千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「目からハム」田丸公美子著

2008-11-29 20:00:39 | Book
まず、はじめに・・・。
「日本の美意識は咲くとすぐ散る桜の花に象徴されます。私たちははかなさを愛でる国民なのです」
日本を代表する建築家の伊東豊雄氏のこの慎ましやかで麗しき言葉に応えるのは、同じく世界的な建築家のエットレ・ソットス氏。

「そうだな、桜の開花は”射精”みたいなもんだからな。いいのはほんの一瞬だ」

絶句。その一瞬、日伊建築界の巨匠対談で通訳を務めた著者は、これを訳す通訳者として凍りついたそうだ。なんたって、相手はイタリア男!「ごまをする」ことを「尻をなめる」と言っちゃう国からきた男だ。”射精”ごときでひるんでは、通訳者になれない。

恐るべし田丸さん、いやいやこの場合、さすがに米原万理さんの親友であると言うべきか。
文字通り、前書きの巨匠の名言で私も笑撃、いや衝撃をくらって大和撫子は絶句してしまったのである。女性誌に米原さんが友人の著書として田丸さんの「シモネッタのデカメロン」を推薦されている書評を読んだ時は、同じシモネッタ系で二番煎じという印象があり興味がわかなかったのだが、グッチーさんが絶賛していたので読んだのだが、まさに抱腹絶倒。こんなにおもしろしろかったなんて。

同じシモネッタ系でも、米原さんがご自分で「スカトロ系で、田丸はエロス系」とおっしゃっていたように、ロシア語とイタリア語の違いであろうか、おふたりは見事に分業化されていて競合されていない。イタリアでは、性用語は日常語、何を見てもエロスに結びつけ、女を見てどんなに不細工な女性でもほめないくどかないのは、セクハラだと言われるくらいのお国柄。そんな太陽のようなイタリア人、イタリア男のさえる会話と妙技がうんだ魅力的な即興劇が本書。しかし、達者なのは通訳だけではない田丸さんの卓抜した文章力である。それもそのはず、米原さんの数々ある著作のなかで通訳者としてのお仕事系の本を読んで感じたのが、優秀な通訳者は日本語も巧みでなければならないということだ。このことは、本書の中の「晴耕雨読」の中で田丸さんも語っているが、通訳は外国語が堪能な人がなる職業と思われがちだが、実はその絶対条件は普通の人よりも美しい日本語が話せることである。正確な文法と豊富な語彙に裏打ちされた母国語が前提にあって、初めて母国語と同レベルの外国語を習得できるのである。

通訳は、ある種の瞬間芸である。頭の回転の速さと正確に美しく組み立てられる日本語の表現能力がなければつとまらない。シモネッタ系の話しそのものがおもしろいのであるが、それを文章に起こしてエッセイにまとめた著者の日本語能力が優れているのである。20歳の時から30年近く、同時通訳者として学会や政治家、芸術と幅広い分野に渡り専門用語を勉強して挑んできた田丸さんの実績が、本書を読ませる理由である。もしかしたら「晴耕雨読」を読めないかもしれないKYな首相がいる国だけあって、最近の日本語の貧困化は、危機的状況ではないだろうか。母国語の貧困化は、国を滅ぼすと考えている私としては、その点でも本書をお薦めしたい。

時は19世紀。イタリアを訪問したバイロンは、いみじくも「この国の人々は我々が考えている”社会”といものを知らない」と書き残しているそうだ。しかし、本書からうかびあがるいくつになっても年相応になれず、世間体も人の思惑も気にせず、傷つきながらも自分に正直に生きるおおらかなイタリア人は、とても人間的な魅力に溢れている。

ちなみに「目にハムをもつ」(Togliersi il proscciutto dagli occhi)とは、「ものごとの本質を見抜けない人、理解力に欠けた人」というイタリアの格言である。
エットレ・ソットス氏の「いいのはほんの一瞬」という言葉に、まさに”目からハム”だった私である。

■これも目からハム
「パンツの面目ふんどしの沽券」米原万理著
・ぐっちーさんが凄いと言ったおふたりの対談

ベルリン・フィルを退団する安永徹さん

2008-11-28 12:15:19 | Classic
今年で創立125年を迎えるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、やはりウィーン・フィルとともに燦然と輝く特別な存在。
そんな別格オケで、コンサートマスターというこれまた別格の重責を25年間担ってきた首席コンサートマスターが安永徹さん。その安永さんが来年の3月をもって、定年の任期を8年残してベルリン・フィルを退団することになった。

安永徹さんは、1951年生まれ。
13歳の時から江藤俊哉氏に師事して、1971年の第40回日本音楽コンクールで第1位を受賞。75年にベルリン芸術大学に留学して、ミシェル・シュヴァルベ氏のもとでさらに研鑚を積む。77年にベルリン・フィルに入団、、、した時もおそらくニュースになったのではないかと推察するが、83年のコンサートマスター就任時は、もはや日本ではちょっとした”事件”だったそうだ。ベルリン・フィルの構成員は現在でもドイツ人が高く、その頃は東洋人への人種差別や偏見も無きにしも非ずだったのではないかと思われ、今でこそ国際的なコンクールで日本人の受賞者の名前を見ないことがないくらい日本人の実力が知れ渡っているが、世界のベルリン・フィルの顔に日本人が就任したことを”快挙”と受けとめられたのではないだろうか。

「私が偉いのではなく、私を選んでくれた同僚に感謝したい」というのは、今朝の新聞によせられた安永氏のコメントである。
音楽は実力主義、音楽的に信頼できるコンマスが必要だったのであり、そこに人種は関係ないと考えれば、氏の謙虚な人柄もあるがやはりそれだけの音楽性をもっていることになる。しかし、「優しさと怖さをもった特別な存在」だった”あの”帝王カラヤンに従がえたことは、私は文句なく「偉い!」と言いたくなる。

「指揮者を尊敬し、肯定的に受け入れば、オーケストラは正しい方向に向かう」
それもベルリン・フィルだから言えるのではないろうか。

現在、安永さんは57歳。
25歳を超えると技術的なテクニックを身につけるのは難しいとおっしゃっていたが、演奏家としては円熟の期を向かえる。また、教育者としての期待も高まる。九州ご出身だが、今後の生活拠点は北海道・旭川近郊。何故、こんな遠くのしかも極寒の地に?
以前、安永徹さんの対談集「音楽って何だろう」の著書を読んだ時の記憶では、一度車両荒らしによって盗まれたことのあるモンタニアーナを使用されていたが、現在は、日本音楽財団より貸与された1702年製ストラディヴァリウスの「Lord Newlands」を使用されている。
自分の演奏に一度も満足したことがないと謙虚におっしゃる安永氏が、名器と伴に日本でのソロ活動や室内楽が増えて、ベルリン・フィルで培われた素晴らしい演奏を聴けることが楽しみである。

■アーカイブ
「コンサートマスターは語る 安永徹」
『カラヤンの美』

おひとりさまの時代「シングルトン」

2008-11-27 23:15:59 | Nonsense
【平均寿命最高更新、女性85.99歳・男性79.19歳】

厚生労働省は31日、2007年の日本人の平均寿命が女性85.99歳、男性79.19歳と、過去最高を更新したと発表した。
女性は23年連続で長寿世界一。前年に比べると、女性は0.18歳、男性は0.19歳のびた。男女差は6.80歳で、前年より0.01歳縮まった。
国際的に見ると、女性では、日本に次いで長寿なのは香港の85.4歳で、第3位がフランスで84.1歳だった。男性の長寿世界一はアイスランドの79.4歳で、次いで香港の79.3歳、第3位が日本だった。(2008年8月1日 読売新聞)


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この夏、郊外の公立図書館でバイトをしている知人に、今どんな本が人気あるのか尋ねたら、上野千鶴子さんの「おひとりさま」と即答された。予約件数ダントツとのことだった。最初は驚いたが、実は私も借りたいと思っていたくらいだからそれもそうかも・・・・。
何しろ日本人の男性は80歳ぐらいでこの世からさよならするが、女性は86歳ぐらいまで生き伸びる。もし5歳の年齢差があったとしても、女性の最後は10年近いおひとりさま時代を迎えるわけだ。結婚しても、こどもがいても、いつかはおひとりさま。

そんなおひとりさまのロンドン事情が今日の「読売新聞」で紹介されていたのが、「ロンドン5景」。
1996年、英国で30代独身女性の私生活を描いてベストセラーになった小説を映画化した『ブリジット・ジョーンズの日記』は、日本でも大受けだった。ちょっと太めのブリジット(レニー・ゼルウィガー)が本音まるだし、いい男の捕獲にのりだすその”真剣ぶり”には、おおいに笑わせられた。映画の宣伝効果?もあって、ロンドンは、大都市のシングルトン(パートナーのいない独身女性)の生態を映す街として有名になったが、今では「男に飢えたブリジット」を支持する女性は絶滅してしまったそうだ。

但し、英統計局によると25歳~44歳の独り暮らしの女性は、過去20年間で倍増して、8%を占める。理由としては、ロンドンはキャリア志向の女性にふさわしい就学と就労の機会が用意されているためだ。この辺は、東京と事情が似ている。シングルトンは恋愛至上主義とは相容れず、6割の人がパートナーがいなくても充実した人生を楽しめると考えている!これも、日本の都会の女性像に近いのでは。勿論、ひとりよりもふたりを望んでいて恋人は欲しいのだが、ブリジット・ジョーンズと決定的に違うのは、必死に生涯の伴侶を探すことよりも、「自分のライフスタイルを保つ」ことの方が大事と言い切るところである。

記事を読んだ感じたのが、ロンドンのシングルトンは、ケンブリッジ大学出身の大手新聞社に勤務など、知的エリート女性が多いことだ。だから、彼女たちは恋愛志向と一線を画す女性である「フリーメイル」と呼ばれ、豪華旅行や単身者用の高級マンションの市場を過熱させる重要な消費者となっている。30足以上の靴をもつ割合は、なんと25%。日本のパラサイト・シングルが働いてえた収入が、年長のお嬢さんのお小遣いとして消えていくのに比較して、ロンドンのシングルトンは経済的に自立して自活していて、尚且つ生活にゆとりがあるゆえか、プライドも少々お高い。社会学者のジャン・マクバリシュ氏によると金融危機により、女性が将来への不安から結婚生活に展望をもてずに益々独身が増えるそうだ。

私は、こどももある程度の年齢になったら個室があった方がよいと考える。ひとりの時間、ひとりで過ごす時間は、こどもの心を豊かにすると。最近は、ゲームの普及で事情が変わってきてしまったのが残念ではあるが、本来はひとりで読書をしたり、音楽を聴いたりと、自分に向き合う時間は貴重だと思う。それに、いつかはお独りさまではなく「おひとりさま」の時代になるのなら、おひとりさまの達人にならねばっ。
ところで友人によると、そんな私の口癖は「ひとりになりたい」らしい。
ひとりになりたい・・・。

『受取人不明』

2008-11-24 22:38:35 | Movie
人にはお薦めできない映画をこっそり観る。キム・キドク監督の映画は、映画鑑賞が趣味と公言する女性にお薦めするのはためらうが、実は映画好きだったというマニアックな方にはお薦め。

1970年代、韓国の米軍基地に隣接したとある田舎。
登場人物その1:村のはずれに赤い廃車となったバスで暮らしているのは、本国に帰っていった黒人米兵への便りの返信を待つ母と混血青年のチャングク(ヤン・ドンクン)。彼は、母の愛人の犬商人(チョ・ジェヒョン)のを手伝いながら生活力のない母の糊口をしのいでいる。

登場人物その2:ジフム(キム・ヨンミン)は、朝鮮戦争で脚を失い没落した地主の父とふたり暮らし。家庭の事情から学校を退学して肖像画製作をする店でアルバイトをしているが、報酬も下級生に脅されて奪われてしまう気の弱い青年だった。

登場人物その3:そのジフムが密かに思いを寄せているのが、女子高校生のウノク(パン・ミンジョン)。彼女は右目を失明していて、いつも前髪で目を隠して歩く綺麗な顔立ちの少女。
本映画は、基地のある村を寒村を舞台に朝鮮戦争の傷跡と3人の衝撃的な青春を描いたキム・キドクの名を世界に知らしめた記念碑的作品である。

3人の共通点は、それぞれの事情による孤独と貧しさにある。孤独や貧しさも、昔からあり、韓国だけでなく今日の日本でも日常的な風景である。しかし、寒々とした風景に立つ3人の孤独は、観る者に痛みを伴って迫ってくる。そして彼らに重くのしかかってくるのが、米軍基地の存在である。黒人米兵からの手紙の返信だけを待っている生活を送る母に愛憎半ばの複雑な感情をもつ黒い肌のチャングクや、戦争で脚を失った父のいるジフム。米軍は、韓国に暗い影を落とす一方、ウノクの目を手術して快復させる米兵もいる。やがて、目を治した見返りに彼女を支配していく麻薬中毒の米兵に、米国は韓国を救うと今度は支配していくという構図が象徴的に描かれ、単なる青春映画の枠を越えて、社会性をもたらしている。ともあれ優れた青春映画は数多くあれど、日本や諸外国にも通じる社会性に、洗練された現代の文化人は弱いのである。

監督は、実際にこども時代に過ごした故郷にいた黒人とのハーフの少年と片目を失明していた少女の存在70%に、30%のフクションを加えたとインタビューで応えているが、この30%の描き方が鬼才の手にかかると観る者に不快感をつのらせながらその静かで独特な映像から目をそらすことができず、強烈な印象を残していく。ジフムがウノクの部屋を夜こっそりのぞき見する場面で、そののぞき穴から光がもれてジフムの左目をまずしく射す情景は、美しくも見事に映画に緊張感をもたらしてくる。
右の画像は映画の中の3人がひと言もしゃべらずに歩くワンシーンだが、巧みな構図と絵画的なセンスに溢れている。また、映画では観客に想像させるだけにとどめているが、食用の犬を撲殺するという野卑で残虐な行為や、彼らが障害者や混血児であったり、貧しさを揶揄したり差別するといった社会の触れたくない底辺をあえて浮き彫りにし、また自分の遊びで妹の目を失明させた兄の存在やジフムを恐喝する不良高校生の仲間われ、犬商人にバイクの荷台に載せた犬用の檻に入れられて運ばれるチャングクの描写など、うんざりするような低俗さも描くのがキム・キドク流。母国の韓国では、女性から嫌われる監督というのもわかる。しかし、淡々とした進行に、謎解きを余韻のように残しながら、残酷な美しさをうかびあがらせるのも、キム・キドクならではである。

荒削りながらも、練られた映像と構成は、よくよく解釈していくとその完成度の高さに感嘆させられる。
彼はこの映画に寄せてこんなことも言っている。

「私はただ幸せな人生は意味がないと考えております」
そんな人生観が、一番のキム・キドク流儀だったのか。。。

■アーカイブ
『うつせみ』
『サマリア』

「死の泉」皆川博子著

2008-11-23 21:17:17 | Book
かあさん、かあさん、おなかがすいた
パンをちょうだい、飢え死にしそう

待っておいで、かわいい坊や
明日、パンを焼くよ

パンは焼けたけれど
子供は床にたおれ、死んでいた

マーラーの「少年の魔法の角笛」を清冽なボーイ・ソプラノで歌うのは、第二次大戦下のドイツ、「レーベンスホルン」(生命の泉)に収容されている金髪と青い虹彩、白い肌の4歳のエーリヒと10歳のフランツ。私生児を身ごもり、そのナチの施設レーベンスホルンに身をおくマルガレーテは、やがて不老不死の研究をして芸術を偏愛する医師クラウスの求婚を受け入れる。ミュンヘンのルートヴィヒ・マクシミリアン大学でヨーゼフ・メンゲレの後輩だったクラウスの研究室に、不気味な脇腹で結合された双頭のネズミやホルマリン漬けにされた奇形児がおいてあることに不安を感じるマルガレーテ。財閥の御曹司でもあるクラウスは、芸術面にも造詣が深く、特に最後のカストラート、アレッサンドロ・モレスキの声をこよなく愛していた。美はいかなる時にあっても絶対であり、天賦の美は、最大限、最高に生かされるべきだという信念の彼は、天使の声をもつエーリヒに異常な執着心をもつようになっていく。異常な戦渦の中、愛児を無事に出産して育てるための手段だったのだが、やがてクラウスの狂人のような熱情にまきこまれていくのだった。。。

カストラート、双頭の美しい顔立ちの双子、人体実験、伝説の古城と秘密の地下道に眠るフェルメールなどの名画。漫画家の萩尾望都や山岸涼子にも通じるようなブンガク好きの女子の妖しいざわめきを挑発する小道具が豪華に並ぶ。しかも、作者はその小道具の使い方が超一流!
優生学的な人種問題、神話、ゲーテの「ファウスト」、人権上の観点から今では禁止されているカストラートなどの多くの美しくも不協和音を盛り込んだ濃厚な本書は、豪華絢爛で重厚、最終コーナでは派手な銃撃戦や格闘技まで展開し、しかも謎を残したまま最後の最後までいくつもの凝ったしかけに驚嘆させられる物語文学の最高峰とも断言できる。
こんな本があったなんて、知らなかった。こんな凄い作家がいたことを知らなかったなんて、迂闊だった。。。

恐るべし皆川博子さんなのだが、その皆川博子さんは1930年生まれ。本書を書きあげたのは、なんと67歳。写真にある穏やかで上品な雰囲気のクラシックな御婦人の面差しから想定外の円熟の匠の技にたっぷり酔わせていただく上下二段組の400ページ。誰が読んでも、これはドイツ人作家の翻訳本・・・に読めるのだが、そのいかにも翻訳したかのような言い回しの仕掛けに、文章が巧いと生意気申し上げていたら、めまいがするような結末に戦慄が走り呆然とするばかり。
かくして、嗚呼、、、私の心には、いつまでもクラウス医師の爆笑がこだましている。

ぼくらを殺した お母さん
ぼくらを食べた お父さん
ぼくらは 決して忘れない
いつか あなたの子を殺す

■カストラートを描いた傑作映画
『カストラート』

快楽は一瞬、教養は一生。

2008-11-22 23:02:41 | Book
迷走する麻生内閣が景気対策の「目玉」として打ち出した「定額給付金」を批判する某政党のビラにあった「バラマキ一瞬増税は一生」というキャッチコピーがとてもわかりやすく、私としてはかなり気に入りちょっとしたマイブーム(←もしかして古い言い回し?)になっている。

閑話休題。
私はファッション誌を除いて本を買わない人なのだが、今月号の「文藝春秋」はかなり気になっている。なんたって、あの好奇心のまま精力的に突撃する知のおじさんである立花隆氏と、これまた驚異的な記憶力をもち、豪胆でプロフェッショナルな起訴休職中の外交官であり知の変人・佐藤優氏が、科学書・哲学者からSM小説まで厳選した必読の教養書200冊をめぐって対談しているのである。ミシュランのガイドブックに踊りたくはないが、これは見逃してはいけないっ。
それも本音を言ってしまえば、自分には教養が足りていない、ないのがコンプレックスだからだ。(そんな内心を透視したかのようなタイムリーなcalafさまのブログに笑わせていただいたのだが、むしろ本物の教養人に遭遇できたら、圧倒されて私なんぞ近寄りがたく苦手な人と感じるだろう。矛盾しているかもしれないが、ビール片手にプロ野球の結果に一気一憂する男性の方が親しみやすく好きなのだから。)

頭脳が優秀だから教養があるか、そうではない。学歴はあまり関係ない。知識が豊富だったら教養があるか、それも一概に言えない。勿論、社会的なステータスが教養に結びつくとは限らない。教養を論じるなら、それだけで延々と文章が続きそうだが、知性もあり、知識も豊か、それでいて芸術への造詣も深く人間的な品格もある人が、教養人ではないだろうか。私の中では、漠然と感じている教養人は、オペラを鑑賞するにもスコアを持参してきた丸山真男氏と「法の人間学的考察」を80歳過ぎて書き上げた小林直樹氏、何度挑戦しても読破できないため(汗)次点としたい評論家の小林秀雄氏あたり。もっともその教養人がこのおふたりぐらいしか浮かばない点が、己の教養のなさを暴露しているようだが(恥)。。。

calafさまが小説の類がなく愕然とした立花隆氏と佐藤優氏のお薦め200冊。本屋さんで物色した限りでは、立花隆氏は正統派でさすがに幅広い分野を網羅していて、佐藤優氏の100冊はこれも佐藤優氏らしくどきどきするくらいマニアック。難解な哲学書を読めば教養が身につくわけでもなく、SM小説といった性の深淵も理解できる人間としての奥の深さが必要なのだろう。

そのおふたりの100冊をリストアップしているブログをご紹介。
■「One Day It”ll All Make Sense」⇒立花隆編佐藤優編
学生時代までは小説ばかり読んでいた私も、これでは教養が身につかないとジャンルを広げたが、この200冊のうち、読んでいるのはたった10冊程度!これはかなりまずい!もっともこれはどうよ?と疑問に思う読みたくない本もある。

次は、読書家52人による死ぬまでに読みたい生涯の一冊。これも8冊まで読了!
では、私がcalafさまにお薦めした小林直樹「法の人間学的考察」&ロバート・P・クリス「世界でもっとも美しい10の科学実験」の他、開設以来弊ブログでとりあげた本の中でお薦めしたい本も。(「文藝春秋」で既に掲載済みの本は除く)

「夢の世界とカタストロフィ」スーザン・バック-モース
「人類が消えた世界」アラン・ワイズマン
「雪」オルハン・パムク
「孤独なボウリング」ロバート・パットナム
「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ
「市場には心がない」都留重人
「ピアニストが見たピアニスト」青柳いづみこ
「水平記」山文彦
「われらはみな、アイヒマンの息子」ギュンター・アンダース

中国映画の巨匠、謝晋監督が死去

2008-11-21 23:12:44 | Nonsense
【北京18日共同】中国の文化大革命の苦難を描いた映画「芙蓉鎮」(1987年)などで知られる中国映画界の巨匠、謝晋氏が18日、浙江省紹興市上虞で死去した。84歳だった。 新華社電によると、母校の中学校の100周年記念式典に参加のため上虞のホテルに宿泊中、室内で死亡しているのを従業員が発見した。死因は不明。心臓病を患っていたとされる。
「最後の貴族」(89年)「乳泉村の子」(91年)「阿片戦争」(97年)など、中国の曲折した歴史を題材にした作品が内外で高い評価を受けた。
23年、上虞生まれ。南京国立演劇専門学校を卒業した。94年には中国初の私立の映画俳優養成所「上海謝晋・恒通スター学校」を設立、人材育成にも尽力した。
黒沢明監督の影響を受けたとされ、80年に中国映画代表団として訪日。2006年12月にも映画祭参加のため訪日しており、日本映画界との交流も多かった。(08年10月8日西日本新聞)


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1963年のことだった。湖南省の片田舎、芙蓉鎮では米豆腐を売る胡玉音(劉暁慶)の店は大繁盛していた。

それもそのはず、家畜用にしかならないくず米を夫とふたりで夜遅くまで臼を挽いて美味しい米豆腐を作って売っていたのだ。働き者で努力家。おまけに若い夫婦は、あかるく気立てもよく年寄りにも優しい。繁盛しないわけがない。ところが、時は文化革命の嵐が吹き荒れる時代。彼らの幸福を妬む政治工作班長によって「資本的ブルジョワジーの典型」と批判され、家も没収され夫も処刑されてしまったのだが。。。

随分前に観た映画なのだが、今でも主役を演じた劉暁慶の愛らしさが鮮明に印象に残るが、なんと言っても一種のカルチャー・ショックを受けたのが、活字でしか知らなかった中国の「文化大革命」の実態である。この映画で初めて知った「文化大革命」は、その無意味な”革命”に恐ろしさすら感じた。同じく映画の『中国の小さなお針子』ではあきれるくらいの実態に笑うしかなかった「文革」も、先日読んだ小説「兄弟」では、その理不尽な残酷さをシュールなまでに描写されている。現代人にとっては、中国の文革は理解不能な特殊な現象である。

監督の謝氏はフランスで書店めぐりをした時に、映画の原作である作家、古華の『芙蓉鎮』がヤマ積みになっていることから、国外では文革に高い関心が持たれていることに気づき、映画化の構想を練ったという。「文革のような出来事が中国で再び起きることは絶対に許さない。それが私の主要テマだ」というのは、自身も「牛小屋(知識人らの収容所)」に押し込められ労働を強いられた経験をもつ謝監督の信念である。文革終結後、わずか10年後で『芙蓉鎮』で製作されたのだが、やはり党内で激しい論争があり、上映禁止寸前だったそうだ。

その『芙蓉鎮』が世に出る7年も前に、北京で個人経営の食堂が小平の改革・開放で復活した。国ぐるみで”資本家”を絶滅させた後、生活苦から逃れるためにひっそりと開業した小さな店「悦賓飯館」を81年の旧正月に訪問した客は、副首相ら共産党、政府の幹部だった。文革の記憶が鮮明だった開業当時は、従業員も雇えず薄利に徹して料理の値段を決めていた店主だったが、彼らお偉いさんの訪問で安心して商売ができるようになったという。『芙蓉鎮』では、身重の胡玉音が雨にずぶぬれになりながら夫とともに公開裁判で懲役を言い渡される。

「生きぬけ、豚のように生きぬけ、牛や馬のように生きぬくんだ!」夫は、妻にそう叫んだ。

政治が変わり、たとえもまれてもただただ生き抜くことさえできれば、やがて平穏な暮らしが戻ってくる希望もある。政治の虚しさと下々の庶民のたくましさといとおしさを鮮烈に描いた謝監督の母親は、知識人への迫害が増すさなか、睡眠薬を飲んで自殺し、父親も身投げをした。
豚肉炒めと卵ソバの値段が合計24元(350円程度)のその店は、今でも繁盛しているという。

『海と毒薬』

2008-11-19 23:07:56 | Movie
太平洋戦争末期、九州にある大学病院に勤務する研究生の勝呂()と戸田(渡辺謙)は、通称おやじと呼ばれている橋本教授(田村高廣)の元で、診察・治療、研究といそしんでいた。明日の命もわからない敗戦色のこい状況下にも関わらず、大学病院内では医学部長の地位を巡って、橋本教授と権藤教授(神山明)の熾烈な権力闘争がはじまった。ややポイントの低い橋本教授が、打開策として前医学部長の親戚である田部夫人の手術を行うが、失敗してしまう。昇進が絶望視される中、勝呂と戸田は橋本教授断ちに呼び出されて、米軍捕虜達の生体解剖を打ち明けられるのだったが。。。

昭和32年、作家・遠藤周作氏により発表された小説「海と毒薬」に注目した監督の熊井啓監督は、早速昭和40年代には映画化の権利を獲得し、脚本も書き上げたのだが、あまりにもショッキングな内容なので当時の日本映画界では受け入れられず、ようやく映画化されたのがそれから15年後の1986年のことだった。

監督自らの脚本は、原作にかなり忠実である。自ら製作委員長を務めた原作者の遠藤周作氏に気をつかわれた面もあるかもしれないが、小説を読んだ感想では、登場人物の会話が平易で短いにも関わらず、深みがあり情景が目に浮かぶこともあり、殆どそのままのセリフにしたのではないだろうか。例えば、勝呂が最初の患者だったために執着を示した「おばはん」と呼ばれる女性にこどもがいることがわかると、彼は「おばはんに子供がおったとね」と声をかける場面が映画にもある。若い医師である勝呂には、患者としての”おばはん”しか目に見えず、彼女の背景にある女性として妻や母としての暮らしが思いつかない様子が窺がえる。
そんな勝呂役のキャスティングは、当初難航した。奥田英二氏とオーディションに近い面接をした監督は、ほぼ他の俳優に決まりかけた勝呂役を帰り際の奥田さんの後ろ姿があまりにも良かったので、急遽彼を起用することにしたそうだ。小説の中での私のイメージに浮かぶ勝呂は、寒村出身のずんぐりむっくり体型のどちらかと言えば不細工な顔立ち。どこから見ても甘めのイケ面で髪をかきあげる仕草と髪型がお坊ちゃま君の若き頃の奥田氏は、私の勝呂像とかなり違う雰囲気だが、他人への共感性をもちあわせ良心の呵責に悩み苦しむ誠実な人柄と人の良さが映画では、けっこうイケテイル。対する生体解剖も医学への貢献と合理的に考え、世間の罰だけじゃなにも変わらないと言い切る戸田役の渡辺謙は、頭は切れるが少々酷薄なエゴイストなこの役が最高にあっている。監督も一目彼を見て、思わず「お願いします」と頭をさげたそうだ。(ちなみに、アマゾンの解説の登場人物の描写は逆である。)また、柴田助教授役の成田三樹夫、大塚看護婦を演じた岸田今日子や監督も含めて、すでに鬼籍に入られた昭和の映画人の業績に目をみはる思いがした。ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞に価する誇れる映画である。

また社会派の巨匠と言われる監督らしく、手術シーンに必要なベッドや小道具、メス、コッヘルなどの手術道具に至るまで、実際に当時使用された道具を用い、血液は若手スタッフの献血による本物、モノトーンの映像による圧倒的なリアリズムが、異常な状況下における人間のエゴイズムと恐ろしさをあぶりだしている。暗い海が観る者に不安をかきたて、松村禎三の音楽が人間の罪をあばき、戦争という極限の状態に自分もおかれたらと想像すると、米国人による断罪も虚ろに響いてくる。敗戦後、生体解剖実験の事実が明るみになり、GHQによる横浜軍事裁判によって、当時の関係者らに厳しい判決が下された。彼らは出所後も沈黙を続けたまま次々と他界し、唯一の生き証人となった開業医の東野利夫による「汚名-九大生体解剖事件の真相」の著書が出版されている。本土決戦もまじかという異常な状況の当時の雰囲気がわからなければ、絶対に理解できないと述べている。

監督:熊井啓

■アーカイブ
・「海と毒薬」遠藤周作著
・人類共通に仕組まれた倫理観

人類共通に仕組まれた倫理感

2008-11-17 22:14:39 | Nonsense
「暴走トロッコが来る。あなたは線路の切り替えスイッチを握っている。そのままでは、本線上にいる5人の人間が死に、支線に切り替えればひとりが犠牲になる。さあ、どうする?」

これは読売新聞の「日本の知力」(宗教で考える)シリーズに掲載されていたのだが、米国ハーバード大学の心理学の講義で、マーク・ハウザー教授はこのような質問を学生によくする。スイッチを切り替えて、ひとりを犠牲にすると応える学生が殆どだそうだ。私もスイッチを切り替えるだろう。然し、いずれにせよ自分の行為は、最悪の5人からひとりに減らしたとは言え、かなり悩み苦しみ、相当なる抵抗感でスイッチをもつ手が震えると想像する。言わば、究極の選択だ。

教授のジレンマの質問は更に続く。
「大男を線路に突き落としトロッコを止めるのは?」「献血にきた青年の臓器を摘出して、移植を待つ5人の患者を救うのは?」
合理的に考えれば、マイナスひとりの人命で5人の命を救う点では、その前の質問と同じ扱いだが、抵抗感は後の例ほど大きい。何故、このような質問を学生にするのか。教授によると、国や民族、年代や性別を超えて、この抵抗感は共通しているそうだ。昨日読了した遠藤周作氏の著書「海と毒薬」では、神を不在とする日本人の良心のあり方を通して「日本人」を問うのがテーマーだったが、教授の実験結果によると、抵抗感は更に敬虔なキリスト信者と無神論者の間でも違いがなかった。J・A・パウロス著「数学者の無神論」でも、米国では塀に落ちた無宗教の犯罪者は、宗教をもっている犯罪者に比較して構成比率が低かったというデーターもある。ハウザー教授は、実験結果から一歩踏み込んで「倫理・道徳には、無意識に働く人類共通の仕組みがある」と考えている。

進化生物学者は、このような現象を「”意地悪するより、お互い協力する方が得策”という性質が脳の中に備わっている」と解説する。行動経済学者のヴェデキントとミリンスキーは、間接的互酬性ゲームを考案し実行したら、善行をした者は評判が高くなり、経済的にも政治的にも地位があがった。
「多くの互酬性を含む複雑な社会システムにおいては、互酬的な関係で魅力的だと判断されることは、成功のための大きな要素である」
著名な進化生物学者のリチャード・アレグザンダーのこの言葉は、人類と社会は合理的に考えていけば、神や宗教なしでもうまく機能していけるかもしれない。

大阪大学医学部の標本室には、博物学者の南方熊楠のホリマリン付けの脳が保管されている。幽体離脱や幻覚を体験した熊楠が、「脳を調べて欲しい」という遺言を残したために、98年京都大学においてMRIで脳を調べた結果、右側頭葉の奥にある海馬に萎縮を発見し、これが幻覚の原因だと結論付けられた。側頭葉で神経細胞が過剰に発火すると、脳に電気的嵐が生じ、画家のゴッホ、作家のドフトエスキーやルイス・キャロルにも同様な疾患があったと見られる。側頭部に絡む体験は理性を圧倒し、恍惚感や一体感など絶対的な確信をもたらすことから、聖パウロや神の声を聞いたジャンヌ・ダルクにも同じような疾患があったのではないか、というのが最近の脳研究である。しかも、カナダのマイケル・パーシンガー教授(脳科学)は、磁気で側頭部を刺激する「神のヘルメット」をつくり、被験者に被らせて神秘体験をさせて「”超越的な存在”を間近に感じた」といった証言すら得ている。
・・・という事は、無神論者の私も「神のヘルメット」を被ったら、ジャンヌ・ダルクになりたくなる?
倫理・道徳に無神論者も敬虔な信者も関係ないのはそのとおりだと思うのだが、国境もなく民族にも差がなく共通の認識という説には、本来人間がもって生まれた脳の器質によるところなのか、ゲーム理論が示すように後天的に学習してえた合理的なものなのか、なかなか考えさせられる。

「海と毒薬」遠藤周作著

2008-11-15 16:46:12 | Book
東京から離れた郊外。そこに車が通る度に黄色い埃が濛々と巻き上がる道路にある一軒の病院。腕は抜群だが、無愛想で生活が荒んでいる印象がする変わり者の医師、勝呂には、戦争末期の九州の大学病院の研修生時代に、白人米兵捕虜の生体解剖実験に関わった過去があった。

みんな戦争で死んでいく時代だった。病院で死なない者は、空襲で明日死んでいく。そんな時代に研修生として大学病院に勤務する勝呂にとって初めての患者のおばはんに、まるで実験台にされるような危険な手術の予定が入ると、空襲で亡くなるよりもオペで殺された方が医学の人柱になるだけよっぽどましと豪語する友人の戸田。すべてが戦争の暗い闇に覆い尽くされ、倦んだ虚無的な日々が流れていく。やがて、虚ろな暗黒の雲は、戦争という非常事態に、医学部長の椅子をめぐる橋本教授たちの権力闘争を契機として、生きたままの人間を解剖するという衝撃的な行動を起こす。

九州帝国大学で実際に起こった相川事件をモチーフに、日本人の良心と善の拠り所と神の不在を問いた遠藤周作氏の問題作である。
「日本人とはいかなる人間か」
評論家の佐伯彰一氏の解説によると、これは遠藤周作氏が生涯に渡り問い続けたテーマーである。ムラ社会というコミュニティに共存する日本人の倫理観や道徳心は、所謂”世間の目”によるところが大きいというのが定説である。自分の行いや言動が、他人から、また世間や社会からどのようにとらえられるか。欧米人の、人が見ていなくても神は常に自分の行いを見ているという観念から、行動規範を自らに律する点と隔たりがある。然し、この倫理観には、世間であれ神であれ、いずれ何らかの形で罰せられ、自らに報復されるという恐怖心の方が、良心よりも優っているように思われる。残念ながら、良心よりも人は恐怖心により支配されやすいのではないだろうか。
作品では、神の存在を絶対とする西洋人として、勝呂たちの頂点にたつ橋本教授が独逸留学時にリーベして妻となったヒルダを登場させている。ヒルダが苦しんでいる患者を薬で安楽死させようとしている看護婦に、「神さまの罰を信じないのですか」と厳しく叱責する場面は、その後の彼女の夫の生体解剖の執刀の非人道的な罪を罰する重みをもち、日本人の神の不在による良心の罰のありかを問う要になる。然し、神を信仰する独逸人が、ナチズムの空気に洗脳されてユダヤ人を大量虐殺した事実を考えれば、私は日本人論にとらわれずに、絶対的な権力の支配下における自己の喪失を本書から感じとった。

戦争という異常な”空気”の中で、大方の日本人にとっては、世間は国家、軍隊や軍人に成り代わり、個としての基盤を失い軍隊が支配する集団に埋没せざるをえなかった。また、それが戦渦の中の日本人のアイデンティティとも言えよう。病院内で時代は変われど「白い巨塔」を彷彿させるような大学病院内での、教授の回診場面。橋本教授たちが医学部長の親戚を手厚く診察して早めの手術を行うのも、おばはんを実験台とした手術も、医療という目的を隠れ蓑に部長選挙に向けての点数稼ぎである。病院内での医師は、患者にとっては絶対的な権力者として君臨している。然し、その医師たちも大学という枠の中では、医学部長、教授、助手といった権力のヒエラルキーにしばられ、またそれも、軍人が支配していく。この時代の権力の支配、またその場の”空気”から離れて、人が個人の良心を問い続けるのは難しい。現代人の私たちも、会社という組織に一旦ビルトインされてしまうと、ひとりの人間としての”善”を見失うのは、会社の組織ぐるみの不祥事が後を絶たないことからもわかる。又、戦争という狂気の空気にたやすくのみこまれていくのも人間である。
橋本教授のモデルとされた石山福二郎教授は、逮捕されてからも「実験的な手術ではなく、捕虜を救い医療行為」と否認し続け、独房で遺書を残した自殺した。

作品は、手術に関わった勝呂、友人の医師・戸田、ひとりの看護婦の手記という形式をとっている。
捕虜の解剖に立ち会うものの、医師としての良心に苦しみ目をそむけることしかできなかった勝呂は、素朴で他人への共感性もある一般的な日本人であるが、戸田はこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけであり、生体解剖実験も医学に貢献できると考える合理的な研究者である。彼らは、特殊な人間でも残酷な性格でもない。罪に苦しみいつか罰を受けると恐れる勝呂も、他人の眼や社会の罰にしか恐れを感ぜず、それが除かれれば恐れも消える自分を不思議に感じる戸田も、我々自身にあると言えなくもないだろうか。

「これからも同じような境遇におかれたら僕はやはり、アレをやってしまうかもしれない・・・アレをねえ」
中年になり、ひっそりと町の片隅で医師を続ける勝呂がくたびれた低い声でつぶやく。
全編に黒くぬめりとした海の波のゆらぎが漂い、いつまでたっても余韻にゆれて漣のようなざわめきが残る作品である。中編小説程度の本の厚みだが、何度も繰り返して読みたくなる内容の充実度に、改めて狐狸庵先生の本業(?)を知った次第である。

映画『海と毒薬』熊井啓監督