千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「天使のナイフ」薬丸岳著

2006-02-28 23:33:52 | Book
最愛の家族の命を奪われる。ある日なんの罪もないのに、突然妻の命を奪われた主人公の桧山貴志は、残された生後5ヶ月の娘を抱きながら深い悲しみの中にも犯人への憎悪が体中を激流する。犯人は、13歳の少年達だった。その事実に愕然とする彼だったが、犯人の少年たちは刑法第41条によって「触法少年」として処遇され、少年法や児童福祉法に基づく保護観察処分となった。桧山は、彼らの少年審判を傍聴することも、被害者としての意見陳述もすることもなく、まるで彼の慟哭を無視するかのように審判は進行していく。
格好の題材に群がるマスコミを前に、「国家が罰を与えないなら、自分の手で犯人を殺してやりたい」
そう桧山が嘔吐するように答える様子は、またマスコミにとっても好都合なセンセーショナルな発言だった。

ところが4年後、ようやく娘との生活も落ち着いた頃、自立支援施設を卒業したその犯人のひとり”少年B”が殺される。一転、今度は桧山自身が疑惑の対象となる。少年Bは、果たして本当に更正したのだろうか。彼の足跡を追って、真犯人を探しているうちに、今度は主犯格の少年Aが殺された。

本書は、最後の最後まで、意表をつく展開に一気に読ませるというミステリー小説の醍醐味を含みながらも、単なる謎解きに終わらせずに、少年法のあり方と罪を犯した少年の更正するプログラムに言及している。被害者感情に考慮した少年事件への厳罰派、弁護士や法律の立場からの少年の可塑性に期待する保護派の議論は絶えない。2001年4月、改正少年法が施行され、被害者に対する情報公開や被害者側の意見陳述が限定的に盛り込まれた。また14歳以上16歳に満たない少年にも刑事罰を科すことが可能になった。

しかし、桧山は何か大切なことが置き去りにされたままのような気がしてならない。

何故、殺されたのが妻だったのか。一枚の残された妻の遺品の葉書から、桧山はひとつの疑問がわいてくる。やがて桧山は、その葉書を便りに老夫婦の家を訪問し、自分の知らなかった妻の幼少の頃の事件や隠されていた驚くべき真実にたどりつく。そして彼は、あらためて妻を理解し、もっと、もっと一緒に生きたかったと慟哭するのである。

そして真の「贖罪」とは。
「今の刑務所制度からすれば、少年に厳罰を科して少年刑務所に入れるということは、更正を諦めたに等しい。きちんとした教育を施さず、罰を科す労役だけをさせながら何十年も塀の中に閉じ込めても、少年たちはいずれ社会に戻っていく。それがどういう意味なのか。」
元法務教官でジャーナリストである貫井の問いかけは、本書の骨格である。
最後に真相にたどり着いた桧山は、告発する。
被害者に本当に許してもらうまで、償い続けることが本当の更正であると。

「憤青 」中国の若者たちの本音 沙 柚 著

2006-02-27 23:58:13 | Book
中国という国は、何処へ行こうとしているのか。そして13億人という中国の人々は、いったいどこへ向かっているのか。

著者の沙 柚 さんは、文化革命の時に少女時代を過ごし、1989年6月の天安門事件を後に日本に渡り日本人と結婚した。2005年4月6日に反日感情の渦巻く生まれ育った街・北京の地を踏み、
「祖国を忘れないでください」
16年前出国する時に、名前も知らない空港の係官に声をかけられたその日と同じ6月9日に再び日本に帰るまでの日々、祖国で何を見て、何を聞きどう感じたのか、本書は日記形式に綴ったルポタージュである。
「中国の若者たちの本音」とサブタイトルがあるが、40代後半と思われる著者と70代以降の親世代、そして20歳前後の若者と三世代に渡る、北京在住の知識階級の本音をシンプルに、尚且つ核心を突いたルポタージュである。

こどもの頃から日本のアニメを見て育った27歳の青年は、映画学校を優秀な成績で卒業し、アニメ専門誌の編集長を勤める。「世界は白と黒しかない単純な中国のアニメに比べて、日本のアニメは善悪どちらにも属さないグレーがあり、その新鮮さに感動した。この世の色は白黒でなく本当はグレーであり、中国の教育は白か黒かの憎しみの教育である。」まるでアニメの主人公のような整った顔立ちの長身の青年は、一気にまくしたてる。日本のアニメを見て育った者たちは、映画の大学でも優秀な成績と自負しながらも、自分は*憤青であると自覚している。理知的で日中の文化の差を冷静に分析できる彼だが、台湾問題、資源問題、釣魚島問題でいずれ、日本と中国は戦争をすると予言する。戦争になったら、残念ながら中国人として自分は日本と戦うしかないとも。共産主義者でもある彼は、人類がひとかたまりの光りになって、欲望のまったくない存在になったら本当の共産主義が生まれるいうのが信念だ。私は、こんな寂しい”共産主義”の夢想を聞いたことがない。

また著者と同世代の友人、中国のオピニオン誌の編集長は、中国にとっての最大の問題は、毛沢東による中華人民共和国の成立だと怒りはおさまらない。今回の反日騒動は、中国人のおごった大中華思想と自分より下だと思っていた人が自分より上だっと認めたことから来る感情、”小日本”への嫉妬だと分析する。
「どんな時代でも大衆は無知で愚かで、のせられやすいものだ。」
彼は言論の自由のないこの国で、”良識”をもって本を出版すれば、いつも発禁処分すれすれの危ない綱渡りを強いられることからのいらだちから逃れられない。
「中国に希望はない。」
彼の怒りは、当分おさまりそうもない。

最後に著者は、父の学生時代の親友であった田小父さん夫婦を訪問する。熱烈な恋愛から学生結婚して、すっかり老夫婦になった田小父さんから、父たちの若かりし頃の写真を見せてもらう。そこで笑っているのは、自由と民主主義のために青春時代をかけてともに戦った、セピア色に染まった若さ溢れる朗らかな青年たちの姿だった。しかし、彼らのその後はどうか。やがて文化大革命という最も残酷な政治運動がはじまった。毛沢東の「造反有理」に騙されて、徹底的に知識階級はつぶされたのだった。指揮者になった人がようやくタクトをふったのは1980年代以降、化学者だった人が実験室に入ることもなく、詩人として頭角をあらわした人も中学教師になり、映画監督になった人は生涯2本の映画しか創れなかった。著者自身の父も右派分子のレッテルをはられ、強制労働改造農場に送り込まれた。名誉を回復する80年代まで、友人たちとの付き合いも絶たれた。父にとっては、まさに屈辱の20年間だった。
そして国民党時代に軍隊にいた伯父もまた、文革の嵐に巻き込まれ、迫害されるようになる。冬の寒い日に、自殺した著者の伯父。学校教育の欠如と吃音の障害を背負いながら、社会の底辺にいるような弱者をも、ひっそりと生きることを許さなかった社会。それが中国だった。

伯父と最後に別れた慮溝橋にたちながら、沙 柚さんの胸に去来した思いは、多くは語らない彼女の筆致に、はかりしれない複雑な哀しみと重みがしのばれる。歴史に翻弄された悲惨な過去の中国人、そして経済的な発展から取り残された現代の中国人。日本と中国の両国を冷静に見る著者のまなざしによる抑えた端整な筆は、静かな諦念とアイロニーが漂う。2年後の北京オリンピックにむけて、自らの歴史への検証をおざなりして、横領や賄賂が横行し、国民の不平等からくる不満や矛盾を内包しつつ、国威掲揚という未来へ橋渡しをする中国。その波乱を抑え、かける橋のツールは、憎しみという感情だ。

憎しみと怒りを人々のこころに植え付けた国家が、真に発展することはない。

「刀で鬼子(グイズ)の頭を切りつけろ
祖国を愛する同朋よ
抗戦の日がやってきた
抗戦の日がやってきた」
こどもの心を豊かにする童話をもたない中国では、今でも効日の歌がこどもたちのよって歌い継がれているという。
そして、はたして中国に未来はあるのだろうか。

*憤青とは、怒れる青年の意味である

東京交響楽団第533回定期演奏会

2006-02-26 18:00:18 | Classic
モーツァルト好きのノーベル物理学者である小柴昌俊氏が、同じくモーツァルトに魂を奪われた同病?のアインシュタインを話題にとりあげ、モーツァルトとアインシュタインのどちらの方が天才か、という議論をされたそうだ。あまりたいした価値があるとは思えないこの議論に加わるには、モーツァルトの音楽性とアインシュタインの理論のいずれにも通じていなければならないという点で、傍観者にならざるえをえないのだが、結論は簡単である。
モーツァルトの方が天才である。
理由は、誰にでも納得できる。アインシュタインの相対性理論は、いずれ誰かが発見しただろう。けれどもモーツァルトの音楽は、モーツァルト以外に作曲できない。
そんな天才モーツァルトの生誕250周年にあわせて、東京交響楽団第533回定期演奏会は、*早熟と天才のかぎりなき美学*というまるで「のだめカンタビーレ」のノリではじまった。

毎年ザルツブルク音楽祭、モーツァルト週間などのフェスティヴァルに出演しているモーツァルト通のユベール・スダーン指揮による交響曲弟29番は、この天才でありながら不遇のままウィーンの墓地に朽ちた作曲家に敬意をはらうかのように、慈しみをもって始まった。モーツァルト音楽の明快さと朗らかさ、その光りの中に含まれる哀しみを透明感をもって演奏することは、実に難しいと思う。プログラム・ノーツに「モーツァルトは子供には易し過ぎるが、大家には難し過ぎる」という往年のピアニストの言葉がのっていたが、演奏家として経験を積み、モーツァルトの音楽性を知れば知るほど、その魂に近づき、ふれることがどれほど困難か。モーツァルトに必要不可欠な”無心の喜び”に欠けていたのが、残念だった。

次に深い印象を残したのが、ヴァイオリニストのイリア・グリンゴルツによるヴァイオリン協奏曲第5番である。
私は常々この曲の最初のヴァイオリンのソロが入るところまでの構成が、当時としては革新的だったのではないかと、思っている。イリア・グリンゴルツは音を、あくまでも美しく繊細に奏でていく。こんなに軽やかなモーツァルトを、かって聴いたことがあっただろうか。あえて、音や表情にボリュームという華麗な重さや装飾をさけてシンプルで上等に組み立てた音楽観は、彼の確固たるモーツァルト像を想像させる。このような”洗練された”モーツァルトを、はたしてサントリーホールとはいえ日本の聴衆の指示をえられるのだろうか。「ニューズウィーク」誌の映画評論家の言葉を借りれば、「絶妙な前戯だけで、絶頂感に欠ける作品に仕上がってしまった」(←最近すっかりお気に入りの言葉)という萌えないモーツァルトは、ありだろうかっ。
けれどもそんな心配は、杞憂。第3楽章での彼の演奏は、天使のようなかろやかなモーツァルトを継承しつつ、まるで彼と対話をして楽しく遊んでいるかのような演奏だった。生真面目過ぎず、自分の音楽観を明確に提示、尚且つこの余裕。このようなかろやかさとさりげない遊び心のある演奏は、さんざんモーツァルトを弾いてきた円熟したヴァイオリニストの境地しかありえないと思っていたのだが。
1982年、サンクトペテルブルグ生まれの弱冠23歳。カデンツァも彼自身の作曲による。
だから、イリア・グリンゴルツ自身も天才なのだろう。ため息と感嘆がでる。早熟と天才の美学、この献辞こそは今夜は彼に捧げたい。
すでにJ・Sバッハの無伴奏ヴァイオリン曲集をリリースしている彼が、今後どのような独自の道を歩いていくのか期待できそうだ。

最後の交響曲弟39番。「3大交響曲」(40番、「ジュピター」)の一曲のうち、優美さに特徴があるが、この曲の成否はフルート、オーボエのできにかかっているというのが私の独断と偏見だ。マエストロとしては、弦楽器と管楽器をいかにまろやかな味にとけこませるかに、オーケストラのシュフとしてその腕が問われる。ソリスト、指揮者ともに整った音楽は、2月のこの時期に、春の訪れを予感させる演奏会にしあげた。絶頂とまではいかないまでも、充分に楽しめる東京交響楽団の演奏に、ビールもことのほか美味しかった。

--------- 2006年2月25日 サントリーホール ---------------------------------

モーツァルト :交響曲第29番 イ長調 K201(186a)
:ヴァイオリン協奏曲 イ長調 K219「トルコ風」
:交響曲第39番 変ホ長調 K543

■アンコール
モーツァルト
:オペラ『皇帝ティトゥスの慈悲』序曲


「マネー 思惑の激突」NHKスペシャル

2006-02-24 21:56:39 | Nonsense
ニューヨーク上空の蝶のはばたきが、東京に嵐を引き起こす。小さなさざなみも、おおきなうねりと本流になって世界に波及する今日。その地球規模で起こるうねりを立体的にとらえたNHKスペシャルで、最初にとりあげた企画が、NY・香港・日本での為替相場で勝負するトップランナーの頭脳プレーだった。

2005年9月4日。NY。摩天楼のビル街を歩く初老に近い男性は、通貨の魔術師とささやかれる巨大ヘッジ・ファンド「FXコンセプト」のCEOであるジョン・テイラー氏だ。彼の主宰するヘッジ・ファンドでは、日本の年金資金も含めて運用資産は、1兆4000億円。彼はそこで、19年間勝ってきた。これは、実力だけでない強運も持ち主ともいえるだろう。テイラー氏の目下の関心は、日本の選挙。彼の予測によると自民党が勝てば一時的に円高にふれるが、その後FRBの金利利上げを受けて再びドル高に戻るというものだ。
高級なスーツを着ているわけではないテイラー氏は、とても巨大なマネーを動かしているような方には見えず、普通のアメリカの叔父さんの印象だ。

一方香港の国有企業ヘッジ・ファンドである「シティック・キャピタル」の最高責任者、張海涛(ちょうかいとう)氏は、高級官僚から抜擢されて転身したエリート。短髪で眼光鋭い張氏は、冷静で中国流おしゃれなセンスで武装したいかにも金融系のエリートらしさに溢れている。それもそのはず、昨年は36%という驚異的な収益を誇る。
米国が利上げしても日本経済は強くてあまり動かないという予測をした彼は、レンジオプションで、9/11から一ヶ月間107円~113円という相場をはる。

そして東京。合併前は、巨大なキューピーさんが守衛と並んでいたみずほコーポレート銀行の国際為替部の次長、竹中浩一氏は円高にすすむと予測する。120社の顧客を抱える同社では、多いときで一日4000億円の為替取引きが行われる。ディーラーが提示するわずかなレートも、貿易で生きる日本にとっては死活問第だ。トヨタでは、1円の円高は100億円の利益損失になる。毎日220兆円も動く世界の為替相場で、こうしたまっとうな貿易取引はわずか1割。9割は、投機による取引である。

その後人民元切り上げ、米中首脳会議、大型ハリケーンによる予測不可能な天災、FRBによる金利0.25%引き上げ。おまけに相場をしこんで、噂を流して、売り抜けるもの。そのたびに巨大なマネーが怒涛のように流れ相場が変動し、巨額な損失をだすもの、大もうけするもの、一ヶ月間の動きとともに彼らの思惑と成果をテレビが三次元で追っている。

「私はかって軍人だったが、ヘッジファンドは戦争に似ている。戦争をするなら状況に応じてどのような戦略をとるか、どのような武器を使うか考えなければならない。そしてこの戦争には終わりはない。資金がある限り、永遠に続く。撤退も降参も許されないのだ。」と、語る張氏の表情は、まさに戦場における将官のようだ。対象的に、一ヶ月で15億円もの利益をあげたテイラー氏は、我々が市場に対する見方を決めれば相場は動くと、余裕を見せる。仕掛けて、相場を動かし、ベストタイミングで引き上げる巨大ヘッジファンドの連携プレーは、これまで世界の金融市場を米国がリードしてきたことの証でもある。しかし、それは米国が世界一の経済力をほこるからであり、今後中国経済の台頭、中国金融界の影響力が増していけば、中国人の投資家が世界をリードしていくと静かに語る張氏の表情からは、この国らしい国家を背負う気概がにじみでている。

いずれにしろ関係者の関心は、人民元が第4の通貨としていつ浮かび上がってくるかということにある。
「ヘッジファンドであれば、誰でも中国市場で取引をするようになる。」
今度のテイラー氏の予測も、当たるだろう、間違いなく。

「ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝」田中秀臣著

2006-02-23 23:31:58 | Book
【ワシントン=久留信一】米連邦準備制度理事会(FRB)は二十二日、ファーガソン副議長(54)が四月二十八日付で辞任すると発表した。バーナンキ議長の下で初めて開かれる三月二十七、二十八日の連邦公開市場委員会(FOMC)には出席しない。(中略)
同副議長はグリーンスパン前議長の側近として知られる。バーナンキ議長が持論とする「インフレ目標論」には慎重な立場で、突然の辞任は路線の違いが背景にあるとみられる。(2月23日東京新聞より)
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新聞の片隅にひっそりと掲載されたFRB副議長の辞任の報道であるが、グリーンスパン前議長が辞任表明した時は、ロジャー・ファーガソンが後任の本命だった。しかし、今ではすっかり忘れ去られた感もある。それと対照的にベン・バーナンキの名前が新聞に載らない日はない。それくらい、FRB議長というポストが果たす役割、影響は世界的に大きいのである。なにしろ「世界経済の新皇帝」というタイトルである。また本書の奥付には、
「21世紀の世界を支配する男、バーナンキ。日本の大失敗の要因を熟知する彼は、われわれをどこに連れて行くのか-。」と記されている。”どこへ”というのは今後のお楽しみとして、新皇帝とはいかなる人物か、市場と対話を続けて柔軟なマエストロとして活躍をしたグリーン・スパンとは異なる、インフレターゲット政策とはいかなるものか、多少なりとも知っておくべきだろう。

バーナンキ新議長の舌鋒は、容赦がない。日銀の稚拙な経済政策を評して、「日銀はデフレを退治するため、ケチャップを買え。(政策審議委員を)1人を除いてみんなジャンク。」と日銀派を凍りつかせる爆弾発言をする人物である。しかし凍り付いているのは、ここ15年ほどの失われた日本経済そのものではないか。GDPデフレーター(名目GDP/実質GDP)の下落こそ、バーナンキが最も恐れるデフレの正体である、大停滞の元凶である。

デフレが何故悪いのか。安いていいものが買えるからそれでも良いのではないか。ところが、借金やローンの実質的な返済額が増加し、人件費のコストも高止まりと、”実質的”に企業や家計の負担は増加しているのである。だから、日本経済停滞を「金融政策の過度の引き締め」、後半は「金融政策の対応の遅れ」と2000年にバーナンキは言い切っている。彼には、長期停滞の原因を日本の構造改革に転換する日銀の言い訳は、通用しない。景気回復のために行われる通貨膨張政策であるリフレーションを提唱する岩田規久男氏や著者らリフレ派は、ゆるやかなインフレで経済を運営すべきだと考えている。さらにバーナンキが大停滞の処方箋として提唱するのが、インフレターゲットの導入プラス物価水準目標というあわせ技である。

著者の田中秀臣氏が大学院に進学して最初に読んだ論文が、バーナンキの「大恐慌の伝播における金融危機の非貨幣的要因」(1983年)だったという。その後15年に渡ってバーナンキ経済に魅了され、彼を”皇帝”という称号を与えながらも、日本経済の”教師”としての活躍を願っている著者による本書は、バーナンキ経済のエッセンスと、ケインズ経済学、新古典派経済学との比較による経済学入門のテキストという格好の良書でもある。オーソドックスで教科書的な日銀の政策をすりこまれてきた私にとって、このインフレターゲットという名目でなく実質的な提案は、なかなか説得力がある。エコノミストには様々な論客があり、また確かにバーナンキが言うように、金融政策は自動車の運転とは違う至難の技が求められる。そして実際今回辞任するFRB副議長のように、異なる路線もある。ただ日本という国において、米国のFRB議長の走る路線と全く違う路線を走れるという時代ではない。

日本銀行が政治から独立して、「円高によるデフレ緩和」というグリーンスパンとバーナンキからの贈物を、夢と消えないようリフレ政策を実行すべきなのだろうか。

「FACTA」まもなく創刊

2006-02-22 23:36:31 | Nonsense
「日はまた昇る」のだろうか。
英経済誌「エコノミスト」の名編集長であるビル・エモット氏の少子高齢化が進んでも高成長は可能で、格差は逆に縮小すると大胆に我が国の未来を予測したこの著書がすでに12万部も売れているという。”日”に”日出る国”をかけたタイトルもさえているが、やはりバブル絶頂期の数年前に、日本経済の凋落を予言した「日はまた沈む」は、その業績が輝かしい。

今年の表紙は夕暮れを見つめるキング・コングと美女というジョークの表紙で、旧メディアの優位性を説いた英国の「エコノミスト」。その編集長は、社内外からの公募で選ぶしきたりがあり、エモット氏も立候補して面接を繰り返して多くの候補者から選抜された。その決め手になったのが、「日はまた沈む」だったという。1843年の創刊以来、「エコノミスト」は英国らしい良き伝統のもと、優れた世界経済分析をひろげている。
「The Economist」の先見性を鑑として、”産直”報道を命とするオンリーワンの経済総合誌「FACTA」が、まもなく創刊される。編集長は、「選択」から独立した編集長である阿部重夫氏である。編集長が変わったのは、こういうことだったのかと納得する。そこで見本誌を早速取り寄せて、読んでみた。

「エコノミスト」誌が教授クラスのライターを無署名で投稿しているのにならい、やはりライターの知名度に依存しないよう無署名方式で書かせるとのこと。また100ページ程度で、コンテンツの5割は経済記事、1本につきすべて2ページにまとめる。記事のターゲットは練られた焦点にしぼられていて、知識人としてこの1冊で先見性を養えると思われる。ただ、如何せん300万人の情報誌とうたっている「選択」と重なる部分が多い。こうしたグルメやデジタル機器ではない情報誌を手にとる読者層は限られている。「選択」のライバル誌になるのか、それとも新規開拓と裾野をひろげられる先見性とジャーナリズムを喧伝できるのか、4月20日の創刊を見守りたい。

見本誌で巻頭を飾る外交ジャーナリストの手嶋龍一氏が編集長との対談で、「インテリジェンス」について語っているのが、なかなか含蓄深いのである。

「大文字で始まるインテリジェンス、これは知の神である。さかしらな人間の知恵を離れ、神の高みまで飛翔し、人間界を見下ろして事態の本質をとられるのが、インテリジェンス・サービス。
知性によって彫琢した情報こそが、我々がインテリジェンスと呼ぶものの本質だ。」

私は、限られた時間での情報収集は厳選したごく少数に徹するというタイプである。おびたたしい情報の洪水よりも、自分の感性と嗅覚を信じたい。「選択」と後発「FACTA」の比較を楽しみたいが、無署名の執筆者というのも結局しぼられていくから大差がないのでは、とも考えている。
少年ジャンプとマガジンの両方を読みたいというようなわけには、いかないだろう。

*ご興味のある方、ブックマークにリンクあり


イラク派遣米兵のジャーヘッド

2006-02-21 23:29:50 | Nonsense
米国の公立高校では、ペンダコンのリクルーターによる軍隊への募集・勧誘活動が認められている。学校側も「情報提供拒否」の申請書の提出がない生徒の連絡先を、リクルーターに提供することが定められてもいる。然しながらイラクでの米兵死傷者が2万人を超えるとなると、愛国心をもつ親たちでさえその勧誘の熱心さに、クレームをつけるような事態となっている。なにしろ、廊下で生徒にフリスビーやフットボールを無料で配るというこどもだましのレベルではない。それはそれは「史上最大のボーナス作戦」と揶揄される札束爆弾を投下中。

給与以外にも長期の兵役を請け負う場合、2万ドルから5万ドルへの破格のボーナスを支給、大学奨学金というご褒美まである。また万が一、不運にも銃弾が貫通した場合の備えも、弔慰金が10万ドルの大幅増額、生命保険金も40万ドルが認められる予定と、その”現金さ”は破格である。この作戦をもってリクルーターの向かうところは、平均世帯年収27000ドルの貧しく保守的な町である。大学に行くだけの学力と経済力の無い若者、雇用の需給の乏しい地方の高卒の若者にとっては、これらの報酬は学校側の卒業後のオプションのひとつと説明する米軍入隊を選択するに、充分魅力的な匂いを放つのである。こうして、戦争の非情さを充分に認識できぬまま、貧しい家庭の高校卒業生たちは戦場に散っていく。

1973年以降徴兵制度が廃止され、現在イラクに約13万人、アフガニスタンには約1万5千人の米兵が駐留しているが、彼らの殆どが高校在学中にリクルートされてやってきた若者だ。無事にオツトメを果たし、高額な報酬を手にして帰還した彼らは、その体験をいかして社会で活躍しているかというと、そこが問題である。
一時の高報酬を得ても、元々最後の選択肢と戦場に行った彼らの帰還後の平均年収は2万6千ドルと、まさに「下流社会」という隊列に今度は加わることになる。簡単に職が見つからなく、不動産バブルによる家賃高騰という両面攻撃でホームレスになってしまう気の毒な者もいる。
さらに15~17%の帰還兵がPTSDや鬱病を患っているという医学誌の報告もある。精神科で治療を求める者はまだよいが、その4割は、精神を病むことを戦場に適応できなかった無能者と烙印をおされるのをおそれ適切な治療の機会を作らないでいる。退役軍人省も経済援助をしているが、その優しい手も届かない者も多い。結局、兵士という駒が必要な時は大きなにんじんを与えられたのもつかの間、御用済みになったら再び社会の底辺へと沈んでいく彼ら。

イラク戦争は、どこまで続くのだろうか。ブッシュ政権によるプロバガンダは、そう長くは続かないように思えるのだが。

「生物学的な原則後退」-子孫繁栄よりも個人の生き方優先

2006-02-20 23:29:17 | Nonsense
特命大臣である猪口邦子さんの提唱で、出産費用フリー!という珍案?が浮上しているらしいが、少子化対策に効果があるとはあまり思えない。消費税までとらえれたらこどもを産まないのか、分娩費がタダだったらこどもを産むのか?そんな単純なことではないだろう。未婚率の上昇もあるけれど、保育園入園の抽選にはずれた、パパは働き盛りで平日の育児参加はとても望めない、そんなママたちの現場の悲鳴は、政府に届いていないのだろうか。
そんなことを考えているのだが、動物行動学者でおなじみの日高敏隆氏が、今日の日経新聞「経済教室」で行動生態学の観点からヒトの少子化について、非常におもしろい説を展開している。(以下要約)

一定の量の餌を入れた一定のケージの中に、オスとメスのペアを入れて飼うと、あっというまに人口が増加するが、ある数に達すると人口増加がとまる。メスとオスが出会って恋に落ち、こどもを産むには子育てに適した環境を選んだり、メスがオスの品定めをしたりと、結婚にいたる手続きがけっこう必要なのだ。また人口増加による諸々のストレスでホルモンの分泌が異常になったり、生まれてもうまく育たなくなったりと、動物集団の人口は自動調節されていることが明らかになった。このような現象を今までは、私は種の保存や集団の維持だと考えていたが、これらは単に結果であって、目標でも意図でもない。何故ならば動物の個体は、オスかメスかに関わらず、自分の”種族の保存”でなく、”自分の子孫”の保存を願うのが、最近の行動生態学の認識だという。この願望こそが、「生物学的な原則」である。けれどもマウスの人口が減少したら、マウスたちはその事態にどのように対処するか、額にしわ寄せ会議して考えるわけではない。(もし考えていたら楽しいのだが)

人間のみ、人類という集団に価値を認め、認識を深めて論理的・概念的能力を発達させた。ここからが日高氏の独創的な発想だと思うのだが、「人間のこの認識には、ある種の”美学”が伴っていた」としている。この美学は、どう生きるかというきわめて個人的な問題も含み、集団全体が抱えている”幻想”も関わってくる。それぞれの種の動物は、個々の遺伝的にプログラムされた「生き方」を具体化しているのだが、人間の場合、この具体化の自由度が大きい。
そのため経済や美学も含めて、個人としてどう生きるかということが、人生で最も大切な問題になってしまったのである。

人間として、個人としてどう生きるべきか。そして、自分にとって意味のある人生とは。
それは誰しも考え、一度は悩む命題だろう。また、意味のある人生が必ずしも子孫を残すことだけではないという考えを、果たして否定できるのだろうか。何故ならば、その疑問こそ動物と違う人間としての価値もあるのだから。

私個人としては、いつも言うのだが、イギリスの生物学者リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」の説を、悟りとひらきなおりにするくらい気に入っている。しかしこの学説とは対照的な日高敏隆氏の、次の人口少子化への疑問は深遠であり興味深い。

「一見、生物学的な原則に背くように見える今日の”少子化”や”日本の人口減少”という問題も、人間という動物が図らずも抱いてしまったこの人間特有の疑問に根ざしているように思われる。そうであるならば、これは国が育児助成金を出せば何とかなるといった問題ではない。」

女の勝負服

2006-02-18 22:16:50 | Nonsense
今年の冬は、通勤に着るコートを買おうと決意していた。懐は一年中クールビスなのに、それに追い討ちをかけるような予想外の厳冬。多忙ゆえセールを待っているうちに、手頃なお値段で気に入りそうなコートはすでに店頭から消えていたようだ。買うチャンスをなくした。来年にしよう。それに、気持ちはもう春だし。
ところが、仕事帰りにふと立ち寄ったイタリアのブランド店で、シンプルな定番だけれど、ちょっと可愛いらしい遊びこころのある皮のコートと出合う。
このお店は、周囲の有名なブランドのフラッグ店とは違い、鮮度が命の流行とは少し離れた飽きのこないキレイで上品なカジュアルさに特徴がある。けれども、やはりそこはイタリアのインポートものだから、悲しいことにお値段は、・・・カジュアルではない。とっても気に入ったし、価格パフォーマンスからいえば決して高い買物ではないが、絶対評価としてはやっぱりひるむ値札だぞ。

5月のある日、あの人が言った。
「ポケットにある100円は貧しくないが、ヴィトンのバッグにある財布の中身が1000円は、とっても貧しい。」

3ヶ月間毎日の必需品であるコートは、高くてもよいものが必要な時がある。渋谷を漂流するギャルがもっているヴィトンのバッグとは、わけが違う。中身はユニクロのTシャツにGパンでもOKだけれど、上等なコートを着なければいけない時もあるのだ。リリー・フランキーさん、だからコートは女の勝負服なの。

赤いスーツをお召しになり、”私の勝負服”と発言して話題になったのは、サントリーの常務から当時外務大臣になった川口順子さんだった。女にとって”勝負服”とは、女でも勝負する服と、女として勝負する服があると思う。年齢のせいではなく、地味系の顔立ちの川口さんにとって、真紅の色は華やかさだけでなく快活と意志の強さという印象を相手に与え、負けられない・・・まさに女だって勝負する時の鎧のようなものだろう。
それと比較して、少子化・男女共同参画担当大臣である猪口邦子さんが、大臣就任式でお召しになっていたコバルト・ブルーの迫力あるドレスは、女としての勝負服だろう。国際政治学者としてご活躍の猪口さんが内閣府特命大臣として任命されたのは、学者としての防衛論よりも、ご高齢で双子を産んだ業績の賜物である。だから、女としての存在がものをいう。しかもこのインパクトの強いドレスは、皇太子さまと雅子さまのご婚儀の席につくために用意された格別の思い出のあるドレスだそうだ。仕事人間だけでなく、由々しき方達とのお付き合いもこなすハイソな妻として、母としてのご自分の立場を雄弁に語る勝負服でもある。

以前の職場で、転職して退職する方の送別会に出席した時のことを思い出す。日本橋人形町で催された会の二次会でのことだ。閑散とした人形町にあった初めて入るその小さな居酒屋には、私たちしか客はいなかった。家庭料理しかないそのお店で、枝豆、てんぷらを次々と運ぶちょっぴり気合に入っている店主と、その様子を見守るような妻か身内のような中年の女性たち。ふと、考えてみると私以外は30代の男性4人と44歳の男性。(全員妻も子もあり)彼らは、一様に体にあった仕立てもよく、ぜいたくではないが新しくて上質なスーツを着ていた。財務で資産運用する彼らは、終日快適なオフィスで2枚に渡る端末の画面に、リアルタイムで映し出される情報を収集しながら、次のテを考えるのがお仕事だ。そこにいるだけで、連日最速最上の情報がメールや資料で波のように押し寄せてくる。靴底がすりへり、よれよれのスーツに額に汗する営業マンとは住んでいる世界が違う。この下町では、彼らの所謂”良い身なり”は、お店の関心と努力を充分に引き寄せるのだろう。
男だって、職種によっては着るものにかまうべきだ、この時の体験でつくづく思った。

5月のある日、あの人が言った。
「ぼくのコンサートには、自分が一番きれいにみえる服できて欲しい。」
これは、初めてGacktさんのライブに行く時に、なにを着ていってよいのかわからないというリスナーの女の子からの質問への回答だ。
この答えは、とっても素適だった。服のお値段でもなく、ゴージャスさでも、コスプレでもない。何が自分に似合うか、女としての自分を知ることの必要性と、内面も外面も美しさを意識する教えに、私は女としての勝負服を考える。

女としての勝負服、それはポン(←Gackt語)になった時、と堂々と言いたいのだが。許せるだろうか。

失速する日本航空

2006-02-16 23:55:08 | Nonsense
再建途上、安全置き去り迷走 (産経新聞) - goo ニュース
 日本航空グループ経営陣で内紛が表面化した。運航トラブルが収まる気配がないなか、経営責任を明確にしない新町敏行社長にグループ企業の一部役員が業を煮やした格好だ。背景には、社内抗争続きの企業風土や旧日本エアシステムとの統合をめぐる混乱があるが、日航は経営再建の途上。利用客や株主不在のまま迷走を続ける日航に批判が高まりそうだ。
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身内の者は、毎年家族でハワイに旅行に行く。楽しい思い出のポイントではずせないのが、ホテルの選択と飛行機は日本航空だと言う。
確かに国際線のサービス面、技術面は「ナショナルフラッグ」にふさわしく世界屈指の基準とのこと。しかし、その翼も近頃迷走気味ではないだろうか。

日航と言えば内情をよく知らない私でも印象に残るのが、制服に身を包んだパイロットの方達の労働運動である。高級で高給なパイロットの方達が旗をかざして雨にうたれてのデモ行進は、妙なとりあわせだ。しかしこのご時世に珍しい闘う労働組合が、驚いたことに日航には9つもあるという。御用組合をつくらせ、労組の団結力をそぐという企業側の目的は、労使不信という因縁をもつくらせた。が昨年11月、経営再生計画「JALグループ企業改革方針」で、全従業員の賃金を平均1割カットが発表されたが、殆どの組合が当然ながら猛反発して導入時期を4月からに先送り。危機感をもて、という新町敏行社長と対立する組合。

また日航では、社長の出身部門が主流派と重なるという慣習がある。新町社長は貨物出身だが、こうした風土が運輸省の幹部クラスや政治家をもまきこんだ仁義なき戦いという派閥争いへと紛糾する。空域、発着枠など規制の多い業界であることから、行政や政治とのつながりが大事であり、航空業関連業界もお役所の天下り先ということから、政治家とのコネクションがものをいう業界でもある。

気の毒なのは、旧日本エアシステム出身者である。排斥人事も含めた冷遇が、時間の経過とともにあらわになっているという。これもよくある話ではあるが、士気低下は重大な事故につながりかねないので、スムーズな社内の融和を実現すべきではないだろうか。

06年3月期は320億円に収入減という大赤字に陥る見通しだ。そこへもって今回の新町社長への退陣要求である。筆頭株主である元衆院議員糸山英太郎氏も自身のHPで退陣要求をしているというが、その真意も定かではない。なんらかの意図があっての発言かもしれない。
なんだか危うし、日本航空の翼。