モーツァルト好きのノーベル物理学者である小柴昌俊氏が、同じくモーツァルトに魂を奪われた同病?のアインシュタインを話題にとりあげ、モーツァルトとアインシュタインのどちらの方が天才か、という議論をされたそうだ。あまりたいした価値があるとは思えないこの議論に加わるには、モーツァルトの音楽性とアインシュタインの理論のいずれにも通じていなければならないという点で、傍観者にならざるえをえないのだが、結論は簡単である。
モーツァルトの方が天才である。
理由は、誰にでも納得できる。アインシュタインの相対性理論は、いずれ誰かが発見しただろう。けれどもモーツァルトの音楽は、モーツァルト以外に作曲できない。
そんな天才モーツァルトの生誕250周年にあわせて、東京交響楽団第533回定期演奏会は、*早熟と天才のかぎりなき美学*というまるで「のだめカンタビーレ」のノリではじまった。
毎年ザルツブルク音楽祭、モーツァルト週間などのフェスティヴァルに出演しているモーツァルト通のユベール・スダーン指揮による交響曲弟29番は、この天才でありながら不遇のままウィーンの墓地に朽ちた作曲家に敬意をはらうかのように、慈しみをもって始まった。モーツァルト音楽の明快さと朗らかさ、その光りの中に含まれる哀しみを透明感をもって演奏することは、実に難しいと思う。プログラム・ノーツに「モーツァルトは子供には易し過ぎるが、大家には難し過ぎる」という往年のピアニストの言葉がのっていたが、演奏家として経験を積み、モーツァルトの音楽性を知れば知るほど、その魂に近づき、ふれることがどれほど困難か。モーツァルトに必要不可欠な”無心の喜び”に欠けていたのが、残念だった。
次に深い印象を残したのが、ヴァイオリニストのイリア・グリンゴルツによるヴァイオリン協奏曲第5番である。
私は常々この曲の最初のヴァイオリンのソロが入るところまでの構成が、当時としては革新的だったのではないかと、思っている。イリア・グリンゴルツは音を、あくまでも美しく繊細に奏でていく。こんなに軽やかなモーツァルトを、かって聴いたことがあっただろうか。あえて、音や表情にボリュームという華麗な重さや装飾をさけてシンプルで上等に組み立てた音楽観は、彼の確固たるモーツァルト像を想像させる。このような”洗練された”モーツァルトを、はたしてサントリーホールとはいえ日本の聴衆の指示をえられるのだろうか。「ニューズウィーク」誌の映画評論家の言葉を借りれば、「絶妙な前戯だけで、絶頂感に欠ける作品に仕上がってしまった」(←最近すっかりお気に入りの言葉)という萌えないモーツァルトは、ありだろうかっ。
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けれどもそんな心配は、杞憂。第3楽章での彼の演奏は、天使のようなかろやかなモーツァルトを継承しつつ、まるで彼と対話をして楽しく遊んでいるかのような演奏だった。生真面目過ぎず、自分の音楽観を明確に提示、尚且つこの余裕。このようなかろやかさとさりげない遊び心のある演奏は、さんざんモーツァルトを弾いてきた円熟したヴァイオリニストの境地しかありえないと思っていたのだが。
1982年、サンクトペテルブルグ生まれの弱冠23歳。カデンツァも彼自身の作曲による。
だから、イリア・グリンゴルツ自身も天才なのだろう。ため息と感嘆がでる。早熟と天才の美学、この献辞こそは今夜は彼に捧げたい。
すでにJ・Sバッハの無伴奏ヴァイオリン曲集をリリースしている彼が、今後どのような独自の道を歩いていくのか期待できそうだ。
最後の交響曲弟39番。「3大交響曲」(40番、「ジュピター」)の一曲のうち、優美さに特徴があるが、この曲の成否はフルート、オーボエのできにかかっているというのが私の独断と偏見だ。マエストロとしては、弦楽器と管楽器をいかにまろやかな味にとけこませるかに、オーケストラのシュフとしてその腕が問われる。ソリスト、指揮者ともに整った音楽は、2月のこの時期に、春の訪れを予感させる演奏会にしあげた。絶頂とまではいかないまでも、充分に楽しめる東京交響楽団の演奏に、ビールもことのほか美味しかった。
--------- 2006年2月25日 サントリーホール ---------------------------------
モーツァルト :交響曲第29番 イ長調 K201(186a)
:ヴァイオリン協奏曲 イ長調 K219「トルコ風」
:交響曲第39番 変ホ長調 K543
■アンコール
モーツァルト
:オペラ『皇帝ティトゥスの慈悲』序曲