千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「初恋」中原みすず著

2011-09-27 22:01:02 | Book
1968年12月10日、雨が降る師走の朝、白バイ警官に扮した”男”が現金輸送中のセドリックに近づき「爆弾が仕掛けられている」と警告して、4人の行員を退避させている間に車をのっとり逃走した。強奪した金額は3億円。20世紀最大の謎と言われていまだに解決されていない「3億円事件」。その真犯人は、女子高校生。彼女の名前は中原みすず。

前から気になっていた「初恋」だった。何しろ、あのモンタージュ写真がすっかりすりこまれている犯人像が、実は女性、しかも女子高校生だという意表をつく発想に感服した。青酸カリを服毒して自殺した19歳少年S、ゲイボーイK、作家の安部譲二さんも容疑者のひとりだったこともあり、過激派や元警察官説など様々な容疑者がうかんでは消えていったが、誰もが犯人は男だと長い間思い込んでいる。実は女子高校生が犯人だった?!

ページをめくると、ひらがなで「かんたんにまえがき」とあり、いかにもまだ幼さが残る文章で告白がはじまり、物語の主役、実行犯の名前が作者と同じ「中原みすず」とあり、作者自らが犯行を自白した手記という形式をとっている。しかも実際に、犯人に遺留品と思われる物の中には女性が身につけるイヤリングも見つかっている。実行グループの中に女性がいたことはありえない話しではない。みすずの告白はこうはじまる。

「私は『府中三億円事件強奪事件』の実行犯だと思う」

この”思う”という不確かな物言いが、不思議な印象を残しながらもそのあやふさが世間的には未熟な女子高校生じみていて、妙に真実味がうかびあがってくる。そして、私、みすずの告白がはじまる。複雑な家庭の事情から、親戚中をたらい回しにされてどこにも行き場のないみすずが、初めて自分の存在を受け止めてくれたのがジャズ喫茶”S”にたむろする亮、東大生の岸、作家志望のタケシ、女優をめざすユカ、テツやヤスだった。時代は、佐世保「エンタープライズ」空港阻止や東大紛争の激化、その一方でフーテン族がたむろし、霞ヶ関ビルが開業した。激しい学生運動と時代のうねりから距離をおき、大音量のジャズに身を沈める彼ら。もしかしたら、亮たちもこの時代の若者としたら、特別ではなく、社会から背を向けているわけでもなく、ありふれた若さをありふれたスタイルで楽しんでいるだけなのかもしれない。そこに岸からみすずにもちこまれたあるひとつの計画。その犯行が、岸とみすずの距離を一気に縮めていく。

犯行の動機が大金を奪うが決して金儲けではなかったことが、1968年という時代を象徴している。学生運動や政治の嵐にゆれる季節だった。シンプルな人間関係が物語の進行とともに見事につながっていき、みすずの幼くも淡い初恋に結実していく。激しく人を恋うるわけでもなく、恋に悩み苦しむこともなく、泣くわけでもない。ようやく恋の灯りがぼんやりとともりそれと意識するとともに、青春は静かに終わっていた。けれども、それはまぎれもなくみすずの初めての、そして永遠の恋だった。

読後にも、不思議なリアリティが残る。その後、誰もが夢をかなえられず挫折した中で、タケシだけは芥川賞を受賞して作家になったという。完全な創作なはずなのに、作家らしい巧みさの乏しい文章が意図的だとしたら、その策略にはまってみたい。3億円事件は20世紀最大の謎なのだ。私は”中原みすず”という名前の作者による作品は、おそらくこの一冊で終わるだろうと予感している。

『モスクワは涙を信じない』

2011-09-25 15:54:44 | Movie
モスクワ(CNN) ロシアのメドベージェフ大統領は24日、与党「統一ロシア」党大会での演説で、来年3月の大統領選の候補者としてプーチン首相を支持すべきだと述べた。プーチン氏はこれを受け、今年12月の下院選後、首相ポストはメドベージェフ氏が引き継ぐべきだと語った。
プーチン氏は2008年まで2期8年にわたって大統領を務め、連続3選を禁止する憲法の規定により退任。「双頭体制」のナンバー2とされるメドベージェフ氏に事実上ポストを譲っていた。プーチン、メドベージェフ両氏は2年以上前から、次の大統領選にどちらが立候補するかは互いに話し合って決めると繰り返してきた。結果として両氏がポストを交換し、引き続き双頭体制を維持する可能性が高くなった。大会出席者らはプーチン氏に総立ちで拍手を送り、メドベージェフ氏は「プーチン氏の経歴や権威は説明するまでもない」と語った。
プーチン氏は演説の中で、大統領選への出馬は光栄だとあいさつ。近い将来に経済成長率を6~7%まで引き上げ、ロシアを世界5位以内の経済大国にしたいと抱負を述べた。また今後5~10年以内に再軍備を完了するとの目標も示した。

昨年12月の憲法改正により、大統領の任期は6年に延長された。プーチン氏は次期大統領として最長で12年、政権を維持する可能性がある。


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朝日新聞の報道では「双頭体制」長期化という見出しを見かけたが、それは違うっしょ。
童顔でプードルのようなメドベージェフが、大統領に就任した時からの織り込み済みの既定路線であり、双頭体制というよりもプーチンが実質上の”皇帝”になるということだ。ロシアという大国は、大国なりの皇帝願望が民衆にあると私は感じている。さて、本作は、なんとそのロシアで6500万人という驚異的な観客動員を記録したする大ヒットととなり、米国のロナルド・レーガン大統領が、旧ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領との会見に備えて、ロシア人の心を理解するために二回も鑑賞したというエピソードも残る映画『モスクワは涙を信じない』である。

1958年のモスクワ。”雪どけ”で活気と明るさに輝くモスクワで、カテリーナ(ヴェーラ・アレントワ)、リュドミーラ(イリーナ・ムラヴィヨワ)、アントニーナ(ライサ・リャザノワ)の三人の娘は、それぞれの工場に勤務しながら同じ女子労働者寮で生活する夢と希望に溢れていた。カテリーナは真面目で向学心もあり、働きながら勉強して専門学校への進学をめざしていたが、活発で華やかなリュドミーラはお嬢さまを装い次々と有名人や裕福な男性と知り合い、いつか成り上がる予定。そんなふたりを見守るのが、体格ともにどっしりと控えめでおだやかなアントニーナだった。そんなある日、カテリーナが大学教授の伯父から長期休暇の留守番を頼まれたことをきっかけに、リュドミーラの誘いを断りきれずカテリーナもつい裕福な大学教授の令嬢と偽り、テレビ局勤務のハンサムな男性と知り合い恋をするのだったが・・・。ここまでが前半。
そして、18年後ブレジネフ時代のロシア経済も停滞していく。40代になった3人がそれぞれの人生を歩いていたところから後半がはじまる。(以下、内容にふれてまする。)

物語の中心となる3人娘、カテリーナ(カーチャ)、リュドミーラ、アンチニーナのそれぞれのキャラクター分け、真面目でキャリアにも上昇志向のある努力家の女、同じ上昇志向でも美人でグラマラスな肉体を武器にする少々軽い発想の女、地味だが堅実で思いやりのある女といった人物像は、米国でも日本でもわかりやすく共感ももてる。再放送を見てすっかり気に入ってしまった山田太一の連続ドラマ『想い出づくり』を連想してしまったのだが、日本でも昔の家族全員でお茶の間で笑ってテレビドラマを観ていた時代のホームドラマのような映画である。3人娘の相手となる男性群も垢抜けない田舎の青年、いち早くテレビ業界に注目して成功するプレイボーイ、人は良いのだが性格が弱くてアルコールの溺れる有名スポーツ選手、百戦錬磨の研究者、といった容貌・スタイルともにまるで絵に描いたように万国共通なのは笑った。この映画の魅力は、未婚の母、離婚、不倫、といったドラマチックな悲劇や悲運もありながら、自虐的になろうとも常にユーモラスなタッチがあることが幅広く支持され、また、登場人物の誰もが魅力的なのも長く愛された秘訣なのだろう。そして、波乱万丈の彼女たちを支えるのも政府ではなく友情だった。

1958年代のモスクワの街、活気溢れる工場、ダーチャ、アルコール中毒、ぽっちゃりした女性の体型といったロシアの風物?名物?悩みも郷愁をそそられるのだろうか。日本人の私ですら、街を走る車の少なさも、交通渋滞に悩む今のモスクワからすると隔世の感すらある。カーチャのような能力のある女性の抜擢と躍進もロシア的だが、一方で、素晴らしい男性だが女性に対して上から目線の威圧的なゴーシャの態度にも違和感があった。長く独身だった彼女にとっては、この手の”男性的な”男というのも魅力的なのだろうが、米国人女性だったらゴーシャはOUTだろう。それは兎も角、労働、生産を賛美する旧ソ連の象徴のような大工場と農園、一方、軽佻浮薄の代名詞のような(日本でも同じく)テレビ業界といった対比を含めて、ここには100年たっても200年たってもかわらないロシアの民衆がある。主義がかわり、体制がかわり、大統領がかわっても、大国の民衆はお互いに支えあってたくましく生きていくのだ。タイトルの「モスクワは涙を知らない」は、かってのモスクワ大公国が民衆の税の軽減の嘆願を退けたばかりか、嘆願者を処分したという由来から、「泣いても現実はかわらない」ということわざを借用している。「政府の役割は甘い蜂蜜だけでなく苦い薬も与えること」と表明しているプーチンが、大統領に再任するのは間違いないだろう。そして、ロシアの現実は、これからも涙を信じないことに変わらないのだろうか。

映画のはじまりは「アレクサンドラ」というおしゃれで素敵な歌ではじまる。アレクサンドラはカーチャのひとり娘の名前でもある。

「モスクワは涙を信じない」
とはるかにモスクワの街が広がり朗らかに歌が流れる。そして
「信じるのは愛だけ」と。

監督:ウラジーミル・メニシェフ
1979年ロシア製作

■こんなアーカイヴも
映画『ローラーとバイオリン』
映画『父、帰る』
映画『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』
映画『12人の怒れる男』
映画『静かなる一頁』
映画『人生の祭典 ロストロポーヴィッチ』
映画『エルミタージュ幻想』
「自壊する帝国」佐藤優著
「国家の罠」佐藤勝優著
おろしや国訪問記④
「エルミタージュの緞帳」小林和男著
「1プードの塩」小林和男著
「ロシアの声」トニー・パーカー著
「完全なる証明」マーシャ・ガッセン著
今時のモスクワっ子住宅事情
歴史の不可避性とソビエト的礼節

『ミケランジェロの暗号』

2011-09-23 17:27:37 | Movie
この映画の宣伝チラシには、”『ヒトラーの贋札』のスタッフが贈る謎と緊張が連続するサスペンス・ミステリー”という言葉が踊っている。
ちょいヒットで話題となり好評をはくした前作の実績をみせて、次の作品の観客動員につなげたいという製作側の思惑というのもよくわかるのだが、この『ミケランジェロの暗号』こそ、前作の『ヒトラーの贋札』とあわせて鑑賞するのがお薦めである。もっとも、その点で一番笑っているのは、もしかしたら贈り主のスタッフかもしれない。

『ヒトラーの贋札』の舞台は、第二次世界大戦中の、ドイツはザクセンハウゼン強制収容所。ナチス・ドイツが英国経済の混乱を狙って大真面目に考えついたのが、大量の贋札ポンドを製作するベルンハルト作戦だった。前作では、ナチス側が収容所に入れた優秀なユダヤ人の頭脳と技術を巧みに利用して贋物の紙幣を作っていたのだが、今回はそのユダヤ人がミケランジェロの絵の贋物をこっそり製作して、その絵を切り札にして外交上でイタリアとの優位な条約を結ぼうとしていたナチスを逆に翻弄させるという展開である。 しかも、ユダヤ人画商一族、カウフマンの御曹司ヴィクトルが使用人でナチスに入党したルディをだまして立場を入れ替わり、どちらが本物のユダヤ人のヴィクトルでどちらが偽者のナチス党員のヴィクトルなのか、はらはらどきどきさせるサスペンス映画である。(以下、内容にふれてまする。)

ユダヤ人画商の一族、カウフマン家は国宝級のミケランジェロの絵画を密かに所蔵していた。それはムッソリーニもだが、私だって欲しいぞ、国宝級の一枚。一族の御曹司ヴィクトル(モーリッツ・ブライドブトロイ)は、パーティの後に幼なじみで親友のルディ(ゲオルク・フリードリヒ)にその秘蔵の絵の在り処をこっそり教えてしまう。するとルディはナチスでの昇進のために恩義のあるカウフマン家を裏切って軍に密告。一家は、絵を奪われて収容所に送られてしまう。ところが、その名画が贋作だったことが判明した。すべてを知る一家の父はすでに収容所で死亡、鍵を握るヴィクトルは・・・。

たいした宣伝もしていないし、マイナーな映画鑑賞が多くいつも空席だらけの経験則から、どうせ空いていると踏んでいた私は甘かった。すでにほぼ満席で、日を改めて早めに到着して鑑賞したくらいの人気にわく。これまで毎年、なんだか気がついたらナチスもの、アウシュビッツが舞台といった映画を観てきたことになるが、本作はこれまでの映画と雰囲気が異なる。超濃口顔のモーリッツ・ブライドブトロイが、意外にも人がよくユーモラスなお坊ちゃま役を好演している。一方、辛口顔のゲオルク・フリードリヒは、ナチスの軍服が似合う怜悧なタイプなのに、どこかまぬけでにくめないのである。友人同士とはいえ、片や一族の御曹司へのコンプレックスをお茶目に演じている。裕福な御曹司と貧しい使用人という対立する立場が、政局によって、支配するナチス党員と収容所の囚人扱いに逆転したかと思うと、ヴィクトルの機転で制服と囚人服をチェンジするや、再びふたりの立場が逆転。まるでオセロの白と黒のように情勢が一気に反転していくゲームのように物語は進行していく。ナチス党員の制服は究極の万能スーツ。人は身に着ける制服と立場によって、これほどふるまいを変えることができるのか。なんだか、カイシャで出世できないおとうさんの哀愁がちょっぴりわかる・・・。それはさておき、何度も笑って最後の最後まで、絵画の行方とふたりの動向から目を離せない。そう、主役はミケランジェロの絵画ではなく、このふたりのパワー・バランスだ。ラストの戦いが終わったふたりの複雑でなんともえいない表情が、原題の意味に集約される。ナチスものでも、こういう映画を撮るのだと懐の深さも感じた。

原題:Mein bester Feind
監督:ウォルフガング・ムルンベルガー
2010年オーストリア製作

■アンコール
映画『ヒトラーの贋札』

『ゴーストライター』

2011-09-19 06:49:44 | Movie
これほど作品の内容に先行して、映画を撮った監督自身の生涯が話題になる人もそうそういないだろう。
その人は、ポーランド出身のロマン・ポランスキー。
詳細は他のサイトやブログで何度も紹介されているので省略するが、幼児体験を含めて様々な特異で過酷な人生経験が作品に影響を与えていると巷間伝えられれば、人はそこにポランスキーの深い闇を見たがるものである。

ひとりの売れない英国人ゴーストライター(ユアン・マクレガー)がいる。体にすっかりなじんだスエードのジャケットと肩からさげたカバンが、この作家のさえない暮らしぶりと今後もそれほどかわりばえしない生活を予想させる。ここは英国である。成り上がるには、サッカー選手かミュージシャンになるしかない国だ。それほど、文才も世間を渡る如才もないけれど、いつかは本物を書きたい売文屋の彼に、思わぬ大きな仕事がころがりこんできた。それは、引退した元英国首相アダム・ラング(ピアース・ブロスナン)の自叙伝執筆の依頼だった。前任者が事故により死亡したためにまわってきた仕事。報酬もでかいぞ。彼は、仕事のためにラングが滞在するアメリカ東海岸の孤島に向かうのだったが。。。

舞台は”アメリカ”の東海岸の孤島にある豪華な元首相の別荘。英国人が別荘とは言え、アメリカに住んでいるということまず違和感を感じる。引退したとはいえ、秘書や執事、召使もいるなかなかリッチで快適な暮らしぶりに、ピアース・ブロスナンの笑顔が決まっているグッドルッキングと鍛えた肉体に、ある種のいかがさしさとかすかに嘘の匂いを感じ取っていく。島を渡るライターに、出会う人々は彼が一様に英国人であることが話題になり口にでる。ここに、アメリカの中の英国人というキーワードが隠されている。公開当初から、トニー・ブレアがモデルと言われているのだが、私の率直な感想は監督のむしろアメリカという国に対する不信感である。ここで、一度もアメリカに入国していない、というかできないポランスキーの事件も思い出したのも、私も純粋に作品だけを観るのではなく監督自身の人生を詮索したくなっているのだろうか。先日も、ガイトナー米財務長官が、欧州連合(EU)財務相非公式理事会に出席し、債務危機への対応力を高めるため、欧州金融安定ファシリティー(EFSF)の融資能力拡大を提案した。アメリカのファンダメンタルこそ悪いのに、世界の覇権国としての親切な提案に欧州が不快感をもったのには同感する。ただ、所詮、アメリカが世界を牛耳っていて、英国も親密だったのかという厭世観はあるけれど。

映画はユーモラスさを散りばめて巧みに展開し、ヒッチコックのような上質なサスペンス映画というエンターティメント性に目も心もすっかり楽しんでいる。完璧なセリフ、演技、演出に最後の最後まで気持ちがそらされないで集中して鑑賞してしまうという点でも、監督の超一級の職人芸に思わず感嘆してしまった。ロマン・ポランスキーのこれまでの作品の中で私は鑑賞済みの作品は、『ローズマリーの赤ちゃん』『テス』『死と乙女』『戦場のピアニスト』と少ないが、どの作品も強烈な印象を残している。またこれらの作品がひとりの同じ監督だったという事実にはじめて気がつき、中でも『テス』と『死と乙女』はお気に入りの映画だということだけでも、この監督の才能を今さらながら知ったという次第である。

名前のないゴーストライター役を演じたユアン・マクレガーは「僕は政治的な映画として見ているよ。政治家について描き、とても辛らつなコメントをしているポリティカルな映画だと思う」とコメントをしている。そうだった、やっぱり、彼も英国の俳優だ。

監督:ロマン・ポランスキー
2010年 英・仏・独製作

「横道世之介」吉田修一著

2011-09-17 11:42:47 | Book
あの頃の私は、本当におばかだった。時々、当時の自分を振り返ると布団の中にもぐってぎゃ~~っっと絶叫したくなる。けれども、あの頃の友人、先輩、後輩たちは私に負けず劣らず、いや私以上にもっとおおばか者だったと思っている。あの頃、ついこの間まで制服がよく似合う女子コウコウセーだったのに、桜の季節とともに大学生になりキャンパスを意気揚々と闊歩していた。

本書の主人公、横道世之介が都心の私大・H大学に入学するために故郷の長崎からはるばる上京してきたのは、バブル絶頂期。と、くれば、1968年長崎生まれ、法政大学経営学部を卒業された作家の吉田修一さんご自身の時代体験の空気観がバックグラウンドとなっている。誰もが通過する青春期。フランスの哲学者、ポール・ニザンの「僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない」という名言をバイブルのように闘争した全共闘世代、その後のシラケ世代とはまた一味違うバブル世代の若者。本書は、世の中がバブルに浮かれ、その危うさに目をそらし享楽的だった時代に大学生になった世之介の一年間の物語である。

この若者は、ばか者と言いたくなるくらいの頼りない男である。何の気概も目的もなく、サンバ・サークルに無理やり勧誘されれて入部、サンバを踊るはめになるのだが、イマイチ覚悟がたりずに腰がひけている。田舎者からマスコミ研究会に入ってシティ・ボーイに変貌を遂げた友人に頼まれれば、『ねるとん』のオーディションに人数あわせのために参加するはめになる。年上の綺麗なパーティ・ガールのお姉さんに人目ぼれをして恋をするものの、運転手付きの車で移動するお金持ちの祥子さんに好かれて付き合いはじめるいい加減さも持ち合わせている。そこには、生きる目的や、世の中を変えたい思想もなく、恋愛論に興じることもなく、適当に授業に出席して、バイトをして、サークル活動もそこそここなし、教習所に通って車の免許をとる。何の特技も才能もなく、たいした努力もせずに、目的もなくふらふらしている世之介の奴。全く、なんて、世之介は、おばかな男なのだろう!けれども、いずれ誰にも青春があるように、そして、青春がいやでも去っていくように、誰もがばかになれない時代はやってくる。それも、ほんの、笑いさざめいている時間のすぐ後に。

新聞の連載小説だった物語は、世之介を中心に東京の大学生の暮らしがユーモラスに進行していく。「悪人」で新境地を開いた硬派?、吉田修一さんの作品にしては意外な感じがしたのだが、途中に現代の世之介の友人たちの挿話が効果的に入り、読者は40歳になった世之介を少しずつ知っていく、というよりも知らされていく。隙間だらけの世之介が自分らしさを残しながら、年を重ねて隙間をうめていったその後を私たちは想像するしかない。そのさりげなさと、その後の彼らの人生に、吉田さんらしい人生の一抹の寂しさも感じる。

あの頃の私たちも、間違いなく世之介並みにおばかだった。けれども、今振り返ると、彼ら、彼女達がおばかだったから、とても愛おしい。

■アーカイブ
「悪人」吉田修一著
「初恋」吉田修一著

■様々な世代の青春小説
「東京物語」奥田英朗著
「オリンピックの身代金」奥田英朗著
「マイ・バック・ページ」川本三郎著
「船に乗れ!Ⅰ 合奏と協奏」藤谷治著
「船に乗れ! Ⅱ・Ⅲ」

「翼のはえた指 評伝 安川加壽子」青柳いづみこ著

2011-09-13 22:38:54 | Book
東京では、およそ毎日30公演ほどの音楽会が開かれていて、ひとつの街としてはその数は世界一だそうだ。個人的にも、それがTOKYOを離れたくない理由ともなっているのだが、今から70年前の1940年代の日本では、なんとあるピアニストがコンサートの依頼を受けたところ、畳の上に足をはずしたピアノが置かれ、前に座布団が置いてあったそうだ。そんなクラシック音楽に関しては発展途上国のような状況でピアニストとして生きていくのもそざかし大変だったろうが、幼い頃からパリで育ち、パリ国立高等音楽院をわずか15歳で1等賞で卒業して帰国したばかりの新進ピアニストのとまどいを察するとあまりにも気の毒である。そのピアニストは、安川加壽子さん。さまざまな国際的なコンクールで審査員を務め、ピアニストの音楽暦で師事した方の名前によくみかけていた名前だ。本書は、小学生時代、そして高校時代に安川さんの指導を受けた同じくピアニスト青柳いづみ子さんによる評伝である。

安川加壽子さん、旧姓、草間さんは1922年に生まれたが、ほどなく外交官の父とともに赴任先のパリで育つ。ちなみに明治生まれの父はシカゴ大学大学院、母はオベリン大学を卒業。明治時代でこんなハイクラスな学歴の両親のもとに生まれたということから元々の賢さも想像するが、彼女の育った環境が裕福さという点ではなく一般庶民とかけ離れている文字通りハイクラスなのが現代のピアニストとは違う。本書の趣旨から離れるが、庶民でも本物の音楽を聴くだけでなく演奏者の側にもなれる可能性がある今の私たちは幸運なのだ。彼女はピアノを習い始めた母の演奏をピアノの下で聞きながら再現して教師を驚かし、3歳半になると正式にピアノを習い始めるのだが、ほどなく母親のレッスン時間をすべて奪ってしまったくらいの音楽好き。この時点から、自分の果たせなかったピアニストへの夢を娘に託した母が、レッスンの時は厳しくつきっきりなのは、現代でも共通のようだ。しかし、10歳でパリ・コンセヴァトワールに入学。17歳で戦争勃発寸前に帰国するまで、この学校とさまざまな名教師がピアニスト・安川加壽子をつくったと言っても過言ではない。そんな彼女を日本の楽壇はどう受け容れたのだろうか。

天才少女という絶賛と、ドイツ系統の重厚な音楽主流の日本に逆輸入されたフランス風の優雅で洗練された演奏への賞賛と、それゆえの偏見や見当違いの批評。若くして大御所となり名声も地位もついてきたが、一方、私生活では九州男児の安川財閥の夫につかえ、3人の子どもたちを育て、晩年は不運な病に苦しんだ。本書からは、安川さんの恵まれた資質と美しいピアニズム、そして伝統と正統的な解釈、その反面、日本語よりもフランス語の方が自然な女性が戦後の日本の楽壇で活動する努力と困難も充分に伝わってくる。戦火の中で大切なピアノを失いピアニストになることをあきらめかけたり、本来ならまだ師匠についてもっと学びたいところを帰国せざるをえなかった不安と孤独。ピアニストの視点で、著者は恩師の業績を振り返りながら、決して身びいきになることもなく、戦後の日本音楽界の流れを俯瞰して分析していく。同じピアニストとして、また女性だったら、もっと安川加壽子の内面にきりこんでもよいのではないだろうか、と感じる部分もなきにしもあらずだが、本書の目的からはずれることなく客観性を保った端整で知的な文章こそ、この日本の音楽界に貢献した偉大なピアニストを語るにはふさわしいのだろう。足のないピアノに座布団から、戦後の日本の音楽の歴史をかいま見るようで興味深いが、いちピアニストを離れて演奏という行為に対する著者の考察も考えさせられる。

そもそも楽器の演奏は、パフォーマンスか運動か、芸術かと問われれば、勿論、芸術である。しかし、たとえば、サントリーホールのP席で優雅に大胆に技巧を駆使するピアニストの圧倒されるような”指さばき”や”渾身の演奏”に、心を動かされるのも事実。ベルリン・フィルのコンサートマスターに正式に就任した樫本大進さんの見るたびに充実していく体重と重なり、円熟へと向かう演奏には満足するが、先日のあのラロのスペイン交響曲を大汗をかきながらの”熱演”ぶりの姿には、それだけでも良い音楽を聴いたつもりになっていった。著者によると、演奏にはパフォーマンスや運動性という要素も不可欠ではないかと。しかし、演奏の本質はあくまでも芸術性でなければならない。舞台姿がなんとも美しく独自のピアニズムをもっていた安川さんは、すべてが高くバランスがよく、しかも微妙なさず加減がうまかったそうだ。

おりしも今年の改革後のチャイコフスキー国際コンクールでは、日本人入賞者が誰もいなかったという事態になった。勤勉で努力家の日本人のレベルは世界でも劣らないはずだと思うのにと残念だが、初めて1975年にエリザベート王妃国際コンクールの審査員を務めた安川さんは、日本が本当の意味で世界のレベルに達するにはあと50年かかるだろうという感想をもった。日本の音楽界は、安川加壽子というピアニストを、フランス風、女性という名のもとに封印するのではなく、作品の歴史的・文化的背景の理解をふまえた端整な様式美、馥郁たる香り、演奏の芸術性と運動の合理性と絶妙なバランスをもっと徹底的に分析していかすべきだったという著者の嘆きが、あらためて迫ってくる。およそ10年ほど前の本であり、新人が次々と生まれるスピードの早い現代では、安川加壽子という存在も急速に静かに失われつつあるが、逆にだから今こそ安川加壽子を再検証する分岐点に日本の音楽界はいるのではないだろうか。いつものことながら、青柳いづみこさんは文章がうまい。

「音は、ずっと前からそこに湛えられていた響きが隅々にその姿を湧き出させたような自在な波紋を描きながら、舞台袖にも届くのであった。」(「人為を超えた美しい『自然』読売新聞1996年7月16日)
初めて安川さんのピアノを聴いた、後に作曲家になる三善晃少年はその美しさに感動した。安川さんは、舞台の袖から登場した時から、そこにはすでに音楽が奏でられていたという。

■こんなアーカイヴも
「ピアニストが見たピアニスト」
「六本指のゴルトベルク」
「ピアニストは指先で考える」
「ボクたちクラシックつながり」
クラシック音楽家の台所事情
「我が偏愛のピアニスト」

第14回チャイコフスキー国際コンクール優勝者ガラ・コンサート

2011-09-08 22:27:31 | Classic
近頃では、国際コンクールと言っても数々あるが、4年に一度のチャイコフスキー国際コンクールは世界中が注目し、華やかさも抜群のコンクールである。(ショパン国際コンクールもNHKが毎回特集番組を組むせいか、話題性が抜群だがピアノに限られている。)しかも、今年はあのヴァレリー・ゲルギエフのおっさんが組織委員長に就任して様々な改革をこころみた結果の入賞者。ジャパン・アーツが栄えある優勝者を集めてガラ・コンサートを主催した。声楽部門については、優勝者の韓国人ではなく3位に入賞したロシア人

コンクールに出場するということは、これから世界の音楽界というひのき舞台で活躍したいという目的なのだろうが、実力から言えばもう完全にプロ、というよりも演奏家としての活動をはじめて経験もあるが、更にキャリアをグレードアップするためのはずみとして優勝暦を加えることが参加動機なのだろうか。
最初に登場したのはエレーナ・グーセワさん。シンプルで清楚な白いドレスが、ロシア風大柄な体型によく映えていて、髪型、雰囲気とともにまさに「エフゲニー・オネーギン」のタチアーナになりきっている。私は映画版『オネーギンの恋文』でタチアーナ役を演じたリヴ・タイラーのイメージが強くて華奢な体型よりも、骨格のがっしりした女性の方が好み。25歳という声楽家にしては若々しく、しかも容姿も美しいエレーナ・グーセワさんが、手紙の場面を見事に歌い上げたので、サントリーホールぐらいのキャパシティだったら、やはりロシアのオペラものは容姿もふさわしいロシア人の方が観客には説得力があるかもしれない。声の美しさよりも、厚みを感じる歌手である。

次はヴァイオリン部門で2位(1位なし)で聴衆賞を受賞したセルゲイ・ドガージン君。
独特のテンポ感で”オレ様千秋”状態でオケを制する。チャイコフスキーのVn協奏曲を常々”演歌もの”と感じている私には、セルゲイ君の内省的なテンポと様式には今ひとつのりきれないものがある。それは、東京交響楽団も一緒じゃないか?おっと、オケとあっていないじゃんとはっとする部分もあるが、指揮者の高関健さんの不安げな一瞥を弱冠23歳の若造のセルゲイ君はものともせずに跳ね返し、「大丈夫、おまえこそしっかり振れ」というアイコンタクトの会話が聞こえてきた。(と、勝手に思っているのだが・・・)今回のコンクールの審査のポイントを「説得力ある演奏」と解説したゲルギエフ氏の”説得力ある演奏”を感じたのも彼の演奏だったが、又、同時に1位に少し届かなかったのもその説得の内容ではないか、とも感じた。しかし、とても魅力的なヴァイオリニストであることは間違いない。

休憩をはさんで後半は、チェロ部門で優勝したナレク・アフナジャリャン君。アルメニア出身だそうだが、おなじみの「ロココの主題による変奏曲」を、彼は、曲想にふさわしく、かろやかにそしてエレガントに弾いている。こんなにもチェロの音が優雅だったとは。ナレク君はオレ様タイプというよりも、良い意味での自己陶酔型のように見える。ロストロポーヴィッチ財団から奨学金を授与されているそうだが、このまま演奏活動と人生経験を積んで、スラヴァのような大家に成長するのが楽しみな逸材である。

最後は、やはりピアノ部門。なんたって、チャイコフスキーのピアノ協奏曲は演奏時間も長いが、フィナーレを飾るにふさわしい堂々たる大曲。
どうやらダニール・トリフォノフ君のコンサート4公演付き、おまけにファン・ミーティングと称した写真撮影もあるらしい「スイス・イタリア9日間」(35万円)ツアーのチラシには、”驚異の20歳”と書いてある。まあ、よくある宣伝文句だとさして気にもとめていなかったのだが、あまりにも有名な冒頭の出だしの彼の確信のある演奏には、二階席から思わず身をのりだしてしまった。音がとても綺麗なのだ。輝くばかりの音の粒にポリーニを連想したのだが、そういえば、遠目で確認したピアノはファツィオーリだった。これぞ、まさに説得力のある演奏。そればかりではない、気迫に満ちた音が会場一杯に一気に広がっていく。まだ若い竹のようなスタイルのどこから、こんなに響く音量がでるのだろう。プログラムをよく見ると、彼は全部門を通てグランプリを受賞している。

来日した演奏者は、全員、聴衆賞を受賞しているのだが、それにしても、いずれも顔が小さく、スリムで脚が長く長身でコンサート・スーツが決まっているイケ面ばかり。女子的には、クラシック界の「イケメン・パラダイス」だったのは想定外だった。そんな彼らと並ぶ指揮者の高関さんが、まるで猿の惑星からやってきたようにも感じる。(失礼!)今回のコンクールでは、残念なことに日本人が誰も本選に残らなかったのも話題のひとつ。 1975年に初めてエリザベート王妃国際コンクールで審査員を務めた時のピアニストの安川加寿子さんが、「日本人が本当に人を感銘させる演奏ができるようになるまであと半世紀かかるだろう」と言った言葉を思い出したのだった。

余談だが、コンサートに先立ちインタビューをした音楽ジャーナリストの伊熊よし子さんによると、彼らの素顔を「全体的に非常に思慮深く視野が広く、バランスのとれた人間性の持ち主」であり、自分の心の声をしっかりことばにできる能力と主張する力を備えていることに感動したというエピソードが印象に残る。やはり、音楽と対話をしながら世界の頂点をめざす者はちょっと違うようだ。

-------2011年9月8日「2011年第14回チャイコフスキー国際コンクール 優勝者ガラ・コンサート」サントリーホール--------
ⅩⅣInternational Tchaikovsky Competition Winners'
ダニール・トリフォノフ Daniil Trifonov 【グランプリ、ピアノ部門第1位、聴衆賞】
セルゲイ・ドガージン Sergey Dogadin 【ヴァイオリン部門第2位(1位なし)、聴衆賞】
ナレク・アフナジャリャン Narek Hakhnazaryan 【チェロ部門第1位、聴衆賞】
エレーナ・グーセワ Elena Guseva(ソプラノ/Soprano) 【声楽部門・女声第3位、聴衆賞】

■オール・チャイコフスキー・プログラム
All Tchaikovsky Program

歌劇「エフゲニー・オネーギン」~手紙の場面
エレーナ・グーセワ【声楽部門・女声 第3位・聴衆賞】
“Letter Scene” from “Eugene Onegin”
Soprano: Elena Guseva

ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
セルゲイ・ドガージン【ヴァイオリン部門第2位(1位なし)・聴衆賞】
Violin Concerto in D major op.35
Violin: Sergey Dogadin

ロココの主題による変奏曲 イ長調 作品33
ナレク・アフナジャリャン【チェロ部門第1位・聴衆賞】
Rococo Variations in A major op.33
Cello: Narek Hakhnazaryan

ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
ダニール・トリフォノフ【グランプリ・ピアノ部門第1位・聴衆賞】
Piano Concerto No.1 in B-flat minor op.23
Piano: Daniil Trifonov

指揮:高関健 管弦楽:東京交響楽団

■こんなアーカイブとアンコールも
チャイコフスキー国際コンクールの幕がおりる
ファツィオーリという世界最高のピアノ
「第13回チャイコフスキー国際コンクール 入賞者ガラ・コンサートジャパンツアー」

「プラチナデータ」東野圭吾著

2011-09-06 23:05:10 | Book
東野圭吾さんは、名実ともに人気作家である。
本を出版する度に話題となり、駅前の小さな本屋でも平積み、そしてすべてベストセラー。しかも、次々と新作が登場してそのどれも一定以上の水準を維持しているのがすごい。同期のミステリー作家、乙女の憧れだった森雅裕さまがコンビニでバイトをしながら食いつないでいる一方、東野圭吾さんはベストセラー作家として不動の地位を確保。最近は選考委員として君臨している。東野さんのような流行作家という肩書きには、多少の揶揄も含まれているような気もするのだが、次々と読者を楽しませてくれるミステリーをイチロー以上に連発する実力には脱帽させられる。残暑の夜、仕事を終えてビール片手にページをめくるの時間も

さて、韓国映画の傑作『殺人の追憶』では、ソウルから派遣された大卒の刑事が、執念のように猟奇的な殺人事件の犯人を追い詰めていく最後の切り札がDNA鑑定だった。映画では米国のFBIに犯人とおぼしき工員の青年(実に爽やかでおだやかで虫も殺せないような風貌のパク・ヘイルだからあたり役なのだが)の精液を採取してDNA鑑定の依頼をする。

もしも、もしも、近未来に犯罪防止のために全国民のDNAの登録が義務付けられ、遺伝子という究極の個人情報を管理されたとしたら・・・。現場に落とされた髪の毛一本で、容疑者がうかびあがるだろう。それどころか、DNA鑑定から既往症や血液型は勿論、体型、鼻の形、身長、容貌まで殆ど忠実に再現される。そんなどこまで科学的に可能なのかわからないが、主人公の神楽は極秘の国家機密のプロファイリングシステムを構築していく。そんな時、システム設計の要だった数学の天才少女と少年が殺害されてしまった。亡くなった少女の胸に残されていたのが、犯人のものとおぼしき毛髪だった。ほぼ完璧に思えたシステムがわりだした犯人像は「RYUHEI KAGURA 適合率99.99%」。驚愕する神楽だったが、彼には自らの犯行を絶対に否定できない大きな秘密があったのだった・・・。

東野さんの作品では、DNAによる国家の管理社会の危うさや、心の病までは鋭くほりさげることはしない。あくまでも、軽いエンターティメント性で読者をひきつけ、なかでも”ちょっと理系”に発想や思いつきにも感心する。そして、誰にでも手に取りやすい一冊に仕立てるこの軽さも、成功への秘訣だ。そういう意味で、ミステリーというジャンルは魅力的な土俵でもあるが、まさに職人芸のような東野作品にはずれはない。新作が出るたびに、とりあえず地元の図書館に予約をするのだが、とんでもない人数の予約まちである。

ところで、『殺人の追憶』は1986年から1991年の間、軍事政権のもと民主化運動に揺れる韓国において実際に起きた未解決の連続殺人事件をフィクションにしている。映画では米国に鑑定を依頼したDNA分析だが、実際は日本に依頼をしている。当時のDNA鑑定は精度がまだまだ低かった・・・ということは?刑事がのぞいたマンホールの闇が広がっていく。

■アーカイブ
「容疑者Xの献身」
「赤い指」
「夜明けの街で」
「新参者」
「使命と魂のリミット」
「カッコウの卵は誰のもの」
「流星の絆」

「三十光年の星たち」宮本輝著

2011-09-04 11:23:46 | Book
今から5年前、2006年のノーベル平和賞を受賞したのは、無担保で少額融資を行う「グラミン(農村)銀行」と同銀行を創立したバングラデシュのムハメド・ユヌス氏だった。1974年にバングラデシュが飢饉に落ちた時に、困っている村人たちにわずか27ドルを貸したことからはじまり、現在のバングラディッシュ・グラミン銀行の会員(顧客)は、ダングラディッシュで約540万人、累積融資額が52億ドル、支店数1700店まで成長した。何よりもユヌス氏の開発したマイクロ・クレジット制度は、全世界でほぼ1億世帯に達するという。旧東京銀行出身の枋迫篤昌(とちさこあつまさ)氏が退職金と貯金をつぎこんで創設した2003年6月にマイクロファイナンス・インターナショナル・コーポレーション(MFIC)も、年収2万円程度の出稼ぎ労働者、銀行口座やクレジット・カードをもてない”unbanked”な移民たちのために小口の融資を行っている。

京都の小さな袋小路に住む坪木仁志は、職を失い、親からも勘当され、住んでいる貸家のように行き詰まっていた。隣の家に住む佐伯平蔵という老人から借りた80万円の借金の返済もまず無理。とりあえず車を売って30万円程度返せる見込みを佐伯老人に相談すると、借金返済のかわりに運転手と仁志を雇い、その車で返済が滞っている人たちの”取立て”業務を提案される。のるか、そるか。謎の老人の取引提案にちょっとびびる仁志だったが、「君の人生は終わったも同然」との一喝に、正体不明の爺さんを車に乗せて借金取り行脚の不思議な旅にでる仁志だったが。。。

作家の宮本輝氏は、幅広い読者を獲得している圧倒的なストーリーテラー作家。本書は毎日新聞の連載小説としてスタートしたのだが、すでに9回も連載小説を残し、他にも連載小説を抱えていて疲れきっていた宮本さんは、体の悲鳴にお断りする予定だったそうだ。そんな氏を奮い立たせたのは、30年前の若造が作家としての決意を語った時の、ある人の「お前の決意をどう信じろというのか、30年後の姿を見せろ」という言葉だった。片時も消えなかったその言葉が、たいした学歴も、それほどの仕事での成果もない、これまで自分なりにしか頑張れなかった頼りない30歳の無職の青年が、佐伯老人をはじめ様々な人とめぐりあい、30年後をめざして、懸命に自分の人生という樹木を育てていこうという作品を生み出したのだと思う。仁志は、どこにでもいそうな今時の草食系の青年。そんな仁志に美質を見つけ出し育てようとする佐伯老人の姿に、昔だったら、そんな役割は企業の上司や先輩、怖いお局様、地域社会の住民だったのではないだろうか。何とせちがらい世の中になったことか。仁志を中心に、多少ご都合主義な観もなきにしもあらずだが、人それぞれに30年先をめざして希望を感じる良書である。11本目の新聞連載小説のオファーも早々にくるだろう。

就任したばかりの野田佳彦首相も、早稲田大学卒業時に政治家を志して新設されたばかりの松下政経塾に入塾、政治家になっても財務大臣になるまで24年間も駅前で街頭演説をしてきた方だ。落選した時も朝まで反省会をした後に6時にはもう駅前で演説、長い時は13時間も立ちっぱなしで市民に訴えてきた。そして、30年たち、政治家として更に真価を問われる立場にスタートした。

ところで、宮本文学では作家のお父上の影響だろうか、最近では、会社員よりも自営業という商(あきない)ものが目に付くような気がする。関西人やな・・・。商いをはじめるにはある程度の資金が必要なのだが、佐伯老人の貸金業も、ムハメド・ユヌス氏や枋迫篤昌氏がはじめたような無認可の少額の金融サービス(マイクロファイナンス)である。わずかな資金があれば商売を始められる商才のある真面目な女性はたくさんいるのに、安い賃金でこき使われて苦しい生活の中でこどもを育てている。そんな女性の背中を後押しするための融資だった。私はこんなマイクロファイナンスの経済小説として読んでみても久々の宮本節に満足したのだが、そろそろ恋愛小説も読みたいのだけれど。