千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「テレプシコーラ 舞姫 第二部3」山岸凉子

2009-10-30 23:01:46 | Book
待っていた、、、ずっとこの日を待っていた。

ル・シネマで上映中の映画『パリ・オペラ座のすべて』の初回を待つ行列は、予想外に長かった。これまでのル・シネマでの映画では、いつも休日の開演時間ぎりぎりでも良い席に座れたのに・・・。これはドキュメンタリー作家としての監督の看板以上に、扱っている素材が”「バレエ」だから”にあると思われる。長らくバレエを踊る人とバレエを趣味とするほんの一部の人々だけだったマニアックな分野が、一般大衆向けの娯楽や文化に広がった成果と考える。この現象に貢献したバレエ界の方々はとても多いが、漫画家では山岸凉子さんは最大の功労者である。

10月23日、待ちに待った「テレプシコーラ 舞姫」3巻が発売された。いよいよプロのバレエリーナーの登竜門である「ローザンヌ国際バレエコンクール」の審査がすすむ。音楽の分野では、芸術性に点をつけるコンクールの是非について時々疑問を呈されることがあるし、ドロシー・デュレイの優秀な教え子のようにコンクール経験なしで最初からプロとして世界的に活躍している五嶋みどりさんのようなヴァイオリニストもいる。バレエも勿論、芸術性においては点数化して勝ち負けを決められるものではないのだが、辺境のアジア人が欧州で活躍する足がかりは、やはり「ローザンヌ国際バレエコンクール」での入賞である。

このコンクールの特徴は、若い才能の発掘とプロフェッショナルなバレエダンサーへの道を開くことを目的としているとおり、入賞者には16,000スイス・フランの奨学金と世界有数のバレエ学校への一年間の留学やバレエ団の研修生としての参加権利が与えられる。NHK教育テレビで一時間程度、コンクールの録画を放映しているのだが、それを観る限りでは通訳の問題もあるのかもしれないが、審査員の批評は長所と欠点をはっきりと指摘しているものの表現は平板である。そのクールさには、ちょっと日本人にはなじめないものもあるが、「テレプシコーラ」でもそんな審査員の厳しくはっきりと審判をくだす雰囲気が伝わる。六花がジェンツァーノを印象に残るよい踊りをしても審査員の先生の表情は日本人と違ってなかなか硬いのだ。幾日にも渡り、また精神的なプレッシャーや体調を崩したりした場合も想定し、少しでも有利になるよう万全にコンクールに挑めるように、10代の彼、彼女たちをサポートするためにつきそう日本人の先生の存在も読ませられる。この先生は、コンクールというものを知り尽くしている。これまで姉の千花をめぐる感情が前面にでていたが、今回の何よりの収穫は六花の精神面での成長ぶりである。彼女は、他の出場者の踊りや様子を冷静に見ながら学び成長していく。しかも、自分が踊る時はあざとくならない程度に感情豊かに。踊る技術も大事だが、そんな六花が作家の意図する振付家にむいているという伏線になっている。そんなわけで、第3巻は人間描写よりもコンクールというものがわくわくするようなおもしろさになっている。

それから映画『パリ・オペラ座』でも感じたのだが、時代の流れがクラシックからコンテンポラリーへと移りつつあるのもわかる。クラシックでいくら正統派の王子様役(ダンスノーブル)を踊れても、コンテンポラリーを踊れるセンスがないと一流にはなれない。近年、ローザンヌ国際コンクールで男子の参加者が増加している理由も、お姫様を持ち上げたり抱えたりする王子よりもコンテンポラリーの勢いで男性ダンサーが主役で活躍できる場が増えたこととも関係があるのではないだろうか。それにコンテンポラリーは、美形でなくて個性的?な顔でもOKだし。バレエは女の子がやるもの、という偏見がユーモアになった映画と時代は変わりつつある。

ところでローザンヌ国際バレエコンクールでは、毎年のように日本人がスカラシップ賞を受賞している。彼らが最も多く所属しているバレエ団は、吉田都さんが移籍して話題になった「Kカンパニー」である。当バレエ団の芸術監督を務める熊川哲也さんは、振付家としても近年評価が高まっている。熊川さんは、1989年に出場してゴールドメダルをとっているが、このメダルの受賞者は超優秀な人に贈られて過去に数名しかいないとのこと。(現在は、廃止されている)つくづく熊川さんはすごい!ということがわかった。

さてさて、気になるのはなんと言ってもローラ・チャンの存在。彼女は、いったい何者なのだ!?

■アーカイブ
・これまでの「テレプシコーラ 舞姫」
・映画『パリ・オペラ座のすべて』

「狙われたキツネ」ヘルタ・ミュラー著

2009-10-27 22:53:23 | Book
ノーベル文学賞:ドイツ人作家、ヘルタ・ミュラー氏に授与

【ロンドン】スウェーデン・アカデミーは8日、09年のノーベル文学賞をルーマニア出身のドイツ人作家、ヘルタ・ミュラー氏(56)に授与すると発表した。同アカデミーは授賞理由として「凝縮した詩と率直な散文によって、持たざる者の置かれた状況を活写した」と述べた。授賞式は12月10日、ストックホルムで開かれ、賞金1000万スウェーデン・クローナ(約1億3200万円)が贈られる。

 ドイツ人のノーベル文学賞受賞は1999年のギュンター・グラス氏以来10年ぶり。ドイツ語圏では04年のエルフリーデ・イェリネク氏(オーストリア)以来になる。ミュラー氏は53年、ルーマニア西部のドイツ系少数民族の村の生まれ。母語はドイツ語。ティミショアラ大卒業後、金属工場で技術翻訳の仕事に就いたが、秘密警察への協力を断ったために職場を追放された。82年に発表した「澱(よど)み」がドイツで高い評価を受けたが、チャウシェスク政権下の84年には労働と作品発表を禁じられ、87年に母国を離れてドイツへ政治亡命した。92年に発表した長編第1作「狙われたキツネ」(山本浩司訳、三修社)は生まれ故郷が舞台。秘密警察におびえる市井の人々の不条理な日常を、実体験を踏まえて丹念に描き、抑圧されたルーマニアの政治状況を告発した。今年、ルーマニア出身のドイツ人がソ連に強制連行され、ラーゲリに収容される体験を描いた12年ぶりの長編小説「アーテムシャウケル(息のぶらんこ)」を刊行。国内外で注目され、前評判も高かった。
(10月8日ロイター)

****************************************
ごく平凡なルーマニア人が地獄に落ちた。
ところが地獄は大変な混雑ぶりで、悪魔に指示された片隅に残った最後の空き地に行くと、あっというまにあごまで泥の中に沈んでいく。ところが中央の悪魔の席のそばには膝までしか泥につかっていない男がいる。ルーマニア人が首をのばして見るとチャウシェスクだった。
「正義はどこにあるんだ、あの男は俺よりも罪深いぞ!」と悪魔にくってかかると悪魔は応えた。
「そのとおりだ。だけどあの男は女房の頭の上に立っているんだよ」

笑いたいけれどむしろ悲しいこんな自虐的な小話が、本書に登場する。主人公の女性教師アディーナの友人であり少数民族出身のアビが、秘密警察の取調べを受けている時の会話の回想である。「狙われたキツネ」は、88年夏から翌年の暮れのチャウシェスク政権の崩壊までをバナート地方の革命の発端となったティショアラを舞台としている。公営アパートの屋上で日光浴をする全裸のアディーナと、彼女の親友でビキニ姿のクララののどかで開放的でありながら、妙に官能的な情景で物語ははじまる。若いふたりの女性ののびやかで開放的で淫らな姿が、やがて80年代のルーマニア政権の抑圧的で監視された体制からくる恐怖、不条理な社会への鬱屈と抵抗からくる心理下の、ある種のなげやりの姿だったと気がついていく。しかも親しき隣人、恋人すらも誰もが密告者になりうるのが当時の状況だった。チャウシェスク政権は反対派を封じ込めるために内務省のセクリターテという組織を強化していくが、アディーナはセクリターテに狙われて陰湿な方法で精神的にも追いつめられていく。彼らは、便器の中に煙草の吸殻などを捨ててあえて部屋の中に侵入した痕跡をわずかに残していくことによって、相手に恐怖心をうえつけていったのだ。

ほこりをまきちらしながら道路を横切る市電、食料を買うための長い行列、よく停電になり暗闇の底に落ちる町と国。その一方で、灰色の市営のアパートに住む一般市民とは別に<権力の閑静な住宅街>に住む指導者階級(ノーメンクラトゥーラ)はさまざまな特権を享受し、高級嗜好品や入手困難な食料品・輸入品も手に入れられる恩恵を受けていた。ヘルタ・ミュラーの文章は、繊細で散文的でありながら日常の断片を怜悧にきりとり、そこから息がつまるくらい絶望的なルーマニアの政治状況を多層的にうかびあがらせていく。乾いた率直な味気ない単語が並ぶかと思えば、詩的な表現が人々の心理を表層する不思議な読後感が残る。

一昨年のカンヌ国際映画祭で、パルムドール賞をルーマニアとして初めて受賞したのがクリスティアン・ムンジウ監督による『4ヶ月、3週と2日』だった。この映画では、望まぬ妊娠をした友人の中絶の手助けをする女子大生、オティリアの緊迫する一日がよく描かれている。中絶をするホテルの廊下の電灯が壊れていて薄暗く寒々しい光景は、いつまでも忘れられない。非合法で闇で危険な中絶をせざるをえなかった彼女たちだが、「狙われたキツネ」に登場するクララは病院で中絶手術を行っている。クララの恋人が、セクリターテの人間だったからだ。同様に、映画のオティリアのボーイフレンドの母親の誕生日を彼の自宅で祝う場面では、父が大学教授ということもあり室内は知的な雰囲気を保ちつつなんらかの特権階級らしい豊かさすらも感じられた。映画の舞台は87年と、まさに「狙われたキツネ」に時代が重なっている。作家のミュラー自身も映画のように自分で輪針のチューブを子宮に差し入れて2回も堕胎した経験があるという。これは今では旧共産圏の過去の歴史となった。しかし、それではミュラーは昔の傷を告発しているのだろうか、と言えばそうではない。

「ただ古いコートが新しいコートに変わっただけなのだ」

という一文で結ばれていることで作家が示唆しているところを考えたい。平凡な一市民がかっての秘密警察、現代では監視体制によって陰湿に追いつめられていく恐怖がくりかえされないと誰が断言できるだろうか。市井の女子学生を通して抑圧された社会を描いた『4ヶ月、3週と2日』がパルムドール賞を受賞したように、ヘルタ・ミュラーの作品はスウェーデン・アカデミーの選考委員のお好みでありノーベル賞受賞に価する。
翻訳されているのが、本書一冊のみというのはとても残念である。

■こんなアーカイヴも
・クリスティアン・ムンジウ監督による『4ヶ月、3週と2日』
『善き人のためのソナタ』

『パリ・オペラ座のすべて』

2009-10-24 17:07:30 | Movie
154名の美しくも強靭なダンサーと彼らを支える1500人ものスタッフ。世界最高峰のひとつに数えられるバレエ団のひとつ、パリ・オペラ座。映画『王は踊る』でも描かれているように、当バレエ団は太陽王とも言われたフランスのルイ14世が情熱と権力を行使して膨大なお金をつぎこんで創立した350年の歴史を誇る世界最古のバレエ団でもある。その伝統あるパリ・オペラ座から全面協力をえて、84日間に及び密着撮影を行ったのが、”現代社会の観察者”として評価の高い米国のドキュメンタリー作家のフレデリック・ワイズマンである。

まだ朝の眠りからようやくさめたばかりのパリの空。その空の下には特徴のあるたまねぎのような丸い屋根があり、威厳に満ちたパリ・オペラ座がどっしりと構えている。映画では、このオペラ座の屋上からの眺めが何度もくりかえされて登場する。車の走る音が遠くに聞こえる屋上で、意外な生物による職業が成り立っているかと思うと、光の届かない地下にはまた驚く生き物が生息している。パリという街の奥の深さに興味津々なのだが、そんな小さな可愛らしい生物よりもはるかに圧倒されるのが、バレエダンサーという職業の美の化身のような生き物たちである。

エトワールというほんの一握りの選ばれたダンサーを頂点とした、厳密な階級社会のパリ・オペラ座。カメラは恵まれた容姿と才能という意味で幸運な彼らの厳しいレッスンと振付家による”日常”が次々と流れていく。汗をふき飛ばしながら、音楽とともに高く軽く舞いながら跳躍する彼らとは別に、静かに黙々と衣装を縫い小道具を整える職人たちの姿も芸術に奉仕していながら、それもひとつの”日常”のひとこまである。大口のスポンサーのためのオモテナシに知恵をしぼったり、資金運営に頭を悩ます事務局の面々、彼らは42歳定年の国家公務員であるダンサーたちに年金制度の説明もしなければならない。
舞台に登場する演目はジェニュス、くるみ割り人形、メディアの夢、パキータ、ロミオとジュリエット、ベルナルダの家、オルフェオとエウリディーチェ。古典からコンテンポラリーまで、練習風景からリハーサル、本番と芸術が創出されていく現場の熱気が伝わってくる。しかし、映画の視点は、芸術というほんのつかのまの非日常の時間と空間を生み出すための膨大な過ぎ去って流れていく”日常”の160分のコラージュにある。

巨匠と言われるフレデリック・ワイズマン監督は、『チチカット・フォーリーズ』『高校』『軍事演習』『州議会』等、これまで冷静な観察者として社会だけでなくアメリカという国も表現してきたと思う。92年に『アメリカン・バレエシアターの世界』も撮ってきた監督が好きなバレエの世界で、舞台をパリ・オペラ座に移した動機は「階級社会」だそうだ。確かに、舞台が終演した後に掃除をしている黒人や修理にせいをだす人々もいる。しかし、容姿が重要なバレエで黒人が古典の「白鳥の湖」でジークフリート王子やオデット姫を踊るには向かないのと同じように、容姿と才能がつまり階級を決めるのも当然であり、そこに「階級社会」をみてもそんなものかと感じるだけである。むしろ『エトワール』の方が映画としての魅力には富んでいたような印象もあるが、音楽も最後までいく前に無情にもきってしまう編集の冷徹さは、バレエ好きの女子うけねらいとは完全に違う路線をいっているからだろう。それにしても、私が鑑賞した11日の初回終演後には午後4時30分開演の分まで席は完売という大ヒット。160分と延々と乾いたドキュメンタリー映像が、そんなに一般に受けると思っていなかったのだが。

もっともワイズマン流といえば、ナレーションもなし、キャプション、インタビューもいっさいなし。ナレーションや解説で作家側の”意図”を親切にもすりこませる手法はいっさいとらないので、観る人それぞれが感じとればよいのだろう。私は、山岸凉子さんが「テレプシコーラ」の主人公、六花に期待したいのが振付家というのが、とても実感できる映画だった。これまでバレエといえば、古典オンリーだったがコンテンプラリーの魅力にはまりそうだ。

監督:フレデリック・ワイズマン
2009年フランス・アメリカ製作

ファツィオーリという世界最高のピアノ「パリ左岸のピアノ工房」番外編

2009-10-21 22:31:16 | Classic
T.E.カーハート氏のよる2001年出版「パリ左岸のピアノ工房」には、現代の世界のピアノ・メーカーのベストスリーの入るイタリアのピアノが登場する。
ヴェニスの北東、サチーレにある工場で製造されるその完璧に素晴らしいピアノの名前は、「ファツィオーリ」。創業者のパオロ・ファツィオーリは、代々オフィス家具を製造してきた一族の六男。パオロはペーザロで音楽学校のピアノ科を卒業し、何度かコンサートを開くもピアニストになることを断念して、ローマ大学で機械工学の学位を取得して家業の家具製造の仕事をはじめる。70年代後半から、好きな音楽と仕事を結びつけることをライフサークにして、これまでのピアノに不満をもっていたことからもっと優れた最高のピアノ創りをめざすようになる。彼は音響学、和声学、木工技術などピアノに関係のある専門家を説得して協力をあおいでチームを結成し、80年に最初の試作品を製造する。

全長1.83メートルの最初のグランド・ピアノには小さな問題こそあったが、ピアノが奏でる最初の音を聴いた時、彼は成功を確信した。
現在このメーカーでは、6種類のモデルのピアノがあるが、一台ごとに手作りのため年間の生産台数は60台に満たない。世界にでまわっているのは、1000台。作業所では工具などはすべて整理整頓されていてなにひとつ散らかっていない。最も貴重な会社の財産は、温度がコントロールされた部屋に収められている。ピアノのサウンドボードに使用されるヴァル・ディ・フィエンメ産の貴重なレッド・スプルース材である。パオロは鮮やかで透明感のある、安定した音、大音量でもゆがみのない音をピアノづくりにめざしたそうだ。ピアニストも工場に見学にくることも少しずつ増えてきた。彼は、熟練のピアニストが自分の楽器をどのように演奏するのかを間近で見るのが大好きである。そして、今では彼らが椅子に座って鍵盤を眺めるだけでどんなアプローチの仕方をするかさえも気がつき、まだ音をひとつもださないうちに多くのことがわかるようになった。

ファツィオーリは世界で最も高価なピアノで、ふつうの黒いコンサート・グランドでも10万ドルをはるかにこえる。高い!と思うが、ヴァイオリンに比べたらそうでもないか。都内で唯一(一般ホールでは4館目)、このファツィオーリの音を聴けるのは仙川アヴェニュー・ホールである。「ぶらあぼ」11月号に写真が掲載されているが、ペダルが4本整備されていて、シンプルなモダンさで洗練された非常に美しいピアノである。吸い込まれるのように鍵盤に手がいきそうな、まさしく芸術品である。2010年ショパン国際ピアノ・コンクールの公式ピアノにも起用が決定しているが、これは是非、聴き比べてみたいものである。

■本編
T.E.カーハート著「パリ左岸のピアノ工房」

「パリ左岸のピアノ工房」T.E.カーハート著

2009-10-20 22:36:21 | Book
チッカリング、クナーベ、メイソン・アンド・ハムリン、ステック・・・これはある楽器を製造していた米国のメーカーの名前である。これだけでその楽器がわかる方はかなりのマニアック。欧州では、ガヴォー、プレイエル、ザウター、シュティングル、エラール、ベヒシュタインというメーカーが存在していた。ここでぴんとくる方もなかなかのものだが、スタンウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハと聞いてピアノのことだと気がつくのがおおかたの人だろう。一般的にクラシック音楽好きの中でも、我々日本人になじんでいるピアノの殆どは、コンサート用のスタンウェイか多くの家庭や学校でおかれている(使用されている)ヤマハ製になる。これは欧米でもそんなに事情が変わらないようだが、現在は消滅してしまったレトロなメーカーが製造したピアノが、それぞれの貴重な個性を生かしながらパリにある小さな工房の職人によって生きかえり新しいピアニストととの次の出番を待っている。本書はひとりの”パリのアメリカ人”と、そして職人たちとの交流を通したピアノの物語である。

パリのカルチェララタンのほど近い小さな通りにその工房はあった。パリに移住してフリーのもの書きになったわたしは、ウィンドーに「デフォルジェ・ピアノー工具と部品」とだけ書かれたそのお店のドアを或る日ノックする。ピアノはないけれどこどもの頃に習っていたピアノにもう一度ふれたい。そんなほんの小さなきっかけは、店の若き職人のリュックとの交流からわたしの中に眠っていたピアノへの深い情熱と愛情をよびさまし、またどこかよそよそしかったパリの街と人々の魅力に気がつくことになった。だいぶ前に、ある俳優が「もしもピアノが弾けたなら」という歌を歌っていたことがある。庶民派おとうさんたちのちょっぴりせつないピアノへの憧れをこめられた恋の歌が人気をはくしたのは、ピアノという楽器におよそ縁のなさそうな雰囲気の歌手の方がピアノへの憧れをこめてせつせつと素朴に歌ったのが中年世代のお父さんたちの胸をきゅんとさせたのではないだろうか。私はあらゆる楽器の中で最も美しくまた個性にあふれているのはヴァイオリンだと考える者だが、楽器の女王といえばやはりピアノにその座を譲るしかないだろう。音量、サイズというグラマラスな迫力もあるが、一台のオーケストラと言われる豊かさは他の楽器を圧倒していることは認めざるをえない。前述したように、スタンウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ程度しか製造会社名を知らない者にとっては、確かに多少の音色、音の繊細さや質感に違いはあってもヴァイオリンほどの個性の違いはピアノにはないとそれほどこれまで興味もわかなかったのだが、それは全くとんでもない早計というもの。一台一台手づくりの100年以上、ストラディバリウスなどでは200年以上もの歳月を経たヴァイオリンの比類なき優美なラインに負けずに、大屋根の曲線は艶かしく、閉じている時は繊細でありながら贅沢、開くと金色と赤いフェルトと銀色の弦の宝石箱が現われ、機械的なものと官能的!なものが見事に融合された楽器がピアノである。

読者もリュックと”わたし”の会話を通してピアノの魅力に導かれていく。やがて待ちに待ったわたしのピアノが部屋にやってくる。部屋の主となったシュティングルのベビー・グランドから生まれる音は非常に豊かで柔らかく、逞しさと繊細さがひとつになっている。魅力的でこの世に一台しかないピアノ。わたしにとって、もはやピアノのない人生は考えられず、音楽のない人生もありえなかった。ピアノという楽器そのものが、弾き手その人、所有者の人生を彩どる大切な伴侶となっていく。職人のリュックだけでなく、ピアノ教師のアンナ、調律師のジョス、作業着を着たとんでもなくピアノのうまい老人たちなどピアノにまつわり人々の奏でる立体的な音の響きを通して、ピアノという楽器の豊かさや奥の深さが語られ、本書との出会いそのものが自分自身の心を豊かに満たしてくれる。

最後まで読んで、なんとよくできた小説だろうと余韻にひたっていたら、本書はノンフィクションだったのだ。つまり、本来はエッセイ、ノンフィクションとして書かれるわたしのピアノにまつわる話を、冬から翌年の春にかけてパリの季節の移り変わりと音楽への情熱の進行を小説のように書いたのだ。学術的でも専門的でもなく、ピアニストでもない市井のわたしが、パリの町にとけこむと同時に静かにピアノとの暮らしを深めていく情景がこの手法に成功している。ところで、本書を読み始めてまもなく、この楽しいピアノの世界の物語に最もふさわしい読者は、と考えたらcalafさまだった。友人からいただいて少々黄ばんでいる古い本(04年発行)だが、ご迷惑でなければ近いうちにcalafさまにさしあげたいとも思っている。。。

『あなたは私の婿になる(原題:THE PROPOSAL)』

2009-10-18 11:21:34 | Movie
40歳になるマーガレット・テイト(サンドラ・ブロック)は、ニューヨークにある大手出版社の編集長を務めるカナダからの移民の成功者。彼女の地位にふさわしくとびきり優秀でやり手だが、これまで仕事ひとすじに邁進してきた日本では典型的なアラフォー世代と言われる独身女性。鼻っ柱と上昇志向の強さは、ヘアスタイル、化粧から黒いセンスのよいスーツまで完璧に装った彼女がはくマロノ・ブラニクのハイヒールの高さによく現われている。(余計なことだが、こんなに高いハイヒールをきれいにはくにはそれなりの”デカ足”がなければ決まらない。いかにも足の大きそうなサンドラ・ブロックをちょっと微笑ましく感じる。)彼女を恐れる部下たちからついたあだ名は、名誉ある”魔女”。
ところが、万事すきのない彼女が迎えたのが、ビザの更新手続きを怠ったために国外へ強制送還されるはめになりそうだという人生一大事の大ピンチ!窮余の策で思いついたのが、なんとこれまでさんざんあごでこき使ってきた12歳年下のアシスタント君のアンドリュー・パクストン(ライアン・レイノルズ)との偽装結婚。彼を狡猾にも脅すパワハラを発動して、なんとか永住権を取得し難を逃れようとする彼女は、入国管理局の追及を免れるための証拠固めに2人でアンドリューの出身地はるかアラスカ州はシトカへ結婚の報告に行くのだったが・・・。(以下、内容にふれておりまする。)

この手のラブコメに、意外な展開や予想外の結末なんぞ誰も期待しない。誰もがハッピーになれるお約束にたどり着くまでの紆余曲折の笑いどころと、最終コーナーで胸キュンのプチ感動ものを用意されていなければ映画として成功しない。いくら草食系男子とはいえ、憎い上司のパワハラにねじふせられて偽装結婚を承諾するのは不自然だと思っていたのだが、そこはアンドリュー君にとっても自分の夢を叶えるステップを用意するという利害関係の一致をひきだして、その後のストーリー展開もよくできていると感心する。マーガレットがアンドリューのことを何ひとつ知らないのは、仕事ひとすじで部下への無関心への現われであり、それが彼女の孤独な生活をも想像させる。一方、アンディは誰からも好かれそうな人畜無害なイケ面の好青年。そんな彼はマーガレットのことをよく知っていたのは、秘書役としてこれまで一生懸命仕事をこなしてきた意外と骨のある奴というポイントが、自分のフィールドであるシトカでは断然優位になってくる。エルメスのバッグを片手にヴィトンの旅行カバンを引きづりながらハイヒールでよたよたと船に乗り込むマーガレットの姿が滑稽である。従来の男女観の逆転の発想が笑いのツボであるが、フィールドの変更に伴う上司と部下の優位性の逆転という仕掛けの趣向もこらしている。偽装結婚という嘘からはじまった物語の結末は、安易なハッピーエンドともちょっと違ったひねりもあり、同じく嘘からはじまるラブコメの『お買もの中毒な私!』に比べてその後味はよい。

特別な美人ではないが、サンドラ・ブロックは男性からも女性からも人気が高い女優だそうだが、部下から魔女と恐れられつつ憎まれているように見えるが、誰もが認めざるをえない優秀な編集者であり、実は嫌いになれない魅力的な人物像を好演している。確かにメグ・ライアンに継ぐ”ラブコメの女王”という評価にふさわしい。実生活でもスカーレット・ヨハンセンとの格差婚を実行中というライアン・レイノルズが、ただ若い体とルックスだけの男のイメージに見事にはまっている。アンドリューの両親や可愛いおばあちゃん、ふたりを追及するまるで旧共産圏のKGBのような入国管理局の陰気な調査員、おっと忘れてはいけないシトカ唯一のストリッパーまでキャスティングがきちんとはまっているのも、全米で3,362万ドル(33億6,200万円)の興行収入を記録してナンバーワン映画に輝いた秘訣だろう。

厚生労働省によると初婚夫婦の4組に1組が年上妻だそうだ。女性の社会進出に伴い、旧来の夫に尽くす内助の功的な可愛い妻よりも、頼れる人生のパートナー的奥さんへの結婚観の変遷が年上妻歓迎(?)の結果だろうか。最後のサンドラ・ブロックの言葉には、女性としてもけっこうどきっとさせられた。傷ついた心を癒すのは何も家族の存在だけでなく、ひとりになることだ、、、ということもある。既成の価値観にとらわれがちな日本の社会では、結婚するにせよ、未婚・非婚を通すにせよ女性はなかなか生きにくいものだ。土曜日の初回で館内は空席だらけだったが、予想よりもずっと楽しく笑えるこの映画は、肩こりにお悩みの方にはとってもお薦め。私にとっては前ラブコメの女王のメグ・ライアンが路線変更して以来のイチオシのラブコメ。林を走るバーチャルな映像を眺めながら、早朝、自室で自転車をこいでカラダを鍛えるよりも、本物の自然の中でのんびり自転車を乗る方がはるかに肩こりには効くと思うよ。

監督:アン・フレッチャー

■アーカイブ
『幸せになるための27のドレス』

「ヒューマン ボディ ショップ」A・キンブレル著

2009-10-15 23:18:04 | Book
「11歳のM君は、サッカーが大好きな少年。将来の夢としてプロのサッカー選手になった自分を想像することもあるが、その前に『ぼくはあれが大嫌い』とはっきり言う。
”あれ”って何?
M君の身長は123センチで体重は22キロ。平均身長よりも1.3センチも(!?)低いことを気にした両親の決断は、毎週日曜日にヒト成長ホルモンの注射を息子に打つことだった。注射はこれまで6年間続けたが、あと4年は続けなければならない。一旦成長ホルモンの注射を打ち始めると、余分な成長ホルモンの投与によって思春期に自分自身で自然なホルモンをつくる機能が一時的に停止されるために、合計10年間は投与を続けなければ逆に成長が遅滞する可能性があるからだ。注射の負担金は15万ドルを超えるが、銀行の副頭取であるパパは『どんな方法であれ、最高の治療法を子どもに施してこしてやりたい』そうだ。競争は早いうちからはじまるから」

育ち盛りの息子の身長が、平均よりもたったの1.3センチ低いだけで、副作用のある成長ホルモンの注射を10年間も投与するだろうか。問題はいくつもある。こども自身にはなんの情報も与えられず投与(強制)されていることや、逆に自分は身長が低いというコンプレックスをもたらす可能性があり心理的にはむしろ有害、高額な薬代にも関わらず効果は実は不明、しかも白血病の発病率の上昇などの副作用の危険性すらある。だったら、病気で脳下垂体に異常がないのであれば、大事な我が子にこんな薬を10年間も投与することは考えにくいのが日本人の発想。しかし、これは米国では事実であり、この薬の市場は2億ドルをこえる。1991年、ジェネンテック社では成長ホルモン製剤を1億8500万ドル売上、3年間で60%以上も売上増加のドル箱である。製薬カイシャの主張によると身長の下位3%にあたるこどもには”治療”が必要であり、これは100億ドルの市場に相当する。しかも、データーをとれば常に下位3%のこどもは永遠にいるわけで、無限に成長ホルモンが売られていく。単に身長が多少平均よりも低いことは病気なのだろうか。私にはそう考えられない。高名な指揮者の方の中には小柄な方もけっこういるが、身長と指揮者としての才能は全く関係ないし、小柄なスポーツ選手もいる。かってのナチスが行った政治的、人種的な優生学とは異なる”商業的”優生学がひそかにひろがっているとも考えられる。やがてM君のご両親のような発想はよりパーフェクトな赤ちゃん、遺伝子操作をしたデザイン・ベビーへと希望と欲望が肥大していくことだろう。こどもの幸福よりも自分の充実感や満足のために。

本書は、弁護士の資格をもつ米国の著者アンドリュー・キンブレル氏による人間のからだの一部、血、臓器、精子、卵子、胎児、細胞、遺伝子が商品化されて「部品」として売買されている現実、そして生命操作のダークサイドの驚愕すべきレポートである。M君の例などほんの一例。作家の五木寛之氏は若く貧しかった頃、売血をして飢えをしのいだそうだが、現在でも95%は買い上げた血液で血液製剤を売る営利目的の血液企業は米国だけでも400社以上にものぼり、輸出にまわされた余剰分の市場は20億ドルにも達する。日本でも米国製の輸入血液製剤にはだいぶお世話になっているはずである。30年ほど前、RHマイナスのAB型の血液をもっている夫人は、売血によって年間7000ドル以上の収入をえていた。ちょっとしたバイトの感覚の彼女は売血のための交通費や食事などを必要経費として税金の控除を訴えたら、法的には彼女のボディは生産物である血液の”工場”であり、採血のために生産物を売りに行く”貨物”となったのだった。

1980年代、ロサンゼルス・タイムズなどの新聞に「ひとつ5万ドルで移植用の目を売ります」という広告が掲載された。しかし、これは特殊な例ではなかった。その後、臓器売買の商業化の試みもあり、アルバート・ゴア氏が中心となり移植用の臓器売買を禁止するアメリカ臓器移植法(NOTA)が通過した。しかし、何万もの臓器が世界中で売買されているのは、誰もが気づいている。エジプトでは臓器1万5千ドル、インドでは生きた提供者からの腎臓は1500ドル、角膜は4000ドル、皮膚一切れ50ドルが相場である。パキスタンでは、最高4300ドルの買値で”求腎”広告を出すことが許されている。本来の臓器提供の崇高な精神とモラルとは異なり、経済的に困窮している人々を利用した臓器を部品として商品化した臓器売買の市場はひろがっている。中絶した胎児すら売上に大きく貢献している。臓器を売ることが人をおとしめることは自明の理である。しかし、生命科学の進歩が市場原理と商品化の力によって人工的な進化を我々にもたらした。このような本来素晴らしいはずの生命科学の技術は、いつのまにか我々自身の生命観すらも変えようとしている。人体の商品化は、果たして著者の示すように経済的生物としての最後の到達点になるのだろうか。

大野和基氏の著書「代理出産」でこの本を知り読んだのだが、豊富な事例と裁判などのレポートもあり哲学的にも非常に内容が濃い。出版されたのが15年ほど前なので、ES細胞やips細胞の記述がないのが残念だが、臓器売買のルーツをアダム・スミスの市場原理のイデオロギーから、また産業革命によって労働が商品化された経緯からも解説されているのが興味深い。訳者は真理をほりさげた巧みな文章で私がほれているあの福岡伸一氏である。
私が書店員だったら、お薦め度は★★★★★!

■アーカイブ
「代理出産 生殖ビジネスと命の尊厳」

ウィーン・ヴィルトゥオーゼン

2009-10-12 21:53:33 | Classic
ウィーンが呼んでいる。されど、音楽の都は遠し。今年もやってきたウィーン・フィル、、、なのにチケットとれず。
という私のような自由な時間も運もない者をなぐさめてくれるようなのが「ウィーン・ヴィルトゥオーゼン」のコンサートである。秋から冬にかけて、なんでもかんでも○○ウィーンだの、ウィーン××の文字がチラシで躍る東京。はてはて、だったらウィーン・ヴィルトゥオーゼンとはなにものぞと調べれば、ウィーン国立歌劇団&ウィーン・フィルの首席クラリネット奏者エルンスト・オッテンザマーが創立したのだが、弦楽四重奏とコントラバスに木管五重奏を加えた構成を原型に、レパートリーによってはアンサンブルにフレキシブルな編成をこころみるのがコンセプト。ひと言で言ったら、”こじんまり”。

だって、あのモーツァルトの交響曲第29番を弦楽器5人と管楽器4人のたった!合計9名で演奏しようとするのだから。着メロではないぞ。しかし、ある意味では演奏者にとっては通常のオケで弾く(吹く)よりも難しい。ひとりひとりがソロとして優れた演奏をしないと、全くさえない演奏となってしまうからだ。オケの迫力こそ足りなかったのはいたしかたがないが、音の美しさは本当に評判どおり。演奏の華やかさを意識してよく練られた構成と、アンサンブルの精緻さ。”こじんまり”も、その一粒一粒がカラヤンの言う「音の宝石箱」たるサントリーホールにふさわしい宝石の輝きを放っている。さすがに、ウィーン・フィルのメンバーを集めただけはある。コンサートマスターのフォルクハルト・シュトイデが奏でるストラディバリウスの音も美しく優雅である。
ただこの曲は4楽章あるのに楽章ごとに拍手がわくのも、さすがにいかがと懸念していたが、「リゴレット・ファンタジー」では演奏途中の拍手にクラリネット奏者のエルンスト・オッテンザマー氏から「スミマセン。チョットマッテクダサイ」との声がかかり、場内は軽い笑いに包まれた。

出色はフルート奏者のウォルター・アウアーがソロで演奏した「カルメン・ファンタジー」である。軽めの音質のフルートにも関わらず、カルメンの情念とドラマチックさをよく表現している。この方はとても巧いと思ったら、首席も務めながらソリストや室内楽奏者としてもご活躍されているとのこと。後半は、アンコール曲も含めてウィーンらしい音楽で盛り上がる。遠目にも燕尾服に白い蝶ネクタイとカマーベルトがりっぱな体格にはえる。この音がもっと豊かになったウィーン・フィルを想像すると、やはり世界最高峰のウィーン・フィルになるか・・・。

-------- 10月12日 サントリーホール ---------------

ウィーン・ヴィルトゥオーゼン

モーツァルト:フルートと管弦楽のためのアンダンテ ハ長調k.315
モーツァルト:交響曲第29番 イ長調 k.201
R・シュトラウス/ハーゼネール編:もうひとりのティル・オイレンシュピーゲル
 (交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」より)
ビゼー/プルヌ編:カルメン・ファンタジー
ヴェルディ/バッシ編:リゴレット・ファンタジー
R・シュトラウス:ばらの騎士ワルツ
J・シュトラウス2世:アンネン・プルカ
J・シュトラウス2世:ウィーン気質

■アンコール
ハンガリー舞曲第1番
トレッチ・トラッチ・ポルカ

ハノーバー国際バイオリン・コンクール:三浦文彰さん優勝

2009-10-10 22:19:50 | Classic
ドイツのハノーバー国際バイオリン・コンクールの本選が現地時間8、9の両日、ハノーバー市で行われ、日本の三浦文彰(ふみあき)さん(16)が優勝した。
三浦さんは東京都出身。全日本学生音楽コンクール小学校の部2位、メニューイン国際バイオリン・コンクール・ジュニア部門2位など、早くから頭角を現し見事なテクニックと個性豊かな音楽性が注目されていた。桐朋女子高音楽科(共学)を経て現在、ウィーン私立音大に留学中。11月21、22日に東京・サントリーホールで開かれる日本のバイオリンの俊英を集めたコンサート「ヴァイオリン・フェスタ・トウキョウ」(辰巳明子音楽監督、毎日新聞社後援)に出演することが決まっており、それが凱旋(がいせん)公演になる。
ハノーバー国際バイオリン・コンクールはヨーロッパ音楽界の登竜門の一つとして知られる。
(10月10日毎日新聞)

**********************************************

夕方7時のNHKニュースの報道で知ったのだが、あの徳永次男氏が「彼は世界的なヴァイオリニストになる才能がある」とまで言い切っちゃっていたので、もしやと思ったらやはり東京フィルのコンサートマスターの三浦章広氏のご子息だった。8年ほど前だろうか、三浦章広氏のリサイタルがカザルスホールで開かれた時に見かけた時は小学校の低学年だったが、当時からヴァイオリンがとてもとても巧いという評判だった。11歳でリサイタル!ここのところ、女子におされ気味のヴァイオリンで久々の男子健闘の報だった。

三浦文彰さんのプロフィールより↓

東京都出身。両親ともにヴァイオリニストの音楽一家に生まれ、
3歳よりヴァイオリンを始め安田廣務氏に師事。6歳から徳永二男氏に師事。2003年、04年と全日本学生音楽コンクール東京大会小学校の部第2位。06年4月、ユーディ・メニューイン国際ヴァイオリンコンクール、ジュニア部門第2位。11歳で初のリサイタルを行う。これまでに東京交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団、
札幌交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団などと共演。
また、これまでにザハール・ブロン氏、ジャン=ジャック・カントロフ氏、チョーリャン・リン氏、パヴェル・ヴェルニコフ氏に師事。07年12月、ミュージック・アカデミーinみやざきにて最優秀賞を受賞する。
現在、徳永二男氏、パヴェル・ヴェルニコフ氏に師事。

台風18号:首都圏の通勤ラッシュ直撃

2009-10-08 22:46:35 | Nonsense
台風18号は8日の通勤ラッシュを直撃し、交通機関も大幅に乱れた。
JR東日本は、東海道線東京-熱海間のほか、山手線、総武線(東京-千葉)、中央線(東京-高尾)、京浜東北・根岸線(大宮-大船)で運転を見合わせるなど、首都圏で少なくとも25線区で運休するなどの影響が出た。湘南新宿ラインは終日運休を決めた。

首都圏の地下鉄でも、地上を走る東京メトロ東西線の東陽町-西船橋間が強風のため、午前7時20分過ぎから運転を見合わせた。各線が快速運転や私鉄への乗り入れを中止。東京都江戸川区の会社員(25)は出勤途中の東西線葛西駅で「8時から2時間以上待っている。晴れ間も見えるので再開してほしい」と困惑した様子だった。
(毎日新聞)

********************************************************

全く長い旅だった。

ニュースでいつも利用している通勤列車が50%の稼動を知り、青空がのぞきはじめた7時頃に自宅を出て、地元の駅から電車に乗り込む。予想外に順調、しかもすいていてこの分なら8時には出社できそう、、、と「ヒューマン ボディ ショップ」を読み始めたら、とある駅で突然、強風のために運休。「風がやむまで動きません!」ときっぱり駅員さんのアナウンスが繰り返し聞こえてくる。(ちょうど読んでいた部分は次の内容である。1976年に米国の中流家庭のグリーン夫人がAB型のRhマイナスという珍しい血液を売ってえた年間7000ドル以上の報酬に対して、売血している会社への交通費、医療保険代を必要経費として税金から控除すべきだと国税庁を相手に訴えた結果、審判所は彼女は事実上生産物である血液の「工場」であり、かつ「貨物車」であると、食事代も商品製造のための経費と認めた。)

ただのB型女の私の血液はグリーン夫人のような商品価値はないが、資本主義社会の中ではこのか弱き?肉体と頭脳はわずかな賃金をえるための商品であり、私はその大切な「商品」をカイシャに移送するための「貨物列車」でもある。ちと、高級車とは言いにくいが。。。こんな交通網が大混乱のさなかに、一番出社できそうにない最も遠方の無人駅!!からやってくる女性が、一番のりで早朝出勤していたそうだ。多分、始発電車に乗ってきているのだろう。格別、重要な会議がわるわけでもなく、管理職でもないのに。私がいつもかなわないと思っているのが、このKさんである。どんなに大変な時も感情的になることもなく、シュレッターの紙が一杯になると、私なんぞ無理やり押し込んでしまったりするのに、彼女は8時半に私が出勤した時にはもうひと仕事をして袋を入換え掃除までしていたりする。成果がめだつ仕事は自分をアピールするためにこなすが、雑務や誰でもできる雑用はしらん顔をする人もけっこういる。気立てもよくて、話しも楽しく、見た目もなかなかよい。私のとってもお気に入りの女性である。

ところで思い出したのが、我が高校の個性溢れる教師たち。ストがあろうと、台風があろうと、誰も休まず遅れず授業開始のベルとともに教壇にたっていたあの方たちのことだ。電車が止まっているのに、なんでいるんだーーーっ!休講をあてこんで、のんびり登校してきた私はたまげた。仕事に対する気構えが違うのである。どんな仕事であろうと、責任と真摯な取組みは苦労が伴ったとしても自分自身の価値をあげると思う。たとえ誰からも評価されなくとも、ついでに昇給や賞与に反映しなくても!(←多少、やけ気味な声)結局、苦難の旅路の果てにたどりついたのは、なんと11時半。およそ4時半近い長い旅だったのだが、もっと早く家を出ればよかったと後悔した。台風で出社が遅れるのは仕方がない、誰もがそう思うだろう。でも、もう少し早く家を出ればまにあっていたのに。だからこんな私は、Kさんには当分かなわないと感じている。