千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「数学で生命の謎を解く」イアン・スチュアート著

2013-06-25 22:28:06 | Science
表紙を眺めているだけでなんだか楽しい。ひまわりの花に見られる二種類の螺旋(時計回りが34本、反時計回りが21本)、DNAの2重螺旋構造の図、ボルボックス、メンデルの法則で使ったえんどう豆、裏表紙に登場するのはアンモナイト、ゾウリムシにダーウィンの肖像画。ここまではすぐにわかった。最後に残った鳥の絵は、ダーウィンフィンチだろうか。はるか昔?の高校と、大学の一般教養で生物を学んだ記憶がかろうじて残っている私にとって、これらの生物学的な意味をなす絵はおなじみである。特別に理工学系にすすんだわけではない私のような者を対象とした一般読者向けの、近頃耳になじみつつある”ポピュラーサイエンス”ものの典型が本書になる。

著者イアン・スチュアートは、英国の大学数学部教授で第一線の数学者、そして王立協会のフェローでもある。原子人類が骨に印をつけて月の満ち欠けを記録し、ヒッグス粒子を探索する現代に至るまで、数学は物理科学の中核をなす理論的枠組みとして人類の発展におおいなる貢献をしてきた。しかし、21世紀は物理から生物へ、生命科学の時代へと期待されるのに伴い、これまで生物の単なる統計に使われる下僕だった数学は、重要な形で使用しないと答えがえられなくなってきた。数学者にとって、生命科学は21世紀数学の推進力となり、生物学者にとっては数学は謎を解明する新しいセンテンスになる。

といった著者によるプロローグはさておき、本書はこれまで生命の神秘の謎解きに数学がどのように使われてきたのか、という親密性を説きあかしていく。フィボナッチ数列、ダーウィン、メンデル、リンネの分類体系、DNAの2重螺旋、おなじみのキーワードやエピソードがおなじみの物語として展開していく。高校の授業のおさらい感覚で読み進めていくのだが、イアン・スチュアートのさりげないユーモラスでお茶目な語り口は、わかりやすくておもしろい。それに数学の教授なのに、このおじさまは生物についてとっても詳しい。

けれども、本書の真価は後半からはじまる。ニューロンのネットワークとアリゴリズム、結び目理論からたんぱく質の折りたたみ、動物の模様に関するチューリングの方程式、、、とだんだん内容も現代の生物のトピックスにふれるにつれ高度になっていく。そして、生命科学と数学のかけあわせで異業種分野の”合コン”と思われる予想外の組み合わせで、確かに生命科学が今世紀に益々重要で魅力的な分野になっていくことを実感する。さらに、研究室の従来の蛸壺では想像もできなかったダイナミックな世界が広がりつつあることも。

私が最も興味を感じたのが、日本人研究者チームにより、エンジニアが設計した東京の鉄道網とほぼ同じものをモジホコリという粘菌を使って作成することを発見したことだ。粘菌はコロニーから血管状の管のネットワークをつくり、その管によって体液を輸送する。我々通勤列車を利用する東京人は、この体液と同じようなものだ。彼ら研究者は、粘菌を使ってネットワークに関する問題を解いて、さらに粘菌がそのようにして問題を解くかをネットワークの数学を使って発見したのだった。そういえば、いつのまにか我孫子と成田が繋がり、京成電車によって成田空港と羽田空港も繋がった。粘菌が関東地方に鉄道網を作る様子の図65などは、実際の鉄道網に似ているし、ドイツのDB鉄道網も連想させる。生物のふるまいが、複雑系にリンクしているようで、インパクトが大きかった。
最後に、数学を忌み嫌う方たちへ。本書を読むと「数学の力」 にちょっと感動すると思う。

原題:Mathematics of Life

『ローマでアモーレ』

2013-06-18 22:27:56 | Movie
作家の塩野七生さんがはじめてヨーロッパに発ったのは、今から50年前のことだった。季節は10月のローマ。
一年間だけ、欧州を歴訪したら帰国してちゃんとお見合い結婚をするという両親との約束は、とうとう果たせなかった。初めてのローマに心を奪われてしまったからだ。

「ただ散歩しているだけでも驚くような街だ」

ここにもローマにすっかり心を奪われた男がいる。彼は、映画監督だったので、おかげで愉快で、ちょっとエッチな素敵な映画が仕上がった。その監督は、生粋のNYっ子で陽気なイタリア人とはタイプが異なるウッディ・アレン。
「映画を作っていなければ、家に引きこもってずっと自分の死について考えてしまうだろうからね」
そんな彼だから、こんな映画がつくれちゃうのだろうか。映画館の中で、声をだして何度も笑ってしまった。

カンピドリオ広場で偶然出会って恋におちたアメリカ娘のヘイリー(アリソン・ピル)とミケランジェロ(フラビオ・パレンティ)。彼らの婚約にかけつける元オペラ演出家の父ジェリー(ウッディ・アレン)と母親(ジュディ・デイビス)。そして、有名な建築家ジョン(アレック・ボールドウィン)に青年時代の分身の建築家の卵ジャック(ジェシー・アイゼンバーグ)と彼が夢中になる女優志望の娘(エレン・ペイジ)。そうかと思えば、田舎からローマに新婚旅行でやってきたアントニオ(アレッサンドロ・チベ)とミリー(アレッサンドラ・マストロナルディ)夫妻とセクシー爆弾娘のコールガール(ペネロペ・クルス)。ある日、突然セレブになってしまった平凡な中年男(ロベルト・ベニーニ)。なんと、本物の世界的テノール歌手のファビオ・アルミリアートまで、ミケランジェロの父親役としてシャワーを浴びながら、その朗々たる歌声を聴かせてくれるではないか。

NHKの大河ドラマかN響の指揮者の贅沢なラインアップのように、ベテランから今が旬な新鮮俳優までが次々と魅力的に登場するキャスティング。これもアレンの監督としての吸引力なのだろうか。圧巻なのは、クラシック界のテノール歌手のファビオまでが、シャワーを片手に泡だらけの裸体をさらけだして大真面目に演じている?ことだ。舞台がドイツだったら無理では?、あのローマだから陽気に笑ってはじけたのかも。あのベルルスコーニが首相として統治していた陽気なお国柄だ。

しかし、一番の役者は、久々にスクリーンに現れたウッディ・アレンだろう。引退したちょっと情けないオペラの演出家という役どころも意味しんである。せっかくのシャワー・オペラの演出も批評家からは超激辛の非難をいただいたところには、映画監督の喜劇と悲劇がこもごもしのばれる。気がつけば、ジェリーだけでなく、ジャック、ジョン、セレブになってしまった平凡な中年男、彼らにはみなこれまでのアレン自身とその作品が投影されている。ユーモアを散りばめ肩の力を抜いた脱力系の映画にみせつつ、観客の笑いをとって、かろやかに、けれども人生をちらりとかいまみせる。まるで、映画もオペラのようだ。やはり、アレンは一流の監督だった。
どうしよう、猛烈にローマに行きたくなってしまった!

監督:ウッディ・アレン
原題:To Rome with Love
2012年アメリカ=イタリア=スペイン製作

■アンコール
『マッチポイント』
『インテリア』
『ハンナとその姉妹』
『タロットカード殺人事件』

「ワーグナーとユダヤ人のわたし」BS世界のドキュメンタリー

2013-06-16 15:48:04 | Nonsense
毎年、何らかの作曲家、音楽家のイベントがめじろおしだが、今年はすごい。ワーグナー生誕200周年。あのルートヴィヒ2世からはじまるWagnerianerにとっては、今年はやはり人生の特別な年になるのではないだろうか。ワグネリアンにとっての聖地に、可愛らしく、そして優雅に建つリヒャルト・ワーグナー祝祭劇場。7月25日から8月28日まで、いよいよバイロイト音楽祭がはじまる。

英国の作家兼番組のプレゼンターのスティーブン・フライも、ワーグナーの音楽にこどもの頃から心酔してきた正真正銘のワグネリアン。しかし、彼には愛するワーグナーに完全に酔えない悩みがある。フライは、ユダヤ人である。先輩格のワグネリアンだったヒトラーによって家族をホロコーストで失っているフライは、大好きなワグナーの音楽と反ユダヤ主義に折り合いをつけるためにワグナーの音楽をたどる旅にでる。

5月20日・21日の2日間に渡ってNHKで放映されたドキュメンタリーは久々に心に残る番組だった。
フライが最初に向かったのは、ワーグナー自ら自分の作品を上演するために建設したバイロイト祝祭劇場。木々や芝生の緑が若々しい生命の躍動感に美しい。その丘の上に立つ、チケットを入手するには最低でも8年かかるとささやかれ、今では音楽祭の時のためだけの贅沢で世界最高級の劇場。胸の高鳴りを押さえながら、そっと歴史を刻んだ扉をなでるフライ。舞台裏では、リハーサルと衣装づくりがはじまっている。たった一足の靴づくりだけでも、手の込んだ飾りをつけたオリジナルにフライだけでなく私もひきこまれていく。

更に、彼はワーグナーの邸宅にあるピアノで演奏をしているピアニストと一緒に、“トリスタンコード”を弾かせてもらう。ワーグナーが大好きで悩みながらもわくわくして、胸の高鳴りに思わずふるえてしまうフライのキャラクターと魅力もはずせない。次に彼が向かったのは、ワーグナーが当時野心的で論争をよんだ楽劇「ニーベルングの指輪」の着想をえたスイスに飛び、ロシアへも。

莫大な借金返済のために指揮者としてたつことになったマイリンスキー劇場では、ワーグナーは初めて観客に背を向けてオーケストラを指揮するという革新的な上演で人気をはくした。それでも浪費癖の借金返済に収入は消えて、結婚生活は破綻。50歳にして人生最大の危機にたつワーグナーの前に表れたのが、バイエルン王国の国王となったばかりの若く美しきルードヴィヒ2世だった。*)元祖ワグネリアンについては、ヴィスコンティの傑作映画『神々の黄昏』を参考されたし。

後半は、ワーグナー中期の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の舞台であり、後にヒトラーがナチス党大会の会場に選んだ地からはじまる。私もこの土地を訪問したことがあるが、ドイツらしい落ち着いた美しい街である。しかし、日本人の私ですらこの城壁に囲まれた中世の面影が残る街を眺めると複雑な心境になる。ヒトラーがとても愛した街でもあるニュルンベルク。1935年、この地で開催された党大会にユダヤ人の市民権剥奪が合法化された。戦争後は、ナチス独裁政権下の指導的戦争犯罪人に対する「ニュルンベルク裁判が実施された街。今では平和に市民がマラソンをするニュルンベルクで、フライはナチスがいかにワーグナーの音楽を政治的プロバガンダに利用したかを読み解き、そして又、ワーグナーの音楽もヒトラーの世界観に影響を与えたかを考える。

再び輝けるバイロイトへ。
ルードヴィヒ2世という格好の金庫をえたワーグナーは愛妻コジマと結婚生活を楽しみ、いよいよ自分の作品を上演するための劇場を建設する。ワーグナーの設計者に指示した内容が読み取れるオリジナルの図面や楽譜を見て、フライの期待は益々高まる。いよいよ、夢にまでみたバイロイト祝祭劇場の扉を開けるフライ。歴史を感じさせ輝かしくも、以外にもこじんまりとした地方の舞台と客席が彼をあたたかく囲む。そして、音楽祭の総監督であるワーグナーの曽孫のひとり、エファ・ワーグナーにも出会う。憧れのバイロイト音楽祭がはじまる!

しかし、ヒトラーとバイロイトの関係性の環に悩み苦しむ彼は、とうとうアウシュビッツ収容所から奇跡的に生還し、オーケストラでチェロ奏者をしていた「チェロを弾く少女」の著者アニタ・ラスカー=ウォルフィッシュに会いに行く。まるで彼女に最後の審判を仰ぐかのように緊張する彼を眺め、おだやかな白髪の老女が思い出を語りはじめる。たまたまチェロが弾けた少女アニタはナチスに重宝されたのだが、ある日、双子を使って研究していたヨーゼフ・メンゲレがなにか重い実験をした後のようで、シューマンのトロイメライを弾いてくれとリクエストしたそうだ。彼女は、誤解を招くのをさけるためにメンゲルとは視線をあわせないようにその曲を弾いた。そこで、フライはもう二度と「トロイメライ」は弾く気持ちになれないのではないかと質問すると、アニタは微笑んで「そんなことはないわ、孫だって弾いているもの」と答え、チェロを弾く男の子のお孫さんの写真が重なる。意を決して、フライはユダヤ人の自分がワーグナーを聴き、バイロイト音楽祭に行きたいと願っていることについての意見を求める。すると、彼女は笑って「あなた、そこへ行きたいのでしょ。行きなさいよ。音楽に罪はないわ」と朗らかに応援する。

晴れ晴れとしたフライの表情からは、純真な嬉しさが伝わってくる。そう、ワーグナーの音楽こそは彼の心をとりこにする最高の音楽なのだ。黒のフォーマルな上着をかろやかにはおり、宿泊しているホテルのドアを開けて、大切なチケットを片手に、さあ音楽祭へ!
そんなコンサートに向かう彼の姿でドキュメンタリーは終わる。実際は、2010年にBBCで放映されたようだが、今年のワーグナー生誕200周年にふさわしい素晴らしいドキュメンタリーだった。

■こんなアンコールも
「ヒトラーとバイロイト音楽祭」ブリギッテ・ハーマン著上巻下巻

「パンダの親指」スティーブン・ジェイ・グールド著

2013-06-01 16:30:38 | Book
上野のパンダ、シンシンがおめでたかもしれないというニュースが流れた。昨年の出産時には「号外」まで配られたのに残念な結果になったが、今年こそはとパンダ好きの者としては期待している。
ところで、剥製なのだが国立科学博物館では、3頭のジャイアンツパンダが見ることができる。進化論上では、シカゴのフィールド自然史博物館に勤務していたD・ドワイト・デーヴィスの著書により、長い5本の指プラス手首側の橈側種子骨を含めて6本と言われていた。パンダの本来の親指は他の機能に使われていて、拡大した手首の骨、つまり大きくなった橈側種子骨でまにあわせるために進化した。ところが当時の動物研究部の研究者の博士が、博物館内で展示されているホァンホァンの手をCTスキャンさせて、実際にものをつかむのは第6の指ではなく、小指側の手首にある副手根骨が役に立っていたことを発見した。

前置きが長くなったが、本書のタイトル「パンダの親指」の著書スティーヴン・ジェイ・グールドはニューヨーク生まれのハーバード大学の比較動物学博物館の古生物学、進化生物学の教授。もともとはアメリカン自然史博物館などの広報誌に連載していた科学エッセイを集めた本である。前述のパンダの親指にまつわる話は、本書のほんの入口である。ページをめくるうちに、(少なくとも私の場合は)表現の難しさに苦戦しつつも、いつのまにか、ダーウィニストで知られるグールドの”進化”にまつわる自然史のおおいなる謎の話に興味がひきこまれていく。

ある意味、圧巻だったのは、私も気に入っている「利己的な遺伝子」できらめくスターになり、その発想が小説にもいかされているリチャード・ドーキンスを、彼は進化に対する通俗的な本を書く著者たちが誰でも用いる隠喩的な短絡を、普通よりはなやかに、不滅なものとして論じているに過ぎないと喝破しているところだ。そして、遺伝子は細胞の中に秘められたDNAの小さな塊で、淘汰自体は遺伝子を選べることはできないと反論している。グールドの解説は、素人の私でももっともだ、とは思う。それでも、はなやかで、鮮烈な「利己的な遺伝子」は学校で学ぶダーウィンとは別に人々を魅了していくだろう。

さて、はなやかさには少々乏しいかもしれないが、じっくりと味わい深いのがグールドのエッセイである。
1912年イギリスはサセックス州のピルトダウンで発見された頭蓋骨が類人猿と人類を結ぶ重要な化石だと信じられていたが、実はヒトの頭蓋骨にオラウータンの下顎を組み合わせた偽者だったという世紀の捏造事件にせまる「ピルトダウン再訪」では、犯人は誰かという3つの仮説をたてている。犯人探しのミステリーのおもしろさでひきつけて、やがて科学的研究というものの本質にこのピルトダウン事件からせまっていく。科学も個人的な願望や、栄光の追求に動機付けられ、文化的偏見にもまれて都合のよい人々の期待感にあおられて、紆余曲折を経て歩いていく人間的な活動であることをあばいていく。

なかなか考えさせられるは、あと5年で100歳の長寿を迎えるミッキーマウスにまつわる「ミッキーマウスの生物学的敬意を」である。彼が初めて主演した「蒸気船ウィリー」を甥と一緒に観たが、当時のミッキーはやんちゃというレベルを超えるかなり腕白ないたずらもの。だからおもしろいのだが、「魔法使いの弟子」のようなお茶目で可愛らしいキャラクターとはかなり違っている。好き勝手し放題のミッキーは、ハツカネズミらしいすばしっこさを感じさせる容姿だったのに、国民的なシンボルに成長するにつれ、期待に応えるよう素行をあらためて品行方正で温和になると同時に、顔立ちと体型も幼児化していった。このような進化的変形をネオテニー(幼形成熟)というそうだ。なんと、グールドは科学者らしく最も性能のよいダイアルギノスを使って、頭部の大きさ、目の大きさなどを計測し、幼若段階に向かって進化していることを示した。なかなかミッキーに負けずに、グールドもお茶目な方だ。幼児らしい特徴は、おとなに好かれるものである。ダーウィンは、形態だけでなく感情にも連続的な進化があることを主張した。最近は、ベビー・ミッキーなるものも登場し、私も白状すると愛用している。

なんと、こんな行動も動物学者コンラート・ローレンツのいうようにネオテニー的性格に基づく天性なのだろうか。もっともグールドによると、ずっと発育不全でよろしいということになるようだが。永遠なれ、ミッキー。

米国内での初版は1980年となっており、確かにパンダの指は実際には7本だったことからも、最新科学の話題性からは少し離れていても、科学というフィールドで、時には辛口だがユーモラスにとんだ語りは、人間という自然史上最大の謎を考えさせてくれる。米国のサイエンスの発展の底力も感じる。最後に、単行本時代の表紙は、Jay J.Smithによる複雑で意味しんな風刺的なイラストから、文庫本化でインパクトがあるが実にすっきりとしたパンダの後姿のイラストに変わっていた!どちらも内容にあったできのよいイラストだと思うのだが、この”進化”にも、なかなか興味深いものがある。