千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『きみがぼくを見つけた日』

2009-11-18 14:16:04 | Movie
「”2003年に出版されるや、ニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに28週連続トップ10入りをした小説の映画化。図書館司書のヘンリー(エリック・バナ)は、遺伝子による異常?のために突然4次元の世界に入り込むタイム・トラベラー。母を亡くした幼い時の交通事故の直後、最愛の妻、クレア(レイチェル・マクアダムス)の少女時代など、時間軸をこえて時間旅行ができる特技をもつ。しかし、この旅行は手帳に書きとめる予定もたたず、しかも肝心の本人の意志とは無関係に、ある日突然始まる。気配を感じたと思ったら、その日がいつかもわからないまま別の場所に移動しちゃっている。一応、国内の元居た場所からそう遠くない地点らしいが。

そんなこんなで、瞬間湯沸かし器ならぬ瞬間時動車の夫をもったクレアの苦労もそう簡単ではない。せっかくクリスマス・イヴの準備をはじめたのに、肝心のわが夫は目の前から失踪して帰ってきたのは二週間後。しかも彼はすっかりやつれ果てて帰ってきた。
こんな時間まで、いったいどこをほっつき歩いてきたの(怒)
、、、とたいがいの妻だったら怒りを爆発させたいところだが、時間飛行を操縦できない夫の無能?をせめるわけにもいかない。それでも、つい感情的になって不満をヘンリーにぶつけるクレア。単身赴任が当たり前のお父さんたちを見ている日本の妻からみれば、たったの2週間の不在ではないか。
やがてクレアは自然のなりゆきで待望の妊娠をするのだが、予想外の困った事態が発生したのだったが。。。

過去にさかのぼれるのは、失われたかけがえのない時を抱きしめるようなもの。しかし、未来を知りたいとは思わない。それはむしろ恐ろしいように感じる。10年後の家族に会いたいだろうか。それもなんだかこわいような気がする。それでも、明日、自分の命がなくなるとしたら、自分がきえた後の家族にはほんの数分でも会いたい。この映画は、”タイムスリップ”という荒唐無稽な要素を加えてつむいだ家族の愛情物語である。全米の多くの人々から親しまれ読まれてきたのは、たとえ非科学的な時間旅行に翻弄されながらも、そこに夫と妻、家族への確かな愛が存在するからだ。日本人が東野圭吾氏の難病で危篤状態の息子が若かりし頃の父に逢いにくる「時生」に感動するように。また、ぼくがタイムスリップして1969年のおやじに会うJNN50周年記念ドラマ「1969年のオヤジと僕」でついつい涙を流すように。

同じように時間旅行で描いた物語で、これらの作品ほど本作に感情移入ができなかったことで、つくづく自分は日本人だと感じる。まず、ヘンリーが瞬間移動するのは肉体だけなので、今の移動元には服だけが残され、移動先では全裸で出没する。確かにここだけは現代人の理にかなっていると思うのだが、古代ローマ人のような鍛えられたたくましいヘンリーというよりもエリック・バナその人の肉体が突然空間からころげでてくるというか、降ってわいてくる”設定”がなんだか気になりつつ、いつしかそれが期待?に変わる。エリック・バナは好みじゃないぞ、と思いつつ、主役がヘンリーの心よりもエリック・バナの肉体に私の意識も時間旅行していく。ストーリーに集中できずにこれってまずい。なんだか男と女、夫と妻という基本形よりも、息子との関係性を深めた「時生」や「1969年のオヤジと僕」の方がずっと胸の底の渦の波を心地よくひろげてくれる。

それに、億万長者になったヘンリーが過ごすアーティストの妻のためのアトリエと庭つきの家でのゆったりとした暮らしぶりが、この物語がちょっぴり悲しくも誰にも好感のもてる愛という砂糖をまぶしたファンタジーだと気がつき、ヘンリーの”その後の事件”も、所詮読者を泣かせるための必要な結末だったと思わざるをえない。
旅行先へ全裸で出没するのは納得いくが、行き先が銀座のど真ん中のような衆人環視の繁華街でないのも、そんなに簡単に服装を盗めるものか、とご都合のよさの不自然さがよぎってくる。それを救ってくれたのが、クレア役のレイチェル・マクアダムスの素敵な雰囲気だった。

「作曲家の挑戦」ピアノ300年の旅

2009-11-06 17:56:25 | Classic
最近、「パリ左岸のピアノ工房」という本を読んだ影響だろうか、ちょっとピアノという楽器に興味がわいている。
東京文化会館の「作曲家の挑戦」シリーズは、一級の名手が登場してのレクチャーコンサートというなかなかの好企画である。それにチケット代も学生券並み。今宵のナビゲーターは、2002年ッザルツブルグで行われた第8回モーツァルト国際コンクールにおいて、日本人として初めて優勝した当代きってのモーツァルト弾きと評判の高いピアニストの菊池洋子さんである。

東京文化会館の小ホールは、燻し銀の天井と扇子を縦においたようなこれまた燻し銀の大きなついたてがあり、建設当時のモダンな装飾は今でも独特のシックな雰囲気を伝えている。しかも、廊下は真紅の壁。その舞台に登場したのが、明るめのオレンジ色のドレスを着た菊池洋子さんである。早速向かった鍵盤は、フォルテ・ピアノ。この楽器は、1700年代半ばの製作者の複製だそうだが、菊池さんのナビゲーターによるとフォルテピアノは、音のそれ自体に音色があり人間の声に近いそうだ。それに比較して、現代のモダンピアノは音そのものには音色の違いはなく、演奏者が音をつくりださなければいけないが、無限の表現があるとのこと。
最初の曲、ロンドを演奏した後に、ピアノの楽器の歴史の簡単な紹介とフォルテピアノとモダンピアノの違いのレクチャーがあった。実際に同じ曲をフォルテピアノとスタンウエイと弾き比べをされたのが、思わぬ余得のような感じ。


演奏とレクチャーを同時に行うのは難しいと思われるのだが、ゆっくりと言葉を選びながら解説される菊池さんの声は心地よい声質で聞きやすく、またお話もわかりやすい。だからもっとさくさんのお話をしてほしい、と期待したのだが、残念ながら後半は演奏だけに集中されていた。丁寧で音をひとつひとつ磨いた彼女のモーツァルトは、秋の月の光に淡く輝くようで心地よい。内田光子さんの完璧に洗練された鬼気迫る集中力が凝縮した音と違い、このようなモーツァルトも心がふわっとして帰宅の満員電車も苦にならなかった。

会場 東京文化会館小ホール
出演 ナビゲーター&ピアノ(フォルテ、モダン):菊池洋子
曲目 モーツァルト/ピアノ・ソナタより
ロンド 二長調 KV485
ソナタ第1番 ハ長調 KV279
ソナタ第5番 ト長調 KV283
ロンド イ短調 KV511
ソナタ第15番 KV545
ソナタ第8番 イ短調 KV310
ウェーベルン/ピアノのための変奏曲 Op.27 ほか
シェーンベルク/6つの小さなピアノ曲 Op.19

3年後に村上春樹氏のノーベル賞受賞なるか

2009-11-02 22:32:57 | Nonsense
ノーベル文学賞の選考委員は社会派がお好み、というのは定説。情報誌「選択」によると、スウェーデン・アカデミーの構成要員は、作家や裁判官などの18名。今年度受賞したヘルター・ミュラー氏の「狙われたキツネ」を読むと、受賞ポイントの「抑圧」「越境」「反権力」の三点セットを見事にフル装備している。(ミュラー氏は、87年にドイツへ亡命している。また、彼女自身も主人公の女性教師の友人や生徒と同じように弾圧を受けてきた少数民族出身)

それでは、5月29日に新作「1Q84」が刊行されるや爆発的に売れまくっている我らが候補者の村上春樹氏、ここ数年、今年こそは!と期待が高まっているのだが、いったいノーベル賞受賞を受賞するのはいつか。ノーベル賞の候補者は春までに20名リストアップされ、さらに秋に5名程度に絞られる。どうもこの「20名」に村上氏が入っていることには間違いないそうだ。ミュラー氏の場合は、かねてから資質を認められながら「もう一作読みたい」とまるで日本の芥川賞受賞の見送りと同じ理由でみあわせていたのが、今年、強制収容所体験を書いた「アーテムシャウケル」を発表して、一気に受賞へと実を結んだ。村上氏も同様に「もう一作」という声が選考委員の中で多かったそうだ。今回の「1Q84」の英語版が出版されるのは11年秋。事情通によると12年の受賞が、最もノーベル賞に再接近する年だそうだ。

「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 」「ノルウエイの森」。みんな大好きな小説ですすめてくれた男子とよく「ムラカミハルキ」のことを話題にして熱く語り合ったもんだった。今のノーベル賞候補作家とは路線が違っている初期の作品が好きなので、「アンダーグランド」などのノーベル賞を意識した作品を発表する頃から、なんとなく手にとることがなくなったいった。

今年も10月8日の夜、大磯町の高級住宅地にある村上氏のご自宅には黒塗りのハイヤーが8台も待機していたそうだ。こうした喧騒を嫌う村上氏は数日前には国外脱出をしているが、とりあえず「自宅」に記者たちははりつく。ご苦労なことである。「落選」の情報が入るとまた静かに去っていったとのことだが、スウェーデン紙は文学賞発表前に朝刊で”受賞するであろう”作家のインタビューを掲載するのが恒例で、今年もミュラー氏のインタビューを掲載した。わざわざスウェーデンまで飛んだ日本の某新聞紙の文化部長など、予想した作家がすべてはずれてまことにお気の毒。むしろそんなに騒がなくてもよいのでは、と村上氏のために言いたい。必ずしも作家の作品の価値=ノーベル賞受賞でもない。ノーベル賞を受賞していなくても三島由紀夫のように優れた作家は他にもいる。むしろ作品の価値よりも”権威がつく”ことと”名前が後世まで残る”方に価値があるのではないだろうか。
ちなみに、スウェーデン・アカデミーは売れる作家はお嫌いだそうで、3年後に村上氏が受賞を逃すと「もうない」という、これまた何度も芥川賞候補に挙がりながら受賞する好機を逃すと「もうない」のと同じようだ。ちょっと笑えたのが、「村上氏が消えたら、お次はよしもとばななさんが浮上」というスエェーデン人ジャーナリストの情報に対して「選択」誌の記者のコメントが、「今のノーベル文学賞とはこの程度のもの」だったことだ。

『クラッシュ』

2009-11-01 11:28:34 | Movie
「”人種のるつぼ”というのか”人種のサラダボール”というのか」
先日の勤務先の女子たちが話題にした会話である。どちらも米国の人種の多さを表現する言葉であるが、誰も「るつぼ」と「サラダボール」に意味の違いがあることを知らないようだった。人種のるつぼとサラダボールの間には、本当はとてもとても遠い距離があるのだけれど、そんな女子たちにお薦めしたいのが映画の『クラッシュ』。米国社会の人種のサラダボールと、そしてるつぼ化をこれほどわかりやすく映像で表現したのは、まことにお見事っと言うしかない。

クリスマス間近の冬。ロサンジェルス警察署の黒人刑事グラハム(ドン・チードル)と同僚で恋人のスペイン系のリアは、深夜のハイウェイで交通事故に巻き込まれた。彼はその事故現場の近くで発見された、若い男性の殺害された死体の捜査にひきつけられていく。そして、見つけたのが捨てられた一足の運動靴だった。
―その36時間前、ペルシャ人の雑貨経営者のファハドと娘のドリは、銃砲店でイラク人と間違われて口論になるのだが。。。

今、私の一番お気に入りの俳優、小出恵介君がベストワンに推していたのも『クラッシュ』だが、映画製作をしたいという夢をもつ若者が熱中するだけあって、ほぼ18人の登場人物が衝突しながらも、”天使の街”ロサンジェルスを舞台に実は連鎖していく模様が描かれているのだが、脚本とともに完成度がとんでもなく高いのである。監督のポール・ハギス自身が愛車のポルシェをカージャックされた体験から思いついたそうだが、冒頭の車の衝突”クラッシュ”を最も親しい人から全くの他人との衝突、そして最初の小さな衝突が日本流の玉突き事故ではないが、本来ならであうべくもない様々な階層、人種が次々と連鎖していくことに人と人の繋がりの関係性にもひろげていく。主人公とよべる主役をおかずに多彩な人種を登場させて(こういう群像劇は内面のほりさげが弱くて好みでなく観るのが遅くなったことを後悔)、こんな発想で映画を製作した監督に非凡なる才能を感じられる。米国の人種の単なる差別ではなく複雑さもさることながら、人との関係性を深く考えさせられるというみどころもある。

人との関係性は心理学的に次の3つの層にわかれる。
<第一層>
もっとも身近で精神面でも時間などの物理面でも、真剣に関わらなければいけない”重要な他者”で、しっかり関わり合い支えあう関係を築く層
(親、姉、親友、恋人、配偶者・・・)
<第二層>
適切な距離を保ってつきあっている人たちでそこそこ良好な関係を維持しなければならないが、社会生活を送るには欠かせない存在
仕事で一緒にチームをくみ支えてもらうこともあり、後に第一の層に入る人と出会うかもしれない人たちである。
(会社の人たち、普通の友人など)
<第三層>
ビジネスの場で出会う人や地域の人たち
(仕事関係の人たち、地域の人など)

グラハムはこの第一層の弟との関係をないがしろにしたことで母親から厳しく非難され(それは一生立ち直れないくらいに)、ジーン(サンドラ・ブロック)は第一層だと思っていた10年来の親友が実はそうではなく、使用人に過ぎなかったヒスパニック系のお手伝いさんがとても大切な存在だったことに気がついていく。これまで人生すべて思い通りに生きてきて今はエリート検察官の妻であるいかにも高慢そうな美人のジーンが、使用人に心を寄せる場面がとても好きだ。そして誰もが衝突に翻弄されながらも最も身近で関わり支えあう相手の存在の大切さに気がついていく。これはまぎれもなく最高のヒューマンドラマである。

そして予想外の報酬のような見所は、これまでクリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』に代表されるように善悪の二元論でつくられてきた米国映画が、ひとりの人間を単純に善悪でわりきれない個人の矛盾も描いていることだろう。勤続17年の人種差別の激しいライアン巡査と理想に燃える我は正義なりタイプのハンセン巡査との対比、スキンヘッドで刺青をする鍵屋のメキシコ人ダニエルが、家族思いで生真面目に仕事をするタイプだったりもする。カージャックを繰り返す町のダニのようなアンソニーがとった最後の行動、誰もが矛盾と混沌を抱えていて、それだからこそ人はいとおしいのである。個人的には、最低な奴と感じていたライアンが命がけで黒人のクリスティンを救う場面が一番好きである。酷薄そうな端正な顔立ちのマット・ディロンの存在が光る。
誰もが傷つけ、傷つけられることを恐れながらも、人と繋がっていなければ生きていけない。そんなキャッチフレーズが心にしみる人恋しい秋である。