千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「映画のなかのアメリカ」藤原帰一著

2006-04-30 18:56:16 | Book
映画は、娯楽だ、そして見世物であり、または監督の作品だ、という者もいるだろう。
しかし、映画は観客なしに成り立たず、個人の表現行為から完結できないからこそ、映画は時代精神をフィクションの中に描くキャンパスになった。社会通念は時代とともに変わり、映画が時代の顔を表してきたとしたら、その顔の変化を追いかけて、社会が自らをどう認識してきたかに視点をおき、アメリカ社会とアメリカの政治を考えること、これらを目的とした国際政治学者にして大の映画好きな藤原帰一氏が筆をとったのが本書である。

とりあげた映画は、200本以上。1915年制作の「國民の創世」から最近の「ミリオンダラー・ベイビー」まで、誰もが知っている名作から、映画好きでも知らないような作品まで幅広く、その一方で著者が偏愛するという懐かしくてアナーキーな『M★A★S★H/マッシュ』(監督はロバート・アルトマンだった!)をとりあげながらも、あの『スター・ウォーズ』は映画から一人称と悪女を奪ったとして、論外におく。その映画の選択眼は、1956年生まれというには成熟し過ぎている感もあるが、マニアックな映画オタクぶりを遺憾なく発揮している。
そして勿論、肝心な映画を論じることで、政治家という本来プロフェッシャナルな狭い世界の作業を、大衆までその政治事象がみせる意味を存分にひろげている。バックボーンにある著者の政治学者としての知識をおしつけることもなく、新しい映画の観方を教えてくれる。

たとえば『愛の落日』という映画がある。私もこの映画の感想をブログに書いたことを思い出した。
1952年、独立解放と政府が対立するフランス占領下のベトナム首都サイゴンで起こったロンドン・タイムズの特派員である初老のファウラー(マイケル・ケイン)、彼の美しい愛人であるベトナム女性フォング(ドー・ハイ・イエン)、そして彼女に恋をする援助団体の眼科医アメリカ青年パイル (ブレンダン・フレイザー)の人間模様であるが、そこに藤原氏は、グレアム・グリーンの小説「おとなしいアメリカ人」を映画化したこの作品を、アメリカの理想と暴力の両面を描いた貴重な映画だと高く評価している。余談ではあるが、国内では女性層をとりこむために(いつもの手段だが)三人の恋愛模様を中心に宣伝活動を行っていた。(だからだろうか、作品の質の高さのわりには、観客が少ない。これもまた、いつものことだが)

藤原氏は、ファウラーと好青年パイルを老大国イギリスと若き超大国アメリカと対照して観ている。インドをはじめ殖民地を手離し、権力の限界を思い知らされた大戦後のイギリスの象徴がファウラーで、政治権力を外から変えようとするアメリカの象徴であるパイルを思い上がりの妄想だと考えるファウラー。こうしたファウラーの考えはただの現状追随で、無法と暴力を前にした無為と無能に過ぎない。だから本国に妻を残し、ベトナム女性を”愛人”としておく。
それでは、その女性を”妻”にしたいと真剣に望むパイルの行動は、いかにも高潔である。
私が、パイルを「静かな顔の裏に理想とするイデオロギーを実践するためには手段を選ばない別の顔」と表現した彼の高潔さが、ベトナムの軍閥と手を結び共産主義者へのテロ行為を、正義を実践するための暴力の正当化と藤原氏はさらに深くふみこんでいる。
そしてパイルを善良な好青年として描くことによって、善意と信念こそが可能にする苛烈な暴力を、グリーンも、この映画も見事に捉えていると、批評している。

自分も同じ映画を観ていることから、この藤原氏の批評もまことにお見事だと思う。
イラクを民主化することの正当性、ファルージャ爆撃もイラクを民主化するためのやむをえない犠牲という大義名分の風潮を考えると、理想主義の戦争を描いた『愛の落日』は、異様なリアリティで迫ってくると。

その他、大統領の陰謀、兵士の帰還、東部と西部、市民宗教の理想・・・、藤原氏は映画ファンに陥りがちな作品のおもしろさに熱にうかされることなく、アメリカの政治と社会にきりこんでいく。その手法は、強引でもなく、冴え渡る。『ジョーズ』を観て、映画監督になる夢をあきらめた政治学者の語る映画論は、一読の価値あり。

映画を米国の魂と考えるアメリカ人がいる。その一方で著者が記すように、映画好きのアメリカ人でそれなりの教育を受けた人がアメリカ映画だけは見ないで、アートハウスと呼ばれるところで、フランスやアジアのハリウッドにはない”本当の”映画体験を楽しんでいるという。このエピソードはよくわかる。自分自身も、ハルウッド映画に背を向けているから。それでも、アメリカ映画には、この国らしい欺瞞を含めたおもしろさがある。人間の勇気と誇りと同時に、醜さと虚栄をショーのようにみせてくれるからだろうか。この国の映画には、人間のすべてがある。いや、やっぱり本書に出会って気がついたのだが、映画に描かれるアメリカという国に興味がつきないのだろう。
次回は、また違った映画での続編が待たれる。

『白いカラス』

2006-04-29 22:44:51 | Movie
ダイヤモンドは傷つかない。そうあれ、と願いつつも人は傷つき、傷つけあわざるをえない生きものである。
「白い肌に、秘密を隠して生きてきた男。白い心に、無数の癒えない傷を抱えた女。偶然の出会いが、二人を過去の籠から解き放つ―。」
ニコール・キッドマンが主役を演じているためか『白いカラス』のキャッチコピーどおりに、この映画を孤独な男女の出会いとしてしまうには、ピュリッツアー賞作家らしく表現された米国社会の複雑性がうずもれてしまう。

1998年、マサチュセッツ州の名門アテナ大学学部長であるコールマン・シルク(アンソニー・ホプキンス)は、ユダヤ人として初めて古典教授の地位までのぼりつめた学者である。最後の栄光まであと一歩のところで、講義中に発言した「スクープ」というたったひと言が、黒人学生への差別だと教授会に弾劾されて、辞職に追い込まれる。しかもその知らせを聞いた妻までが、ショックで急死する。湖畔で隠遁生活を送り、隣人の作家のネイサン・ザッカーマン(ゲイリー・シニーズ)と交友を深めるうちに、自分も執筆活動への意欲がわき、徐々に元気を取り戻す。
そんなコールマンが、ある日ネイサンに恋人の存在をうちあける。
しかしその相手が、問題だった。ベトナム帰還兵の夫レスター(エド・ハリス)の暴力から逃れて、ひっそり大学の清掃婦として働くフォーニア・ファーリー(ニコール・キッドマン)は、過去義父の虐待や過失による子供の死という多くのみえない傷を抱えている女性だった。あまりにもかけ離れたふたりの恋を案じたネイサンは、反対する。しかし、
「これは私の初恋でもないし、最高の恋でもない。でも、最後の恋なんだ」
そう聞く耳をもたないコールマン。そうなのだ。ネイサンは知らないが、コールマンのこれまで妻にもかくしてきた秘密の重さが、若くして絶望的な人生をおくってきて、自分を閉じ込められたカラスだというフォーニアにとらわれているということを。

(以下、映画の物語にかなりふれています。)
それでは、彼の初恋と最高の恋はなんだったのか。
ここからが、原作者フィリップ・ロスが並みの作家ではないということが感じられる、物語の中心に奥行きを与えるサラダ・ボールのような米国の複雑な人種問題である。
コールマンは、ユダヤ人ではない。両親ともに黒人の間に生まれた、しかし白い肌をもった黒人である。
父の願う多くの黒人が通う大学の医学部進学を拒否し、奨学金を受けながらニューヨーク大学に入学したのは、1948年。大学の図書館で、理知的で美しい女子学生スティーナ・ポールソン(ジャシンダ・バレット)と恋に落ち、やがて「一生あなたのそばにいたい」と言う彼女と婚約するのに多くの時間は必要ない。
薔薇色の希望に輝くスティーナを初めて我家に連れて行き、家族に紹介する。にこやかに談笑する母と婚約者。しかし、すべてはここで破綻する。つくられた笑顔の奥に、白人の娘を拒絶する母。そして、ユダヤ人に見える恋人が実は”黒人”だったということを知った衝撃をおさえるスティーナ。帰りの列車で泣くスティーナの姿をみて、この最高の恋のおわりを知らされるコールマン。彼は、やがて白人として生きることを決意する。この映画は、彼が白人になりすまして生きる「なりすまし(パッシング)」の物語という側面があって、はじめて孤高に生きる者の鏡をのぞくことができる。

藤原帰一氏の「映画のなかのアメリカ」で同じような”なりすまし”映画が紹介されている。
ファニー・ハーストの「イミテーション・オブ・ライフ」という同じ小説を映画化した『模倣の人生』(1934年)『悲しみは空の彼方に』(1954年)だ。黒人の母から産まれた女性が、肌が白かったために白人になりすまして生きようとする映画で、著者は黒い肌の母親を拒絶する娘を白人であれば得られる自尊心と自我の充足を、自分の血によって裏切られる不条理の怒りの対象が母だったと分析する。また飯岡詩朗氏の「白い黒人は、既存の秩序を霍乱する可能性をもつ存在であり、悲劇が訪れることが多元的に決定づけられている」との指摘を卓見だと評価している。そしてこの二本の映画が、白人による黒人の映画だとしたら、黒人の視点で描いた作品として『アメリカの影』(1959年)をとりあげている。混血のアフリカ系黒人の兄がいる白人にみえる妹、彼女は自分の血を隠すわけではないが、白人のボーイ・フレンドの家庭訪問の希望を受け入れて兄に会わせると、彼は動揺し逃げ出してしまう。彼は、その後人を介して許して欲しいと再び交際を希望するが、覆水盆に還らずである。

『白いカラス』の主人公のコールマンは、『アメリカの影』の少女のように自然にふるまうが、最高の恋人との破綻によって、自らの白い肌の示すとおりに『悲しみは空の彼方に』の女性と同じ白人に”なりすまし”て生きる道を選択する。それは、黒い肌の家族をいっさい捨てる行為でもある。必死に出自を隠し、影もくもりももなく緑の芝生が輝き、落ち着いた白亜の建築物に囲まれたユートピアのような大学の頂点にたった時、たったひと言から黒人への差別を禁止する民主主義という正義にどん底へつき落とされるという悲劇的な皮肉。それは、これまでのなりすまし人生が、彼に与えた罰なのか。
しかし、”ユダヤ人”として”はじめて”の学部長という地位が示す、もうひとつの人種差別という縄。ここが人種のサラダ・ボールといわれる米国の複雑さだ。

また『白いカラス』で忘れてはいけないのが、若き日のコールマン(ウェントワース・ミラー)の家庭での厳格な父の存在だ。
狭い室内の様子から貧しさを想像させるが、その黒人家庭は清潔で礼儀正しい。眼鏡をかけて新聞を丹念に読む父は、真っ白なYシャツにネクタイ、スーツに身を包み、常に教養にみがきをかけることに余念がない。その冷静でクレバーな語り口に、観客は有能なビジネス・マンの父に対する、反抗期のコールマン少年の気持ちに同化させる。
ところが、その父が勤務中突然倒れた。ここで初めて、コールマンとともに我々は、父の仕事を知ることになるのである。
父は、列車の食堂車の給仕だったのだ。家庭での理知的な表情の父と一転して、走る列車の食堂車で横柄な客の次々とくる注文に奉仕する彼の姿の映像は、軽い衝撃を与える。父自身の人生も、黒い肌のうえに築いたもうひとつのなりすましの人生だった。ここでやがて、悲劇が決定づけられているとしても、後年コールマンがたどる生き方の理由を見るのである。そして、洗いたてのテーブルクロスのうえに並べられた料理と食事する行儀のよい家族。家族愛に満ちた家庭。これもホームドラマのような家族愛に満ちた白人家庭になりすました家庭だった。
この地味で、話題性に乏しかった映画は、原作者がフィリップ・ロスということを割り引いても私のなかでは評価の高い映画なのだ。

「人間はしみを、痕跡を、しるしを残す。
それがここに存在している、唯一の証しなのだ。 」 -by フィリップ・ロス
■原題:The Human Stain

映画の終わりで、妄想と狂気にとらわれたフォーニアの夫が釣りをしながら、ロスの投影であるネイサンに書いている本のタイトルを訊ねる場面がある。
”Human Stain”
それが、劇中でこの釣り人の狂気に気がつかない友人である作家が執筆中の小説のタイトルである。

活気づくイラクの「死体ビジネス」

2006-04-27 23:01:31 | Nonsense
ニュースがわかる・素朴なギモンで解く「国際情勢入門」というお手軽コピーに誘われて、「News week」を読んでいるのだが、やはり前菜のカルパッチョで料理が終わった感のもの足りなさが残る。その中で、興味をひいた話題が「イラクで流行る死体ビジネス」である。

イラクの経済状況は厳しい。その中で密かに成長していて活況を支えているのがなんと「死体ビジネス」だという。墓地への遺体搬送、葬式への飲み物の配送で生計をたてる低賃金労働者が、この業界に流れている。なかでもみのがせないのが、葬儀費用の値上がりだ。値上がりの要因は、棺でいえば材質の向上もあるが、主な要因は「死亡率の上昇」になる。その背景は、今年2月22日サマラでシーア派の聖地アスカリ廟が爆破された事件である。この事件を契機に激化した宗派間の武力衝突やテロで、すでに1500人以上の命が落ちている。毎日36人の命が飛んでいることになる。
バクダッドの中央安置所の遺体の数は、02年の約2000体から05年では、1万体を超えた。収容能力の限界を超えているため、遺体を一時的に冷凍してやりくりをしている始末である。共同墓地では、一日平均120回の葬儀が行われている。そのためスンニ派が多く居住するファルージャでは、サッカー場をつぶして共同墓地にあてている。スポーツよりも墓地の需要の方が高いのである。(爆破されたアスカリ廟→)

ハーバード大学の政治学者であるサミュエル・ハンチントンは「文明の衝突」で、冷戦終結後イデオロギー闘争のかわりに国際紛争は、異なった文明に属する国々やグループ間で起こると提唱した。9.11テロの時、ハンチントンの時代の先見性と未来を予見する能力に衝撃を受けた記憶はまだ新しい。
しかし、ハンチントンがこの著書でいくつか重要な過ちをおかしていると指摘しているのが、マイケル・ハーシュ記者である。
「同じ文明に属するグループ間の紛争より、異なる文明のグループ間の紛争の方がより煩雑で長く続き、暴力的になる」という予言は、イラクのイスラム教徒同士であるスンニ派とシーア派の紛争を見ると間違いであると、ハーシュ記者は断言している。文明間の断層の戦線よりも、同じ文明間の近親憎悪の方が激しかったということだろうか。

ひるがえって長らく同一の文明をもちえた我が国を考えると、かって政治の嵐の時代に活発化した学生運動が、結局同じ”思想”のもとに描いていただろう”共同幻想”も内ゲバという凄惨な終焉を迎えた歴史をみる。評論家のフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」で、人類が最終的に社会を組織するには自由民主主義が最善だという決断をくだした」という主張から、民主主義と自由市場の原理がうまく機能することを知ったと読み解く、この記者の推論は鋭いと思う。世の中の不平等を是正し、資本主義の犬になることを拒絶したかっての学生運動も、市場主義がもたらした自由と繁栄になじんでいったということだろうか。
ありがたくない「死体ビジネス」のイラクでの活況ぶりから、諸々のことを考える夜だった。

「うるさい日本の私」中島義道著

2006-04-25 23:51:02 | Book
銀座4丁目の交差点に立つことは、ある種の覚悟を必要としている。
突然、大きな、巨大といってもよいくらいの大声に、背後から奇襲される危険性があるのだ。びっくり仰天してふりむけば、ライオンの像がお客を迎える三越デパートの上にはりついた巨大なスクリーンから、殺人、横領、戦争・・・社会の憎悪をニュース番組のアナウンサーが吠えているのである。悲しいかな、静かで落ちついた大人の街、銀座で、なんで今ここで、ニュースを聞かされなければならないのだ。しかも大音量で。
私は、ここの交差点で確実に、命が数日縮まったと確信している。

中島義道センセイは、戦う哲学者なのである。小心者で日和見主義の私と違い、バス・電車・デパートから駅の構内、海水浴場、はたまた竿竹屋の宣伝活動まで、この日本全国津々浦々までいき届いた騒音の投下爆弾、絨毯爆弾、あらゆる騒音公害に徹底攻撃をしている。騒音の”製造元”にお手紙をだし、延々と議論をし、時には自治会の廃品回収の売上3万円を負担するからともちかけ、或いは焼き芋をすべて購入することによって宣伝・広報のスピーカーの「音」を消すようにお願いし、さらに美術館の54億円のゴッホの「ひまわり」を弁償するからとメガホンによる傘もちこみ禁止の入場整理の告知をやめよと通告している。文句を言うただのおえらい評論家ではない。まるでドン・キホーテさながらに勘違いをしている世間やわかっていない善良なる人々という風車に向かい、実戦する兵士である奮闘ぶりが、読者の共感とアイロニーをうんでいる。

「静穏権確立をめざす市民の会 代表 中島義道」

たったひとりの会の名刺も闘争用に作成した。名刺の効果は、、、全然ないが。
本書の前半はセンセイの戦いの戦果報告とも言える。センセイの戦闘方法は、あくまで音の元凶を発見したらまず抗議・議論という先制攻撃の速攻性に特徴があり、次に執念深い継続性と、戦闘範囲の拡大という有能な幕僚長ぶりである。しかし戦いは空転し、センセイは自分ひとりの戦いのむなしさを味わうような気持ちになる。
日本の社会において、親切な声かけ、注意喚起を公共の場でスピーカーで流す者たちは、常に権力を背景にしている。ここに、無意識のうちに権力に盲従する態度、権力の発する「音」に無批判的な態度がつちかわれる。私人がそれに疑問を持つこと自体を嫌悪する態度がやしなわれると、鋭く批判する中島氏は、後半は日本の文化と日本人論へと分析していく。さすがにカント研究の哲学者らしく、その洞察は的をえている。

今時のキーワード。「優しさ」とはなんなのか。
「優しい」人の行為は、無償ではない。優しさを向ける相手に、見返り、自分に対する「優しさ」を期待する。その見返りがないと、その人を憎むのである。「思いやり」という言葉は、この国では猛威をふるっている。しかし、思いやりに満ちた放送にうんざりしているのは、センセイだけではない。私も、もはや不要な音の氾濫に、寿命が縮まっているのだから。けれども「優しさ」をふりかざすマジョリティな人びとには、通用しない。自己中心的と非難されるだけだ。
しかし日本的な「思いやり」「優しさ」に満ちた道徳的放送を不快に感じるマイノリティをこのように切り捨てる態度に、「優しさ」という美名にひそむ暴力を暴いた中島氏の論理を、是非本書でご一読あれ。

我々は、他人の苦しみがわかるゆえ、他人を意図的に苦しめられる地球上の唯一の動物である。そして、風鈴やししおどしという”音”を加えることによって、静寂を感じる日本人の感性。舌鋒鋭いセンセイの口上は、やがて読者を独特の日本人論へと導く。
最後にセンセイは、日本古来の「察する美学」から「語る」美学への変形法則を掲げている。これを実行できないなら、あなたも「音漬け社会」を承認していることになると結んでいる。

さて、私も音漬け社会に反乱すべく三越デパートに抗議をすべきなのだろう。ちなみに渋谷駅構内CDショップが周囲にまきちらす轟音にあきれた中島氏は、その非常識ぶりをわからせなければと、携帯していたカセットデッキの音量を最大にしてオペラ「リゴレット」を店内でかけて実力行使した。
まったくもって、本当になぜこんなにやかましいのか!

*本書をお薦めしてくださった映画侍さま、サンクスです☆

バッグに投資する英国女性

2006-04-24 23:14:49 | Nonsense
4/13 女性はバッグに目がない!?―英国人女性がバッグに費やすのは年間3億5,000万ポンド!
  

以下、記事コピペが禁止されているので、要約。

英国では価格の低下にもかかわらず、バッグの売上が上昇中。市場調査機関「Mintel」の調査によると、ハンドバッグの売上が過去5年間で146%上昇して約700億円の売上を記録。様々な状況のあわせて、バッグを変えることは多くの女性にとって当り前であり、働く女性が増えて、お小遣いの自由度と需要によって、スタイリッシュなバッグを望むようになった。また、高級ブランド品によく似た低価格のバッグが市場にでることによって、バッグ熱を高めている。

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「ルイ・ヴィトン通信販売を開始」という独り言でも話題にしたが、毎年家族でハワイに行くたびに、妻にルイ・ヴィトンのバッグを買いたがる夫がいる。度々の話題で恐縮であるが、彼はいつもモスグリーンのエピのポーチのようなバッグをもっている。旅行用のボストンは別として、妻のヴァリエーションにとんだ数々のヴィトンのバッグに比較して、彼が手にしているバッグは、つまりひとつだけなのである。理由は、最も手になじみ、一番使いやすいとのこと。いつも同じだと思っていたのだが、実は全く同じものの2個めだそうだ。

男性は、何事も簡単でよいなとうらやましく感じる時がある。女性は、忙しい。服装も変えれば、バッグも変更しなければならない。男性が、下半身をズボンかせいぜいGパンの違いぐらいしかなくても、女性は、Gパンからスカートという大きな開きがある。しかも単にズボンといっても、近頃はハーフパンツのように膝丈のズボンから足首のでるパンツ、Gパンと実に年々丈に微妙な差があり、また裾が狭くなるタイプ、拡がるタイプではエレガントかガーリッシュな雰囲気かと印象もかわり、そのたびに買物に投資する時間とお金、あわせるブラウスやシャツ、バッグや靴と考える時間の浪費もばかにならない。

それだけではない!スカートでも林真理子の小説「anego」に出てくるアネゴ派の女性が着用するタイトないい女風スカートと、お嬢様系ふんわりしたスカートでは、キャラの違いにあわせてまたまたブラウスやジャツ、バッグや靴と組みあわせをパズルのように考えなければならない。しかも女性らしい季節感も大切だ。男性のようにダークスーツで春も秋いけるというわけにはいかない。春はあかるめの色と軽い素材、秋は落ち着いた色にあたたみの感じられる雰囲気。しかも、近頃では時計も服装にあわせて着替えるという発想が定着しつつある。いずれ、爪も服装にあわせて毎日ぬりかえる人が出現するであろう。それにいくら高価なバッグでも、場所と服装によっては似合わない。(私は、サントリーホールではワンピースの時は小さめのバッグ、ジャケットをはおる時はオーソドックスなバッグと、通勤用とは違う雰囲気にしている。)女性はこうして、女としてつくられていくのだろうか。それは楽しみの部分でもあるが、ビジネス・スーツでとりあえず24時間戦える男性を、時々好ましく思う。しかも経済的ではないかい。

スーツが大好きで、いつでもどこでもスーツ姿の多いGacktさん。マリス・ミゼル時代、ファンたちといちご狩り遠足に行く時も、スーツで来ちゃったという伝説もある。いいな、やっぱりGacktさん、、、。
で、明日は、なにを着たらよいのだろう?

*ちなみにこの話題は、「物語三昧」で4/18 裕福な学生が集まる私立校で、「お金だけでは得られない本当の幸せ」を教える授業がスタート!
http://www.japanjournals.com/dailynews/060418/news060418_4.html
というリンク先で発見したバッグの話題です。興味の対象も人それぞれだというのもなかなかよいものです。


『ふたりの5つの分かれ路』

2006-04-23 22:59:58 | Movie
弁護士の冷たく乾いた離婚手続きの事務的な説明が続く中、これから別れようとしている男と女の疲労の滲む表情と、今にも崩れ落ちそうなやつれた佇まいが痛々しい。何故彼らは、別れることになったのか。
「性格の不一致」というこれ以外説明のしようがない”別れる理由”は、小さな綻びだが、最後には修復不可能になっていく。その過程を、封印されたふたりの軌跡のアルバムを一枚ずつ戻すように、5つのエピソードで綴っていく。

1「離婚」離婚が決定して、ホテルの一室でベッドをともにするふたり。
2「特別なディナー」夫の兄とゲイである兄の新しい若い恋人を交えたホーム・パーティ。夫婦の性的な秘密を話題にする夫。
3「出産」胎盤の位置に異常があり、早産で男児を出産したのに、夫は見舞いになかなか来ない。連絡したのに、その後携帯電話は留守電になっている。
4「結婚」結婚式で幸福一杯なのだが、記念すべき新婚初夜ですれ違い、寂しい新妻。
5「出会い」そして、ふたりが出会った美しいリゾート地の海岸。

女性の心理をていねいに描くフランソワ・オゾンの作風は、ここでも期待を裏切らない。
離婚して最後にカラダを重ねようとベッドに向かう元妻マリオン(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)の、バスタオルをまいた裸体がなんと寒々しいことか。そして無理やり乱暴に抱いてくる元夫ジル(ステファン・フレイス)を迎えるときの表情、静かな北欧の湖のような青い瞳は、ふたりの関係を象徴するかのように絶望にぬれている。
新しい恋人に夢中な兄を、若い恋人の方はすぐ飽きるからどうせ1週間しか続かないと決め付ける夫に、理解よりも冷たさを感じるマリオン。
夫は、何故出産した妻とこどもにすぐ会いにこなかったのか。未熟児で生まれた我が子に、納得がいかなかったのだろうか。
すれ違うふたりの気持ちに、愛のはかなさと脆さ、それでもふたりの時間は尊とく輝いていたと思いたい。

「恋人との別れを経験した直後で、その原因を知りたかったのが、映画を作ろうと思ったきっかけ。失恋すると、みんな過去を振り返るじゃないか。あの時のあの言葉が原因だろうか、それとも……、と。その心の軌跡を、そのまま映画にしたんだ」
こう語るフランソワ・オゾンの最初に別離を提示して、過去に遡り小さな伏線を随所においた本作は、5つのエピソードすべてが物語りとして完結している。またその作風やタッチもそれぞれに異なる。まるでオゾン監督の才能をプレゼンテーションされているような印象に、映画マニアのこの監督のファンは満足するだろう。
しかし、まるごと女性の立場として鑑賞したものとして、マリオンのさめていく気持ちには、充分共感できる。そして若い夫婦と対照的に、お互いにののしりあうのが日常茶飯事のマリオンの両親が、いつまでも離婚しないというエピソードも。男というのは、自己中心的で無神経、実に勝手な生き物である。日本男児の諸君、おおらかで包容力のある大和撫子を妻にしてラッキーなのだ。
「君はいつだって正論だ。」
そう叫ぶジルのような夫を受けとめる度量の深さが、あるのだから。

「テレビとネット」NHKスペシャルより

2006-04-22 23:42:47 | Nonsense
テレビとネットの融合によって見えてくる世界を知りたい。
インターネットの技術面では大差がないが、サービス面での放送と通信の融合の進んでいる米国の現状を知ることによって、何が起きて、何が問題になっているかを知るには、格好の番組だった。(放映は3/20)

郊外の平均的な家庭では、テレビはもはや放映している時間に観るものではない。PCを通じて、あらかじめ予約しておいた番組を都合の良い時間に観る。しかも最後のアンケートに気に入ったと回答すれば、お好みの番組を紹介までしてくれる。(アマゾンのような検索から、利用者の趣味・嗜好を分析して他の商品を紹介されるのは、実に気持ち悪いと私は、感じているのだが。)広告を飛ばせば時間の節約にもなり、情報収集する手間もはぶけるから、テレビを娯楽の箱と考えるタイプのユーザーには便利かもしれない。実際、今年のトリノ・オリンピックの視聴者は、半分がこうしたシステムを利用して鑑賞している。

また個人がインターネットを通じて、テレビさながらの番組を世界中に発信している例がある。場所は、NYの小さなアパート。”Rocket Boom”では、ネットを通して寄せられたたわいのないビデオを、女優の卵がコメントをつけて、アンドリュー・ベイロン氏(35)が技術面と編集を行い、たったふたりで運営されている。3分の制作に要する時間は、2時間と経費2000円。しかしアクセス数は、一日13万件。NYタイムズの取材を受けて、金の鉱脈と評価されると早速CM枠をオークションで売ると、年間2億5千万円に達した。
「インターネットには、規制もなければ検閲もない。広く解放された自由な世界だ。」
5年以内にジャーナリスティックな面もとりいれたい抱負とともに、こう語るアンドリュー氏の目は輝いている。

こうした娯楽性の高いネットによる放映、ケーブルテレビの普及によって、既存のテレビ、特にニュース番組は視聴率が落ちている。かってはテレビがニュースを選んでいたが、今では視聴者が番組、ニュースを選択する時代である。地方テレビの経営は厳しく、経費削減のためにビデオ・ジャーナリストが、撮影・コメント・編集まですべてをひとりで行うテレビ局まで登場している。サンフランシスコのクーロン放送局もそうである。ところがNHKが取材中、地震が発生したのだが、広告をカットして情報を伝えたのは、クーロンだけだった。他のケーブルテレビ局は、スポンサーの関係からドラマを中断することなくそのまま放映されていた。この小さなエピソードから、利益追求のために、放送の失われつつある公共性を感じる。イリノイ大学のボブ・マッタチュズニー教授は、「競争によって一部のメディアに利益が集まる構図は、必ずしも視聴者にとってよいとは限らない」と懸念している。

昨年米国ニュー・オリンズを襲った台風カトリーナは、はからずも情報の質の差をうきぼりにした。
未曾有の台風襲撃に撤退したテレビ局にかわって、刻一刻と状況を伝えたのは、高層ビルに事務所を構えるサーバー管理会社の経営者だった。自家発電により通信を維持し、近代的なビルの上層部のPCから台風の様子を書き込み、それが30万件のアクセスに達し、多くの人がネットを通じて台風の被害状況を知ることになった。しかし、単純なミスから間違えた噂も流してしまう。情報量では有効だったが、プロのジャーナリストではないところから質は低い。

最後に、最も興味深いのが米国でのブロガーの存在だ。ともすれば、非難や嘲笑される日本のブログと違い、米国では市民権をえて政党が彼らを利用している。
政党の宣伝活動の集まりに自党よりのブロガーを招待し、その場でブログを発信させる。客観性を重んじる規制のメディアと異なり、手を加えない感受性豊かで新鮮な記事を書けるブロガーの存在は、政治のなかで大きな役割を果たすようになった。2004年大統領選挙では、ブログの情報がテレビや新聞を圧勝した。しかしブログは民主主義にとって健全ではあるが、巧妙な政治運動に拡がる可能性もある。

米国では、1920年ラジオ放送というビジネスとして始まったことと比較して、日本の放送は関東大震災がきっかけという公共性としての放送がはじまりだった。放送にはビジネス・チャンスを逃してはいけないということと、公共性の責任を忘れてはいけないという両面性が求められる。NBCの引退した名キャスターのトム・ブロコウ氏の次の言葉を肝に銘じる必要があるだろう。

「金儲けのために、魂を売ってはいけない。ニュースで一番の利益をあげる方法は、社会と真剣に向き合い、最高の仕事をすること。」

「科学と社会」都留重人著

2006-04-21 23:01:50 | Book
近代経済学第一人者の都留重人氏が死去
 第1回「経済白書」を執筆した理論経済学者で、元一橋大学長の都留重人(つる・しげと)氏が5日午前1時42分、呼吸不全のため東京都港区の病院で死去した。93歳。東京都出身。自宅は公表していない。葬儀・告別式は近親者で済ませた。

 米ハーバード大で博士号を取り、同大の助手、講師を務めた後、42年に帰国。戦後、片山内閣の下で経済白書を執筆した。48年から東京商科大(現一橋大)で教壇に立ち、72年から75年まで学長。その後、明治学院大教授を務めた。「日本経済の転機」など多数の著書がある。

2006/2/7(日刊スポーツ)****************************************************************************


蝶ネクタイがトレードマークの都留重人さんの訃報に接し、まだご存命だったことに驚いた。しかし、もっと驚いたのが本書「科学と社会」(副題:科学者の社会的責任)が、2003年(日本学士院主催の公開講演を書き直した論稿である。さらに(くどいが)驚いたことが、御年90歳を超える経済学者のテーマーが、70年前ハーバード大学の経済学部大学院に留学中、科学の進展が社会体制に及ぼす影響と社会体制の特徴的事象が科学に特定の方向性を与える事実を総合的に追求して論壇季刊誌を発刊した「Science and Society」というタイトルと同じ主題にある。

第1章 科学の成果

19世紀後半の西欧では、自然は謎であり、その謎は人間の科学的研究により徐々に解明され、人類の福祉にプラスになるというゆるぎない信念があった。しかし、産業革命以降、科学が産業を動かし、逆に産業が科学の業績を計画的に推進する時代となった。20世紀になると、
①戦争のための科学
②企業利潤のための科学
というふたつの主要契機が外性要因となる。これは、社会から科学への影響である。例えば、悲しいことであるが戦争用具の開発にあたっての科学の貢献ははかりしれない。「クラスター爆弾」という科学の成果を発揮した優れものの爆弾がある。今問題になっているのは、親爆弾が投下された後の子爆弾に不発弾が多く、アフガニスタンやイラクで事故が続いている。2003年に対人地雷全面禁止条約を生んだ「オッタワ・プロセス」がの再現を視野に入れた国際法が当該爆弾に関しても採択された。にも関わらず、このクラスター爆弾を各基地に配備している国がある。我が国だ。
1962年ノーベル生理医学賞を受賞したモーリス・ウィルキンスは、今日世界の科学者・技術者の半数が、なんらかの意味で兵器に関連する仕事をしていると証言している。科学者は、権力者に弱いのだろうか。

そして効率化優先される市場主義が、国立大学法人化政策とあいまって、基礎研究の予算削除を都留重人氏は心配している。ペニシリンを発見した科学者が、研究室で遊んでいる時にできた抗生物質を金儲けでなく、人類に福祉のために無料で提供したいと特許をとることを拒否したエピソードを紹介している。逆にレイチェル・カーソンの「沈黙の春」のように”買うことのできない科学”として、私企業の営利目的のために阻害される科学もある。
このように産業によって、科学や技術も影響を受ける。

その一方でIT革命などに代表される科学技術の発展は、社会の領域に様々なインパクトを及ぼした。所謂「ただ乗り」現象などは、その防止策がおいつかずに市場秩序を乱す結果となったり、また個人情報が流出する危険性にさらされている。今やIT革命の次なるネット上の安全を期す”ID革命”が求められている時代だ。

科学と社会の関係は、いずれの側面にもメリットとともに、無視できないデメリットもある。
最後に都留氏が言及しているチャールズ・ダーウィンの次の述懐は、きわめて示唆に富んでいる。

「私は最近、シェークスピアを読んでみようとしたが、耐えがたいくらい退屈だ。私はまた、絵画や音楽にも殆ど興味を失った。・・・私の心は膨大な事実の寄せ集めから一般法則を抽きだすことに精魂傾ける機械の一種になてしまったようだ。」
彼はこのように、科学的研究に没頭していく過程で、人間の情緒面の衰退化を嘆いている。

大学時代、サークルの先輩が都留重人氏の著書を読んでいたことを思い出す。都留重人氏は、近代経済学の第一人者としての業績があるが、その哲学にマルクス主義の影響を私は感じる。科学の真理発見や技術革新は、人類の共有財産と考える古めかしいけれど理想的な精神に、今の時代への警鐘だ。
勉学よりも”遊学”にいそしんできた我が身を振りかえると、都留重人といえば蝶ネクタイのご老人の姿しか思い浮かばないことが情けない。科学者の社会的責任などと、たいそうりっぱなことを言える身分ではないが、氏の専門分野の研究が主体的・自主的であること、科学的営為が社会の中でのもつ位置付けを絶えず考えるという自覚をもつことを期待したいという結語に、やはり深く同感する。けだし、賢人の長老の言葉には、耳を傾けるべきなのだ。

田中秀臣氏の追悼文

『グレン・グールド エクスタシス』

2006-04-20 23:27:28 | Classic
初めてグレン・グールドを聴いたのは、J・S・BACHの「ゴールドベルク変奏曲」。
その整った音楽は、バッハ特有の小宇宙観を完璧に再現しているようで、あまりにも無色透明で乾いた印象をもった。この感覚は、ヴィオリニストのヤッシャ・ハイフェッツの同じくバッハの、無伴奏バイオリン・ソナタに触れた時と同じだ。この天才と称されるふたりのバッハの演奏は、奇妙なことに私には、モダン・ジャズの空気を伝える。

後年、グレン・グールドが聴衆に背を向けて、1964年32歳の時にシカゴでのリサイタルを最後に演奏活動を中止して、その後50歳で亡くなるまでの音楽人生をスタジオでの録音で費やしたことを知った。

彼には、そのたぐい稀なる才能と同じ数だけ、奇人・変人ぶりのエピソードが豊富である。また、その奇妙な行動や性癖が天才たるゆえんと伝説化しているのだが、彼の心理分析するには、音楽を聴くよりも伝記や批評の本を一読すべきだろう。ここでは、グレン・グールドの『エクスタシス』というDVDについての感想を。

本作は、グレン・グールドの演奏風景(あくまで、風景だけなのでもの足りなさは残る)の映像をまじえながら、彼の演奏、人柄、音楽観を知る批評家、音楽家や映画監督たちが、グールドを理論的に紹介している初心者向け。勿論、誰もがグールドの天才性を熱気をおびて絶賛しているが、やはり必要なのは彼が生涯を捧げた録音と、批評を読むことだろう。とは言いつつも、父親手作りの背の低いピアノの椅子に腰かけて、歌いながら弾くグールドの姿は、強烈な印象を与える。このような悪い姿勢の見本のようなスタイルから、あのような緻密で整った音楽をつくることは、驚異である。すべての楽器に通じるだろうが、姿勢と指の形は自分の描く音楽を紡ぐための基本である。自分のこだわりのある、好みのスタイルに固執したグールドには、並外れた集中力があったとしか思えない。
それを改めて、確認できるDVDとも言えよう。

ちなみに、私の好きなグールドのエピソードを紹介。

①夏目漱石の「草枕」を愛読
②映画『砂の女』が大好きで100回以上も観ているとは!
③77年打ち上げた惑星探検機ボイジャーには、異性人への挨拶用としてグレン・グールドのレコードが搭載されている。
④指揮者との数々のバトル・・・

結局、DVDを観たのも、ピアニストのグールドという神業の謎にせまりたかったのかもしれない。

「宇宙怪人しまりす 医療統計を学ぶ」佐藤俊哉著

2006-04-19 23:10:43 | Book
この広大な宇宙のどこかに、地球のりすよりも大きい(標準身長:164cm,体重:60kg)りすりすが生息する星がある。ある日宇宙船がその星に飛来して、異質なものに対する友好的な態度、そして平和を愛する暮らしぶりに感銘して、知性を向上させる遺伝子操作をほどこしたのだ。(但し、生来の忘れっぽさだけはそのままに。)
やがて科学技術が発達し、彼らは宇宙船に乗って冒険の旅にでたところ、あまりにも争いごとが多い惑星を発見し、それらを征服して平和に統治することを目的とするようになる。ところが困ったことに、自由な進化を遂げた惑星では、生態系が多様で病気で亡くなることが多かった。りすりす星では病気があまりなかったので、「疫学」や「医療統計学」が発達していない。
そんなわけで、紛争の多い地球征服と医療統計学の修得のために、大学院で惑星征服学の研究をしているしまりす君が、4月の桜の季節のある日、京都大学の佐藤俊哉先生の研究室に窓からやってきた。その後、しまりす君は毎月研究室を訪問し、これから一杯やろうかな~♪と考えている先生をつかまえて、地球征服のためにお勉強をしている。

「医療統計」ってなんだろう?
きみも宇宙怪人しまりすと一緒に勉強してみよう!しようったらするの。

そんな佐藤先生としまりすくんの誘いに励まされ、本書にわけ踏み入る。
何故、宇宙怪人しまりすくんがここで登場するかというと、佐藤先生の妻・恵子さん(症状:統計アレルギー)の、「医療統計が大事なことはわかるけれど、話を聞いてもちっともわからないし、ろくな教科書もない。だから<宇宙怪人いまりす>がやってきて、いちから医療統計を勉強する、という本を書きなさい」という、至上命令から誕生した壮大な?物語である。

つまり、本書のポイントは
①医療統計学の重要性
②高校生から理解できる教科書
になる。

なにしろ相手の、しまりす君は忘れっぽいから復習もし、あきっぽくてすぐしっぽの毛づくろいをするゆえ興味を持続させ、尚かつ短絡的な愛すべき性格を考慮して、佐藤先生の丁寧な講義が続いていく。大学の一般教養レベルの統計学の基礎がある方にはものたりないかもしれないが、医療統計学の今後益々の必要性を考えると、一読する価値大である。それに、佐藤先生としまりす君のかけあい漫才のような会話形式で語られる”お勉強”は、恵子さんのような統計アレルギーの症状も全治することを断言できるのだ。楽しく学べる、こんな発想が必要だ。ま、愛煙家の方には、少々煙たい統計のお話しもあるけれどね。

岩波科学ライブラリーは、科学への扉として考えると読みやすい。ただ学生対象に、1200円は高いかも。
佐藤先生の講義を引き続き、しまりす君と一緒に学びたい方は、次の扉へ
  
その後、しまりす君の地球征服は成功したのか。留年を重ねているあかりす君は、今年こそ卒業できたのか。
しまりす君と一緒に、続編の刊行を待ちたい。もしも
←佐藤先生(この方、イラストは恵子さん)がしぶるなら、しまりす君に頼んで、「イエッサー」を先生につけてもらおうか。

用語解説