千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

メロスフィルハーモニー『第九』特別演奏会

2008-08-31 21:59:01 | Classic
真夏に「第九」!

感想は、近日中にアップ。。。

2008年08月31日(日) 14:30開演 すみだトリフォニーホール 


指揮:中田延亮

ソプラノ:スザンネ・エレン・キルヒェッシュ
アルト:庄司祐美
テノール:吉田浩之
バリトン:ヴェセリン・ストイコフ、合唱:晋友会合唱団

L.v. ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調「合唱付き」

中央公論文芸賞、ねじめ正一さんの「荒地の恋」

2008-08-30 10:37:36 | Book
第3回中央公論文芸賞(中央公論新社主催)の選考会が26日行われ、ねじめ正一さん(60)の「荒地の恋」(文芸春秋)に決まった。副賞100万円。
受賞作は、50歳を超えて親友の妻と恋に落ち猛烈に詩を書き始める詩人と、その仲間たちの奇妙な交友関係を、詩誌「荒地」の主要メンバーをモデルに描いた。
選考会では「男女の奔放で身勝手で生々しい恋愛関係にはとても迫力があり、一気に読ませた」などと高く評価された。贈賞式は10月17日午後6時、東京・丸の内のパレスホテルで。
(2008年8月26日読売新聞)

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昨年末、読んだねじめ正一さんの「荒地の恋」が、中央公論文芸賞を受賞した。
選考委員の「男女の奔放で身勝手で生々しい恋愛関係にはとても迫力があり」という評価があったが、そもそも恋とは奔放で勝手なもの。
そこに凡人が”迫力”を見るのは、分別盛りの男たちの”狂気”じみた感情と詩人という人種にゆるされた情熱である。本書が優れているのは、そこにひそむ登場人物たちのアイロニーが漂う滑稽さであろうか。

なにはともあれ、本書が評価され、次々と優れた本が消費されて忘れ去られていく中で、受賞という記念で本書とふたりの詩人の名前が残ることは喜ばしい。
そんなわけで、以前の感想を再掲載。

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プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」は、詩人が主人公である。
パリの貧しい屋根裏に住む詩人ロドルフォは、寒い部屋を暖めるために自虐的に役に立たない詩を書いた原稿を燃やして暖をとる。詩人の暮らしは、古今東西を問わずいつもぎりぎりである。

詩人が恋をした。53歳の詩人が、中学時代からの親友の詩人の妻に恋をした。
全身を不思議な幸福感が貫いて、詩人は女性に伝える。「どうやら僕は、恋に落ちたようだ」
そして長年勤務していた新聞社の定年を前に、仕事も家庭も生活もすべて捨てて、不慮の事故で亡くした最初の妻と同じ名前をもつ友人の妻を奪った。それは、たしかに、スィートな、スィートな終わりのない旅のはじまりで、詩人達の猛る哀しい情熱に、運命の如く「荒地」を踏みすすむ断崖を歩くような道だった。

北村太郎は、詩人としての才能をもちながら朝日新聞の校閲部に勤務する。華やかな記者生活ではなく、地道に他人の記事をただひたすら校閲する仕事だ。仕事に見合ったように、郊外に建てた自宅の借金は退職金で完済予定。内職でしている翻訳の仕事で、なんとか定年後も無事に穏やかに暮らせそうだ。”詩人にとっては”絵に書いたような幸福な家庭と人生。そんな彼と対象的なのが、中学生の頃からの親友の田村隆一である。友人の妹と、祝儀欲しさに、ただそれだけで結婚し、幾度も結婚と離婚を繰り返し、酒に溺れ、女性に溺れ、ただ詩を書くためだけに生きている男。
「言葉なんか覚えるんじゃなかった」
そう詠った詩人は、覚えてしまった言葉を金色の唾液で紡ぎながら、身を削りながら、ただひたすら美しい詩を織り上げる。
「僕と死ぬまでつきあってくれませんか」
そんな殺し文句で今度の妻もくどき、妻の資産で建てた鎌倉の家で妻と友人と詩を相手に暮らしている。
しかし、田村にとっては女は殺し文句でつるだけで、愛する存在ではない。うまく利用して、面倒になったら逃げ出す。言葉だけを大事にする詩人には、自分すらどうでもよいのだ。そんな詩人の夫との生活に疲れ果て、また何度も繰り返される夫の浮気に神経を病んだ明子は、いつも甘えて同じように田村から利用されていた友人の北村と夏の盛りに会った。まるで脳みそが焼かれるような炎天下に、泣く明子を目の前にして、北村は24年前の事故で亡くした妻と長男を焼く窯の熱さを思い出していた。ふたりはためらうことなく、恋に落ちた。

自らも詩を書いてきた著者による本書は、渾身の一作と言ってもよい。詩人として、全く異なるタイプの現代詩を代表するふたりの詩人に魂を寄せて、彼らの魅力をひきたたせる文書力に、読んでいる者までが彼らの濃厚な接吻を受けるような感すらある。北村は、友人の妻を奪って妻子を捨てたことへのひきかえに、誠実に妻へ生活費を送金を続けて自分は亡くなるまで赤貧の暮らしに身を落としていく。北村と明子をめぐり、平凡だが生活とプライドを維持していくために”妻”の座に固執して精神が壊れていく妻の治子や、そんな友と妻を許し甘えて自由奔放に生きていきながら、決してふたりを手離さない寂しがりやでいい男の田村。このエゴイストな田村のねじめ氏の描写が、実に官能的でダンディズムと男の色気が漂う。そして自由に生きることの見返りに、なんと苦しく重い十字架を背負わなければいけないことなのか。
また、あれほどすべてを犠牲にしてまでえた明子を病んだ田村の生活を立て直すために手離し、出会ったばかりの若い娘と簡単に肉体関係にすすむ北村。「荒地」の同人だった鮎川信夫も含めて、彼ら詩人たちの人生は、哀しくも滑稽である。
たったこれだけか、最初の結婚で妻と愛息を失って取り戻した平穏な生活でなんとか帳尻をつけたつもりだった寡作の詩人は、「言葉」を奪い返すようになった。

「朝の水が一滴、ほそい剃刀の
 刃のうえに光って、落ちる―
 それが一生というものか。残酷だ。」
                       -「朝の鏡」北村太郎詩集より

■別館時代のアーカイブ
・「荒地の恋」ねじめ正一著


「タンパク質の一生」永田和宏著

2008-08-29 23:24:08 | Book
タンパク質は賢くてとっても優秀!
私たちヒトは、およそ60兆の細胞からなり、その7割が水分という”水袋”であることはよく知られているが、固形成分の20%は、20種類のアミノ酸が一列につながっているタンパク質である。そして60兆個の細胞がそれぞれ80億個ほどのタンパク質を持っていると言われている。しかも!60000000000000×8000000000個のタンパク質は、常に分解と生成をくりかえし、最も新装開店率の早い細胞では、1秒間に数万個にものぼる新陳代謝を行っている。
つまりタンパク質は生命の営みそのものであり、本書はその大事な働き手である仕事人タンパク質を主役に書かれた「タンパク質の一生」物語である。

ここで私がいみじくも「物語」という言葉を使ったのは、ペトロニウスさまの「物語三昧」からの影響だけではなく、どのようにDNAからタンパク質がつくられるかという合成メカニズムからはじまり、つくられたタンパク質がどのような構造をつくっていくのか、言わばタンパク質の青少年期に該当する成長と成熟を知り、やがて就職して壮年期に入ると異動や転勤のような正しく機能するための輸送、物流システムを学ぶのである。知れば知るほど、個体の発生から分化、死に至るまでタンパク質の果たす役割の重要性とリスク・マネジメントもしっかり行う賢さに驚くのだが、中にはぐれて非行に走り、更正できずに本来のお役目からフェイド・アウトするタンパク質(←どこかで同じような表現をした記憶もあるが)も存在し、正常に品質管理できないフォールディング異常が引き起こすプリオン病やアルツハイマー病などもわかってきた。

「過不足のない端正な文章で、作り出されては壊されていくタンパク質のはかなくも華麗な一生に寄り添って、それを語る」。そんな素敵な文言で、歌人でもある著者を紹介する分子生物学者の福田伸一氏の名文の招待状(書評)で訪れた「生命活動」という舞踏会の舞台裏の主役でのタンパク質。そんなタンパク質を見事にエスコートするのも、近年研究がすすむ分子シャペロンというタンパク質である。フランス語で”介添え役”の意味をもつシャペロンは、先日観た米国映画の原題「Made of Honor」のように、他のタンパク質が一人前になるまでかいがいしく面倒をみるが、一人前になるのを見届けるとそっとさりげなく去っていく。そんな「細胞内の名脇役」の存在を発見したのも著者の永田和宏氏の業績である。だからであろうか、分子シャペロンの記述には力がはいっている。
本書の特徴は、生命活動とそれを支える細胞、タンパク質の活動の複雑で精妙な働きが、美しいほどの繊細なバランスのうえに成り立っている「細胞生物」学を、まさしく人間の一生になぞらえてわかりやすく解説しているところだろうか。教育現場で危機感をもたれている科学離れには、諸々原因があると感じるが、受験対策以前に、まず生徒たちやおとな自身が科学に興味と関心をもつことが大事であろう。本書そのものが、著者が「いま、細胞生物学が一番面白い」と断言する科学という舞踏会へのシャペロンの役割を演じている。

ちなみに余談ではあるが、元々胎児は雌として7週目ぐらいまで育つが、精巣決定遺伝子によってつくられる、ある特定のタンパク質を作り出した場合にだけ♂になる。免疫学者の多田富雄氏がこのような現象から、多分聞いたことのある方もいると思うが、次の名言を残している。

「女は”存在”だが、男は”現象”に過ぎないように思われる」(「生命の意味論」)

■おさらいアーカイブの一部
・「寄生虫博士のおさらい生物学」藤田紘一郎著
・「意識とは何か」茂木健一郎著
・「エピジェネティクスが見る夢」

・「エピジェネティクス入門」佐々木裕之著

・「未来の遺伝子」佐倉統編
・iPS細胞開発の山中教授 引っ張りだこ
・「世界でいちばん美しい物語」
・・・私のイチオシ!

サッチャー元首相が認知症、長女が回想録で明らかに

2008-08-27 22:24:57 | Nonsense
【ロンドン】英国のサッチャー元首相(82)の長女キャロルさんが近く出版する回想録の一部が、24日付の英紙メール・オン・サンデーに掲載され、元首相が認知症を患い、記憶力も減退していることが明らかになった。

記事によると、元首相を公私にわたって支えた夫のデニスさんは2003年に死去したが、元首相はデニスさんが亡くなったことを忘れがちで、キャロルさんが繰り返し言い聞かせているという。
キャロルさんが元首相の記憶の異状に気づいたのは2000年。昼食時に、90年代に旧ユーゴスラビア・ボスニアで起きた紛争と、在任中の82年に自ら指揮をとったフォークランド紛争とを混同したのがきっかけだった。その一方で、第2次世界大戦のころの配給食料の調理法について、10分間も話し続けるほど元気な時もあるという。
元首相は昨年9月、ブラウン英首相の招待で、古巣のダウニング街の首相官邸を訪れたが、公衆の前への登場はまれになっている。(2008年8月25日読売新聞)

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民主党の大統領候補選挙戦で、ヒラリー・クリントン氏とバラク・オバマ氏が歴史に残る激しい闘いは記憶にまだ鮮明であるが、女性初の首相としてだけでなく、その辣腕ぶりでも歴史に”残った”首相、サッチャー元夫人の回想録が、長女のキャロラインさんの手によって出版されるそうだ。
一昨年亡くなった新自由主義の経済学者、ミルトン・フリードマンに弔意を表した以降、すっかり世間から遠ざかった感のあるサッチャー氏。昨年2月、貴族院とも言われる英上院の本会議で、従業員が工場などで死亡した場合、企業に注意義務違反の故殺罪を問えるとしたブレア政権提出の「法人故殺法案」の審議が、淡々と進められる中、同僚の貴族(サッチャー夫人は、バネロスの称号がつく)の議論に静かに傾聴する姿には、沈みゆく大国を見事に復活させた「鉄の女」の面影はすっかり消えてしまっていたと伝えられる。それもそのはず、サッチャー夫人はすっかり老いたのだ。

1979年から11年間から続いたサッチャー革命は、1980年代のこと。「小さな政府」、市場原理主義がすっかり世界の主流になって、サッチャリズムも浸透した。その業績には、功もあれば罪も大きいのは、英国の貧富の拡大を見れば明らかであろう。
しかし、私はこの老いた女性を嫌いになれない、というよりもむしろ尊敬している。日本の最近の首相たちの無能ぶりと腰砕け状態を考えれば、サッチャー夫人の政治の力はりっぱだといえる。さすがに、英国の選挙を勝ち抜いた政治家である。
そんなサッチャー元首相が、レーガン元大統領のようにアルツハイマー病ではなく老人性の認知症というのも悲しいものがある。夫が亡くなったことを何回も説明され、その度に悲しみにくれる母を見るというのも娘の立場としてもつらいことと想像する。
サッチャー元首相の回想録出版が記事のメインにも関わらず、「認知症」という症状がトップに出るのも、首相時大の大きな業績ゆえに隔世の感を記者たちが感じているためだろうか。ネットで検索すると、今のサッチャー氏の写真を見ることができるのだが、その童女のような笑顔と老いた様子が痛々しくて思わず目をそらしてしまった。

■ひとりごとのようなアーカイブ
・「老いたサッチャー夫人」
・「ハードワーク」ポリー・トィンビー著
・「インタビューズ!」・・・こんな時もあったのね。

『使命と魂のリミット』東野圭吾著

2008-08-25 23:08:54 | Book
【無罪でも医療全体の教訓に】

医療事故でどこまで個人の刑事責任が問えるのか―。注目された裁判で被告の医師に「無罪」が言い渡された。
福島県立大野病院で2004年12月に帝王切開で女児を出産した女性=当時(29)=が大量出血で亡くなった。執刀した産科医(40)が逮捕され、業務上過失致死と医師法(異状死の警察への届け出義務)違反の罪に問われた「大野病院事件」の判決だ。
福島地裁の鈴木信行裁判長は、子宮に癒着した胎盤をはがし続けた医師の行為を「標準的な医療」と肯定。医師法21条違反についても「過失なき診療行為の結果は、異状がある場合に該当しない」とした。

【危険があふれる現場】
改ざんや隠ぺいがない通常の診療行為で医師が逮捕されたのは大野病院事件が初めてだった。
極端な人手不足の中で献身的に、危険と隣り合わせの診療に日々取り組む医師らは逮捕と起訴に強く反発した。
医療現場には危険があふれている。事故も極めて多く、患者が死亡する場合だけでも年間2千件以上、障害が残った場合も含めれば数万件に上ると推定される。
都立広尾病院で1999年に起きた消毒薬誤注入事件をきっかけに、医師法21条による警察への届け出が診療関連死にも拡大され、病院からの届け出が増え、医療事故の捜査も急増した。
この判決は、医療事故の刑事責任追及を求める流れを抑制するものとなるだろう。だが、無罪判決ではあっても、勝訴、敗訴の結果のみにこだわらず、医療界全体が事件から教訓をくみ取るべきだ。

【遺族への説明不十分】
福島県は調査委員会の報告で、ほかの医師の応援を求めなかったことや輸血用に準備した血液の不足などの問題点を指摘。被告の医師を減給処分としたが、遺族への説明は十分とは言えなかった。
出産では今も年間60人前後が亡くなっていることを考えれば、帝王切開の手術には不測の事態への備えがもっと講じられるべきだ。大野病院では麻酔科と外科の医師が加わっていたが、産科医は一人だけだった。産科医2、3人が連携して、手術に当たり、何かあれば即刻、応援を求められる態勢が望ましいし、出産する女性の不安も軽減できる。
同事件がきっかけの一つとなり、危険なお産からの医師撤退が相次いだ。深刻な状況に陥っている地域もある。亡くなった患者の命と裁判にかかった膨大な手間を前向きに生かすためにも産科医を増やし、地域で安心して子どもを産める条件を整えたい。少子化の時代にあって、この分野の安全向上は急務である。
医療版「事故調」の法案が来る臨時国会に提出される予定だ。医療事故の原因究明を目的としたこの制度にも判決を教訓として生かすことが大切だ。(08/8/23宮崎日日新聞)


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医事法学上では、医療行為から有害な結果が生じた場合、そのすべてを医療事故と定義している。その中から、不可抗力によるものを除いたケースが医療過誤、つまり故意もしくは過失で引き起こされた医療事故を医療ミスとされる。今回の大野病院のように、事故が起きた時、医師や病院は通常の医療行為で避けようがない外的因子に原因を求めるが、患者側は不注意といった個人的要因を問題にしようとする。今の日本では、高度医療と定期的検診のおかげで出産で命を落とす女性はめったにいない。だから残された家族の驚きと悲しみはさぞかし大きいだろうと同情するが、身の回りでけっこう危なかった出産体験を聞くのはそんなに珍しいことではない。上記の記事にもあるが、医療現場には危険が溢れているのだ。

「真性弓部大動脈瘤」、そんな重い心臓病の手術にも関わらず、執刀医を信頼して氷室夕紀の父は笑顔で手術室に運ばれた。しかし、手術は失敗して二度と生きている父に会うことは叶わなくなった。悲しむ中学生の夕紀の心に、手術の失敗は故意に引き起こされたのではないかという疑惑がわいてきた。大好きだった父の死の解明と復讐を誓い、やがて夕紀は心臓血管外科の研修医として帝都大学付属病院に勤務し、かって父を死に至らしめた執刀医、そして今では母の恋人でもある西園教授のもとで医療技術を研鑚するようになったのだが。。。

東野圭吾氏の医療ミステリーは、医師でもある加賀乙彦氏や、渡辺淳一、帚木蓬生氏のような文章とは多少趣きが異なるような印象がある。医師たちの冷静緻密なメスさばきを連想させられる文章構成というよりも、登場人物たちの感情がリードする小説となっている。物語の主題は、むしろたまたま医療という現場を舞台に、電子技術を利用した今日的な脅迫、捜査といったサスペンス劇場である。そこには、夕紀を中心にした父と母、そして復讐相手が母の恋人、というサスペンスの巧みな人物相関図に加え、亡き父を尊敬する七尾刑事、犯人と犯人に恋する看護師といった人間模様もミステリー作家の大家になりつつある東野氏らしい人物像となっている。

そして本書のテーマーでもあり、最大の読者の落しどころであるのが「使命」である。作品中、何度もでてくる医師としての使命、刑事としての使命が、度重なる不祥事や事故でゆれる医療や産業界、警察現場に慣れつつある我々に、プロフェッショナルの原点を思い起こされ、結末の夕紀の清々しい決意に繋がっていく。さすがである。作者の東野圭吾氏こそ、驚くほど水準の高さを維持して読者の期待を裏切らない点で、きちんと「使命」を果たすプロフェッショナル作家である。

今回の作品には、東野圭吾氏らしい情感に溢れた人間の心の機微が、今ひとつ描ききれていないと感じる。理想的で尊敬すべき西園教授が、あまりにも完璧過ぎるからだろうか。また研修医となった夕紀の仕事で頑張る姿に、しっくりと共感できないからだろうか。しかし、一気に読めるお手頃感は、読書を娯楽としたい要件だが、よくよく考えてみると、設定、サスペンスタッチなど「週刊新潮」の読者に最適の内容にしあがているとも言える。渡辺淳一風のえっちな場面はないが。そっか、読者層をしぼって、雑誌の売上にも貢献しつつ書きたい小説をひねりだすのもひとつの作家としての「使命」なんだ・・・。


「メモリー・キーパーの娘」キム・エドワーズ著

2008-08-24 15:01:10 | Book
アメリカの女はたくましい。母であり、妻であり、娘である前にひとりの人間として、そして女として自分の人生をきりひらいていく。嘘や秘密ものりこえて。

1964年3月、ケンタッキーではめったにない大雪の深夜。医師デイヴィッドは、新妻のノラとの初めての我が子をその手でとりあげた。健康的な男児の後に誕生した女児には、一目でそれとわかる特徴があった。妻を悲しませたくないと思った彼は、とっさに看護師のキャロラインに娘を施設に預けるように託し、妻には死産だったと嘘をつく。そして男児のポールはデイヴィット夫婦のもとで、フィービはキャロラインとともにお互いに兄妹の存在を知らずに生活していくのだったが。。。

無名の新人によるふたつの家族の25年に及ぶ大河のような物語は、口コミで評判が広まりあっというまに全米で500万部を突破するベストセラーとなった。読めば必ず誰かにすすめたくなる本―確かに、私も読みながら友人や有閑マダムさまに勧めたくなった。
優秀で誠実な医師デイヴィッド、上流階級の言葉使いでセンスがよいノラと可愛いポール。裕福で絵にかいたような家族は、幸福な家族の条件をすべて満たしていきながら、”娘の死産”というたったひとつの欠けた部分で、お互いに愛情を求め与えながら歳月とともに家族は壊れていく。なぜならばその欠落した部分に、”嘘”という事実があるからだ。けれども、このデイヴィッドの嘘にも、悲しいいくつもの秘密が隠されていた理由がある。将来のなんの不安のない「家庭」を築くために、必死で努力してきたデイヴィッドを責めるのは簡単だろうが。娘をキャロラインに預けた時、自分の行為を正当化し自分は正しい信じようとしたが、本当は自分が守ろうとしたのは、妻やポールではなく、もしかしたら別の人生を歩いていたかもしれないもうひとりの自分だったことに彼は気がついた。
その一方で、好意をよせデイヴィッドを理解していると感じていた孤独な看護師には、寒く貧しい部屋にはなにもなかった。しかし、施設に預けることができなかったフィービを抱いた彼女は、やがてフィービの存在とその障害によって、愛するパートナー、友人にも恵まれて豊かで確かな実りのある人生を獲得していくのである。

ノラとキャロライン。このふたりの対照的とも思える女性だが、私にはある種、典型的なアメリカ女性を感じさせられた。
デヴィッドと出逢ったばかりのノラは、人の妻になることは、なんでもはね返してくれる硬い萼にくるまれた、かわいらしい花の蕾になるようなものだと考えていた。誰かの人生に幾重にも包まれて守られるのだと。しかし、ノラは娘の死産という空虚をうめるかのように、学生運動に熱中した妹の影響も受け、自らの道を切り拓いて事業をはじめた。自分自身が、花弁であり、萼であり、茎であり、葉であり、地中に根付く根であると、年齢を重ねながら自分自身に満足していく。こんなノラの生き方に共感を覚える、ノラ型のキャリア・ウーマンは現代の日本でも多いだろう。
そして、キャロライン。人に指図して自分に楽することに慣れた少々お高くとまった女、そんな印象でノラを軽蔑することで自分を慰めてきたキャロラインだったが、痴呆の老人を住込みで介護しながらフィービを育てることによって、彼女は人間的にも成長していく。障害者に対する世間の偏見と誤解と戦い、素直で正しい道をすすむフィービを育てたキャロライン。彼女は、素晴らしい女性だと言ってもよい。若い頃は、自分は愛を注がれるのを待つ器のような存在だと思っていたが、愛は常に自分になかにあり、それを誰かに注ぎさえすれば、再びこんこんとわきでてくることを知った。
女は世界の中心にいる!

本書のアイデアは、著者が通っている長老派協会の牧師から、ある男性の誕生後すぐに施設に預けられそこで亡くなったダウン症の兄弟がいたことを大人になってはじめて知った、という話から生まれたそうだ。ダウン症の赤ちゃんは、1000人にひとりの確率で人種の差がなく生まれる。デイヴィッドがフィービをとりあげた時に、学生時代に「苦労を避けるなら、施設に預けるしかないだろう」という教授の言葉を思い出したように、当時の米国では、障害のある子供がそうした施設に送られることが珍しくなかった。キャロラインは、そうした施設でスリップ姿で無造作に髪を切られる娘を見て決断する。本書の優れているのは、障害のあるフィービを育てる”苦労”を書きながらも、彼女はフィービ以外のなにものでもなく、人間を分類することなどできないとするところにある。誰かにすすめたくなるのが、本書の読後感だ。読みやすく、25年という時の流れがもたらすストーリー性の醍醐味、写真に重ねられたタイトルの意味。諸々読者の心をつかむベストセラーたるツボがあるのだが、私は何よりも、最後のポールとフィービの兄と妹が出逢う場面を特にお薦めしたい。

『再会の街で』

2008-08-23 11:24:05 | Movie
アラン(ドン・チードル)は、ニューヨークの歯科医。この街でそれなりに成功している歯科医らしく、ホワイトニングのために訪問してくる患者というよりも客で仕事は順調。快適なオフィスと、もっと快適な自宅とその素敵な空間にふさわしい美しくしっかりものの妻とふたりの娘。ハードもソフト面もすべてが満たされているアラン。いや、アランは自分の人生に本当に満足しているのだろうか。
アランは、自分のクリニックと同じビルで開業している精神科医のアンジェラ(リヴ・タイラー)を待ち伏せをして、悩みを抱えている”友人”の相談をもちかけては、彼女に迷惑がられている。なにか、妻としっくりいかなくなっているアラン。そんな彼は、街で大学の寮で同室だったチャーリー(アダム・サンドラー)を見かけるが、ぼさぼさの蓬髪に無精髭、カバンをななめにかけて茫洋とした別人のようになったチャーリーは、彼のことを覚えていなかった。チャーリーは5年前に妻と3人の娘を失っていたのだった・・・。

かって大学の学生寮で同じ部屋で過ごした友人ふたりの再会。すべてを手にして身なりの整ったアランと、家族を亡くして仕事もやめて廃人のようになってしまったチャーリー。対極にあるようなふたりであるが、愛する人を失ったのか、失いかけているのか、どちらも孤独で満たされないふたりが再会する街はニューヨーク。この街が選ばれたのは、物語のテーマに雰囲気をそえるのにふさわしいだけではなく、元々結婚する前は天蓋孤独だったチャーリーが愛する家族を一瞬のうちに失ったのも、この街だったからである。彼は、「9.11」のテロで家族を失っていたのだった。「9.11」を題材にするだけで、確かに宣伝効果はある。特に米国では。しかし、私が映画の好ましい評判にも関わらずなんとなく敬遠していたのは、テロの背景をぬきに、善か悪しかない二元論で勧善懲悪の観念の米国映画だからだった。この単純さが、米国民の現在のブッシュ政権支持に、映画が影響を与えないだろうか。

しかし、大切な人を失うこと、家族を亡くすことは、誰の身近でもおこりうるという意味では”日常”的な哀しみである。そんなことを、最近しみじみ感じている。監督自身は「「これは9.11の話だ」とうたわれてしまったが、観客をよぶための広告には自分は関われる立場ではないとインタビューに応えている。実際、映画の中では家族を一瞬のうちに亡くす設定を「9.11」である根拠にしているのは、無職のチャーリの安定した生活資金が、生命保険や政府からの慰霊金であるという説明がされるだけである。交通事故、飛行機事故と違い、怒りの対象があまりにも政治的で、あまりにも理不尽な状況がチャーリーの深い哀しみと情緒不安定な精神状態に説得力をもたせている。若く健康だった家族を一瞬のうちにすべて失うことは、想像を絶する哀しみがまっている。自分があの立場におかれたら、私も壊れて廃人のようになってしまうだろう。けれども不図考えるのは、日本に原爆が投下された時、また今でも世界中のどこかで、彼のように同じような悲劇が繰り返されている。戦渦でたった一人残された人は、それでもなんとか崩壊せずに生きていく。生きていくしかない。誰もがチャーリーにはならない。毎日悲惨な戦争が続いていたら、悲劇も想定できる日常と化する。むしろそのことを考えたら、テロや戦争で家族を失う心配とは無縁な国で暮らす平和を感じる。

そして、もうひとつのはずせないのが、友情である。家族がいても、人生には友人が必要だ。チャーリーとぶつかりながら、ひどいことをされても彼のために奔走するアランは、自分自身も”友人”の存在によって再生していく。やがて友人を必要としていたのは、むしろ自分の方だったことに気がついていく。気がちょっと弱くて善良なアラン役を、『ホテル・ルワンダ』での名演でも知られるドン・チールドが、ここでもその存在感をきらりとひからせている。アダム・サンドラーとともに彼もコメディ出身とのことだが、トム・ハンクスに代表されるように不思議と味がありマルチな役者がコメディ出身者に多いような気がする。

チャーリーが愛する次の対象とあらたに”再会”するラストの場面は、女性としてはちょっと複雑な感情もなきにしもあらずだが、やはり人と出会い関わっていくことが作品のもっとも訴えたいことなのである。セラピー、ホワイトニング歯科、訴訟、そんな道具立ても「愛している」という言葉とともにアメリカ的だとも感じた。

監督・脚本:マイク・バインダー 
2007制作 米国映画


リーダーの素質は生まれつき?

2008-08-22 23:11:12 | Nonsense
共和党のマケイン大統領候補の公式HPにアクセスをすると、オバマ氏の映像がピンクのハートの中に表れてくるそうだ。あまりにもマスコミがオバマ氏を話題にすることに、対立陣営からのユーモラスな皮肉である。「オペラのような演説」でも述べているように、早くから演説の巧みさが評判となっているオバマ氏であるが、私は白人だったらそれほど外見に関心がわかないが、黒人で端正な容姿もオバマ人気に貢献しているように思える。

背が高く顔立ちも整った男性が部屋に入ってくると、人々は彼が”指導者”だと思い込んだ。またある別の実験では、経営者グループは容姿のよい順に労働者を雇用するように指示された。すると、米国の『履歴書』には日本のように顔写真を貼らないが、採用過程で電話でのインタビューを行った結果、経営者は実際に応募者に会っていないのにも関わらず、容姿のよい人物が多く採用された実験結果や、企業のCEOの身長が平均よりも高いことなど、容姿とエリートの相関関係に関する様々な研究成果が報告されている。ビジュアル的な容姿の評価は、客観性よりも主観性にゆだねられるにせよ、米国のビジネス界の成功者に容姿が一般的に優れている人が多いという内容の記事は、これまでも度々読んだ記憶がある。むしろ、財力と権力を身につけることによって、自信がつき身なりが整えられることによって魅力的な雰囲気がそなわるという、優れた容姿がリーダーのもって生まれた条件ではなく、結果型だと私は考える。余談ではあるが、不思議なのは、映画『敵こそ、我が友』で人道上の罪で戦犯としてとらわれた冷酷なゲシュタポ、クラウス・バルビーの老後の顔が、ケヴィン・マクドナルド監督も言っていたように非常によい顔をしていたことだ。40歳を過ぎたら、男の顔は履歴書と言われているにも関わらず。

昔から、リーダーはつくられるのではなく、リーダーとして生まれるという後天的な教育よりも才能、気質が重要だという考える人が多い。
しかし、たとえば双子の男児の研究によると、遺伝子的な要因で説明できる双子の能力の差は3分の1にすぎないということからも、ある特定の役割を演じるさいに生まれつきの素養や気質も影響を与えるが、むしろ成長過程での教育や環境が与える学習効果の影響の方が大きいというのが、最近の考え方である。

ハーバード大学教授のジョセフ・S・ナイによると、昔ながらの「ビッグマン」タイプの英雄は、個人や家族の名誉、忠誠心を重んじる社会ではその指導力を発揮できるが、現代社会では法律などの制約を受けて英雄の登場を制限している。しかし、英雄的指導者に依存する社会は、結果的に市民社会を発展させることはできない。それを考えると、現代人にとっては、”英雄”は不要だが、後天的によく学習してきた優れたリーダーこそ必要である。果たして米国が選択するリーダーは、マケイン氏とオバマ氏のどちらになるのだろうか。

結婚は女の逃げ道か「のだめカンタービレ」#21

2008-08-21 22:35:14 | Classic
それは、ありか?のだめ!!
柔道で言ったら、お見事に寝技を決めた翌朝、リュカにとっては目の上のタンコブ、ユンロンには金持ちの天才シェフであり、ターニャには孔雀のような千秋にプロポーズ。女性の方から「結婚してくだサイ」とプロポーズして狙った獲物を捕獲にイクのもOKだが(何しろ良い♂はすぐに売却済みになってしまう)、今回のタイミングは、のだめ株暴落間違いなし。

のだめの動機はしごく単純。音楽的にはそもそも今だに同じステージで語ることすらできないが、女性としては千秋の心をつかんでいるはずなのに強烈なライバル、RUIの登場と、千秋とぴったり重なり高める音楽性が奏でるラベルのピアノ協奏曲の共演がのだめの乙女心を粉砕させたのだ。のだめにとっては、「結婚」の誓約は千秋との安定的なカップルの保証であり、先の見えないピアノの修行からの逃避になってしまった。
千秋が、まともに相手にしないのも当然。
だいたい、今の時代では「婚約」という”当該物権売却済み”の張り紙も、「結婚」という”お手付き禁止”札?も、殆ど障害にも制約にもならないご時世である。「永久就職」なんて完全に死語になっている。甘い!

また、滑稽でふざけてて可愛くて、飛んで跳ねて、のだめそのもののラベルのピアノ協奏曲で、自分がやりたい音楽を先にRUIが千秋とつくりあげてしまったことへのショックからくる空虚感、そのためピアノそのものから逃げるための「結婚」。料理もたいしてできん、掃除も苦手(おっと、これって姑口調だわさ)、そんなのだめが専業主婦になれるのか。やっぱり甘い!
ラベルのピアノ協奏曲の魅力を幅広い読者層に(何しろ国民的漫画なのでその影響力は大)広めた点で評価できるが、それ以外のギャグも今回はあまりさえず、恋する者の喜びと恋の苦しさやRUIや千秋の複雑な感情を表現できず、短絡的なのだめの行動は、そんなのありかと私はブーイングをしたい。もっとも、繊細でこわれやすいのだめの感受性こそ、天才の証明なのだとわかってはいるのだが・・・。

オクレール先生のレッスンをすっぽかし、
「私はお前の伴侶になって お前に仕えよう お前が望むなら お前を救い お前が望むすべてをやろう ただし 地獄の世界では 私に従がえるのだ」<悪魔メフィストフェレス>
とミルヒのさしのべる手にすがりつこうとするのだめ!
この次回につなげる部分は、オペラ効果もあるが、ぞくっとするくらいすごくよくできている。あのキャバクラ狂いのミルヒにダークな凄みすら感じさせられるではないか。物語自体は、拡散しつつあり、どのように集約して読者が満足できるフィナーレにもっていくのか、この続きは・・・と期待感も高まるのだが、漫画家の二ノ宮和子さんが産休に入られるそうだ。元気な赤ちゃんを出産されて早めの復帰を待ちたいが、のだめたちとはしばしのお別れ。

■ふりかえりアーカイブ
のだめカンタビーレは歌う♪
のだめカンタビーレ
のだめカンタビーレ#15
「のだめカンタビーレ」テレビ放映爆笑
いかづちに打たれた「のだめカンタビーレ」♪
もっと高くもっと遠くへ「のだめカンタビーレ」#19
・自立していくのだめ「のだめカンタービレ」#20

オペラのような演説

2008-08-19 23:25:39 | Nonsense
ものごとを解説するのに、具体的な比喩で説明される時があるが、そういう表現に私は弱い。これは、外国小説をその語彙の少ない翻訳から敬遠する趣味趣向に共通する日本語へのこだわりかもしれない。比喩は、あくまでもわかりやすい表現方法に過ぎないので、時に言葉遊びに流れやすい点に注意しなければならないのだが。

ところで、米国の歴代大統領の演説を音楽にたとえた、実に私好みの文章を見つけた。発信者は、レーガン大統領のスピーチライターだったクラーク・ジャッジ氏である。

・レーガン氏・・・壮大で多彩な交響曲
・クリントン氏・・・即興が巧みなジャス。そう言えば、サックス演奏がお好きだったな。
・ブッシュ氏・・・素朴で力強いカントリー。確かに、出身地もあの雰囲気もカントリーだ。
さて、オバマ氏の演説の巧さは、黒人初の大統領候補に原動力もなったが、それは緻密に計算された譜面を技巧を尽くして歌い上げるオペラというのが、クラーク氏のうまいたとえである。

先日、家族主義のミシェル夫人を伴ってのハワイ旅行では、ロシアとグルジアの非常事態時にのんきに家族旅行、と共和党からは厳しい批判が出没したが、今回の旅行でも中傷の矛先は、「オバマはエリート」である。ここで、芸術好みのインテリ層はオバマ氏を受け入れるが、庶民の評判はいまいちだった。そんなオバマ氏だが、最近は観客の情感に訴えるオペラ調から、具体的な施策へと転調をはじめているという。