ずっと気になるふたりの少女がいた。荒廃した建物の残骸にこしかけて微笑む少女となにか語りかけるようなもう一人の少女。
彼女たちの名前は、ドイツ人が好む監督、キム・ギドクがうんだチェヨンとヨジン。韓国の女子高校生である。そして彼女たちのもうひとつの名前は”サマリア”。
チョヨンとヨジンは、ヨーロッパへの旅行するためにせっせと貯金をしている。方法は、マックのコンビニでバイトするのではなく、ヨジンが電話でアポイントをとって顧客をつかまえて、チョヨンが彼らと売春することだった。いつも微笑みをたやさないチョヨンには、肉体を未知の男たちに売ることに対しての罪悪感は全くない。ある日、いつものように外で見張りをしていたヨジンは、警察の捜査が入ることに気がついてチョヨンの携帯電話に連絡をするのだが、チョヨンは警官の手から逃れるために窓から飛びおりて重体に陥る。
やがて迎えたチョヨンの死。その日から、ヨジンはノートに書き綴った交渉相手の男性と肉体関係をもちながら、受け取っていたお金を返していく。男と寝て、行為を終えたらお金をベッドの中で返すヨジン。ノートのリストからは、その度に一人ずつ消されていく。これは、儀式である。残りあとわずか、というところで売春の取締りをしていた警察官の父が、男とラブホテルのベッドにいる娘を偶然目撃してしまう。衝撃とともに、怒りは相手の男へと激しい憎悪にふくらんでいく父だったのだが。。。
(以下、映画の内容にふれています。)
公式HPであかされている3つの場面における3つの視点については、あえて書く必要はないだろう。好みは分かれるだろうが、常々、鬼才と評されるキム・ギドクの才能が感じられる作品だ。少女たちの自らの体を売ってまで稼ぐ目的が、ヨーロッパ旅行。しかしパリでもローマでも、イギリスでもエーゲ海でもない漠然としたヨーロッパ。母亡き後、マンションに父とふたりで住むヨジンは、経済的にもなんら不自由のない暮らしぶりだから、旅行の費用ぐらいはすぐに捻出できるはず。売春の目的の希薄感と、対するチョヨンのあまりにも淡い存在感。彼女は危篤状態になっても、連絡先すら不明で家族のいないままヨジンに見守られて病院で息をひきとる。ここにリアルな生身の現実(ヨジン)と、微笑みの絶やさない穏やかでまるで蜻蛉のような空想的な存在(チョヨン)と、少女の表裏一体化した鏡像が描かれている。
誰もいない銭湯で、コトを終えたチョヨンの体を洗うヨジン。これも彼女たちにとっては、儀式なのだった。それはまるで、彼女の体から不潔で穢わらしい男との接触点をきれいに洗して清めるかのような処女の潔癖さを彷彿させる。チョヨンの死をもって、果たして彼女は存在したのか。ヨジンのうんだもうひとりの自分自身の幻影だったのではないか。だから笑いながら、ホテルの窓から飛び降りるという”犠牲”を行ったのではないか。監督のふくませた不可思議な余韻に包まれる。
後半は、ギドク監督お得意の父から娘へ注ぐ執念の愛情だ。
確かに、高校生の娘の性体験、金銭の伴う不特定多数の男との行為を知った父親の驚愕ぶりは想像できる。しかし、毎朝娘の食事の仕度を整える姿に、単なる父親としての愛情以上の狂気を示すことによって、平板な復讐と少女の自立を超える芸術性を作品にもたらしている。現在公開中の「弓」に通じる、老人(「サマリア」では中年)の聖少女への狂気に満ちた執着と言ったら、考えすぎだろうか。映画の「弓」における海に浮かぶ一艘の船というふたりきりの閉じた世界と、「サマリア」のマンションの部屋での父と一人娘の生活と車での旅はリンンクしていると思われる。
最後に、ヨジンを殺す幻影を映すことによって、聖少女を封印して大人の女性へと成長していく物語へと未来へとつなげている。
「エネルギーに満ち溢れた若者は、人生を生き抜く知恵を手にする前に、虐待、マゾヒズム、自虐などが蔓延する時代の囚われの身になっている。いったい、どんな人間が、サマリアの少女に向かって石を投げることが出来るのか?」
この監督の言葉を読んで、何故自分がこの少女たちから目が離せなかったのか、ようやくわかりかけてきたような気がする。それは廃屋の残骸を背景に並んだふたりの少女が、頼りなく、そしてあまりにもけがれのないピュアな印象を与えるからだろうか。
■サマリアとは(公式サイトから引用)
「新約聖書ヨハネ第四章に登場する、名もなきサマリア人の女性のこと。
罪の意識のために隠れるように生きてきたが、イエスと出会い罪を意識することで生まれ変わったように信心深く生きた人物。
聖書にはイエスの深遠な教えの受け取り手が、世間的に蔑まれる女性であるという逆説がしばしば登場する。」
宮台真司さんの批評・・・社会学者はこの映画をこう観ていた。。。
彼女たちの名前は、ドイツ人が好む監督、キム・ギドクがうんだチェヨンとヨジン。韓国の女子高校生である。そして彼女たちのもうひとつの名前は”サマリア”。
チョヨンとヨジンは、ヨーロッパへの旅行するためにせっせと貯金をしている。方法は、マックのコンビニでバイトするのではなく、ヨジンが電話でアポイントをとって顧客をつかまえて、チョヨンが彼らと売春することだった。いつも微笑みをたやさないチョヨンには、肉体を未知の男たちに売ることに対しての罪悪感は全くない。ある日、いつものように外で見張りをしていたヨジンは、警察の捜査が入ることに気がついてチョヨンの携帯電話に連絡をするのだが、チョヨンは警官の手から逃れるために窓から飛びおりて重体に陥る。
やがて迎えたチョヨンの死。その日から、ヨジンはノートに書き綴った交渉相手の男性と肉体関係をもちながら、受け取っていたお金を返していく。男と寝て、行為を終えたらお金をベッドの中で返すヨジン。ノートのリストからは、その度に一人ずつ消されていく。これは、儀式である。残りあとわずか、というところで売春の取締りをしていた警察官の父が、男とラブホテルのベッドにいる娘を偶然目撃してしまう。衝撃とともに、怒りは相手の男へと激しい憎悪にふくらんでいく父だったのだが。。。
(以下、映画の内容にふれています。)
公式HPであかされている3つの場面における3つの視点については、あえて書く必要はないだろう。好みは分かれるだろうが、常々、鬼才と評されるキム・ギドクの才能が感じられる作品だ。少女たちの自らの体を売ってまで稼ぐ目的が、ヨーロッパ旅行。しかしパリでもローマでも、イギリスでもエーゲ海でもない漠然としたヨーロッパ。母亡き後、マンションに父とふたりで住むヨジンは、経済的にもなんら不自由のない暮らしぶりだから、旅行の費用ぐらいはすぐに捻出できるはず。売春の目的の希薄感と、対するチョヨンのあまりにも淡い存在感。彼女は危篤状態になっても、連絡先すら不明で家族のいないままヨジンに見守られて病院で息をひきとる。ここにリアルな生身の現実(ヨジン)と、微笑みの絶やさない穏やかでまるで蜻蛉のような空想的な存在(チョヨン)と、少女の表裏一体化した鏡像が描かれている。
誰もいない銭湯で、コトを終えたチョヨンの体を洗うヨジン。これも彼女たちにとっては、儀式なのだった。それはまるで、彼女の体から不潔で穢わらしい男との接触点をきれいに洗して清めるかのような処女の潔癖さを彷彿させる。チョヨンの死をもって、果たして彼女は存在したのか。ヨジンのうんだもうひとりの自分自身の幻影だったのではないか。だから笑いながら、ホテルの窓から飛び降りるという”犠牲”を行ったのではないか。監督のふくませた不可思議な余韻に包まれる。
後半は、ギドク監督お得意の父から娘へ注ぐ執念の愛情だ。
確かに、高校生の娘の性体験、金銭の伴う不特定多数の男との行為を知った父親の驚愕ぶりは想像できる。しかし、毎朝娘の食事の仕度を整える姿に、単なる父親としての愛情以上の狂気を示すことによって、平板な復讐と少女の自立を超える芸術性を作品にもたらしている。現在公開中の「弓」に通じる、老人(「サマリア」では中年)の聖少女への狂気に満ちた執着と言ったら、考えすぎだろうか。映画の「弓」における海に浮かぶ一艘の船というふたりきりの閉じた世界と、「サマリア」のマンションの部屋での父と一人娘の生活と車での旅はリンンクしていると思われる。
最後に、ヨジンを殺す幻影を映すことによって、聖少女を封印して大人の女性へと成長していく物語へと未来へとつなげている。
「エネルギーに満ち溢れた若者は、人生を生き抜く知恵を手にする前に、虐待、マゾヒズム、自虐などが蔓延する時代の囚われの身になっている。いったい、どんな人間が、サマリアの少女に向かって石を投げることが出来るのか?」
この監督の言葉を読んで、何故自分がこの少女たちから目が離せなかったのか、ようやくわかりかけてきたような気がする。それは廃屋の残骸を背景に並んだふたりの少女が、頼りなく、そしてあまりにもけがれのないピュアな印象を与えるからだろうか。
■サマリアとは(公式サイトから引用)
「新約聖書ヨハネ第四章に登場する、名もなきサマリア人の女性のこと。
罪の意識のために隠れるように生きてきたが、イエスと出会い罪を意識することで生まれ変わったように信心深く生きた人物。
聖書にはイエスの深遠な教えの受け取り手が、世間的に蔑まれる女性であるという逆説がしばしば登場する。」
宮台真司さんの批評・・・社会学者はこの映画をこう観ていた。。。