千の天使がバスケットボールする

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『別離』

2012-05-04 15:13:16 | Movie
もう愛していないから別れよう。
欧米の恋愛事情では、別れる理由は愛情の喪失しかない。『ミラノ、愛に生きる』では、エンマは資産も家族も名誉もすべてを捨てて息子の友人の恋人の元に走っていった。人として正直に自分の人生を選んだエンマの行動に拍手。しかし、そこまで個人主義になれないのが日本人の私。

ある夫婦が家庭裁判所で離婚調停中である。
映画は、この夫婦、銀行員のナデール(ペイマン・モアディ)と英語教師のスィミン(レイラ・ハタミ)が観客に向かって、それぞれ離婚を申し立ている場面からはじまる。
妻は、一人娘の教育のために海外に移住するから夫が国内に留まるのならば別れたいと。
夫は、アルツハイマーを発症している父を残せないので、国内に留まりたいので別れたいと。
そして、どちらも娘は自分と一緒に生活すると主張して譲らない。

たたみこむようなセリフと”間”に、ドキュメンタリーを観ているようなリアル感がある。夫婦の容姿の端整さに、映画の中のお話だったと思い出さない限り。音楽もなく脚本が勝負のこの冒頭から、一気に集中していく。教育のために海外に移住したいという妻の願いもよく理解できるし、又、夫の老父を見捨てられない感情も当然だと思う。両者の申請は離婚理由にならないと一旦、却下される。

妻はスーツケースを片手にスカーフを軽やかになびかせて家を出て行く。日本の母だったら、多くはこどもを連れてということになるだろうが、イスラーム世界では夫の許可なく娘とともに実家に帰るという抗議はできないのだろう。夫婦の自宅からは、テヘランの合理的に西欧化しつつあるインテリの中産階級の暮らしぶりがうかがえる。

妻に家出をされて早速困ったナデールは、幼い娘を連れたラーズィエ(サレー・バヤト)という女性を家政婦として雇うことになる。ラージィエの存在は、美しく教養もあり、計画通りにカナダに移住したらさらりとスカーフを捨ててしまいそうなスィミンと対峙するように、信仰心が強く、黒く重いベールをまとっている旧来の伝統的な女であり妻として配置されている。彼女は名誉を重んじる失業中の夫に内緒で遠い自宅から2時間もかけて家政婦として働くために、他人の家にやってくる。そして、ある事件をきっかけに登場してくるのが、彼女の夫、すぐにきれるタイプのホッジャトだった。映画は、この二組の夫婦を中心に現代のイランが抱える介護、失業、貧富の差、教育、女性の社会進出、そしてイスラーム化政策がもたらす歪みと矛盾、不条理が次々とあらわれてくる。意外にも、日本社会とそれほど違いがないのではないかと共鳴していく。

しかし、貧富の差とは関係なく、そしていかなる社会で暮らそうとも、いつも最大な被害者はこどもたちである。2組の夫婦のそれぞれの娘の繊細な表情が、痛々しい。

監督のアスガル・ファルハーディー は、前作『彼女が消えた浜辺』で秘密と嘘からイランを描いた。本作も、秘密と嘘が事態をより複雑と混乱におとしている。しかも、その秘密と嘘からは、前作と同様にイラン社会が抱える不条理や混沌がうきあがってくる。脚本も演出も完璧。監督の娘も参加した俳優たちの演技も素晴らしかった。次々と事実があかるみにでて、ひとつひとつの謎があかされるが、すべての事実を知るのは観客のみ。しかし、最後の離婚調停の家庭裁判所のエンディングでは、娘の重要な選択はあかされずに、観客には裁判所での民衆の喧騒とともに秘密と謎が残されるという抜群のオチ。

本作はベルリン国際映画祭金熊賞をはじめ、数々の映画賞を受賞している。受賞も当然、実に密度が濃くて質が高い良い映画だった。

原題:Nader and Simin, A Separation
製作・監督・脚本:アスガル・ファルハーディー

■アーカイヴ
『彼女が消えた浜辺』