千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「プラド美術館所蔵 ゴヤ -光と影」展

2011-11-16 22:42:43 | Art
ミロス・フォアマン監督の映画『宮廷画家ゴヤは見た』は、画家ゴヤの描いた人間の顔が次々と暗闇の中からうかんでは沈んでいく。正義、高潔、愛情、そんな人間の美質とは異次元の、憎悪、嘲笑、欲望、といった感情がその表情にむきだしになっている。ゴヤを「裸のマハ」を描いた宮廷画家という知識しかなかった私を圧倒させた。ここまでの悪意を暴きいて描ききった画家ゴヤは、何を見て、何を考えたのだろうか。そんな謎にひかれるかのように向かったのは、国立西洋美術館で開催されている「プラド美術館所蔵 ゴヤ -光と影」展である。

ベラスケスに並ぶスペインが誇る宮廷画家フランシスコ・デ・ゴヤは、1746年に小さな田舎町フェンデトードスでメッキ職人の息子として生まれる。早くから画家を志し、14歳の頃から地元の画家の元で絵画を学び、やがて40歳で国王カルロス3世の画家となり、1789年には新王カルロス4世の首席宮廷画家の地位をえて、頂点を極める。エスコラピオス修道会の宗教学校で出会った親友のマルティン・サパテールに宛てた当時の手紙には(ゴヤは筆まめだったそうだが)、「国王夫妻以下、僕を知らない人はいない」と成功を自慢している。また自信たっぷりに、仕事の依頼が絶えないことも嬉しげに彼に伝え、むしろ遅咲きだったゴヤは「我々に残された年月はすくないのだから、大いに楽しく生きるべきだ。」と、そこには、野心と成功の美酒に酔う姿がうかがい知れるのだが、1792年頃から、不運にも聴覚を失っていく。しかし、失われた音のかわりに観察者としての鋭い感性が「裸のマハ」「カルロス4世の家族」「マドリード、1808年5月3日」「黒い絵」など、次々と代表作を産み、宮廷画家として後世に名を残す以上の仕事を成したのも、沈黙の夜に囚われてからのことだった。

また、スペインも激動の時代を迎えた。スペインは、1807年、ナポレオン率いるフランス軍により侵攻され、翌年、ナポレオンの兄ジョゼフがホセ1世として支配下に置かれると、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争を戦った。多くの市民、兵士が血にまみれ、死体となった姿をゴヤは見た。それは皮肉にもゴヤの見た<戦争の惨禍>に結実していく。ゴヤは81歳の長寿を生きたが、油絵だけでなく、タペストリー、壁画、版画、素描など多彩な手法で、尚且つ、肖像画をはじめ、宗教画、戦争画、風俗画、諷刺画、寓意性や幻想にとんだ作品まで驚くほど広範囲な表現をしている。

今回のゴヤ展では、「着衣のマハ」「日傘」「カルロス4世の家族」などが出色だろう。(着衣よりも、やはり”裸”の方が好きだが・・・)
構成は全部で14のテーマに分かれていて、闘牛技の批判的ヴィジョン、宗教画と教会批判、ナンセンスな世界の幻影、人間の愚考の風刺、女性のイメージなど、様々なゴヤの視点と内面が伺える。作品を観ていくと、ゴヤは皮肉屋だけれど非合理性に疑問を感じ、伝統的な闘牛にも批判の目を向け、近代的な精神の持ち主だったことが感じられる。この企画は、実によく練られている。本来はtontonさまのようにプラド美術館で鑑賞したいところだが、絵画鑑賞のついでに秋の上野の森を散策するオプションをつけて充実した一日となる。

・ゴヤ展特設サイトリンク先>

あらためて傑作だったと思う映画『宮廷画家ゴヤは見た』

~美の巨人たち~フェルメール「絵画芸術」

2010-11-10 22:07:34 | Art
11月6日放映の「美の巨人たち」の今夜の一枚は、フェルメールの「絵画芸術」。
番組表でチェックして、これは観なくちゃっと12チェンネルにあわせるとレンブラントの「夜警」の絵が映っている。はて・・・と思ったら、363×437cmのサイズの「夜警」の中に次々とフェルメールの作品が収まっていき、小林薫さんのナレーターで「フェルメールが生涯に残した作品は、たった32枚」と入る。
同じオランダを代表する大型サイズの「夜警」一枚に、フェルメールの全作品が入るということから、あらためて寡黙な画家フェルメールを印象づけられる。本当に絵画を理解するにはテレビ番組では最初から限界があるのだが、それとは別に、この番組の製作はうまいと毎回感心する。夏に訪問したベルリンの美術館で、おめあてのフェルメールの「真珠の首飾りの女」を見ることができた。静謐でおだやかな光に包まれたその絵は、うっかり見過ごしてしまいそうなくらいのサイズ、51.2×45.1cmととても小さかった。「絵画芸術」は、120×100cmと、この作家にしては比較的大きい。あのアドルフ・ヒトラーも大変気に入っていたという「絵画芸術」は、フェルメール自身も生涯手離さなかったという絵でもある。さり気ない日常を描いた画家のこの一枚の絵には、画家のメッセージが託されているという。

ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)は、1932年、オランダのデルフトに絹織物職人の息子として生まれ、1675年に亡くなるまで故郷を離れることがほとんどなかったそうだ。最初こそ宗教画家として出発したが、ほどなく写実的な絵画を描く風俗画家に転向する。1666年頃製作された「絵画芸術」も、女性をモデルとして室内の様子を描いたフェルメールらしい風俗画なのだが、いくつか不自然な点がある。まず、背中を見せて筆をとっている画家の服装は、200年以上も前の農民の服装である。かといって、あえて昔の風景を描いたのではないことは、床の白と黒の通称「デルフトタイル」と呼ばれる、当時のオランダの流行ものである。壁にかかった大きな地図、質素な室内に豪華なシャンデリア、テーブルに置かれた石膏、そして女性が持っている金色のラッパに抱えている大きな本。そこに、フェルメールはどんな思いをこめたのだろうか。

壁にかかった地図は、ベルギーとオランダにわかれる前のネーデルランドの地図である。中央の折皺が、ちょうど両国の境界線になっているのは偶然ではないだろう。シャンデリアには、ハプスブルク家の象徴である双頭の鷲が飾られているのだが、蝋燭をたてていないことからハプスブルク家の没落を表している。石膏像は彫刻と同じで本物の模倣であり、絵画が彫刻よりも優れていることを伝えたかった。ウルトラマリン・ブルーの衣装を着た少女が手にしているラッパは名声、分厚い本は歴史を意味し、勝利をあらわす月桂冠をかぶった少女は、歴史のミューズであるクリオを象徴している。画家は、歴史画を風俗画に閉じ込めて描いている。この寓意には、当時、歴史画は風景画や風俗画よりも上で、オランダの風景画が2流扱いをされていたことへの画家・フェルメールの思いが託されている。それは、壁にかかった地図にひっそりと描かれている「I Vermeer」という文字にも残されている。

しかし、そのような寓意を読み取れなくても、白い点描で光を表現した技法が厚く重みのあるカーテンやシャンデリアにも見られ、余計なものを排除した引き算の美学とも言える端整なファルメールの芸術にふれることができるのも今夜の一枚である。

「カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン」宮下規久朗著

2010-03-07 23:12:45 | Art
先日読んだ吉松隆さんの著書「クラシック音楽は『ミステリー』である」には、たっっぷり楽しませていただいた。著者の名人芸のような筆の運びもさることながら、音楽にミステリーをかけた発想も文句なくおもしろい。さてさて、映画『カラヴァッジョ』と平行して読破した宮下規久朗氏の「カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン」によれば、クラシック音楽どころか「美術はもっと『ミステリー』である」!私も吉松さんに習って、まずは16世紀イタリア美術界の巨匠、カラヴァッジョのプロファイリングを試みる。

氏名:ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)
生年月日:1571年9月29日ミラノもしくはカラヴァッジョ
父母:フェルモ・メリージとルチア・アラトーリの間に生まれ、弟と妹あり
性別:♂
血液型:社会の既成の枠からはずれがち、唯我独尊型で思い込んだら突っ走るところからおそらくB型と思われる
職業:画家
犯罪履歴:20歳の頃からすでに非行を重ね、なんらかの殺人などのトラブルに巻き込まれてローマに逃亡。サンタンジェロ城の監獄を別荘代わりにしばしば居住。1603年8月、バリオーネをその作品とともに中傷したかどで所謂「バリオーネ裁判」の被告人として訴えられる。公証人パスクアーロを斬りつけてジェノバに逃走するもシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の仲裁で示談で解決。しかしながら、対立グループのひとり、売春婦の見張りをしていたラヌッチオ・トマッソーニと賭けテニスの得点で喧嘩をしてはずみで、というのも言い訳がましいが相手を殺害してしまう。死刑宣告がされて、これ以降各地を転々として再びローマの地をふむことがなかった。逃亡生活の途上で名誉ある騎士団に入会を果たすも、1608年8月18日夜半にジョヴァンニ・ピエトロ・デ・ポンテ他仲間の騎士5人とともにベッツァ伯ジョヴァンニ・ロドモンテ・ロエロを襲撃して重傷を負わせ、サンタンジェロ要塞に投獄される。その後、脱獄するが病に倒れトスカーナで37年のその短い生涯を閉じた。
結婚暦:なし、生涯独身。《洗礼者ヨハネ》や《果物籠を持つ少年》のあやしげな絵、天使のモチーフが多いことからも想像されるように同性愛の傾向がみられる。シチリアで生活をしていた時、造船場でひとりの少年を熱心に付回し、その少年の引率の教師に訊問されるや逆に教師に剣で斬りつけるという事件を起こす。但し、ローマ時代に一躍セレブの仲間入りをするとそれなりに女性にもてて、多少の女性遍歴もあるそうだ。

ところで、カラヴァッジョという画家の名前を聞いて、その絵の一枚でも記憶のストックからひっぱりだせる人が何人いるだろうか。映画『カラヴァッジョ』のコピーには、「彼が存在しなければレンブラントもベラスケスも誕生しなかった!」と記されている。本書の著者の宮下氏になると”はじめに”の最初の一行では、「バロック美術の先駆者としてだけでなく、西洋美術史においてもっとも大きな革命を起こした天才」「その影響は、(中略)17世紀の巨匠のほとんどすべてから現代にまでおよんでいる」と高らかに宣言している。ちょっとそれは大げさでは?ご贔屓の相撲取りへの賞賛という身びいきもあるのでは?ためしに友人や勤務先の人に聞いてみたら、さすがに友人は名前を知っていたが絵は思い浮かばず、職場の人にいたると誰それ、何それレベル。しかし、本書を読めばカラヴァッジョが大げさでもなくまぎれもなく革新的な天才であることがひしひしとわかる。映画では残念ながら、大仰な音楽効果が邪魔をして画家の内省にせまることもなく、アレッシオ・ボーニの熱演も血と暴力に生かされこそすれ、その作品も破滅型で悲劇の人生の比喩の表象とした一面でしか描かれていなかったと思うのは私だけだろうか。

宮下氏は、これまでの通説の伝記の巧妙な作為をさけ、カラヴァッジョに影響を与えた作品、また影響を受けた作品、レプリカを対比させて豊富な資料の中から、過去の美術評論家の鋭い本質をついた批評を紹介しながら、尚且つ研究者としてのオリジナリティを画家の才能への愛情をもって展開していく。カラヴァッジョと言えば真っ先に思い浮かぶのは、私の場合、サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館に展示されている《リュート弾き》である。4日間に渡り、エルミタージュ美術館ではそれこそ膨大な絵画を観てきたはずなのに、この繊細な光をまろやかに受けた優美な絵はまるで音楽が聴こえてくるような雰囲気で忘れられない一枚だった。その時の印象(ミステリー)こそが、カラヴァッジョにおける宮下氏の優れた研究者の視点で解明されていく。命のひかりと罪の暗黒の中で、後々に物議をかもした写実主義が開花していく。そしてサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂のために描かれた《聖マタイの召命》《聖マタイの殉教》《聖マタイと天使》はカラヴァッジョの宗教絵画の中でも特に傑作であるが、この作品には実際に設置される空間を考慮して効果を計算して光の効果と構成をした特徴が表れている。そればかりか、カラヴァッジョは宗教における回心という内面のドラマを、明暗表現や写実的な描写で現実空間でおこっているようなイリュージョンを与えた。客観的なリアリズムを通して内面的なヴィジョンを表現したのがカラヴァッジョである。しばしばカラヴァッジョが、宗教画を卑俗な次元に引き摺り下ろしたという非難にさらされたのは、映画でも取り上げられた《ロレートの聖母》への中傷のとおりだが、巡礼者の汚い足に観衆は自らを投影し感嘆し、聖母子のイリュージョンを体験する。神を希求する者にとっては現実的な表現こそが、もっとも神秘的な宗教性を与えることに彼は気がついていたのだ。個人的には、この絵のいかにも汚れた足の裏は、同じくエルミタージュ美術館に展示されているレンブラントの《放蕩息子の帰還》につながるように思える。

神に背を向けるような蛮行の数々を繰り返し罪の闇に心を落としながらも、彼の作品からは敬虔な宗教と深い精神、魂の浄化を感じられる。そんな矛盾に魅了されたカラヴァジョ研究は、近年益々盛んになっているそうだ。4800円の本書は、著者の集大成ともいうべく強力な一冊であるとともに、日本人によるカラヴァッジョ研究の一家に一冊の決定版と推薦したい。私のようにカラヴァッジョに対してしてさほど興味がなかった方も、その名前すら知らなかった方でも、本書を開けばいつのまにかこの謎に満ちたカラヴァッジョのファンに。そしてカラヴァッジョが残した軌跡は、やはりミステリーである。

■アーカイヴへ
映画『カラヴァッジョ』
~美の巨人たち~カラヴァッジョ「聖マタイの召命」

~美の巨人たち~熊谷守一「雨滴」

2010-02-03 22:30:33 | Art
今日はとても寒い一日だった。
立春を過ぎても厳しい日々が続くが、ネオヤナギの冬芽を見かけると自然は春の準備をはじめていることに気がつく。一粒一粒の小さな紅い芽は、青い澄んだ冬の空に向かってきりっとした表情だ。よく見ると、同じような色、同じような形の冬芽は、同じようであって当たり前だが実はどれひとつ同じものはない。1分眺め、5分見つめ、1時間観察したらそれぞれの冬芽はどういう表情で、どんな風におしゃべりをはじめるのだろうか。見ること、じっと観察すること、感じることがひろい宇宙を感じさせられるということを教えられたのが、美の巨人たちの一枚の絵、熊谷守一の1961年作「雨滴」だった。テーマーは「見る」こと。

明治13年、熊谷守一は岐阜県の片田舎で生まれた。小学生の時は、肝心の授業よりも窓から一枚一枚落葉する葉を観察することに熱中するこどもだった。画家となって見ることにこだわった守一らしいエピソードだ。先日亡くなった動物行動学者の日高敏隆氏は、小学生時代に軍事訓練になじめず毎日蝶を追いかけては教官から死ねとまで言われて自殺まで考えたが、理解ある担任の教師の熱心の親へ説得で昆虫学者への道をすすむことができた。守一は、市長の息子として学校では優遇されたが、画家への志は商人にしたいという両親の反対にあう。それでも上京して、東京美術学校に進学する。

ネコヤナギの冬芽ではないが、早くから守一の才能の芽は周囲からも認められて画家への成功の道が開かれていたにも関わらず、見ることに厳格にこだわるあまりにどう見てよいのか、どう描けばよいのか混迷して故郷で6年間肉体労働をして過ごす。やがて大正6年、秀子と結婚して再び上京。次々と生まれてくる子供たちに囲まれて家庭的には幸福だが、生活は困窮する。彼は稼ぐために絵筆をとるタイプの画家ではなかったのだ。不幸にも再び絵筆をとったのは、次男の死に接してこの世に何も残せなかった息子を思って、せめてもの死顔をとキャンパスに向かった。やがて絵を描くことに夢中になって失った尊い命よりも対象として次男、陽の姿をとらえている自分に気がつき、筆をおいたという。昭和7年、豊島区に広い手入れのされていない森のような庭のある家に引っ越しする頃になると、ずっと植物や草木を見つめ続け自然や生物と対峙してきた画家の絵に、赤い輪郭線が表れ、のっぺりとした画風にかわっていく。学生時代は、まるでドラクロワのような自画像「蝋燭」を描いていた守一だったが、リズミカルでまるで唄うようなおなじみの絵に。

終戦直後に、今度は長女を失うと、守一は簡潔した線と色彩、そして表情のない家族の顔でその悲しみを表現した。晩年は、殆ど外出せずに、小さな庭が彼の見る対象のすべてとなった。精一杯生きている小さな昆虫、草花、小動物たちの生命の輝きを絵筆ですくいとってキャンバスに表現する守一の絵。そんな日々の中で生まれたのが、雨滴だった。木の板にぬられた黄土色の泥水。決して美しい景色ではないのに、そこに落ちて花の冠のように広がる雨滴。番組では、この雨粒が泥の中に落ちて広がる様子をハイテクな処理方法で映したのだが、人間の視覚でとらえることが不可能な様子を守一は見事に再現していたことに驚かされる。が、しかし、私はそんな彼の超人的な観察眼よりも、その観察が感性の湖に滴のように落としてのびやかに広がった、雨滴がまるでそれ自体生き物のような動的で音楽を感じさせるユーモラスさで選んだのが、今夜の一枚。笑っているような、泣いているような、おしゃべりをしているような滴たち。シンプルさの中に、聞こえる楽しい歌だった。

~美の巨人たち~カラヴァッジョ「聖マタイの召命」

2010-01-17 23:29:58 | Art
-あなたはあなたの絵と同じ。
 光の部分は限りなく美しく、
 影の部分は罪深い

16世紀イタリアを代表するバロック絵画最大の巨匠カラヴァッジョ。後のレンブラントやベラスケスに大きな影響を与え、数々の名画を後世に残したカラヴァッジョだが、彼ほどその作品と人物像がかけ離れている画家もまたいないだろう。今年は、彼が亡くなって400周年になる記念の年である。来月、謎に満ちた画家の生涯と傑作誕生の裏側にせまった映画『カラヴァッジョ』が公開される。カラヴァッジョの絵画の特徴と画家の内面の対比を巧みに表したこの言葉は、その映画の広告に使われていたものを拝借した。今夜の一枚は、「聖マタイの召命」。

場末の汚い酒場だろうか、ギャンブルと酒でくさい息を吐く男たちは、金勘定に余念がない。そこへ登場したのが、ふたりの男たち。突然の闖入者に、気色ばみ思わず身をのりだそうとする男、保身からだろうか逆に身をひく男、一心不乱にうつむいてお金を数える男。現れた男のうち、やせて金色の輪が頭上に見える男がイエス・キリストである。光の差す向こうに、キリストが指す男は誰なのか。後に聖マタイとなる罪深き収税吏レビを、キリストが自らの使徒にして召そうとする瞬間が描かかれた「聖マタイの召命」。これまでも多くの画家が描いてきたモチーフだが、カラヴァッジョは、芝居の舞台のような劇的空間をつくりあげ、既成の宗教画の概念を破った傑作でもある。

1571年、ミラノに生まれたカラヴァッジョ(本名はミケランジェロ・メリージ Michelangelo Merisi)は、シモーネ・ペテルツァーノの工房で修行を積んだ後、ローマに移る。一説によると、暴力事件を起こしてローマに逃れてきたという激情型で暴力的な性格が伝わる。今でいうホームレスのような貧しい暮らしをしながらも、絵筆をとれば天才性は秀でて、1595年頃にフランチェスコ・マリア・デル・モンテ枢機卿にその才能を見いだされて画家として成功していく。収入が入ると仲間を引き連れて呑み歩き、一銭もなくなるとまた絵筆をとるという繰り返し。喧嘩はお手の物、日常茶飯事で多くの敵をつくり、決闘で相手を殺してしまったために、ナポリ、やがてはシチリアへと流転していく。革新的な絵画は物議をよんだが、たとえば「トランプ詐欺師」のように舞台劇をみるかのような圧倒的な構成力は認められていった。

カラヴァッジョの現実主義的な特徴をあらわした代表作として有名なのは、「病める少年バッコス 」であろう。不健康で、それでいて官能的ですらある不思議な絵。カラヴァッジョ自身を対象としたバッコスは、これまでのギリシャ神話の登場人物の酒神バッコスを美化せず、モデルを正確に写実的に描いている。そしてその写実的描写力で画家の類まれな才能を示した頂点とも言えるのが、「果物籠」。葡萄の瑞々しさと同時に虫に喰われた傷のある林檎、枯れて乾いた質感のある葉と伸びていく生命感のある枝、緻密に描かれた果物籠、テレビの画面だけでもその徹底したリアリズムによる溢れんばかりの才能が伝わってくる。小さな画面の中のその絵にすっかりひきこまれてしまった。

さて、キリストに指をさされてうつむく男がこの劇の主人公である。ある時は時代の寵児に、ある時は反逆者、犯罪者の烙印をおされ、38歳でその短すぎる生涯を閉じるまで波乱万丈の生涯を送った謎のカラヴァッジョ。映画の公開がまたれる!

「戦争と芸術 クレー 失われた絵」日曜美術館

2009-05-18 22:39:12 | Art
ドイツを代表する色彩画家、パウル・クレー。「クレー」と聞くと、どんなイメージがうかぶだろうか。
両親ともに音楽家という環境に育ち、21歳でミュンヘン美術学校に入学する前は、ヴァイオリニストとしてベルン市立管弦楽団にも入団していたことがある。恵まれた音楽的環境で育ったというわけではないが、私はクレーの絵画を観ると「音楽」を見ているような心地よさを感じる。リズムを感じる色彩と旋律を幾何学模様にしたような線。ところが、躍動感を感じるあかるさの中に、ユダヤ人として迫害を受け続け不遇だったクレーの人生のもうひとつの旋律がこめられていた。昨夜のNHK教育テレビでは、日本パウル・クレー協会事務局長の新藤信さんと彫刻家の坂口紀代美さんをゲストに「戦争と芸術 クレー 失われた絵」という興味深いテーマでパウル・クレーの画家になってからの生涯をとりあげていた。

クレーは、ピアニストのリリー・シュトゥンプフと結婚し、職業画家をめざす。ようやく世間に描く絵を認められるようになると第一次世界大戦が勃発して、兵隊として従軍するようになる。大戦中も各地で展覧会を開催し、画家クレーとしての名前も知られるようになり、終戦後はドイツに設立された総合造形学校バウハウスで絵画の指導を行い、やがてデュッセルドルフ美術学校の教授として迎えられるまでになる。しかし、安定して充実した創作活動もつかのま、1933年には、アドルフ・ヒトラーがドイツの政権を掌握するようになる。自身画家を志していたヒトラーの嫉妬もあるのだろうか、クレーをはじめとした画家が危険な表現者・退廃芸術家の烙印を押され迫害を受け始める。こんなヒトラー政権は長く続かないと予想したクレーだったが、ユダヤ人が次々と職を追われ、クリスマスの前日、クレーもとうとうデュッセルドルフ美術学校を解雇されて、スイスに亡命する。

この間、多くの絵画作品は、スイスのルツェルンの画商「フィッシャー画廊」の主催で、ホテルのオークション会場で売却されて散逸した。クレーの1919年「R荘」や1926年「修道院の庭」もこの時に売られた作品である。この時にオークション会場に参加していた美術史家が取材に応じて、当時の作品リストの予想価格に実際にオークションで決められた価格をメモをした貴重な「一覧表」を見せた。スイスも大国ドイツのナチス政権と足並みをそろえなければいけない苦しい事情があったというのが、フィッシャー画廊の三代目の画商の弁である。そして、スイスの生まれ故郷であるベルンに逃れたクレーだったが、平和な時は最後まで訪れることがなかった。ドイツ国内の銀行預金は封鎖され経済的にも困窮し、さらに皮膚硬化症という難病に苦しみ、この国でも迫害されて市民権を望んだクレーだったが、60歳で生涯を閉じるまでスイス国籍は与えられなかった。ドイツ人として彼は、ショスハルデン墓地に眠っている。番組では、晩年にクレーが少女のモデルにしていた親交のあった農家の女性が登場して、思い出話を語っていた。当時、国で配給していた穀物を入れる麻袋があったのだが、破けたりして不用になった麻袋をクレーがモデルの少女の家からもらって、それをキャンバスにして絵を描いていたという生活の苦しさが伝わるようなエピソードである。

敗戦から15年後、ノルトライン=ヴェストファーレン州政府はクレーへの償いの思いから、海外に流失した作品88点をを6億円もかけて買い戻したが、戦争という嵐に、現在も400点近くもの作品が行方不明になっている。オークションで売られていった「R荘」はバーゼル美術館で所蔵されているが、「修道院の庭」も、私たちは写真でしか観ることができない。第二次世界大戦が勃発した年、代表作となる「天使」などの線描画の含めて、クレーはなんと1254点もの作品を残した。やさしさとそこはかとないさびしさをたたえた「天使」たち。軍靴の足音を聞きながら筆をとり、「線を引かない日はなし」と語っていたクレーの心情を思いやると胸につまるものもある。なかには、ヒトラーと思われる人物像もある。翌年、病のために生涯を閉じたクレー。この時の膨大な作品は、売れるあてのない絵だった。

■モーツァルトが好きだったパウル・クレーにちなんでこんなアーカイブも
モーツァルト:オペラ『魔笛』

~美の巨人たち~レンブラント「夜警」

2009-03-23 22:55:31 | Art
一昨日の「美の巨人」に登場したのは、数々の謎が残るレンブラントの大作「夜警」である。この絵画の謎を解くには、たった30分番組では到底及ばない、、、なんちゃって、侮ってはいけなかった。なんと今回の番組では「夜警」というタイトルそのものをゆるがす真相の解明が行われていたのである!

ロシアのエルミタージュ美術館には、「レンブラントの間」と呼ばれる部屋がある。彼の作品は、今も、昔も人々の心をとらえて離さない。自画像、風景画、宗教画、歴史画、肖像画、日本の鷲の羽根も使用されていたエッチングなど、生涯に渡って800点余りもの作品を残した多作家のレンブラント。その豊富な作品の中でも、最も有名な絵といえば集団肖像画の「夜警」であろう。

1606年、レンブラントは製粉業を営む家に8男としてライデンに生まれた。ラテン語の大学に進学するもわずか数ヶ月で退学。その後、得意の絵をいかしてアムステルダムに渡り、最初は肖像画として人気を誇るようになる。当時の年収は、200ギルダー。さらに名門の娘、サスキア・ファン・オイレンブルフを娶り、名声、富とともに人生の栄光の日々を迎える。そんな絶頂期にまいこんだのが、火縄銃手組合からの集団肖像画の依頼だった。『フランス・バニング・コック隊長の市警団』と名づけられた作品には、警備隊の長官と副官である中央のふたりは、服装も何度も丁寧に重ねて描いているが、他の人々はまるでひき立て役のようにあらいタッチで描かれている。前方は、ザラザラとした絵の具を使い、後方はつやつやとした質感の絵の具で描いている。しかも、警備隊のシンボルである鳥をぶらさげた謎の女性や本来いなかった犬や、画家自身もちゃっかり登場している。全部で18人だった人物がいつのまにか増えて、実際何名いるのかわからない始末。

1946年、2度の洗浄作業でこの絵を修復すると、長官の手の平に射す光はまぶしく、副官の服に落ちたその影は濃かった。「夜警」ではなく、本来は昼間の出来事だったことが判明した。更に、ダム広場の市役所に移された時にあまりにも絵のサイズが大きくて入りきらなかったために、左に60センチ、右側と下部が10センチ、上部が25センチもカットされていたのだ。本来のサイズのCGで想像すると、中央のふたりがもう少し右によっていて、絵画全体に動きと躍動感が伝わってくるのがわかる。不運な絵画は依頼人からも不興を買ったようだが、そのせいだろうか、アムステルダム経済の衰退とともに肖像画の依頼もめっきり減り、また愛妻のサスキアも亡くなり、残ったのは多額の負債でとうとうレンブラントは破産する。最後は、スラム街に身を落とし、亡くなった後は共同墓地に埋葬された。

「画家が目的を果たした時に、絵は仕上がる」
そう言ったレンブラントは、合計34人の人々を描いて筆を置いた。
レンブラントの謎や神秘性に深く入り込んでしまった様子を「魔法使いと呼ぶしかない」という言葉で表現したのは、ゴッホだった。現代に至るも尚、多くの謎を残した「夜警」。その絵は、アムステルダム国立美術館に飾られ、訪れる人々の心をとらえて離さない。

■こんなアーカイブも
映画『レンブラントの夜警』

「大使たち」ハンス・ホルバイン 『美の巨人たち』より

2009-01-25 21:41:48 | Art
ハンス・ホルバインのフランスの使節として渡英したダントヴィユと、彼の友人でラヴール司教のジョルジュ・ド・セルヴを描いた「大使たち」。肖像画家としてトップに登りつめたハンスの、円熟期の絵画としても名高い。繊細で緻密な描写で天才の名にふさわしい素晴らしいタッチなのだが、最も印象に残るのが肝心な”大使たち”よりも中央に描かれた髑髏トロンプ=ルイユである。この絵は、16世紀イングランドの国王、ヘンリー8世の命令によって描かれた作品である。昨日の「美の巨人たち」は、この1枚の絵にこめられた秘密にせまった。

ハンス・ホルバインは、1497年、南ドイツのアウブスブルグに生まれた。父、兄ともに歴史に名を残す画家であり、若い頃からハンスも宗教絵画なので優れた画家としての頭角を現していた。しかし、おりからの宗教改革によってこれまでの教会用の絵画の需要が減ることを懸念したハンスは、妻子を養うためにもトマス・モアをたよりに、新天地・英国に渡ることになった。優れたデッサン力と着衣や髪の質感や道具立ての繊細な描きかた、そして何よりも単なる肖像画をこえてその人の人間性まで描くハンスは、1536年、英国王のヘンシー8世により宮廷画家に迎えられる。画家としては最高の地位にのぼりつめたのだが、従がえた王は歴史上最悪の残忍非情な王だった。

王は、映画『ブーリン家の姉妹』にあるようにアンと結婚するために、ローマ教会と対立してイギリス国教会のもとに最初の后と離婚した。しかし、そこまでして愛情をそそぎ、後にエリザベス女王となる娘を産んだアンさえも処刑した。王の絶大な信頼をえながらも、自分のパトロンだった恩人、トマス・モアさえも処刑された事態を知り、異国からやってきたハンスの心はいかばかりだろうか。そしてこの「大使たち」。

この絵は単なる肖像画ではなく、さまざまな画家の意図がこめられた寓意画である。
たとえば、ふたりが出会った日にち4月1日がわかるようになっている。また、楽譜は宗教音楽でローマ教会と英国教会の融合を意図し、それにも関わらず壊れかけたリュートが、両派の対立を示している。算術書は、割り算で”割る”というマイナスのイメージを残している。左の隅にわずかに開かれたカーテンからは、磔刑となったキリストがのぞいている。大使たちの若々しくりっぱな風貌と、ふさわしくない小道具だが、最も強烈なのがやはり髑髏だろう。正面からでは何を描いているのはわからないこの髑髏だが、部屋にかけた絵画の横をすりぬける時、はっきりと髑髏が見えてくる。

ハンス・ホルバインの絵画には、画家の冷静な目を感じる。磔刑されたキリストを描いても、そこには復活がありえない絶対の死が横たわる。なんと醒めた視点からのリアリズムであろうか。ヘンリー8世は、待望の男児を産んだばかりの3人目の妻を亡くした。早速次のお后を選ぶために、ハンスは王の任命により外国のお后候補の姫たちの肖像画を見合写真がわりに描いた。王がもっとも気に入ったのは、楚々とした美人の「アンナ・フォン・クレーフェの肖像」だった。彼女を4番めの后と迎えたのだが王の想像とは違っていたために、「フランドルの太った雌馬」と彼女を嫌いわずか6ヶ月で離婚した。この1件で、すっかり王の不興をかったハンスは処刑こそまぬがれたものの、その後めだった活躍をせずに、1543年にペストでロンドンでその生涯を閉じた。

絶対的な権力者になすがままに絵筆をとらされたハンス・ホルバイン。異国の地で散った、天才画家の胸中をしのぶ。
描かれた肖像画をよぎる時、髑髏は語る。「メメント・モリ 死を想え」と。

漫画に6億円?!「ヘアリボンの少女」―『美の巨人たち』より

2008-10-05 16:20:07 | Art
この漫画が、なんで6億円もするの?
私だってついそう異議を申し立ててしまいそうだが、この「ヘアリボンの少女」のお値段は、というよりも価値は6億円。しかも、その価格にまつわり物議をかもし事件にもなったそうだ。通称「ヘアリボンの少女」事件。

1995年、東京都現代美術館は、開館に向けてこのロイ・リキテンスタインの「ヘアリボンの少女」の購入を計画していた。2億円以上の財産の取得には、「東京都」がつくくらいだから、都議会の承認が必要だったため審議にかけられたのだが、その最中に「漫画に6億?」という野次が飛んで、当時マスコミが大きくとりあげたそうだ。確かに評価の定まらないリスクの伴う現代美術品を、都民の税金、しかも6億円もの大金をバブルがはじけたにも関わらず投入してお買物をするには、議会員だけではなく、肝心の都民の理解を得る必要があるはずなのに、学芸員の方達にはその努力が足りていなかったのではないかと思われる。

と言うのも、何故、この漫画が6億円?でもそれだけの価値はありそうだと、その謎を解き明かしたのが、昨日放映された「美の巨人たち」。
正確には、画家のリキテンシュタインは、1965年にコミック漫画の登場人物という風景を「121.9×121.9cm 」という巨大なキャンバスに油絵で描いた。実物を観ると確かに油絵のつやがあり写真とはかなり印象が違うと番組で案内していたが、その秘密がドットにある。
当時の典型的なアメリンア・ビューティの少女の健康的な肌つやをだすために、コミックではピンクのドットつきで印刷されていたのだが、リキテンシュタインはそのドットを忠実に再現していた。テレビではそのドットのクローズアップの映像を紹介していたが、油絵のつや感がある真円に近い真紅のドットが規則正しく並んでいる。私は、このドットの再現と”誰もがわかりやすい”絵画、芸術のために作品に大きなサイズが必要だったのではないかと考えた。

消費社会の華やかな米国は世界をリードしながらも、美術界では今ひとつ人々の理解と関心がうすかった。と言うのも、難解な抽象表現を競った芸術は、米国人から敬遠された。そんな時代、リキテンスタインは5歳の幼い息子にせがまれて漫画を模写してあげると尊敬され、画家を志しながらも一介の美大の講師だった彼は、確信する。感情を排除してストレートの事実を描く芸術を。しかし、本物を。
彼のコミックを油絵で描いた絵は、批評家からはけなされながらも、画商のレオ・キャステリに才能を見出され、大衆から熱狂的に支持されていく。あのアンディ・ウォホールも、実は、リキテンスタインがもちこんだわずか2週間後にキャステリに漫画を油絵に描いて見せに行くが、先駆者の絵をその場で見せられてその完成度の高さに完膚なきまでに打ちのめされて、路線を変更したというエピソードがある。

そして、はっきりした輪郭、白と黒以外は、使われているのは、赤、青、黄色の3原色のみ。
ここにも秘密がある。リキテンスタインは、ピエト・モンドリアンを尊敬していた。モンドリアンの「コンポジション」シリーズは、ご存知のように水平と垂直の力強い黒い線の枠の中に、赤、青、黄色の三原色のみ使ったストイックでひんやりとした抽象画に向かっていった。モンドリアンの単純な線を少女の輪郭、髪型に変形していき、色彩を置くとリキテンスタインの絵にリンクしていく。また、リキテンスタインの絵は、最初誤って斜めの位置に展示されそうだったのだが、それが全く違和感がない。モンドリアンの絵も、リキテンスタインの絵も、さかさまにしても斜めにかけても鑑賞できる点で構造主義にかなっている。

たかが、コミックの模写に見えてこんな芸術的な解釈を次々と盛り込まれていくと、確かに6億円もの値打ちがあるように思えてくる。しかし、本当の絵画の価値を決めるのは、批評家でもなく歴史という歳月だけだと考えるのだが。
阪神大震災の時、すべてのチャンネルが報道番組になったのだが、東京12チャンネルだけはまったりと食べ物の旅行番組を放映していたと笑われるのだが、侮ってはいけない、この「美の巨人たち」「WBS」「ガイアの夜明け」「地球街道」等、なかなか良い番組がある。
ただ、なかなか観られないだけなのだが。。。


メルケル首相が鑑賞した絵画 マネ「温室にて」

2005-12-02 23:43:57 | Art
11月23日のドイツのすべて新聞の一面は新首相の顔、元物理学者だったメルケル女史の笑顔で飾られていた。その穏やかな表情には、つい先日の選挙活動で見せた”第二の鉄の女”という愛称をもらった厳しさは消え、政治活動の経験わずか15年にして登りつめた頂点に立つ者の、希望と誇り、そして今後歩む荊の道を憂う陰りもすべて秘めた、ただひたすら国民を思う慈母のような顔だった。

旧国立美術館

メルケル首相が育った旧東ドイツ側の首都ベルリンには、5つのミュージアムからなる「ベルガモン博物館島」という、1999年ユネスコ世界遺産に指定されたヨーロッパ屈指の国立博物館群がある。1830年、プロイセン王室の美術コレクションを一般公開するために最初の博物館を建立して以来、先史時代から19世紀までの5000年の歴史から重要な文化財と芸術作品が5つのミュージアムに展示されていた。その後、ヒットラー政権、第二次世界大戦や東西分裂という複雑な運命をたどり、16年前の東西統一以後は、統合再編を経て、2015年完成予定の大規模なドイツ政府による復興計画がこの博物館島ではすすんでいる。

その中のひとつ、1876年建立された旧国立美術館 (ALTENATIONALGALERIE)で、最も有名な絵のひとつが、エドワール・マネによる「温室にて」であろう。晩年のマネが親しい友人とある女性を描いたこの絵は、フランス絵画を集めた部屋で訪問者の視線をひくめだつ中央に位置し、美術館を代表する傑作ともいえる。新聞で笑顔をふりまいていたメルクル首相が、私が訪問したほんの数日前に、この「温室にて」を観にきたという現地の研究者の挿話には、なかなか興味がひかれるものがある。

私が「温室にて」で最も関心をひいたのが、女性のうつろな瞳と大きな絵の中央に位置するふたりの手である。男性と女性の並んでいるこの手は、いかにも意味深である。このふたりはどのような関係なのだろう。そして、どうして女性は右手は手袋をはめているのに、左手は脱いでいるのだろう。
当時の社交界において、淑女のたしなみとして殿方の前では手袋を脱ぐものではなかった。女性が殿方の前で素手をさらしていることは、すでに性的関係を結んでいると思われてもしかたがない。そして女性の左手薬指には、金色の結婚指輪が鈍く光っている。そして男性の左手にも違うデザインの結婚指輪が。。。
つまりこのふたりは既婚しているにも関わらず、恋人なのである。女性が結婚に自らの感情や意志をもちこむことは考えられなかった時代に、モデルとなったこの貴婦人は従来の枠をこえ、感じるままに行動した新しい意志的で魅力的な女性だったのである。たとえ不謹慎で半道徳的との誹りを受けても。

首相の地位に固執するシュレーダー氏をけとばし、敵対二大政党の大連立をつくりあげるために、一ヶ月もかけてメルケル首相は閣僚数の半分、8つのポストを社民党に渡さなければならなかった。しかも雇用問題の主管閣僚となった副首相を兼ねるミュンテフリング社民党党首は、社民党の入閣者リストを割り振りを独断で決めた。外相、社会労働相、財務相という重要なポストにも関わらず。
「同床異夢」
マネの絵にあるように新しい女性は、心の接点をみいだせない同床異夢の夫とは違う対象に進んでいく。それこそがこの絵のもうひとつの隠された魅力を訴えてくるのである。

年金制度、税制、医療・雇用保険という旧式のドイツ製を見直しして、自立市民国家へとドイツを再生させる情熱に満ちていたメルクル首相がこの絵を前にして、どのような所信表明をしていたのか、かなうならばモデルの貴婦人に尋ねたい気がする。

(余談だが、紳士がもっている葉巻は男性のシンボルを象徴している。)