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「日本の美意識は咲くとすぐ散る桜の花に象徴されます。私たちははかなさを愛でる国民なのです」
日本を代表する建築家の伊東豊雄氏のこの慎ましやかで麗しき言葉に応えるのは、同じく世界的な建築家のエットレ・ソットス氏。
「そうだな、桜の開花は”射精”みたいなもんだからな。いいのはほんの一瞬だ」
絶句。その一瞬、日伊建築界の巨匠対談で通訳を務めた著者は、これを訳す通訳者として凍りついたそうだ。なんたって、相手はイタリア男!「ごまをする」ことを「尻をなめる」と言っちゃう国からきた男だ。”射精”ごときでひるんでは、通訳者になれない。
恐るべし田丸さん、いやいやこの場合、さすがに米原万理さんの親友であると言うべきか。
文字通り、前書きの巨匠の名言で私も笑撃、いや衝撃をくらって大和撫子は絶句してしまったのである。女性誌に米原さんが友人の著書として田丸さんの「シモネッタのデカメロン」を推薦されている書評を読んだ時は、同じシモネッタ系で二番煎じという印象があり興味がわかなかったのだが、グッチーさんが絶賛していたので読んだのだが、まさに抱腹絶倒。こんなにおもしろしろかったなんて。
同じシモネッタ系でも、米原さんがご自分で「スカトロ系で、田丸はエロス系」とおっしゃっていたように、ロシア語とイタリア語の違いであろうか、おふたりは見事に分業化されていて競合されていない。イタリアでは、性用語は日常語、何を見てもエロスに結びつけ、女を見てどんなに不細工な女性でもほめないくどかないのは、セクハラだと言われるくらいのお国柄。そんな太陽のようなイタリア人、イタリア男のさえる会話と妙技がうんだ魅力的な即興劇が本書。しかし、達者なのは通訳だけではない田丸さんの卓抜した文章力である。それもそのはず、米原さんの数々ある著作のなかで通訳者としてのお仕事系の本を読んで感じたのが、優秀な通訳者は日本語も巧みでなければならないということだ。このことは、本書の中の「晴耕雨読」の中で田丸さんも語っているが、通訳は外国語が堪能な人がなる職業と思われがちだが、実はその絶対条件は普通の人よりも美しい日本語が話せることである。正確な文法と豊富な語彙に裏打ちされた母国語が前提にあって、初めて母国語と同レベルの外国語を習得できるのである。
通訳は、ある種の瞬間芸である。頭の回転の速さと正確に美しく組み立てられる日本語の表現能力がなければつとまらない。シモネッタ系の話しそのものがおもしろいのであるが、それを文章に起こしてエッセイにまとめた著者の日本語能力が優れているのである。20歳の時から30年近く、同時通訳者として学会や政治家、芸術と幅広い分野に渡り専門用語を勉強して挑んできた田丸さんの実績が、本書を読ませる理由である。もしかしたら「晴耕雨読」を読めないかもしれないKYな首相がいる国だけあって、最近の日本語の貧困化は、危機的状況ではないだろうか。母国語の貧困化は、国を滅ぼすと考えている私としては、その点でも本書をお薦めしたい。
時は19世紀。イタリアを訪問したバイロンは、いみじくも「この国の人々は我々が考えている”社会”といものを知らない」と書き残しているそうだ。しかし、本書からうかびあがるいくつになっても年相応になれず、世間体も人の思惑も気にせず、傷つきながらも自分に正直に生きるおおらかなイタリア人は、とても人間的な魅力に溢れている。
ちなみに「目にハムをもつ」(Togliersi il proscciutto dagli occhi)とは、「ものごとの本質を見抜けない人、理解力に欠けた人」というイタリアの格言である。
エットレ・ソットス氏の「いいのはほんの一瞬」という言葉に、まさに”目からハム”だった私である。
■これも目からハム
・「パンツの面目ふんどしの沽券」米原万理著
・ぐっちーさんが凄いと言ったおふたりの対談