千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「ミッシャ・マイスキー」 チェロリサイタル

2005-10-30 22:49:17 | Classic
チェリストには、何故か髭が似合う。それもN響のコンサート・マスターの”Sまろ”さんのように端整に手入れをした髭ではなく、ごく自然な髪型と同じような自由な印象を与える髭だ。なかでも、現ラトビア共和国リガ出身のミッシャ・マイスキーの髭は、のびのびとした歌心をもつ音楽性と通じている点では、これ以上髭の似合うチェリストにふさわしい演奏家はいない。

チェロという楽器の魅力は、人間の肉声に最も近いことと良く言われるが、遅ればせながら、私は今回のリサイタルによって本当の意味でその理由を理解したようだ。それはすなわちチェロという一台の楽器が、これほど様々な人間の感情を深く、繊細に表現できることの驚きである。同じ弦楽器であるヴァイオリンほどの華やかさには欠けるが、音のやわらかさと強さ、深みと憂いに満ちた音の響きは、まるで音楽に身もこころも包み込まれるような心地よさを感じる。そして何よりもヴィルトーゾである演奏者、ミッシャ・マイスキーのたとえようのない情感に満ちた音楽性と表現力に感嘆した。これを伝えるには、どのような言葉をもっても不可能であろう。

今回の日本ツアーに予定されていたピアノ伴奏者(愛娘リリィ・マイスキー)が急病のため、カリン・レヒナーに変更になったために一部曲目変更。そのため一番聴きたかったベートーベン「魔王」がプログラムからはずれたのが、非常に残念だった。しかしいたしかたがないとはいえ、このような事態を最も残念で寂しく感じているのは、ミーシャご本人であろう。そのせいであろうか、全体の曲目構成としては、ややバランスに欠けているような気もしなくはない。やはりチェロ・リサイタルには、1曲無伴奏がないとややもの足りなさも残るものである。或いは、近年厳粛なる音楽の構築というよりも、歌曲をチェロ曲に編曲して演奏するなど、より柔軟で自由な抒情性に向かっていることもあるのかもしれない。

最初のバッハのソナタは、席が2階RAブロックという位置のせいか、ピアノの音が大きく、チェロとの融和性が欠けているように思えた。華麗なる音楽暦をもつ伴奏者のカリン・レヒナーのバッハは、文字どおりの華麗すぎる演奏スタイルで、バッハ本来の様式美からあまりにもかけ離れていて疑問である。
次のシューベルトは、まさに音楽の神が宿るかのような演奏だった。ウィーンの深い森を散策しながら人生なかばを思索しているおり、しめった陰りに樹々のざわめきがかすかに感じられると、次の一瞬の後にやわらかであかるい光がさすような、ひかりと陰、哀しみやなぐさめ、優しさが交互に織り成す音の色に、ミッシャ・マイスキーのふところの深い芸術性が感じとれる。映画「ピアニスト」の主人公のピアニストがシューベルトにこだわるところの意味をも示してくれた演奏ともいえる。私の貧困な語彙では言い尽くせない感動だった。至福の時とは、まさにこのような時間をいうのであろう。

後半は、伴奏者との息もあい、民俗色豊かなエンターティメント性を披露した。そこにもうじき60代に入るミッシャ・マイスキーの現在の心境がのぞける。
アンコール曲は、なんと6曲!ロシアの歌曲を中心にレパートリーの豊富さと研究熱心さに改めて敬服する次第である。衣装はいつものイッセイ・ミヤケ。
CDを購入するとサインをもらえるということで、メンデルスゾーンの作曲を集めたCDを早速購入する。(アンオール曲の入っている「ヴォーカリーズ~ロシアン・ロマンス」が一番人気)このCDにも大満足で毎日聴いている。ピアニストは、カリン・レヒナーさんの弟さんであるセツジオ・ティエンボ。楽屋では、彼女の可愛いお嬢さんにも対面した。


-------2005年10月29日   サントリーホール---------------

J.S.バッハ:チェロ・ソナタ 第3番ト短調

シューベルト:アルページョネ・ソナタ イ短調 D.821
 
シューマン:幻想小曲集 op.73

ファリャ:スペイン民謡組曲

バルトーク:ルーマニア民俗舞曲

■アンコール曲

リムスキー=コルサコフ:薔薇に魅せられた夜うぐいすは 作品2の2

ファリャ:火祭りの踊り

ラフマニノフ:乙女よ、私のために歌わないで 作品4の4

サン=サーンス:白鳥

作者不詳:私があなたに会った時

カタロニア(カタルーニャ)民謡:鳥の歌


「デカルトの密室」瀬名秀明著

2005-10-29 13:39:57 | Book
朝から霧雨が降る晩秋の午後、玄関の呼び鈴がなり、扉を開けると雨に濡れた鉄腕アトムのようなロボットがたっている。

「はじめまして、ぼくはケンイチ。ご注文ありがとうございました。」
この礼儀正しいロボットは、ネットで注文した。まるでホンモノの小学3年生の日本人の男の子に見える、人工知能を搭載しヒューマノイド型ロボットを選んだのだ。

そんな日が、はたして未来にやってくるのだろうか。瀬名秀明氏の「デカルトの密室」は、そんなこどもの姿をした完全自律型ロボットのケンイチを主人公に、彼を”生んだ”ロボット工学者・尾形祐輔が書いた物語である。はたしてケンイチに”マインド”は、あるのだろうか。
そしてもしもケンイチのようなロボットが開発されるような世の中になったら、ロボットは人間にとってどのような存在になるのだろうか。非常に便利な単なるツール、それとも社会に共存する”なかま”になりうるのだろうか。・・・不覚にも最後の、ケンイチと祐輔の会話を読んで、泣いてしまった。だから、ヒューマノイド型ロボットの開発には賛成しかねるのに。

軍事ロボットや医療用ロボットのシステムAI開発で、巨万の富を稼いだ《プロメテ》社主宰の、人工知能コンテスト(天才数学者アラン・チューリングを記念して1990年からはじまっている)に参加するために、ロボット工学者・尾形祐輔は、ロボットのケンイチと、恋人である進化心理学者、一ノ瀬玲奈を伴ってメルボルンにやってきた。そこで思いがけずに、10年前に自動車事故で亡くなったはずの、美貌の人工知能学者フランシーヌ・オハラに遭遇する。しかも車椅子にのっている彼女につきそっているのは、恐ろしいくらいに彼女に似た精巧なロボットである。忠実にフランシーヌの肌を再現し、濡れた質感も表現するロボットの眼窩を見つめていると、祐輔はフランシーヌとはじめて出逢った、世界数学オリンピックに参加した時のケンブリッジでの夜を思いだす。20年前、ふたりは日本人代表として大会に参加し、優勝した。そして最後の夜、映画「2001年宇宙の旅」のHALとフランク宇宙飛行士のように、チュスの対戦をする。

その時の情景を思い出す祐輔は、嫌な予感にとらわれる。やがてコンテストは、参加者にチューリング・テストをはじめるが迷走していく。そして祐輔は「中国語の部屋」に幽閉され、逆さめがねをつけられ10代から事故で下半身が不自由な体をベッドにしばりつけられる。祐輔を探す不安なきもちいっぱいのケンイチは、とうとう何者かによって仕組まれた罠にはまり、「フレーム問題」に抵触してフランシーヌを射殺するのである。

主人公であるロボットのケンイチは、起動してから人間らしさを少しずつユウスケやレナから教えられていく。話しをする時は、相手の目を見て話すこと、更に扉を開けて出て行くとき、次の人が続いていたら扉を押さえて待っていること。やがて見てはいけないものに遭遇した時は、自然に視線をそらすようになる。ユウスケの車椅子を押す時に、みぞにはまったら自然にひきあげることもする。そして近頃は、ユウスケのように小説を書いてみたいと思っている。コンピューターにアクセスできるから、ケンイチの知識は豊富だが、”智恵”は別のものである。
けれども飛行機に乗るときは貨物扱いのケンイチは、人間のこどもと同じように成長していくのである。
「ユウスケとレナはぼくを大切に思い続けてくれている。だからぼくも思い続ける。ぼくは自分で選ぶんだ!」
ケンイチのこの決断には、ロボット工学者の見果てぬ究極の夢を象徴している。

「我思う、ゆえに我あり」
哲学者デカルトは、”私”が考えていること、それが私という人間の根拠を唱えた。デカルトは、肉体を精密な機械と認め、人間を人間たらしめているのは理性的魂であり、それは神の領域でいかなる機械によっても再現は不可能であると考えた。このデカルトによる宿題は、”私”はどこにあるのか、人間らしさとはなにか、という人類に課題を与え、しばしば我々をその密室に閉じ込める。そんな哲学と、どこまで人工知能は可能なのか、この宇宙に人類のような知的生命体を宿した意味はなんなのか、ロボットと人間はどのような関係を築いていくのだろうか、瀬名秀明氏の本著は多くのテーマをもりこんだ稀有なSF小説である。ロボット工学や哲学など、難解な会話が全編をおおうのだが、完全に理解しなくても作品の中で作家である祐輔のケンイチをモデルにした小説を書く意図と、こころは充分に伝わる。
祐輔が熱く語る”科学にも物語が必要”。これは、瀬名氏が日本の科学者12人と対談した時の安田喜憲氏の言葉にリンクする。(詳細は「科学の最前線で研究者は何を見ているのか」を参照されたし)

ガイドブックなどを買って、マニアックに細部をつつくのは不要。大事なのは、自分はこの物語をどう感じ、どう考えるのかということだ。人工知能の開発は、現状ではいきづまっている。だから、私も、あなたも、今生まれたばかりの赤ちゃんも、ケンイチのような素直で純粋で表情のある愛らしいロボットに会うことはかなわない。けれどもずっと遠い、遠くの未来で考える人々に重ねて、時空をこえて本著を読みながら、作家である瀬名氏や祐輔とともに、あなたにとってロボットはどんな存在なのか、真剣に考えるのは実に感動的で価値がある。今の時代に、このような作家と出会えたのは幸福だ。
「パラサイト・イブ」から10年、瀬名氏のもうひとつの研究はまだまだ続いている。

「これは『知能(インテリジェンス)』についての物語だ。」   -尾形祐輔

瀬名秀明さんの公開講義

小泉今日子さんの本棚

2005-10-27 22:39:14 | Nonsense
女優のキョンキョンこと小泉今日子さんは、読書好きで有名だそうだ。そんな噂と自伝風エッセーの評判から、今年の7月より読売新聞の読書委員のメンバーに白羽の矢がたち、読者に彼女の新鮮な書評が届くようになった。その書評(よみうり堂)が実に素適なのだ。私とは読書傾向が異なるが、忘れかけた、どきどきわくわくするような、また胸がときめく洗いたての真っ白な文章が綴られている。本の選択は、月に一回評者が集まり、積まれた本から興味をひいた本を持ち帰って読むそうなのだが、10代なかばから芸能界でタレントとして虚構の世界を生きてきて、家庭をもち、やがて再びひとりにかえった、いかにも小泉さんらしい静かで繊細な感受性がうかがえる本の選択である。

今日から読書週間ということで、小泉さんと彼女が主役を演じた映画「空中庭園」の原作者である角田光代さんの対談が掲載されていた。そこに小泉さんのご自宅の本棚(本人撮影)の写真ものっていたのであるが、所謂作家のような壁一面の天井まで届く本棚でもなく、また芸能人的なハイセンスなインテリアでもなく、ごく普通の通販で購入したような女の子の部屋の本棚という趣なのが、ちょっと微笑ましい。

作家の中で小泉さんの初恋の人は、太宰治さんだとか。アイドル時代、テレビに映るお調子ものの自分と、本当の自分との違いに苦しんでいる時に太宰の「人間失格」を読み、一時期恋をしたそうだ。女性は、一度は落ちる太宰である。その後向田邦子さんの小説を読み、恋愛って秘密だからすてきなんだ、秘密自体もすてきなんだなあと感じる。(私だったら、”素適”という字を使いたいところだが、小泉さんは”すてき”。その表現が、実に彼女の選ぶ本の雰囲気にマッチしている。)
そして読書の魅力は、小泉さんに言わせると、

「一人なのに興奮したり、うれしくなったりと、感動が動くのは不思議で楽しいこと。それには、本が一番向いている。」

何故、自分は読書が好きなのか。あまり考えたことがないのだが、体を動かさなくてもよい娯楽、という横着ものだからと漠然と考えていた。それに好きか嫌いかに理屈は不要。けれども改めて考えてみると、読書をすることによって多くの数え切れない登場人物の感情や理論、喜びや悲しみ、愛情、失望につきあってきたことになる。小泉さん的な表現では、”感動が動く”この体験は、本のなかの架空の人物、または実在の人物に自分を同化し、それぞれの人生の濃密な部分を自分の人生に重ねることによって、太くて確固たる内なる樹木を育てていることにつながる。それに作家の柴田翔氏も、自分が生きてる宇宙のことも、体のことも知らないまま死ぬのは残念だから、東京大学を定年退職した残りの人生は、本をたくさん読みたいと語っているように、あらゆる分野で知的好奇心をこれほど手軽に満足させてくれるものもない。

にも関わらず、若者を中心として読書離れはすすんでいることが世論調査で判明した。この一ヶ月間、本を読まなかった人は52%。残念なことだ。世界には、字を読めない人も多いのに。そして、読めば9割の人が満足するという。そうだ、やっぱり読書は、楽しい。だから今夜も金曜日だから、夜更かしして本を読もう。

中国で荒稼ぎしていたクリントン前大統領

2005-10-26 23:15:25 | Nonsense
米国前大統領であるビル・クリントン氏の近影を見た。
金髪が見事な白髪に変わり、体重も少し落とし、すっかり好々爺のような姿に歳月の流れを感じた。かっての若々しい面影はなく、政治家というよりも学者のような実に落ち着いた風貌である。

そんなクリンントン前大統領であるが、私生活は絶好調のようである。妻であるヒラリー夫人は上院議員として活躍し、次期大統領候補として度々名前があがっている。そして最も重要な引退後の懐具合である。

先月、クリントン氏は中国を訪問し、講演(好演)活動を精力的に行った。招待側は、「中陸配送」「2005年中国インターネット頂上会議」「国際フォーラム」などでこれらから得た講演料は、なんと100万ドルである。この荒稼ぎだけで、前年度の総所得875000ドルを上回る。大統領に就任する前は、妻の方が有能な弁護士として収入が多かったのだが、引退してちゃんと一家の大黒柱になったのだ。思いおこせばクリントン大統領は在籍時代、中国とは比較的親密な関係だった。あかるく、誰をもひきつける魅力は、たとえ加齢がすすんでも引退後も衰えることはない。そのタレント性を充分に発揮して、03年11月、清華大学で開かれたエイズ・SARS退治国際討論会に参加し、講演とイメージ広告で300万ドル以上の巨額な報酬を得ていたのである。

クリントン氏のこうした報酬に関しては、米中租税協定により中国では所得税を免除されている。どうせ行くなら、中国へ。というわけではないかもしれないが、こういうのを中国では、「揺銭樹」(カネのなる木)というらしい。

一方、斜陽化してはいるが大国である英国のブレア首相であるが、再来年07年の引退以降は、世界最強のプライベート・エクイティ投資会社として知られる米「カーライル」に入社するとの観測だ。
年50万ドルの高給が約束されている、というのが英労働党筋の情報。なかなか魅力的な次の職場といえよう。

そしてもう一人忘れてはならないのが、ロシアのプーチン大統領。法律をかえても、大統領3選を狙っているのではないか、というのがもっぱらの噂である。何しろこの国では、昔から権力ほど魅力的なものはなかった。そんな彼を牽制するかのように、獄中の石油王だったミハイル・ホドルコフスキーから、誕生日に辛らつな手紙が届いた。
 -元KDDの”成り上がり”誕生日おめでとう

それぞれのそれからの物語である。

『卒業の朝』

2005-10-25 23:30:18 | Movie
先日観たテレビ番組で、都会のサラリーマンだった30代半ばの男性Kさんがリタイヤして、沖縄に移住してきた生活を紹介していた。海辺の小奇麗なアパートに住み、ウエブデザインの仕事を請け負って生活費を稼ぎつつ、釣った魚を料理する妻とともにスローライフな生活を楽しむ毎日だ。月収は10万円、以前の4分の1。けれども穏やかな日々を楽しむKさんは、サラリーマン時代よりスリムになり、いかにも健康的な印象だった。
高校時代、入学式の最初の授業で、ある教師が「君たちは、東京都民の税金を遣っているのだから勉強する義務がある」とおっしゃった。後年この言葉は、卒業しても何かのおりによみがえるのである。それは、自分は社会に貢献しているのか、という問いかけとして、当時は予想もしなかったカタチとなって自分を試してくる。

Kさんの生き方を否定するつもりはない。それはそれで、ひとつの生き方ではある。けれども月収から考えて、納税は殆どしていないだろう。自治体、行政のサービスは受けつつも、このようなスリーライフな生き方は、あくまでも自分、自分たちのための人生であり、社会に貢献するという意識は少ないのだろう。

「卒業の朝」の舞台になった聖ベネティクト男子校は、全寮制の名門エリート高である。入学式の式辞は、校長の「自分のために、人のために生きよ」という訓辞ではじまる。そして緊張したおももちの生徒を前に、歴史を教えるウィリアム・ハンダート(ケヴィン・クライン)は、ひとりひとりに名前を尋ねていき、歴史の片隅にすっかり忘れ去られた者の名前と、アリストテレス、ソクラテス、キプロス・・・こうした偉人たちの名前を比較して、歴史においては“功績”よりも“貢献”によって偉人たちは名を残すと弁をふるう。謹厳実直で、規則に厳しく確固たる教育的信念を持つ彼は、生徒からみればけむったい存在の教師ではあるが、その情熱的で魅力に跳んだ授業にやがて誰もがひきこまれていく。

そこへある日、上院議員の子息であるセジウィック・ベル(エミール・ハーシュ)が転校してくる。問題行動の多い彼だったが、生徒たちは彼の人をひきつける不思議な存在感によって、徐々に彼の世界にまきこまれていく。そんな彼にいかにこの学校においては必要な知識が欠けているかを、ハンダート先生は熱心に時には厳しくさとらせ、古代西洋史の知識を競う「ジュリアス・シーザーコンテスト」への出場意欲をひきだしていくのであるが。

歳月は流れてそれから25年後、実業家として大成したセジウィックから同窓会の招待状が届いた。そこには同じメンバーで「シーザーコンテスト」をもう一度開催したいという誘いがあった。誰もが中年になった懐かしい顔が集まる、セジウィックの豪華な別荘。学者や教育者になったかっての同級生には無縁な華やかな生活ぶりである。そし老いた先生を出題者として、白熱したコンテストが再び幕を開けたのだが・・・。

この映画について、ストーリーを多くは語らない。何故ならば、ありふれたアメリカ映画らしい教師と生徒の信頼と愛情の結びついた学園もの、という観はじめた予測を見事に裏切る構成の妙に驚かされるからだ。競争と効率性を求める資本主義社会では、セジウィックのような人物が育つのもむべなるかな。コンテストの予備選で、先生がある生徒に手心を加えるかどうか悩む場面がある。今までの信念をまげても、その生徒の教育的な効果を期待して大目に点数をつけるべきか、否か、ケヴィン・クライン演じる教師の誠実で端正な額が逡巡でゆがむ。ここで私も登場人物と同じような緊張感をもち、自分もまた同じような行為をしただろうと思う。けれども、こころの片隅で点滅信号がまたたくのである。絶対的評価でなく、相対的評価における“てごころ”は、たとえ教育的な配慮といっても公明正大で平等な競争でなく、不正義という汚点を残すのである。

やがて校長に就任するも、教師としては優れているが、寄付金集めに不熱心で経営者としては失格と言い渡されたときの老いた教師の表情、コンテストでのめまいがするような衝撃と失望、ひそかに想いを寄せていた女性が、夫のオックスフォード赴任に伴ってこの地を離れるという挨拶にきた時の、動揺を必死におさえて笑顔で見送る若かりし頃の表情。ここに観客は誠実で、人徳にたけたひとりの教師の姿を見る。ケヴィン・クラインが、こんなに巧みな俳優だったとは、と今さらながら気づかせられる。そして監督に彼を見つけたのは奇跡とまで言わしめたエミール・ハーシュは、独特のオーラを放つ。

父親のコネでエール大学に進学し、ビジネスの世界で成功をおさめ、社交的で美しい妻と賢く健やかな男の子ふたりを伴い、豪華な別荘で同窓会を開くセジウィックは、人生の成功者として完璧ともいえる。自信に満ち溢れた笑顔のスーツ姿には、かっての問題児だった面影はみあたらない。けれども昔も今も彼の本質をみぬいたのは、彼の教育に熱心だった教師だけだった。

このすべてにおいて満ち足り、輝いているセジウィック。確かにこういう男はいる。そんな彼を眺めているうちに、やがてある人物の顔を思いうかべるようになる。
それは米国のブッシュ大統領だ。そして、民主党のゴア副大統領との大統領選を思い起こさせる。あの、不可解な10分間だ。

レストルームではちあわせた先生は、目にうっすらと涙を浮かべて悔恨とともに、彼にこう伝えるのである。

「人は人生において、必ず一度は、鏡に映る自分自身と真剣に向きあわなければならない」

監督:マイケル・ホフマン 
原作:イーサン・ケイニン 「宮殿泥棒」



「赤ちゃん売ります」中国イーベイのネットオークション

2005-10-23 14:45:54 | Nonsense
中国『イーベイ』に赤ん坊「出品」 (HOTWIRED) - goo ニュース
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中国の上海警察は現在、『イーベイ』の中国サイトに掲示された「赤ん坊」のオークションについて捜査している。
この「出品」は掲示後すぐに削除されたが、関連情報が捜査当局に提出された。

複数のメディアが報じたところでは、男の子には2万8000元(約40万円)、女の子には1万3000元(約18万円)の即決価格が付けられていたという。この値段の差には、男の子が好まれるという中国の昔からの傾向が反映されている。出品ページは、生後100日以内の赤ん坊を届けることを保証していた。
このページには、「われわれの目的は、子供を授からない中国国内のたくさんの夫婦に朗報を届けることだ」と書かれていたと、上海の『新聞晨報』紙は報じている。同紙は読者からの情報でこのオークションのことを知ったという。
上海警察の広報担当者は、この件に関する情報は得ていないと述べたが、この件を地区の署が処理していると示唆した。だがイーベイ・サイトのオフィスがある上海の黄浦区の警察には、このような事件の届出はなかった。
中国の法律では、幼児を販売した者に対して最高で死刑、買った者や仲介した者にも、それよりは軽い刑を宣告することができる。だが、このような販売のオファーだけで犯罪となるのかどうかについては定められていない。

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およそ1億5000万人の登録会員を抱える米イーベイ社は、もはや肥大化した巨大企業である。10年ほど前に開設されたばかりのネット・オークション・サイト「イーベイ」に出品された商品数は、現在14億点を超える。全世界でオンラインでの購入分の14%を占めるほどになった。だからというわけではないが、まるでできの悪いサスペンス映画を観るような赤ちゃんの出品である。こうした人道にはずれる出品は、つい最近にももちあがった。それは黒人差別の関連商品である。

例のひとつとして、黒人を漫画的に描いた貯金箱で、人種的・社会的正義を推進する「ナショナル・アライアンス・フォー・ポジティブ・アクション」のアール・オファリ・ハッチンソン会長によれば、この商品をアフリカ系黒人への侮蔑を表していると不快感を示す、しかしイーベイ社としては、「人を罵ったり、不快にさせたり、侮辱したり、何らかの形で名誉を傷つけたりする」ような言葉の使い方をしている出品は削除しているが、物品販売の説明にこのような言葉使いをしていても削除はしていない。利用者の”差別に対する敏感さ”と”売買したい要求”とのバランスをとることに気をつかっているという。そのバランス感覚は、2001年からナチスやKKK団に由来する物品の掲載の禁止措置を法的トラブルをさけるためにはじめたが、人種差別的な表現を用いた書籍やCDは、削除しないという感覚だ。そしてイーベイ社だけでなく、ヤフーなどのネットオークションサイトの隆盛で、黒人差別商品の販売は増加傾向にあるという。

ネットによる相手の顔の見えない商取引は、こころの底の憎悪や悪意という醜い部分をさらすという”羞恥心”を感じることもなく、欲望のままに行うことができる。そして人身、差別主義、臓器、すべては、オークションサイトに”出品する”という簡単な方法で、瞬時に商品化できることをも案内している。こうした法的に問題のある出品に対して、イーベイ社の不正探知ソフトウェアは、疑わしい取引を調査する社内の調査担当者に警告を発するが、同社の幹部も、毎秒2000点もの新規出品を受け付けるサイトを完全に監視するのは不可能だと認めている。こどもを授からない夫婦への朗報という悪質な善意をみせかけるこうした人々、人種差別関連商品が好んで落とす購入者、このような”人種”の暗い闇に慄然とする。

最近も空中爆破した「コロンビア」号の残骸という商品を出品される(後に削除)という事件もあったばかりであるが、逆にこうした「イーベイ」などはあまりにも大手サイトだから、利用者からの警告というネット上での監視やチェック機能も働く部分もある。本当に怖いのは、こうした大手にとてもたちうちできないために、扱う商品を専門特化したブティックのようなニッチ分野のサイトだ。それもアンダーグランドの。そのような需要と供給のバランスに優れた市場、そこには”人道”を失った仮面をみるばかりだろう。


『同い年の家庭教師』

2005-10-22 22:24:55 | Movie
「映画情報は偏っている。商業メディアでは業界のしがらみから本当のことが書けない。せっかく金を払って、つまらないものを見たときの腹立たしさ!金返せ!時間を返せ!」
こういうアジテーションのコンセプトのブログを開設されている映画侍さんだったら、どうこの映画を斬られるのか、ちょっと聞いてみたい気がする。男を選ぶセンスはないかもしれないが、映画の選択眼はあると自負していたのに、全然つまらないではないか!お金は兎も角として、命短し、乙女の貴重な時間を返せ!つまらないといいつつ、結局最後まで観たのは、クォン・サンウの”脱いだらすごかった”↓(◎◎)カラダへの更なる期待感かもしれないが・・・。


2年留年した20歳の高校生ジフン(クォン・サンウ)は、めっぽうケンカが強い。転校先の番長など、煙草を吸う片手間にかたづけられてしまう。長い手足の切れ味は鋭く、敵の行動を予測する感覚も鋭い。けれども、苦手なのが勉強。それでも父親のために、高校だけは卒業したいと密かに思っているファザコン。そんなジフン様と自称する彼のところに家庭教師として雇われてやってきたのが、同い年の大学2年生のスワン(キム・ハヌル)。母親同士が元同級生というツテで、高額な報酬につられてやってきたのだが、このふてぶてしい教え子にてこずり、毎日爆発。なにしろ”田舎娘”と、全くそのとおりなのだが、まるで相手ににしていない。
そんな会えば喧嘩ばかりのふたりだが、恋愛映画の法則に従って、やがては気になる存在になっていく。
喧嘩ばかりで、本当の恋をしたことがないジフン様は、意外にも純情だったのだが、単純な直情型なのでスワンをふったライバルを、殴りに行く始末。コメディ路線は、まだまだ続くのだが。。

ストーリー展開が、あまりにも単純すぎて笑えもせず、きゅんと乙女心にくすぐるものもなく、セリフも平板だった。ジフンが何故不良に走るのかという背景も不明、ふたりが意識してひかれていく過程も全然描かれていないし、登場人物たちのキャラクターの魅力も乏しい。ジフンの友人役で、非常にインパクトのある顔の俳優が登場してくるが、せっかくの個性もこの映画では存在感がうすい。せっかくやる気をだし、定期テストで50点以上をとると宣言したジフンに対して、絶対不可能と決め付けるスワンも、次の展開へ運ぶためのさえない流れになっている。それに、こういうタイプの女はいただけない。

主人公ふたりの表情豊かで自然な演技がよかっただけに、素材を活かしきれなかった脚本と映画監督の力不足ともいえよう。それとも単に高校生対象なだけなのだろうか。
韓国おこさま料理は、いただけない。

おさらい政府系金融統廃合

2005-10-21 23:06:48 | Nonsense
郵政民営化法案成立。入口を攻めたら、次はいよいよ出口である政府系金融統廃合だ。竹中平蔵・経済財政政策・郵政民営化担当相のかけ声が聞こえてきそうである。そこで、漠然としていた政府系金融のおさらい。

政府系金融銀行は、政府が全額出資している特殊法人で民間金融機関が融資しにくい事業などを対象に、融資を行っている。07年度までは国が国債(財投資)を発行して、こうした特殊法人に貸し付ける。現在、実質国債を購入している郵貯、我々のささやかな貯金から7.8兆円が流れているのである。このまるでアマゾン川のような流れを断つのが、小泉首相のいう改革の本丸、郵政改革と二の丸政府系金融統廃合である。この小泉$竹中のコンビの実質的な設計図を書くのは、民営化準備室と改革準備室の参事官を務め、「竹中の頭脳」とまで評価される旧大蔵省出身、金融工学の専門家でもある異端児・高橋洋一氏である。

こうした竹中サイドの改革案は、冷酷でもある。中小企業向け貸し出し業務は全廃。景気が回復して、民間金融が中小融資に力を入れているところ、なにも政府の一機関が固定金利の長期融資を行う必要はない。民業圧迫だというのだ。そこだけを聞くともっともだと思えるのだが、1998年、米国流の金融検査マニュアルを導入し、自己資本比率を国際決済銀行の統一基準である8%以上を目標に掲げたために、分母にあたる貸し出し資産の圧縮のために、銀行によるなりふりかまわぬすさまじい貸し渋り、貸し剥がしによって、中小企業残酷物語が延々と続いていたのをお忘れだろうか。
不良政権の整理ができると今度は、融資攻勢に寝返っている。中小企業への融資は、利幅が大きいからもうかるからだ。
それだけではない。取引上の優位な立場を利用して、融資先の中小企業にデリバティブの購入を強引にすすめて、公正取引委員会の審査がはいったばかりではないか。必要な時には冷たく手をきる民間銀行が、態度をかえて融資を誘ってたとしても、男女の関係に似て態度が豹変するこういう男(銀行)は信用できない。だから安定した関係を政府系金融機関にすがりつきたい中小企業の気持ちもわかる。

国内において中小企業は、企業数でいえば全企業の99%を占めているのである。それだけ多くの中小企業が、産業の裾野に広がっているのである。こうした中小企業の大半は、大企業の下請け業者として、不利な取引条件をのんで貢献している。大企業の国際競争力、社員の高給、高待遇に、である。このような大企業との収益・賃金格差を、単純に勝ち組・負け組などというカテゴリーにわけられない表裏一体の部分がある。景気の踊り場脱却という明るい陽射しは、こうした中小企業には届かない。そんな中小企業を、竹中担当相は、市場原理からすれば淘汰されるべき会社が延命され、経済活性化を妨げているとまで言及している。

「国民生活金融公庫」「商工中金」「中小企業金融公庫」「沖縄公庫」は真っ先に消える。結局生き残るのは、原子力発電所の建設など融資リスクの高い「日本政策投資銀行」や、ODAなどをてがける「国際協力銀行」だけであろう。財務省の天下り先でもある政府系金融機関を守りたい役人たちに対し、小泉・竹中ラインは、果たしてどこまで切り崩すことができるのだろうか。

「寄生虫博士のおさらい生物学」

2005-10-20 22:47:38 | Book
「生きものって何だろう」「生きていることって何だろう」などと考えたことはあるだろうか。

藤田紘一郎博士の問いかけである。このようなことを自問したことのない方は、失礼ながらおよそ想像力のない御仁だと思う。けれども、哲学的でも抽象的でもよいから、なんらかの(自分なりの)解を見いだすことは難しい。生きているって心臓が動いていること?、それでは植物は、ウィルスは?ついホモサピエンス、ヒト科を中心に考えがちな私に、寄生虫を体内にペットとして共生させている”寄生虫博士”藤田先生は、地球上の様々な生き物の中の、ほんのひとつの形態であることを諭しながら、優しく、楽しくわかりやすい講義をしてくれる。それが、この著書「寄生虫博士のおさらい生物学」である。
先生は、「生きるとはそもそもどういうことだったのか」という出発点から、中学・高校生対象の課外授業としての「教科書」を上梓されたのである。

今から36億年前、地球が誕生してから10億年後のことであるが、原始の海では水素、一酸化炭素、二酸化炭素、アミノ酸やその他の塩基が溶け込んでたんぱく質が生成されていた。これらの単純な化合物は次々とつながり、やがて高分子化合物となる。こうしてできた脂肪が膜をつくり、DNAやたんぱく質を包み込んだ。細胞のはじまりである。

私の高校では、1年次は生物・地学、2年で物理・化学と、文系、理系に関わらず、ひととおりの理化の基礎は必修だった。受験には不利かもしれないが、後年このようなカリキュラムを納得した。3年ではより高度な生物を選択科目として再度学ぶも、恥ずかしながらすっかり忘却のかなたである。生物関係の一般書を読むと、知識の不足があしかせになっていることを感じ、まさにタイムリーにこの著書とであったわけである。平易でわかりやすく、おもしろい内容もさることながら、角慎作さんのイラストが親しみやすく、ユーモラスで素適なのだ。かって自分もノートに書いて覚えたミトコンドリア、ゴルジ体、核、液胞、細胞質・・しばし懐かしく思い出された。前半は、まさに生物の基礎をさらいながら、後半はゲノム解析からくる難病への治療という夢、その反面おかされつつある生命の尊厳や倫理、ビジネスという遺伝子工学から生命革命へのシュンな話題をとりあげ、さらに本業の免疫系という見事なしくみから予防医学まで、先生の講義は絶好調である。
一家に一冊、とお薦めしたい著書である。

生命とは、「自分と同じ物質を限りなくつくることができる物質」
藤田先生はこのような結論だが、さて、私にとっては生命とはなんだろう。

*放射線医学研究所の島田義也さんと原田義信さんらが、遺伝子の仕組みをカードで学ぼうと「遺伝子トランプ」を考えた。DNAのA・G・C・Tをそれぞれトランプのハート・スペード・クローバー・ダイヤに換えて、塩基各種類でそれぞれ1から12まで番号をつけてカードを作った。対になる塩基の種類で数字を並べることができる「七並べ」ゲームや、一定のルールにもとづいてカードを組み合わせる「遺伝子合成ゲーム」などもできるそうだ。小学生の頃からこのようなゲームを通して遺伝子になじむことは、豊かな教育につながるかもしれない。なにしろ、21世紀は生物の時代だから

「のだめカンタビーレ」は歌う♪

2005-10-19 22:50:52 | Classic
もはやまえおきも説明も不要、”ノダメ””千秋さま”は、会話に欠かせないキャッチボールの如く、売れていて評判の漫画である。
NHK教育テレビ「芸術劇場」でも大真面目に、おもしろい、よくできている、という高い評価でとりあげた二ノ宮和子さんの漫画「のだめカンタビーレ」である。かねがね読みたいと願っていたところ、勤務先で「のだめ普及委員会」なるものが発足し、私もその会員になり3番めのポジションで漫画を借りることになった。(おかげでちょっと寝不足気味・・・)

現在8巻まで読了という時点ではあるが、千秋とのだめとのファンタジーな関係、彼らの音楽性と仲間の人間模様を把握しつつある。この漫画の価値を認めてはいるが、独断と偏見でつぶやいてみたい。
のだめの天才的な音楽性の証明としての得意技として、楽譜を読まずに耳で聴いた音楽を再現する能力がある。確かに生まれつき、所謂耳がよい人はいる。しかし、のだめほどの能力は、自閉症にみられる特異な才能のケース以外は、あまりないように思われる。自閉症には、一度聴いた音楽をピアノで弾いたり、見た風景をそっくり細かく再現して絵を描くという驚異的な才能をおもちの方がいる。これはまだ科学的に解明されていない事象であるが、脳の気質に係るこの病となんらかの関係がありそうだ。けれども、その能力と音楽性は、全く別の次元の話である。ルノワールの贋作を上手に描ける才能とその人自身の画家として才能は、別物といえばわかりやすいだろうか。のだめの音楽家としての武器は、コピーする能力ではなく、内部にすでに音楽に共鳴する彼女独特の原石を生まれつきもっていることだ。テクニックは重要であり、必要であるが、その原石がふるえて音が鳴るところに、天才としての彼女の存在価値がある。今はまだ、それは磨かれていないし、くもっている。それに人間的に一途なよさもあるが、なにしろ思慮が浅すぎる。徹底的に楽譜を読み込むことによって、作曲家を理解する修行もたりない。音楽という魂にふれてもいない。だからこそ、音楽家としても、ひとりの女性としても今後の成長が楽しみ。
のだめは、部屋の整理整頓をしないで散らかし放題であり、また食いしん坊でもあるが、そういう音楽家もけっこう多い。

そののだめが、お風呂に入っているところを覗き見するくらい大好きな先輩、ピアノ科に所属しながら指揮者をめざしている千秋先輩。のだめが平均的な一般家庭出身でおよそ音楽的な環境にない出自であるところ、千秋先輩は、音楽家の両親に生まれ、裕福な家庭で純粋培養されて育った。そういう男が、シンプルに無駄なく整理整頓を無意識に行い、洗練された家具に囲まれて優雅でリッチな生活をおくる、こういう音大生もけっこう多い。長身でルックスも整った自信家でもある千秋だが、誰よりも音楽に真摯に情熱を傾け、努力している。才能ばかりではない。すべての天才的な音楽家は、その才能だけに脚光があびるものだが、練習時間も並ではない。
そんな千秋がR☆Sオケを正式にはじめて振った曲が、ベートーベンの「英雄」。解釈と振りは難解とまではいかないし、若さを武器にフレッシュなオケの長所をひきだしやすい曲ともいえる。それに千秋様には、相性も良さそうだ。途中のヤマ場で、ヴァイオリンパートがいっせいに楽器を上にもちあげて弾くというパフォーマンスもあったが、高音をハイポジションで弾く場合、音を響かせるために楽器をもちあげるのは、ごく当り前のことでもある。それを視覚的なおもしろさにもちこんだり、千秋の次の曲がラフマニノフのピアノ協奏曲、なかなかいいところをついていると思う。ただ今だに漫画から、音楽が鳴ってこないのが、非常に残念。「いつもポケットにショパン」「翼ある者」は、絵から眩しいくらいの音楽が聴こえてきたのに・・。

モーツァルト「オーボエ協奏曲」を弾く黒木君の音、がいぶし銀からピンクにかわる場面、千秋の声楽家の卵の元彼女の歌が、ただきれいで整っていただけだったのに、ドラマチックに進化する様子、それぞれの登場人物の音楽的成長と人間としての成長がリンクしていくところに、おとなや音楽家もとりこむ秘密がありそうだ。それに、なんといっても彼らの会話がおもしろい。但し、ホンモノの音大生はのだめの登場人物以上に、恋にも音楽にも積極的かもしれない。それに奇人変人の巣窟っぽい・・・。

こんなのだめ人気に便乗して、千秋が振るR☆Sオケの「ブラームス交響曲弟1番」のCDが発売中!という切り抜きを普及会員番号2番より、見せていただいた。早速、銀座の山野楽器で手にとってみたが、あくまでも指揮者とオケは覆面を被っていて謎だ。けれども、この曲だけで2800円は高い!!だいたいブラームスの交響曲だったら1&3番のカップリングでこのお値段だ。これで演奏が平凡だったらどうするんだ。相手が初心者だからとなめてはいないか。なんだか、この土壇場に荒稼ぎという寒いクラシック音楽台所事情がつたわりそうなCD。まだ、この場面までたどりついていないので、千秋がブラームスという深い深い曲をどう振るのかまでは、イメージがわかない。最もシュンであるハーディングのようなブラームスもあうかもしれない。しかしR☆Sではこういう指揮では萌えないだろうな・・・。
さて、これから9巻目にはいりまっす。