千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『東ベルリンから来た女』

2013-01-27 15:02:10 | Movie
「また、明日」
女から、男への別れの挨拶だった。それは、上司でもある男の親切な忠告を拒絶し、やがて自分に好意を寄せているらしい男の誘いを断るための挨拶でもあった。

「さようなら」
明日、シュタージの監視を逃れて西側に脱出する決意をした女の別れ際の、男の誠実さへの感謝をこめた最後の言葉。

1980年の夏、医師であるバルバラ(ニーナ・ホス)は東ベルリンの大病院から赴任してきた。バルト海沿岸部にある田舎の小さな病院。彼女が左遷されたのは、恋人ヨルク(ロナルト・ツェアフェルト)のいる西ドイツへの移住を申請したためだった。そんな彼女を受け容れる上司のアンドレ(ロナルト・ツェアフェルト)の孤立するなというアドバイスもかたくなに拒絶するバルバラ。彼女は、アンドレの背後に秘密警察の諜報員シュッツ(ライナー・ボック)の監視の目がひかっていることは、とっくに見通していた。シュタージによる監視、強制家宅捜査、遠隔的な嫌がらせにすべてに疑心暗鬼になるバルバラ。

やがて、トルガウの矯正収容施設から脱走してきたステラという少女が、髄膜炎を発症して病院に連行されてきた。医師として有能な判断と治療をするバルバラと、誠実であたたかいアンドレは少しずつお互いに理解していくのだが、バルバラが密かに計画していた西側へ脱出する日がせまっていた。医師としての使命感、懸命に治療をするアンドレの存在もあり、バルバラの心はゆれていく。。。

寡黙なバルバラを演じたニーナ・ホスのあり方が際立っている。猜疑心と警戒心の重い鎧をまとい、孤独だが意志の強いバルバラの表情はいつもかたく緊張している。ところが、髪を束ねて自転車で颯爽と田舎道を一心に走り抜ける姿が、白衣を脱ぎ、恋人とのつかのまの逢瀬でみせる官能的な笑顔と表裏一体であることがわかる。美しくも厳しく知性的で、実は慈愛を秘めた女医の役をニーナ・ホスは抜群なスタイルで実に魅力的に演じている。そんな彼女が、自由を求めていくのは当然だ。その一方で、貧しい医療設備にも関わらず、過去の医療ミスを生涯をかけて償いするしかないアンドレが、東ドイツの体制の枠の中で今できる小さな医療を続けていくしかない心情も伝わってくる。くまさんタイプのロナルト・ツェアフェルト、ビジネスマンとしての自信に満ちた恋人役のロナルト・ツェアフェルトとともに、キャスティングがいきている。おっと、忘れてはいけない。出番の少なさの割にはいかにもの強烈な印象を残したのは、ミヒャエル・ハネケの映画『白いリボン』で医師役を演じ、本作では秘密警察の諜報員になったライナー・ボックであろう。(ちなみにシュタージの監視下での人間を描いた素晴らしい映画『善き人のためのソナタ』がある。)

監督自身は、西ドイツで育ったが、両親は旧東ドイツから西ドイツに渡った難民だったそうだ。亡命ではなかったため、3週間ほどの帰郷は許されていたとのこと。ベルリンの壁が崩壊して20年の歳月が過ぎた。恋人が運転してきた高級なベンツ車の横に、地元の農民のトラバントが並ぶ場面は象徴的だ。東と西の経済力のあまりの格差ではない。ベンツをそっとなでながら、暖房が入るのか、自分は8年待ってこの車を買えたとおしゃべりをする農夫の姿に、今のドイツ人はどんなオスタルジーを感じるのだろうか。

監督:クリスティアン・ペッツォルト
2012年ドイツ製作

■こんなオスタルジーも
オスタルジーを探しにベルリンへ
ドイツの旅
ドイツ雑感
ベルリン・ドイツ交響楽団
メルケル首相が鑑賞した絵画 マネ「温室にて」
「ヒトラーとバイロイト音楽祭」ブリギッテ・ハーマン著
「ドイツの都市と生活文化」小塩節著
「アルト=ハイデルベルク」マイヤー・フェルスター著
「ドイツ病に学べ」熊谷徹著
「伝説となった国・東ドイツ」平野洋著

久坂葉子と映画『お嬢さん乾杯!』

2013-01-26 16:36:03 | Book
昨年、生誕100周年を迎えた木下惠介監督の作品が、海外を含めて再び注目をあびているという。
映画に芸術性を求めたら少し路線が違うかもしれないが、彼は間違いなくコメディの天才だった。それもからりとした笑いではなく、憂いを包んだ慈愛ある作品だ。なかでも、昭和24年製作の映画『お嬢さん乾杯!』は、私の好きな一作である。

ひとは良いがやり手の自動車修理業を経営する啓三(佐野周二)にふってわいた見合いの話。なんと、相手は華族の池田泰子(原節子)という令嬢だというから、逃げ腰の啓三。金回りはよいが作業着を着て油まみれで働く啓三は、身分違いの見合い話を何度も断っていたのだが、とうとう義理で泰子に一度だけ会うことにした。高慢な女性が登場するのを待ちかまえていた啓三は、現れた泰子の楚々とした品格のある美しさと清らかな性質に人目でまいってしまう。完全に惚れてしまったのである。天にものぼる心地で、背広を新調し、新品の靴で池田家を訪問した啓三は、その豪華な邸宅も凋落の一途で抵当に入っていることを知り、このセッティングが自分の成金の資産と誇り高き華族の血脈との見合いだったことを悟った。悩みに悩む啓三だったが、予想外に泰子とのデートは楽しくはずみ、ふたりの心は近づいていったのだが・・・。

この作品が製作される2年ほど前、貴族制度の廃止と日本国憲法の施行とともに家族制度は廃止され、池田家のように家財を売りながら生活し、没落していった元貴族も多かったそうだ。見合いをセッティングしてくれた専務から結婚の承諾を聞いて有頂天になる啓三、詐欺事件にまきこまれて刑務所にいる父は金のために結婚するなと忠され心がゆらぐ泰子。ふたりの挙動が楽しくもあり、何かの寂しさもほのかにつきまとう。しかし、泰子は泣いているばかりの受身のお嬢さんではなかった、だから彼女に乾杯なのである。

華族ではなかったが、父が川崎造船創立者であり、神戸新聞社社主の孫という名家に生まれながら、それ故に、戦後GHQにより父が公職追放処分となたために土地や家財を売って所謂たけのこ生活を余儀なくされた女性がいた。『お嬢さん乾杯!』の泰子より、もう少し若く、酒と煙草を嗜み、いくつもの恋を経験して、ちょっと跳んでいたお洒落な神戸の娘。しかし、彼女は誠実でよき伴侶の後をおいかけることはなかった。そのきらめくような文才とともに、昭和27年大晦日の夜、阪急六甲駅の鉄路に身を投げ出して散っていったのだった。久坂葉子。

彼女の作品を読むには、彼女の経歴も重要となる。昭和6年生まれ、幼少より早熟で短歌や俳句つくりでは得意だったが、算数は苦手で、集団生活の規則になじめなかった。6年生で淡い初恋を知る。やがて戦争が激しくなるにつれ、死への傾斜がみられるようになる。昭和21年、16歳の時に父が公職追放処分となり、執筆活動をはじるものの、最初の自殺未遂事件をおこす。17歳で問屋で給仕をして賃金を稼ぎ、太宰治の心中事件に衝撃をうけ2回目の自殺未遂。多くの作品を発表する中で18歳で執筆した「ドミノのお告げ」が芥川賞候補となる。以後も次々と作品を発表して21歳で5回目にして命を断った。

戦後、日本中、誰もが貧しく混沌とした中で、現代のベンチャー企業主のように成功して資産家になっていく啓三のような青年もいた。家柄からそんな青年にうまくシフトして幸福をつかむ泰子や、隆盛期の映画産業から日本を離れてフランスの上流階級のマダムにパラダイムしていった岸惠子さん。久坂葉子さんの作品を読むと太宰治を思い出す。彼女の小説は、すべて彼女自身の内面の砕けた鏡のプリズムを集めたような作品だ。喫茶店で珈琲を飲み、煙草を吸いながら、好きな男、自分に好意を寄せる青年と語る時間。ブラームスが好きで、ジーノ・フランチェスカッティのヴァイオリンを聴き、ピアノを弾き、作曲もしたという少女。彼女の作品は、こわいくらいの自殺願望がのぞき、ぎりぎりの暮らしを送りながら、いつか破綻していく軌跡をみているようだ。短編集の本書のタイトルにもなっている遺稿「幾度目かの最後」は、そんな彼女の早過ぎたかもしれない文才が筆を走らせ、3人の男性の間でゆれる緊張感に満ちている。書き終えたばかりの原稿をその中のひとりの男性に渡し、夜、バーで彼女を見守る友人たちと呑み、一瞬のすきをついて歌いながら、踊るように夜の街に消えていったそうだ。

今年も芥川賞の発表があった。新たに注目される受賞者が現れると、スポットライトをゆずるかのように忘れられ消えていく作家もいる。時代の流れに消えていった久坂葉子のほんの数年間に残された一度読んだら忘れがたい作品は、おのおのの時代の盛衰とは別に、静かに細々と、現代も読み継がれている。


日本フィルハーモニー交響楽団第647回定期演奏会

2013-01-25 22:29:04 | Classic
首席指揮者アレクサンドル・ラザレフとの契約を、2011/12シーズンより更に5年延長して挑む日本フィルハーモニー交響楽団との、《ラザレフが刻むロシアの魂》。そうか、気合が入っているなと感じる。今夜は、ラフマニノフ・チクルスである。

寒さが厳しくなると無性に聴きたくなるラフマニノフ。プログラム・ノートによると、1941年に、ラフマニノフ自身は「私はロシアの作曲家です。私の生まれた土地が、私の人格と精神を、かたちづくったのです」と語っていたそうだ。日露戦争の翌年の1906年にドレスデンに移住し、ロシア革命から逃れるために1918年には今度はアメリカに移る。そんなラフマニノフの代表作、ピアノ協奏曲2番のソリストを務めるのは、2009年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで最年少優勝者となったハオチェン・チャンである。

すらりとした長身から流れるハオチェン・チャンの音楽は、ラザレフの振るロシア人のロシア人による音楽とは少し異質な印象がする。ハオチェンのピアニズムは、美しくロシアの大地の咲く白い花のように可憐に清々しくもあるが、はるか大地を染めるような熱情には少しものたりない。改めてプログラムを見ると、ハオチェンは1990年生まれ。平成2年生まれではないか。しかし、きれがよくロシアのおっさんの太っ腹におされ気味となりつつも、鮮烈にラフマニノフを弾ききった。なかなかいけるじゃん、と満足したのだが、アンコールで弾いた中国民謡は絶品だった。ラフマニノフがロシアの大地に育てられたとしたら、スカラシップを獲得して15歳の時からアメリカのカーチス音楽院で研鑽を積んだハオチェンも、中国という国に生まれ、育てられた、やはり中国のピアニストなのだった。この曲を選択した彼の心情を聞いてみたい気がした。

さて、後半の交響曲第3番は、まさにラザレフのパワー全開というところ。ロシア風の重さよりも、華々しくもにぎやかに、しかも色彩的に音楽がつくられていく。これまでのこの曲の印象が一変するくらいの豪快さである。契約を延長するのも納得の奮闘ぶり。それでいて、音が乱れたり大味になることもなく、日フィルの演奏も心に響いてくる。逆に、ラザレフの持ち味がわかってくると、10年後に今よりも成長したハオチェンとの共演をもう一度聴いてみたい気がしてくる。最後に振った瞬間にくるりと回転して客席に向いた時は、本当に拍手喝采!

------------------- 2013年1月25日 サントリーホール -------------------------------

曲目 ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
:交響曲第3番

アンコール 中国民謡/彩雲追月

指揮 :アレクサンドル・ラザレフ
出演 :ハオチェン・チャン(ピアノ独奏)

大島渚監督が逝く

2013-01-20 15:24:40 | Nonsense
映画監督の大島渚氏が15日に肺炎で亡くなった。
大島監督の作品とこれまでの活動暦を調べると、私は殆ど知らなかった。意気軒昂で大島節の「バカヤロー」発言が炸裂していたという「朝まで生テレビ」も観たことがない。それでも何かを書き残したいと感じるのは、大島渚が私が”インテリ”を感じる唯一の日本人映画監督だからだ。

京都大学法学部出身、という東大ではない学歴もそんな私の印象づけに全く関係ないとは言い切れないのだが、作家・司馬遼太郎の短編集「新撰組血風録」の「前髪の惣三郎」と「三条磧乱刃」を題材に和的な衆道の視点から描いた時代劇「御法度」を製作した時、旧来の監督にはない日本人離れした”インテリ”を感じた。現代ではない、かっての日本の歴史にあったかもしれないエピソード、男だけの世界で、時代の転換点で反政府を鎮圧するために働き、しかも反乱者や風紀を乱す者は内部で粛清するという実に特殊な最後は負けて消滅していく集団の中で起こるホモ・セクシャルな素材。更に、主役の加納惣三郎に全く無名だった松田龍平を起用したのだが、よくこんな逸材に目をつけたと驚嘆した。原作を先に読んでいる者からすると、彼は完璧にえたいのしれない水もしたたるような美少年を具現していた存在だった。大島監督の美意識と着眼点には、心底感服した。

私は映画のキャスティングにこだわりがある。それは、ちょっとというレベルではなくかなり。キャスティングが最高だと、とてもご機嫌になる。
大島監督の「戦場のメリークリスマス」のデヴィット・ボーイや坂本龍一、ビートたけしの起用にも驚いたが、「マックス、モン・アムール」は未鑑賞なのだがシャーロット・ランプリングのさえざえとした美貌とスタイルは強烈に印象が残っている。キャスティングに関しては、大島監督は素晴らしくセンスが良いと絶賛していたのだが、生前に彼は闘病生活の中で次回の映画製作についてこんな言葉を残していた。

「最大の問題はキャスティングでしょうね、特に主人公の。そして、何か決定的に新しいものが欲しいね。それはひとつキャスティングか何かが決まれば一遍に降ってくるとは思います。」訃報記事で知ったのだが、大島監督はキャスティングが決まれば映画監督の仕事は終わったものと語っていたそうだ。

1997年に倒れ、その後遺症で言語障害や半身麻痺などの後遺症と闘い、第一線から姿が見えなくなった大島監督。その懸命な闘病生活を支えたのは、奥様の女優の小山明子さんだったという。
「深海に生きる魚族のように自らが燃えなければどこにも光はない」
こんな言葉を座右の名としていた大島監督とすれば、体の自由がきかない闘病生活はどんなにか厳しかったろうか。
しかし、私は大島監督の最高のキャスティングは、人生の伴侶に小山明子さんを選んだことだったと思う。

「風が見ていた」岸惠子著

2013-01-19 15:00:18 | Book
岸惠子さんは”いい男”を書きたかったそうだ。憎むべき戦争や差別の克服に生涯をかけるような。
おりしも北アフリカのナイジェリアで武装勢力によって、邦人を含む41人の人々が拘束されるというショッキングな事件が起きた。独裁的な長期政権から「アラブの春」が訪れ、ようやく自由な空気が生まれて平和的な民主化がやってくると期待されていたところ、リビア内戦ででまわった武器で過激派が勢力をのばし、イスラム勢力の政権が誕生したこともあり、逆に過激派が力を温床してアラブ諸国は尚混迷な状態になってしまった。日本で暮らしているとこんな出来事も遠い異国のことについ感じてしまうのだが、長い間アルジェリアを支配下におき、反カダフィ派に武器を供与していたフランスは、アフリカ問題もユダヤ人差別も当事者としてその渦中にいる。

さて、本書の主人公である19歳の衣子は、フランス製作映画に出演したことをきっかけに、監督の招きで単身でパリに渡る。1957年のことだった。日本人の自由な渡航すら制限されていた時代に、プロペラ機を使って50時間以上もの遠い遠い旅。女学校を卒業したばかりの彼女をそこまで決意させたのは、初恋の人、来栖堯と観たジャン・コクトオ監督「美女と野獣」だった。

「あたし、怖いことが好きですわ」

今ではめったに観ることができない古典のその映画では、その一言の後に「あなたと一緒なら」という言葉で終わるのだが、幼い恋はまだパートナーとして来栖を選ぶことはなかった。しかし、やがてパリで出会う運命的で激しい恋の予感が情熱を秘めた彼女にあったのだろうか。

岸惠子さんのエッセイを読んだことがある方ならば、彼女好みの”いい男たち”に、元夫の映画監督イヴ・シャンピ氏の影響と残像を少なからずみるだろう。けれどもシャンピ氏だけでなく、彼女が日本やフランスなどの諸外国で出会った多くのスケールの大きくいい男のピースが登場人物の中で生きていると感じる。そういう意味では、”いい男”ウォッチング観測点でマダム・シャンピはりっぱに国際派だ。

そして、もうひとつの大きなテーマは「ラ・ロンド」。

岸惠子さんの”自伝的”小説は、予想外にも文明開化の頃に横浜に出奔した次男坊の美丈夫、祖父の辰吉の物語からはじまる。この明治男の祖父が実に”いい男”なのである。”いい男”は行動力があり、スケールが大きく、尚且つなにやら秘密がありそうだ。やがて登場する初恋の来栖、そして夫となるロイックも小さな母国でおさまるだけの器ではない。不思議なことに、日本とフランスの遠く隔てた国をこえて闊歩する男、華やかに外国をステージにかける男も地道にはるかかなたを見つめる男も、時代と国をこえて輪舞してつながっていく。そのラ・ロンドの中心にある美しく点は、衣子であり、本書に掲載されている女優・岸惠子の肖像である。祖父の物語の意外なはじまりから、砂漠で風を見る衣子に鮮やかに完結する。

巧みな文章で本書も楽しませていただいたが、岸惠子さんはもっと多くの引き出しに光る真価をもっている方だと思う。昨年、パリに列車で旅行に行った身内の者は、日本人が多くてあまり楽しめなかったそうだ。私だって、パリには行きたいと思う。そういう私のような人種には想像もできない歴史にうずもれた文章を、もっと書いていただきたいのだが、岸惠子さんはもう80歳になる。

■アンコール
「巴里の空はあかね色」
「30年の物語」

「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」増田俊成著

2013-01-14 17:04:26 | Book
全く、とてつもない人物がいたもんだ。超弩級の怪物だ!
表紙の鍛えられた19歳の肖像を見ただけで只者ではないとわかるが、1917年生まれの彼がまだ未成年で鍛えた肉体は、現在のボディビルディングなどなかった時代の訓練の成果である。乙女がもつにはちょっと照れくさいマッチョな肉体がめだつ本は、上下ニ段組で700ページ近くに及び、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という過激なタイトル。通勤途中で満員電車にゆられながら、周囲のうさんぐさげな視線をあびながら、読み始めたらその熱気にぐいぐいとひきこまれていった。怪物の名前は木村政彦。

「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」
「鬼の木村」

全日本選手権13連覇、恩師悲願の天覧試合を制覇。負けたら腹を切ると短刀で切腹の練習をしてまで試合に挑み、ずっと無敗を続け、現在においても史上最強の柔道家と超人的な強さでそう讃えられている昭和を代表する稀代の柔道家、木村政彦の名前を知っている者は殆どいない。戦後、食べるために、そして、結核となった愛妻の高額な薬代をかせぐためにプレスラーに転向した彼は、昭和29年に力道山との壮絶な闘い「昭和の巌流島対決戦」に破れて静かに消えていった。一方、力道山はこの試合を足がかりに昭和のヒーローとして華々しく活躍し大金を稼ぐのに比例して、益々猜疑心が強くなり、最後は凶器に倒れあっけなく亡くなった。何度も再試合を申し込んできた木村は、彼を忘れていない世間からは”力道山に負けた男”として屈辱の中に生きていくしかなくなった。

あれほどの男が、どうして力道山に負けたのか。

木村が圧倒的な強さで熊本の怪童としてその名前を轟かせ、恩師の牛島辰熊にひきとられて自宅に寄宿しながら拓殖大学柔道部で訓練を積む文章を読みながら、素朴な私の疑問はどんどんふくらみ、その謎ゆえに本書の世界にとりこまれていった。何しろ、その練習がすさまじいのである。睡眠時間は3時間程度で残りはすべて柔道のために使い、牛島の執念のような激しい稽古、腕立て伏せ1000回、大木相手に1000回の打ち込み、まさに想像を絶するような訓練の日々だった。凄いとしか言いようがない。体調不良によって第二回天覧試合に負けた牛島にとっては、木村は自分のリベンジを果たす芸術品だった。現代では、ありえない最強の師弟の関係にも驚嘆させられる。そんなふたりの柔道人生も戦争という暗雲によって一転していき、師弟は別れていき、木村は力道山との世紀に一戦の前に牛島家に挨拶に向かうことになる。2局しかないテレビも試合を放映し、一台の街頭テレビに人々が群がる。そんな大試合を控えているにも関わらず、木村の表情はおだやかで「試合はもう決まっている」と恩師の家を後にする。

柔道の歴史、プロレス界の黎明期も読ませるが、最強の男はまたとてつもなくスケールの大きい人物で、彼を知った者から愛される魅力的な人物だったことが伝わってくる。公表してもさしつかえのないレベルの数少ないエピソードにも驚かせられるのだから、公には言えない蛮行はどんなものだったのかは、乙女は怖くて知りたくはない。師匠の牛島が思想家としても活動を続けても、木村は最後まで悪童で天衣無縫だった。平成5年、木村政彦が逝った時「力道山に負けた男」という単層的な見方で報道するマスコミに反論するために、柔道家でもあった著者が18年の歳月をかけて、資料を集め取材をした力作だ。ぶあついが、中身も熱い!

しかし、やはり木村政彦は負けたのだ。負けたら切腹を覚悟して畳にあがっていた木村、若かりし頃、負けた後に対戦相手を殺そうと短刀を隠してつけ狙ったほどの木村は、やはり負けたのだった。
行間には彼を愛する著者の悲痛がにじみでてくる。けれども、木村は力動山よりもはるかに強く、現在でも史上最強の柔道家であることはゆるぎない事実であろう。

私は格闘技が大嫌いである。本書を読んで最大級の賛辞を送りたいが、格闘技をこれからも観戦することはないだろう。柔道は美しいスポーツだが、格闘技はスポーツではないからだ。しかし、私が嫌悪するそこにこそ、作者をはじめとした柔道関係者の木村へのたぎるような愛情と尊敬の念がこめられている。増田俊也氏の荒々しくも、最後の最後まで存分に読ませられる仕事は、間違いなく最高のノンフィクションである。

「雲の都」第四部「幸福の森」&第五部「鎮魂の海」加賀乙彦著

2013-01-13 15:34:37 | Book
本格的な 2020年東京オリンピック開催招致合戦がはじまった。
昨年のロンドン・オリンピックでは日本選手の活躍にわきたった日本だったが、経済波及効果3兆円といわれてもいまひとつ熱の入らない東京オリンピック実現だ。戦後の復興にわいてあかるい希望に輝いていたと思われるかってのTOKYOに、もう全く魅力を感じなくなっているというのもある。

1929年生まれ、83歳になる加賀乙彦氏の集大成ともいえる自伝的小説「雲の都」が完結した。雲の都とは東京だったのに、主人公の悠太は作家になるや、都会の喧騒を逃れるかのように追分に別荘をもち生活拠点をシフトしていく。毎日出版文化賞・特別賞を受賞した本作は、4000枚にも及ぶ長編になった。

小暮悠太は、幼い頃から憧れていた初恋のピアニスト千束と結婚する。41歳の晩婚だったが、娘の夏香と息子の悠助に恵まれ、本郷のマンションで新生活をスタートする。若い生命の育み、作家としてのスタート。世の中の景気はよくなっていくが、父や母が次々と亡くなっていく。悠太は少しずつ老いていくのだが、年下の火之子と情交したかと思うと、年上のかっての恋人の桜子との息子を自殺で失い、桜子までが嵐の海に自ら沈んでいく。生命と死。若さと老い。エネルギッシュな人々との饗宴もあれば追分での静かな執筆活動が続く。喪失と再生、人生の綾なす出来事が淡々と綴られていく。老鏡の心境とはこのようなものだろうか。

一方で、地下鉄サリン事件や神戸阪神大震災といった災害に夏香や悠助たちもまきこまれていく。”自伝的”というためであろうか、かっての文学少女を魅了した流行作家ではないが知性的で静謐な世界はここにはない。特に夏香と悠助が登場し成長した頃から、彼らの言動にとまどいを覚える。高名な作家の父、資産家の母をもつこどもの精神構造というのはこの程度のものなのだろうか。

地下鉄サリン事件の後遺症でピアニストをめざしている悠助の記憶の回路が混線するというのも、非科学的な印象が残る。サリン事件の被害者の方が後遺症に苦しんでいることとは別次元の展開で違和感すら感じた。構成もゆるく芯がなく、流れるまま、作家の意図がみえずに最後まできてしまった。1部から3部までが昭和の歴史も感じさせられ、登場人物の荒々しい生命力や思考にゆさぶられるような心地がしていたが、4・5部になると、まるでたががゆるんだ日本を象徴するような内容におわってしまっている。優れた作家への功労賞のようなものになってしまったのが、残念である。

■アーカイヴ
「雲の都 広場」第一部
「雲の都 時計台」第二部
「雲の都 城砦」第三部

映画「ハンナ・アーレント」が上映される

2013-01-12 15:09:55 | Movie
年があけ、今年もコンサートや旅行の予定を入れようとしていたところ、こんな映画が上映されることがわかった。
マルガレーテ・フォン・トロッタ 監督によるユダヤ系ドイツ人で政治哲学者であるハンナ・アーレントHannah Arendtをテーマーにした映画『ハンナ・アーレント』である。

ハンナ・アーレントとはどのような人物であろうか。
生物学者の福岡伸一さんがイタリアに行った時、学会をぬけだしてバスに乗ったところ、ごく普通の主婦と思われる女性がハンナ・アーレントを読んでいたと記述していた。この時の福岡さんのちょっとした驚き感には、私も同感だ。一部表現が違うかもしれないが、普通を一般的、主婦を会社員におきかえてもよいだろうが、彼女は日本人にはあまりなじみがなく、その著作物は私達が読むには、東野圭吾の「新参者」以上になかなか難解である。

アーレントは、1906年に社会民主主義の両親のもとにハノーファー郊外に生まれる。。マールブルク大学でハイデッガー、ハイデルベルク大学ではヤスパースに、フライブルク大学でフッサールに師事して哲学・神学を学ぶが、ナチス政権成立後の1933年にパリに亡命して、同じ立場のユダヤ人の救援活動をするものの、1941年再び今度は米国に亡命。執筆活動、プリンストン大学などの客員教授を歴任しながら自由な思想を持ち続けた。彼女の最も大きな業績は全体主義の起源をあきらかにしたことと、イエルサレムで裁かれたアドルフ・アイヒマンの裁判の傍聴記録「イェルサレムのアイヒマン」(悪の陳腐さについての報告)の著者としても知られている。

本作品では、1960年から64年までアーレントがアイヒマンの裁判を傍聴し「ニューヨーカー」に記事を連載するのだが、世論はアーレントがアイヒマンを極悪人ではなくただの仕事に忠実な小さな役人と喝破したことに納得せずに、彼女はいっせいに批判をあびる。そんな状況にも関わらず、絶対悪とは何か、思考することを追及したひとりの女性の凝縮された4年間が描かれている・・・らしい。

さて、主人公のアーレントを演じるのは監督が信頼をおき彼女でなければ映画を撮らないとまで言わせたバルバラ・スコヴァ。彼女は、監督が考える限り「いかに人々は思考するか」、あるいは「人が考えるという事」を演じられる唯一の役者。ちなみに、重要な観察される側の人物アイヒマンを演じられる役者がいなかったため、というよりも役者に要求するものではないため当時の白黒ドキュメンタリー映像を採用しているとのこと。

「私は理解したい」

アーレントの基本原理が映画監督に当てはまるように、私自身の内なる言葉でもある。

監督/脚本:マルガレーテ・フォン・トロッタ
脚本:パメラ・カッツ

キャスト:
バルバラ・スコヴァ
アクセル・ミルベルク
ジャネット・マクティア
2013年秋に公開予定

■なぜアーレントが重要なのか
「なぜアーレントが重要なのか」E・ヤング=ブルーエル著
「われらはみな、アイヒマンの息子」ギュンター・アンダース著