千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう

2010-09-27 22:17:21 | Nonsense
あの門外不出のハーバード白熱教室がやってきた!
8月25日に東大生(300名程度)と抽選で当たった一般の番組視聴者あわせて1000名程度の受講者らの白熱した議論がかわされた。その模様が「ハーバード白熱教室@東京大学 日本で正義の話をしよう」というタイトルで、ETV特集で放映された。

「イチローの年俸は日本の教師の平均所得の400倍、オバマ大統領の42倍。これは公正か?」
「東大入試の合格点のギリギリで達しない生徒の両親が、大学の5000万ドルの寄附を申し出た。このお金があれば大学は新しい図書館も建てられる。入学させるべきか?」
「殺人容疑をかけられている兄弟をかくまうことは兄弟として正しい行いか?」
「オバマ大統領は広島・長崎への原爆投下に責任があるか?」

開始を待っている満員の受講生の前に颯爽と登場したサンデル教授。日本の友人から、日本人は積極的に議論をしないのでこれまでのハーバード流の講義は難しいかも、と事前に忠告されていたせいであろうか、その表情にはちょっと緊張気味の様子が伺われた。また安田講堂内部が、実際にハーバード白熱教室が行われている教室によく似ていることから、まるでハーバードのような錯覚すら覚える。
次々とマイケル・サンデル教授から難問がふりかかる。ある学生がサンデル教授から究極の選択問題を問い詰められて、「それは難しい」と思わず本音をもらしてしまったら、すかさず「だから聞いているんだよ」と苦笑いをされてしまった。確かにどの問題もそんなに即答できないくらい難しいのだが、教授の質問に大多数の人が果敢に挙手をしている姿には、実に驚いた。ちょっとまずいこと言っちゃったり、幼いことを言っちゃったりしても顔つきでテレビで放映される可能性があるんだよ、いいのか、大胆にもはりきって手を挙げちゃったりして、そんなテレビを観ている側のはらはらどきどきは、むしろ失礼なくらい、彼らは真剣に堂々と議論をしていた。やるじゃん!!日本人はシャイなんていう言い訳は、この場では通用しない勢いだった。

番組のはじめにある青年が、僕たちは新しい日本人だと流暢に英語で語っていたが、確かに横並びの旧世代とはあきらかに違う。相手が難関の東京大学の学生ということで、理論的に思考する訓練に慣れているという事情もあるかもしれない。しかし、回答に迷っている様子はあったが、周囲の様子を伺ってから自分の立場を決めようなんて人はひとりもいなかったようだ。私の勤務先でも番組を視聴して講義の評価は上々、刺激に満ちていておもしろかったとのこと。(アロハ・シャツを着たアキラさんは、ママたちの間ではなかなか好かれていたようだ。)ところで、みんなが一様に関心をもったのが、彼らの英語力。東大の入試を突破できる能力があるのだから、英語で文章を書くことには苦はないだろうが、発音が流暢で英会話に慣れていると思われる方がけっこういたということだ。彼らは帰国子女か。今の時代、帰国子女は全く珍しくないのだが、なかでも東大は帰国子女率が高いのかもしれない。

最後の教授の若い人へのメッセージを聞いて、大事なことは教育、人を育てる講義だということも感じた。講義に参加した青年が、教授をオーケストラの指揮者のようだと感想を述べていたが、全体を統率してリーダーシップを発揮、確かに素晴らしい講義であることを実感した。ダークスーツにきれいなブルーのシャツのダンディさも、好感度大。

■アーカイブ
・著書「これからの「正義」の話をしよう」
「白熱教室」課外授業

年収650万円が一番ハッピーか?

2010-09-25 19:19:38 | Nonsense
先日、ヒルトンホテル創業者一族のご令嬢、パリス・ヒルトンさんが日本にやってきた、、、と思ったら、米国でコカイン所持により禁固1年、執行猶予1年の判決を受けたことために、出入国管理及び難民認定法の触れることから、早々に入国希望をとりさげてにこやかにチャーター機で去っていった。お騒がせセレブの面目躍如のご活躍ぶりだが、彼女を見ていると若くして有名であることの不幸と、とてつもないお金持ちの不運を感じる。かわいそうな人、それがこの女性を見るといつも感じる私の感想。

閑話休題。
先ごろ、02年ノーベル経済学賞を受賞した米プリンストン大学のダニエル・カールマンによる年収と幸福感の調査結果が発表された。カールマン教授は、経済や市場は人の感情で動くというプロスペクト理論で評価された。(この理論については、友野典男氏の「行動経済学」がわかりやすくおもしろい。)以前から、ある一定の所得水準を超えると、人はお金よりも健康、人間関係や仕事へのおもしろさの方が大切になるという説があったが、今般の調査によって、人の満足感は世帯年収に比例して高まるが、その「幸福感」も年収75000ドル(約650万円)で頭打ちになるという。このラインってアメリカではどの程度かというと、世帯平均年収が約610万円なので、まさにほどほどの中流。高収入の人はそれなりに仕事へのストレスを抱え、長時間の拘束と仕事に捧げた人生と引き換えにお金をえているのだから、割りに合わないかもというのが理由。日本では、仕事に時間をとられ、ハードワークだけれどワーキングプアーって労働者も多いのだけれど。。。

某日刊誌によると、同じような調査を阪大の筒井義郎教授らがすでに6年前に行っており、年収1500万円までは幸福感が比例するが、1700万円では逆に低下するという結果がでたそうだ。この日刊誌では、カールマン教授の調査結果から、大多数の読者層向けに年収650万円だったら、何とかなると励ましている。08年、総務省家計調査の標準世帯(妻専業主婦、こどもふたり)の年収平均が638万円。だから、何とかなるさ、、、?で、幸福か?

この調査で判明したのが、収入が増えても満足感は頭打ちになる。戦争もない、飢えもないと思えるこの時代に、年収のラインに幸福感と満足感がず~~~っと比例するとは誰も考えてはいないだろう。「幸せはお金では買えない」のは当たり前だ。中堅サラリーマンは自信をもとうと励ますのはよいが、「年収650万円が一番幸せ」と決め付けていいのかっ、というのが私の素朴な疑問。先日、二度目のドイツに駆け足旅行をして、ドイツ関連の本を読み、しみじみ考えたのは、この国での幸福感と日本の満足感では微妙に色合いが違う。静かで落ち着いて文化や暮らしに充実を求める国と、デパートのトイレに入るとロックの音楽が鳴り、テレビをつけると見たことのない醜い人がタレントとして跋扈している消費社会の日本。どちらの国がよいという比較ではなく、年収300~500万円で精神的に豊かな生活を送れるのは、やはりドイツであろう。300万円で自分の心はリッチだという反論もあるだろうが、私にとってはちょっと難しいと思える。ドイツでは、そんなに高収入ではなくても、家族で長期間の旅行を楽しめ、良質な音楽を聴き、文化に接して、ハイキングやスポーツに興じることもできる。かかる学費が日本とは違うというのが大きいが。

それでは、年収1500万円だったら?それだけ年収があったら、もしかしたら日本の方が暮らしやすいかもしれない。日本は世界に冠たる美食の国。フレンチ、イタリアン、チャイナ、インド、韓国と世界各国の美味しい食事を高額と言っても常識の範囲内で味わうことができる。軽井沢に別荘は無理でも、たとえ7日間程度だって、日本を脱出して毎年家族で外国旅行に行くのも決して珍しくない。サービスは一流。医学も進歩しているし、最近のマンション生活は実に便利で快適らしい。ウィーンフィルだって、毎回聴きに行けちゃう。ここまでの年収があったら、日本の方がよい。逆に考えれば、米国では年収650万円がラインだが、やはり日本では別の意味での国としての貧困さと相殺して筒井教授が提示したもっと高額の1500万円程度が満足感のピークにくるのではないだろうか。
つらつらだらだら、初秋の昼下がりにこんなくだらないことを考えたのだが、同じ年収だっら有閑マダムさまが住んでらっしゃるカルフォルニアの方がもっとよいかもーーーっ。

『THE WEVE ウェイヴ』

2010-09-23 09:50:11 | Movie
本作は、1969年、米国のカルフォルニアの高校で実際起こった実話を基にしている。原作は、新樹社から刊行されているノンフィクション小説だが、現在でも多くのドイツの学校では教材として読むように薦められているそうだ。私は未読なのだが、もし映画化される前に本書を知っていたら、きっと本の方も読んでいたと思う。実話と作品としての映画にどれだけ違いがあるのか、どこまでが実際に起こった事実なのか、ある程度脚色された内容なのか詳細は不明なのだが、全体主義の恐怖と人間の心理の謎と恐ろしさを映画を鑑賞して感じるにつれ、今でも怪物ヒトラーを生んだドイツでは、長年、原作を教材としての価値を認めていることの理由がわかる。(以下、内容にふみこんでおりまする。)

「独裁政治は再び復活するか」

他国ならともかく、このドイツで独裁政治が復活するなんてありえない!
ドイツの高校でのある日の授業での教師と生徒との会話である。ライナーは短大卒の体育教師。スーツを着て知的な同僚とは毛色が違い、スキンヘッドにTシャツとちょっと浮いた存在だが、水球部のコーチも務める熱心な教師。そんな彼が、実習の授業で担当することになったのが、”独裁制”だった。準備万端、用意周到に最初の授業にいどむライナーだったが、生徒の誰もが、ヒトラーを生んだおかげでさんざん独裁政治の悪を学んできたこの国で、独裁政治の復活はありえないとしらける。やる気のない生徒を挑発するかのように、独裁制とは何かを学ぶことを実施する提案をする。

独裁制とはなにか。

独裁制とは、ひとりの個人、もしくはグループが大衆を支配下におくことである。
そのためには、次の規律を決めることになった。

1.リーダーの名前には”様”をつける
2.許可なく発言してはいけない。発言する場合は挙手をして許可をえること
3.仲間は互いに助け合うこと
4.制服として白いシャツにGパンを着用すること

上記のルールを毎日ひとつづつ決めて、全員で実行することになったのだが、ライナーの予想をこえて集団は力をもち制御不能となっていった。。。

映画のはじまりでは、ドイツの現代っ子の高校生活がさり気なく映し出される。複雑な家庭のこども、カツアゲをされる者にまきあげる輩あり、移民の子、家族や友人からの疎外感を感じている孤独な青年やドラッグで享楽的に生きる生徒と、思春期の不安定さだけではなく、よるべなくただよう不安定なこどもたちの姿がうかぶ。漠たる不安を抱えている人間は、帰属意識が高い。日本の非行に走る少年が、やがて反社会的集団にとりこまれていく過程を考えると同じ現象かもしれない。わかりやすく同じ白いシャツを着て「ウェイヴ」と名づけられた集団に所属することで、生徒たちに規律が勤勉さをもたらし、団結力が友人への思いやりをうむ良い面がはじめはでてくる。しかし、心のより所と安堵感を得た者は、その忠誠心と団結心がやがて異なる者を排除していくことに向かっていく。

ここで思い出したのが、「天声人語」での深代惇郎の言葉である。「この男が、ヨーロッパ大陸を征服するまでの過程は戦慄に満ちたものだ。彼(ヒトラー)はだれよりも歴史を作ったが、また、歴史によって作られた人間でもあった。滅亡への道を歩んでいると考えるヨーロッパの恐怖心が、憎悪と復讐をかかげた「ヒトラー」という狂気を生み出したのかも知れない」当時のヨーロッパの恐怖心がヒトラーを生んだように、生徒たちの心に抱える不安や不幸が、ベンガー様と呼ばれるライナーとは別の存在を祭り上げていく。かってのオウム真理教の暴走をみると、教祖というリーダーの支配下におかれた孤立した集団の中では、個人の知性や理性が正しい道への制御機能として働かなかった恐怖を思い出した。同じような実際に行われた心理実験をドイツで映画になった『es[エス]』は、閉鎖的な刑務所という特殊な状況にあったが、あらかじめ決められたルールに従って”囚人”役と”看守”役という役割を与えられることによって、人格が支配される過程に衝撃を受けた方は多いだろう。人格が状況次第で簡単に変質しうることから、人間心理に不快感を味わったように、本作からは人間の危うさを学ぶ。ドイツでは2008年度国内興行成績1位になったのも、どこにでもいるような高校生がたったの5日間で集団の狂気にのみこまれていく過程に、ドイツ国民に訴える力があり、それはまた、ドイツというお国の事情と片付けられない部分もある。

ここで、再び独裁政治は復活するのか。オウム真理教は復活するのか。
この映画を観てしまうと、簡単にありえないと一笑に付すことができなくなる。だから、原作が今でもテキストとして使用されているように、私たちも25年も前のヴァイツゼッカー大統領による終戦40周年記念講演の「荒れ野の40年」を忘れてはならない。

監督・脚本:デニス・ガンゼル
2008年ドイツ映画

「荒れ野の40年」ヴァイツゼッカー大統領終戦40周年記念演説

2010-09-20 11:08:02 | Book
先日、来日したマイケル・サンデル教授の「ハーバード白熱教室」が、9月26日(日)22時より「ハーバード白熱教室@東京大学」として放映されるそうだ。
これは観逃してはいけないと思っちゃっているのだが、私としては一番関心があるお題は、、、

「オバマ大統領は広島・長崎の原爆投下について謝罪すべきか?」

私の回答はYES!歴史的な背景やら倫理からこの回答の理由を述べたらとてつもなく長くなるのだが、マイケル教授の教室ではそれよりも政治哲学上の考え方を学ぶべきだと思う。立場を逆にして、我々は生まれる前の先人達の過去について謝罪すべきだろうか。歴史を繰り返さないためにも、忘れてはいけない。
さて、今から25年前の1985年5月8日、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が敗戦40周年にあたるこの日、ドイツ連邦議会で演説を行った。

「ご臨席の皆さん、そして同胞の皆さん」
ではじまるドイツ終戦40周年記念演説のために、ヴァイツゼッカー大統領は各階各層の人々と会話を続け、数ヶ月に渡る準備のうえ推敲を重ね、心からの和解を求めて歴史を直視しようと語った。画像は発行された当時の岩波ブックレットNo.55だが、私が読んだのは、新版の767。版を重ねるくらいの名演説として名高いのが「荒れ野の40年」である。それはまた、時代が過ぎて、世代が変わっても、演説に、今後も読み続けられるべく多くの示唆を私たちが感じていることを示している。

1920年に生まれたリヒャルト・カール・フォン・ヴァイツゼッカー(Richard Karl Freiherr von Weizsäcker)は、指揮者のカラヤンと同じ「フォン」がつくように、男爵の一族出身。外交官だった父の転勤により、スイスのバーゼル、デンマークのコペンハーゲン、ノルウエーのオスロ、再びスイスのベルンで過ごし、ベルリンに戻ってからはギナジウムを卒業してからオックスフォード大学で学んだ。兵役でドイツ国防軍に入営し、同じ連隊に所属していた次兄の少将ハインリヒの戦死を見ることになった。(長兄のカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーは物理学者、哲学者である。)終戦後は、学業に復帰して歴史学と法学を学び、ナチス・ドイツの外務次官としてニュルンベルク裁判で裁かれていた父の担当弁護事務所で研修生として、父の弁護を手伝った。この経歴は、その後も何かと論議をよぶのだが、1954年キリスト教民主同盟(CDU)に入党。1984年から94年までドイツ連邦共和国の第6代大統領を務めたが、その間、国民から敬愛され、またその演説の格調の高さでも有名である。

ホロコーストについて、一民族全体に罪がある、もしくは無実であるという考え方ではなく、「罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります」という部分には異論があるかと思うが、敗戦後の瓦礫の山で呆然自失となり苦難の道を歩くドイツ国民を思いやるヴァイツゼッカー大統領に言葉には、日本人として共鳴するものがある。また「荒れ野の40年」には「出エジプト記 民数記」で古代イスラエルの民が約束の地に入って新しい歴史の段階を迎えるまで荒れ野で過ごしたとされる40年に、ひとつの国が東西に分裂された40年を重ねている。ヴァイゼッカー大統領はドイツ国民の民族へ、また世界の人々に次のように語りかける。

「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
 心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するために、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」


ナチスの犯した罪によって、ドイツ人であることだけで悩み続ける若者に、たがいに敵対することではなく、和解と寛容を説き、勇気を与えたそうだ。まさに「die Rede」ザ・演説である。
「解説」の訳者による「若い君への手紙」も理解をたすけてくれる好テキストである。
「政治とは、道徳的な目的のためのプラグマティックな行為」というのは、元首相のヘルムート・シュミットの言葉だが、この演説を読んでその意味を深く考えさせられる。

■こんなアーカイヴも
映画『二十四時間の情事』
映画『白バラの祈り』
「ドイツの都市と生活文化」小塩節著
映画『愛を読むひと』
「ヒトラーとバイロイト音楽祭 ヴィニフレート・ワーグナーの生涯」
「バレンボイム/サイード 音楽と社会」A・グセリアン編

“生命”の未来を変えた男~山中伸弥・iPS細胞革命~

2010-09-19 15:57:54 | Nonsense
ダンカン・ジョーンズの映画『月に囚われた男』は、地球に必要なエネルギー源を採掘するためにたった一人派遣させられた男、サムの物語である。3年の契約期間の任期が修了する2週間前、事故に遭遇したサムは自分しかいないはずの月で、もう一人の男に出会う。自分と全く同じ体格と同じ顔をした男サムに・・・。もう一人のサムはクローン人間。それでは、自分はいったい誰なのか。。。

毎度、映画でクローン人間を観るといつも違和感を感じるのは、或る日、突然、自分と同じ顔をした同じ年齢の、しかも記憶まで共有するクローン人間に遭遇することは、それこそタイムマシン制作クラスの、どんなに科学が進歩しても殆ど不可能な発明の成功以外にありえない。クローン人間とは、自分の一卵双生児なのだから、忽然と成人した人間をつくれるわけがないのである。もっとも『月の囚われた男』を派遣したルナ産業が、生まれたばかりのサムの頭髪から、ips細胞をつくってクローン人間を何体も密かに育成していたとしたら別なのだが。

そう、ips細胞だったら自分のコピーを何体も作れるばかりか、同性愛者のカップルとの間にこどもが誕生することもありえる。そんな近未来のSF小説を見るかのようだったのが、NHKスペシャル「“生命”の未来を変えた男~山中伸弥・iPS細胞革命~」だった。2006年、新聞の二面の片隅に掲載された山中伸弥教授のips細胞樹立の小さなニュースを見つけ時のインパクトを今でもはっきりと覚えている。「サイエンス」のような論文誌に掲載される発見が報道される中でも、これはあきらかに別格。「これが本当だったら、このセンセイ、ノーベル賞だな」とたまげたのだった。山中教授の写真が掲載されるには、まだ数日待たなければならなかったのだが、あれから4年、次々と世界的な賞を受賞した山中教授の論文と彼が生んだips細胞は世界中で利用されている。

さすがにNHKスペシャル、立花隆さんと国谷裕子キャスターという強力な聞き手を用意して、超多忙な山中教授をつかまえて5時間ものロングインタビューを行った。これはわかりやすく本にしてもよいのではないか、というくらい内容の濃い番組だった。山中教授がips細胞によってめざしているのは、「再生医療」と「創薬」である。人間の体は、200種類以上の60超個の細胞でできている。病気や怪我で損なわれた細胞を健康で元気な細胞を移植することによって復活する可能性がある。その基となるのがips細胞なのだが、番組では現実にips細胞からの治療を希望をもちながら待っている筋萎縮性側索硬化症の患者を紹介。ハーバード大学の研究室では、ips細胞を使って健康な神経細胞の発達に比較して、アルツハイマー患者では細胞そのものが消滅していく現象を見つけた。勿論、彼だけはなく、今や何千もの科学者がips細胞を利用して、パーキンソン病などの難病の解明や治療に役立てようと取り組んでいる。そこには、莫大な利益という報酬がぶらさがっているからだが、今回の番組ではそこにはあまりふれていなかった。

”山中ファクター”と呼ばれる4つの遺伝子を使って細胞を初期化、皮膚からとった細胞から別の臓器ができる可能性が生まれた。いみじくも立花隆さんが「不可逆の過程にヒトは生きていると思ったが、細胞が”タイムマシン”のようになる」とおっしゃたのは名言である。しかし、臓器再生も失敗すれば癌が発生し、脳に腫瘍ができて頭部が腫れた異様なマウスの画像も紹介される。そのためだろうか、山中氏の構想では、実用化にあたっては、全身に使うよりも薬を使う方法を考えているそうだ。今、一番のダーゲットは糖尿病。オーダーメイドの治療の時代がやってくるのも、そう時間がかからないかもしれない。

また慶応大学ではips細胞を使ってヒトの精子と卵子をつくる研究を学内の倫理審査委員会に申請したそうだが、米国では、男性同士のカップルがふたりの遺伝子をもつこどもの誕生に期待を寄せている。可能性としては、髪の毛だけでサムのこどもが大勢つくれる状況がやってくるかもしれない。大切なわが子を失った場合のコピーとしても?

患者にとっては福音をもたらすのips細胞だが、使い方次第では悪夢を生むのも諸刃の科学だ。当初、番組のタイトルは「パンドラの箱を開けた男」だったそうだが、確かにパンドラの箱を開けたのは山中教授だが、これでは開けてはいけないパンドラを開けてしまったというニュアンスの方が強くでてしまい、功績よりもマイナス面の方が大きくなってしまうから、それは山中教授に対して失礼ではないだろうか。
さて、番組ではなんとマウスとラットのキメラ動物も登場。一見、毛色がツートンカラーのただのねずみに見えるのだが、キメラだと説明されると妙に気持ちが悪いものである。山中氏は将来は豚を使ってヒトの内臓をつくることも考えているようだが、そこには非常に大きな倫理的な問題がある。あの国谷さんは顔をしかめて思わず首をふったのだが、立花氏は「怖いから止めましょうというと、日本はプリミティブな国になってしまう。ヒトと動物の混合について研究はやるべきだと思う。」とはっきり明言した。ヒトと動物の混合というと誤解を招きやすいが、別に豚の顔をした人間をつくるわけではない。立花さんが主張したいのは、「批判があっても、基礎研究はやらなければいけないことがものすごくある」ということだ。これには私も同感。

最後に山中教授は、再分化しても自己複製するプラナリアのように、人間にも復活する秘めたる能力があるかもしれない。そして研究者にもわかっていないことだらけで、実験や治験をありのままに受け入れた方がよいのではないだろうか。今まであきらめていたこともできるようになるのではないか、と語ってしめくった。
山中伸弥教授は、現在48歳になったばかり。いや、もう48歳なのか、と驚くくらい若々しい。番組の最後は、時間がもったいない、とエレベーターがくる前にリュックを担いで階段を早足で颯爽と一気にかけあがっていく姿が印象に残った。その姿には教授自身の研究活動が、激化する国際競争の中で世界最高をめざしてかけのぼる願いが重なってみえた。

■いろいろあったアーカイヴ
ES細胞のあらたなる研究成果
ips細胞開発の山中教授 引っ張りだこ
「ips細胞 ヒトはどこまで再生できるか?」

■その後、緊急出版されたそうだ
「生命の未来を変えた男」

「毛沢東のバレエダンサー」リー・ツンシン著

2010-09-18 15:03:39 | Book
先日鑑賞した映画『小さな村の小さなダンサー』のラストで、風にはためく真紅の大きな中国の国旗を観て妙に感動してしまった。私は純粋国産品なのに。 尖閣諸島付近で起きた海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件では、中国側の異例の駐中国大使未明呼び出しには、外交儀礼上、実に失礼な対応と、中国のお行事とセンスの悪さを感じるのだが、国の政策に翻弄されてきた隣人には同情を禁じえない部分もある。

閑話休題。
ここで物語のおさらい。
毛沢東政権下の激動と混乱の中国の時代。山東省の貧しい寒村に生まれて著者リー・ツンシンは7人兄弟の6番目。11歳の時に国の政策により、11歳の時にバレエの英才教育のための北京舞踏学院の生徒に選抜される。それが500万人に1人という超難関選抜試験をくぐりぬけたエリートだという自負を感じるには、あまりにも少年は幼く素朴だった。芸術に精進することイコール偉大なる毛沢東の運動を推進することだったのだが、1976年に毛沢東首席が亡くなるや中国は改革政策へと大きく舵をとり、79年に成長して実力をつけたツンシンはバレエの研修でアメリカに渡る切符を手にすることになった。その切符が彼の人生を大きく転換させるとは想像すらできず”堕落して貧困にあえぐ”と教えられた「西側」との出会いに、共産党に入党して毛沢東を敬愛していたツンシンの心は激しく揺れるようになったのだが・・・。

自叙伝は、両親の結婚からはじまる。大家族の中に嫁いだ母。自分を認めてもらおうと懸命に働いた母。母は義姉たちのように纏足をしていなかったために、足を自由に動かせたので重宝された。ここで”纏足”に、私なんぞカルチャーショックを受ける。女性としての美しさを決める社会の基準が、走行困難という女性支配にもつながりかねない中国という国。あきらかにここには、アジアの一員ながら西欧化しつつある日本とは異なる文化がある。やがてツンシンが生後15日で右腕に大やけどをするという事件が起こる。お金をかき集めて受診した医師からの右腕を失うかもしれないという不運な宣告の危機から救ったのは、医学の知識が全くない伯母だった。彼女は昔聞いた治療師の化膿した傷にはミョウバンが効くというおぼろげな記憶を頼りに、絶叫して泣き続けるツンシンの傷口に一時間ごとにミョウバンの結晶をすりこみ、傷口は少しずつ回復していった。

そんなリー一家はとても貧しかった。水は井戸から汲み、トイレは外に穴を掘っただけで、ひとつの部屋の3つのベットで家族全員が眠る。暖房は炕と呼ばれるオンドルだけ。人民公社には公衆浴場もあったが有料だったためにお金のないリー一家は利用することができず、風呂をつかう時はなべで湯をわかしてたらいに入れた。文字通り赤貧洗うが如しの暮らしぶりが続くのだが、著者が生まれたのは毛沢東が58年から展開した大躍進政策により、深刻な凶作にもみまわれて3000万人もの人々が餓死をした時代だった。そんな中でも彼らはお互いの家族を思いやり食べ物を譲り合う。映画でも中国映画定番の食事の場面があったのだが、これは物語として添えられたきれいなエピソードではなく本当の当時のリー一家の姿だったことが本書からわかる。次々と行方不明のお年寄りが発覚した報道に少なからずショックを受けたのだが、地域のコミュニティが喪失し、家長制度がなくなり家族という最小単位のコミュニティすら消えつつあるのも現代日本の世相なのだろうか。しかしリー一族には家族の強い絆があり、その要は母親だった。

一方、寡黙な父は息子たちに諭す。
「苦しい生活の中でもリー一族は誇りを失うことがなかった。生活がどんなに苦しくても、決して人間としての品位と誇りを失ってはいけない」

ここまではほんのさわり。21ぺーじめまでである。しかしここまで読んで、映画の脚本家のジャン・サーディは自伝にすぐに特別に人をひきつけるものがあると感じて、映画化を考えたそうだ。映画人の直感はあたった。本書はオーストラリアで刊行されるやベストセラーとなってすでに世界20数カ国で翻訳出版され、制作された映画の方も個人的には名作『シャイン』を超える素晴らしい作品に仕上がっていたと思う。映画の方では大切な家族と離れてツンシンが小さな村を出発するところからがメインだが、本書では4分の3が中国を離れるまでの物語になっていて、映画のエンターティメント性とは別の厚みがある。映画と本書をあわせると更に充実する。映画『リトル・ダンサー』ではビリー・エリオット少年がバレエダンサーになるために家族と離れることを決心して、生まれ育った小さな炭鉱町をバスに乗って出発した。この映画も大好きな映画だ。ツンシンは本人の希望など無関係に選ばれたことによって、素質を磨いて努力してバレエダンサーとなった。バレエに全く興味のなかった田舎の少年を世界的なダンサーに育てた基礎をつくったのは、貧しいながらも懸命に働く両親と兄弟たち家族との深いつながりと愛情、そしてやはり目的の是非とともかく芸術家を育てた中国という国と恩師だろう。貧困の中、裸足で野原を駆け抜けて強靭な肉体と精神をつくったのも、皮肉なことに中国の大地だった。タイトルのとおり毛沢東の最後のバレエダンサーであり、だから、あの中国の国旗に感動すら覚えたのだ。

しかしそうは言っても、彼に本当のチャンスを与えたのは中国ではなくアメリカだった。最後に著者は、兄弟全員に井戸の底から抜け出せるチャンスに恵まれることを願いながら、それがほぼ不可能であり、また自分が与えられるものではないと悲しむ。幼い頃のツンシンは勉強が嫌いなどこにでもいるようなわんぱく小僧。そんな彼が家族と離れて、バレエという芸術を通して芸術家としてだけでなく人間としても成長していくのも読みどころのひとつ。現在は文庫本でも出版されているので映画と本書をあわせてご鑑賞あれ。

■ささやかなアーカイブ
映画『小さな村の小さなダンサー』

『彼女が消えた浜辺』

2010-09-14 22:10:50 | Movie
一人の若い女性が、リゾート地の海辺で忽然と姿を消した。
テヘランからカスピ海沿岸へ、ささやかな週末を楽しむために、大学時代の同級生たちが3泊の予定で集まった。3組の夫婦と3人のこどもたち、そしてドイツでの結婚に破れた男と彼に会わせるために連れてきた未婚のエリ。翌日、女達はエリだけ残して町へ買物へ、男達は浜辺でビーチバレーに興じていた時、ショーレとベイマンの長男アシュレが海で溺れた。必死に救出して九死に一生をえたアシュレを囲んで安堵をするつかの間もなく、いつのまにか子守を頼んでいたはずのエリの姿が消えていた。
アシュレを助けるためにエリも海に溺れてしまったのか。それとも1泊だけで帰りたがっていた彼女は、みんなに黙ってテヘランに向かったのだろうか。夜の帳がゆるやかにおりるとともに、エリの不在によって残された男女の緊迫感はましていったのだが。。。

首都テヘランからカスピ海へ向かう3台の車で映画ははじまる。トンネルに入るや、窓から顔をのぞかせて歓声をあげるカップルたち。風にあおられひるがえる女達の首を巻くスカーフ。予定していた別荘は手違いで結局1泊だけしか泊まれなくなったため、急遽予定を変更してさびた鉄の門扉を開けて海辺の古い家に向かう彼ら。車が失踪するスピード、窓ガラスの割れた古い家、強い海からの風、荒れる波。映画を観ているうちに、不安と緊張感がいやでも高まる。そこへ事件が起こり、波の音が神経をささくれだつように感じてくる。

この映画に関しては、男性と女性では感じ方が異なるかもしれない。この映画は、イランの映画である。私も一時購入を考えたことのあるプジョーの新車、グッチのサングラス、流行したルイ・ヴィトンのバック、予想外に欧米流の小道具が映画に登場するのを不思議な感じで観たのは、欧米スタイルの中で不吉なカラスのように女たちの髪や首がスカーフでおおわれ、海辺のリゾート地にも関わらず、そして男たちがラフなTシャツやGパンなどでリラックスしてバカンスに興じているのに、黒っぽいチャドルで彼女たちは体を隠しているからだ。あのような服装では可愛い我が子が溺れても、助けるために泳ぐこともできないのではないか。そもそも彼女たちに水泳の経験はあるのだろうか。体を隠せというならば、女も男達に心も隠すことになる。やがて彼らの服装の違いは、事件とともにこの国における女性の扱い方の特徴を知ることにもなる。繰り返すが、この映画はイランの映画である。先日も、姦通罪で石打による死刑宣告をされた女性がいた。

しかし、映画の本質はフェミニズムよりも、むしろ普遍的な人間の秘密と嘘にある。嘘をつくしかなかった事情から秘密がはじまり、その秘密が次ぎの嘘を招き、それが現代人の深層心理の不安をかきたて、観る者の心を波だたせる。晴天のもとで寄せてはかえす荒波の音がざわざわと心の奥底まで侵入して、夜になると暗黒の波が不気味にどこまで続く。窮地に陥ったときに、思わずその人の本性が現れてくるというのは映画や小説でもよくある内容だが、そこに嘘が入り込むところに人間心理の不可解さとともに、本作が心理劇としても優れている点である。また俳優陣の演技力も秀逸な脚本をよく支えている。ベルリン国際映画祭で、銀熊賞受賞という栄誉にふさわしいいつまでも心に残る作品だった。

エリがこどもたちのために凧を揚げるシーンが印象的に使われている。旅行中、ずっと緊張していたエリが、ここで初めて開放的でのびやかな笑顔になる。若く、美しいエリ。エリ、あなたは何を考えていたのか。それは、残された者には永遠の秘密だった。

監督:アスガー・ファルハディ
2009年イラン映画

「白熱教室」課外授業 雇われ助っ人の代理母

2010-09-12 22:29:58 | Nonsense
今月の3日、50歳を迎えた野田聖子議員が政治資金パーティの席で来年2月に出産することを発表した。胎児は、事実婚している7歳年下の男性と米国女性の提供された卵子の受精卵だそうだ。この猛暑の中、ビール党にも所属している野田さんは禁酒して、つわりすらも妊娠の喜びとして語っているそうだ。この諸々おめでたい報道で思い出したのが、大野和基氏の著書「代理出産」でも紹介されたベビーM事件である。マイケル・サンデル氏の「これからの『正義』の話をしよう」でも第4章、雇われ助っ人ー市場と論理で代理出産契約と正義ではベビーM事件がとりあげられている。

ベビーM事件の概要は、次のとおりになる。1985年メアリー・ベス・ホワイトがスターン夫妻と不妊センターを介して代理母となる契約を結んだ。胎児の精子はスターン氏で卵子と子宮はメアリー。(野田さんの場合は遺伝学的には胎児とは全く他人だが、妊娠、出産と育児の点では母親になる。)妊娠したら一切の薬の服用は禁止、羊水診断を受信して胎児に障害があった場合は中絶して報酬はなし。流産、死産には1000ドル。無事に健康なこどもを出産したら1万ドルの報酬とひきかえに親権を放棄して養子契約にサインをするというものだった。ところが、代理母が翌年3月に出産した女児の引渡しを拒否、赤ちゃんの養育権をめぐって裁判になり、ニュージャージー州上位裁判所では代理母契約を有効としてスターン夫妻に親権を認め、代理母には親権も養育権も認めず契約の履行を命じたが、最高裁では逆転して契約を無効とし父親をスターン氏、母親をメアリーとしてスターン氏の方に親としての適格性を認めたが彼女の訪問権を許可した。

マイケル・サンデル教授によると代理出産契約を支持する論拠として2種類の正義がある。リバタリズムと功利主義だ。ふたりの成人が合意した契約なのだから、それを支持することは彼らの自由を尊重することになる。一方、功利主義の観点からこのような契約を擁護するのは、契約が全体の幸福を促進しているからだ。誰にも迷惑をかけないし、双方にメリットがあり、お互いにハッピーになるからいいじゃないか。しかし、代理出産契約については、教授によるとふたつの反論がある。

反論その1:瑕疵ある同意
メアリー・ベス・ホワイトヘッドによる契約への同意が、本当に自発的なものと言えるのだろうか。不当な圧力、たとえば金銭的に困っていた場合は本当の意味での”自由な選択”が可能とはいえない。数年前、代理出産を依頼して双子の親となった日本人夫婦が話題となったが、この時の代理母の夫は2万ドルの負債を抱えて自己破産していた。自宅のローンも抱えていた彼女は完全に自由な選択として、代理母になることを望んでいたのだろうか。

反論その2:人を貶めることと、より高級なもの
人間は尊敬に値する存在であり、利用の対象ではない。赤ちゃんや妊娠をあたかも商品として扱うのはそれらを貶めることにつながる。道徳哲学者のエリザベス・アンダーソンによると代理出産は、こどもを愛情や世話に値する者として慈しむのではなく、利益をもたらす道具として利用していると反論している。尊敬に値する人間と自由に利用できる物体との違い、これらは道徳的な違いとしたのがカントだ。

その後のベビーM:かってベビーMとして知られたメリッサ・スターンは、最近ジョージ・ワシントン大学を卒業した。ベビーMちゃんの時代は、子宮と卵子のパッケージを買う必要があったが、現在では特定の遺伝形質をもつ卵子と特定の性格をもった女性の子宮を探すことが可能となった。代理母の供給も増えたが需要も増え、代理出産全体の費用は75000ドルから80000ドルと言われている。円高でよかった?経費を削減するならインドのアマンダへ行こう。費用は25000ドルで、現在、50人以上の女性が代理母として妊娠中。彼女たちの報酬は4500ドルから7500ドルだが、年収の15年分を超え、住宅購入資金や教育費になる。イギリス人夫婦に子宮を貸している26歳のスーマン・ドディアさんのメイド時代の賃金は、1ヶ月にわずか25ドルだった。「自分のこどもを妊娠した時よりも、ずっと気を遣っている」と話す彼女にとって経済的メリットは明らかだが、果たしてこれを自由と言えるのだろうか。

教授は問う。自由市場で我々が下す選択はどこまで自由なのか、そして、市場で評価されなくても、金では買えない美徳やより高級なものは存在するのだろうか。

□そう言えばのアーカイヴ
出産もインドに「アウトソーシング」
「代理出産」大野和基著
代理出産ビシネス

これからの「正義」の話をしよう マイケル・サンデル著

2010-09-11 10:41:54 | Book
名門ハーバード大学で毎回1000人を超える生徒が押し寄せ、これまでの履修者数が14000人を超える講義「Justice」。あまりの人気ぶりに建学以来初めて講義を一般公開されて、日本でも今年NHK教育テレビで「ハーバード白熱教室」として放映された。本書はマイケル・サンデル教授による講義録を基にされているのだが、全米でもベストセラー、邦訳も40万部を超えるベストセラーとなった。米国で本書が売れるのはわかる。しかし、テーマーは政治哲学。管首相対小沢を人気ぶりや手腕ぶりを垂れ流す、そんな日本でも本書がそれほど売れるとは。物語三昧のペトロニウスさまによると
「本当の意味で知的な面白さに飢えている人は、この授業でいえば『高級な喜び』を求める人はたくさんいる」
になるのだが、先日来日して安田講堂で開かれた同教授の門外不出と言われる”特別講義”はまさしく”白熱教室”となり、意見が激しく対立する問題についても理性的に話し合えて感動的でさえあったそうだ。出席できた1000人の学生や聴衆は幸運だった。

以下は、その時の東大講義での問いの一部である。

☆難破船の乗組員4人がボートで漂流した。船長は体の弱った雑用係の少年を殺し、3人はその肉と血で命をつないだ。あなたが裁判官ならどう裁くか?

☆イチローのの年俸は日本の教師の400倍、オバマ大統領の42倍。公平だろうか?

☆東大入試の合格点のギリギリで達しない生徒の両親が、大学の5000万ドルの寄附を申し出た。このお金があれば大学は新しい図書館も建てられる。入学させるべきか?

☆オバマ大統領は広島・長崎の原爆投下について謝罪すべきか?

これらの問いに対する回答は、○か×か。YESかNOになるであろう。しかし、本書がこれほど売れる理由の魅力は、古今東西の偉大な哲学者の正解を提示されて理解することではなく、私たちが日常的な身近な問いとして道徳的なジレンマに悩みながら、自ら考えるところにある。タイトルの「これからの”正義”の話をしよう」という”これから”には、私たちがともに正義を考えるという意味がこめられている。そんなに簡単に結論はでない。悩みに悩むところに価値もあるのだが、考えるヒントは3つ。

最大多数の最大幸福をめざした功利主義のジェレミー・ベンサム。難破船の問題は、1884年夏、英国でおぞましくも実際起こった事件であるが、人間はコストと利益の計算問題でははかれないことを知る。そして個人の自由な立場を重んじるイマニエル・カントやジョン・ロールズ。最後に「道徳的な意味での美徳は習慣の結果生まれる。美徳を身に着ける第一歩は、実行することだ」とした徳を培うことこそ正義の目的だと説いたアリストテレス。
マイケル・サンデル教授自身の立場はアリストテレスに当り、幸福とは心の状態ではなく人間のあり方であり、「美徳に一致する魂の活動」だと考えている。

彼は1980年代にコミュタリズム(共同体主義)の代表的論者として頭角を現し、中立性を装って道徳と政治を切り離すのではなく「異なる道徳的信念に基づいて、公の立場で理性的な議論を重ねるべきだ」と語っている。余談だが、教授はその点でもよい政治哲学をもっているオバマ大統領を健全だと評価している。
政治哲学と言えば私にとってはハンナ・アーレントが巨人のように高い壁となっている。しかし、教授の哲学は身近な日常に存在しているという視点は、誰もがこれからの人生を生きるうえで大切であることがわかる。映画『小さな村の小さなダンサー』の主人公リーが蝋燭の明かりでピルエットを練習したように「知」も鍛えなければ育たない。但し、本書の講義を受講して最終結論で全員一致の正解に導かれるてしまうのも危険である。(だからアーレントも重要になるのだが。)本書は混迷の現代人が読むべき本としてお薦め!勿論、一番読むべき人は政治家だと思うのだが。

尚、NHKでは日本での講義の様子を10月3日と10日分けて放送するそうだ。

(500日)のサマー

2010-09-07 22:55:51 | Movie
運命の恋を夢見るトム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は、運命の恋、まして真実の愛なんて信じないサマーに恋をした。秘書課に入社してきたサマー(ズーイー・デシャル)に出会って人目惚れ。
トムは日本人で言うと典型的な草食系の男子。そんな恋愛初心者に近い彼が、とびきりキュートで独特で個性的なセンスもチャーミング、それでいてちょっと小悪魔なところもある頑張れば手が届きそうな会社女子のサマーを運命の人と思い込むのも無理はない。サマーは特別な女子。野獣にも狼にもなれないトムだが、トムのその”優しさ”にこれまでつきあってきた男たちの中では最もベターな異性に思えて、とうとうふたりは恋人同士になるのだが。。。

・・・と物語のすべりだしはよくある淡い恋物語のようだが、佳作とはいえこの映画を観た人は誰もがお気に入りになってしまうようだ。それもなんたって主役演じるふたりの俳優の魅力によるところが大きい。ジョセフ・ゴードン=レヴィットは、マッチョな米国人の中でもスリムでなで肩、あっさり顔の容姿(日本人で言えば、作家の石田衣良さんに似ていると思ったのだが)は完璧草食系。そんなトムには細めのネクタイ、ニットのベストやらくだ色のカーデガンが情けないくらいよく似合う。

対するサマーは、ハリウッド風のとびきりの美人ではないところが逆に素敵で、すいこまれそうな大きな瞳が運命の恋を信じない彼女こそ、実は深層心理では無意識のうちにベターを超えるベストな唯一の男との運命的な出会いを待っていたという設定にふさわしい。「LA times」に「ズーイー・デシャルに恋をしないなんて無理!」という批評が掲載されたようだが、女性の私から見ても彼女のガーリッシュなお洒落、独創的なインテリアのセンス、チャーミングなふるまいにはすっかり惚れてしまった!胸がわくわくするようなシーンが満載。

トムは結局サマーにふりまわされ、最終的に自分の求める男性ではなかったから捨てられたのか。
ここで記憶をたどりよせるとサマーがデートで観たかった映画が『卒業』だった。ハッピーエンドのバスの中のベンとエレンのふたりの不安そう表情のラスト・シーンゆえに、この映画は不朽の名作となっていると私は考えている。何故、ここで観た映画が『卒業』なのか。このへんは、もっと奥がありそうな気がしている。ところで、さしてこの映画に関心がなかったトムと、真剣な表情で涙ぐみながら観ていたサマー。趣味の違いではない。心が共鳴しない小さな積み重ねが、サマーのトムへの違和感にかりたてたのではないだろうか。勿論、サマーの運命の人もバスの中のふたりのように、将来の不安が全くないとは言い切れないのだが。しかし、トムは捨てられたのではない。サマーと出会ったのだ。思いっきり、心ゆくまで、ひとりのサマーという女性に出会って恋をしたのだった。だから、映画での冒頭の断りにもあったように「確かにこれは恋愛映画ではない」。

監督:マーク・ウェブ
2009年アメリカ映画