娯楽を味わうにはうってつけの映画である。後に英国首相になる野心あふれる若い恋人チャールズ・グレイ(ドミニク・クーパー)は、私の好みではなかったのがちと残念だが。

ところで、私が一番関心をもったのが、ジョージアナの親友でありながら、彼女を裏切り、後にデボンシャー公爵の愛人になってしまうエリザベスの存在である。
感情を率直に表すジョージアナに比べ、エリザベスは暴力をふるう夫にとられた子どもたちと会うためにカラダをはって?公爵を利用しながら、”愛人”という立場を充分にわきまえ、最後は彼女のために力になりアドバイスまでする。デボンジャー公爵もジョージアナも、考えも行動も常に”I”が中心にくる。身分の差であろうか、エリザベスはいつも相手の立場にたって考え、それぞれの悲しみを引き受けて、理性的にふるまうという人間として最も成熟した役どころである。愛人・エリザベスの存在を不潔で憎い悪女に描かなかったのが、幅広い女性層の支持をえる秘訣である。ヘイレイ・アトウェルが好演。複雑な性格のデボンジャー公爵役を演じたレイフ・ファインズも適役か。それにしても、歴史は繰り返すではないが、現代の英国王室を彷彿させるようなダイアナ妃の先祖のストーリーの展開だったのはちょっとした驚きだった。

監督:ソウル・ディブ
2008年英・仏・伊製作

■綺麗!キーラ・ナイトレイのアーカイブ
『プライドと偏見』
『つぐない』