千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「冬の喝采」黒木亮著

2009-02-28 16:21:34 | Book
日本の冬の代表的な風物詩であり、もはや国民的行事ともいえる「箱根駅伝」。
1987年からテレビ中継が始まり、近年、平均視聴率は25%を超えるという参加大学にとっては、格好の受験生集めの手段ともなっているらしいのだが、この時間帯は、毎年我家でもずっとテレビがつけっぱなし状態である。
走ること。ただひたすら決められた道を走ること。これほど原始的でシンプルなスポーツはないと思うのだが、箱根駅伝は何故か人をひきつけてやまない魔物のような魅力がある。そんな箱根駅伝のドラマを書いたのが、意外にも経済小説作家のあの黒木亮さん!である。

現在ロンドン在住で、小説「巨大投資銀行」がサブプライム・ローン問題の影響で海外でも好評な売れ行きを伝えられる黒木亮さんは、早稲田大学競走部出身。在学中、2回ほど箱根路の「3区」、翌年には「8区」の21.3キロメートルを完走。1979年、初めて走った「3区」では、トップで快走する天才ランナー瀬古利彦選手から襷を受け取った。当時、予選落ちまで凋落した伝統ある早稲田を生き返らせるために、招かれたのが強烈な個性が災いして陸上界から追われていた中村清である。その中村ががなりたてる校歌をバックに、3区のなかばをこえて茅ヶ崎グランドホテルが見えて防風林が途切れると、新春の陽光をあびた海がきらきらと輝き続け、その美しさに著者は息を呑む。

この小説の最初のスタートの走りから、すでに胸がわくわくと興奮するようなドラマが感じられて、読書好きにはたまらない。”自伝的”小説とうたってはいるが、中学時代から選手生活を80年の駅伝で走り終えるまで書き続けて来た大学ノート8冊分の練習日記に基づいているために、日時、記録、参加選手名、その時の主人公の感情が忠実によみがえっていて、つくりごとではないストーリー展開に、どんどんひきこまれていく。ちなみに、黒木氏はこの練習日記の写しまでとっていて、別々に保管していたというから、作品のテーマーである箱根路にかけた青春への想いは並ではない。しかし、それをあえて奔流する感情をおさえて淡々と描くことで、まるで箱根駅伝のストイックな選手の走りのように、走ることにめざめた中学生が引退するまでそれこそ目を離せずに一気に読んでいってしまう。ところで、雪の多い北海道出身というハンディや指導者に恵まれなかったり、怪我が多かったりと、不遇だったこの主人公が大学で箱根を駈けるまでの伴走者はふたりいる。

ひとりは、奇人変人の中村監督である。陸上に執念のようにとりつかれた猛毒たっぷりのこの老人は、こどものように自己顕示欲が強く、執念深く、説教とエロネタも含めた訓示が大好きで、時には徹底的に選手を罵倒することすらある。彼によって潰された選手もあり、その変人ぶりと奇行は陸上界から一時ほされたのももっともだ。しかし、走ることに対する彼の献身に、この世界における監督と選手の異常とも感じられる繋がりがわかるのも事実。毒も喰わらば皿までで、中村監督の毒にも慣れてしまえば、そこにはユーモラスさえ漂う人間の独特なキャラクターにひかれていく。このようなタイプの監督を否定するかのように早稲田には、スポーツを科学する学部があるのだが、皮肉なのは、本書の最高の読みどころのひとつとして、こんなとんでもない唯我独尊の監督との出会いによって、黒木氏は「努力は無限の力を引き出す」ことを学んだことだ。

そしてもうひとりは、瀬古利彦である。
すでに高校時代にその走りを見た著者は、彼のダイナミックな走法、エンジン全開のマシンのような彼の驀進ぶりに、頭を一撃されたような気分になる。大学に入学してキャンパスで偶然瀬古を見かけた黒木青年は驚き、胸の鼓動が高まる中、思い切って彼に声をかける。後に世界的ランナーになる瀬古は、まるで5月の風のように爽やかな溌剌とした空気を発散して、学生服の後姿まで凛とした輝きに満ちていた。強さ、美しさ、その走りを国宝級の芸術品とまでたたえられた瀬古選手からまさか自分が襷を受け取るようになるとは、この時は想像もしていなかったのだから、人の運命はわからないものだ。

率直なところ、これまでの著者の書いた小説を読んでいて、私は決して巧い文章家ではないと思っていた。だから、”経済小説ではない”本にも関わらず手にとろうとしたきっかけは、やはり箱根駅伝で繰り広げられる若者たちのたった一度の長くも瞬間に疾走するドラマにある。そして、勤務先でちょっと関わったことがある箱根駅伝を走った早稲田出身の青年のエピソードだ。評判によるとよくも悪くも少し変わり種らしい彼は、自分が走った箱根駅伝のビデオを友人に披露しながら涙を流すという。その姿にひいてしまう会社の人間は、その話をおもしろおかしく伝えているようだが、確かに自分が主人公のビデオを他人に見せるというのもどうかと思うのだが、私にはそこまでの想いと青春がなんとなくわかる感じもあり、走ることの簡潔な美しさの魅力にとりこまれた人間のドラマを見たいと思っていたからだ。

文章を書くセンスよりも、要は書くべき中身の方がはるかに大事。最後の一行を読んだ時、私も著者の言葉どおりこれは絶対に小説になると思った。大学を卒業して都市銀行の入行し、転身して作家になった30年の道のりは、この本を書くための人生だったと言っても過言ではない。「冬の喝采」は、日本人の琴線にふれるような静かだが、熱気のはらんだ素晴らしい喝采である。
★★★★★

■アーカイブ
「巨大投資銀行」
「エネルギー」

『チェンジリング』

2009-02-23 22:32:11 | Movie
人間は完璧ではないから、ヒューマン・エラーが発生する可能性はゼロではないにしろ、絶対に起こしてはいけないことが、先日の香川県立中央病院で発生した体外受精卵を取違えて移植した事件であろう。つらい不妊治療をのりこえて、ようやく妊娠した喜びもつかのま、胎内に宿った命が別の女性のこどもだと伝えられた時のショックは、いかばかりであろうか。そんな事件を思い起こされたのが、この映画『チェンジリング』である。

1928年、ロサンジェルス郊外。シングル・マザーのクリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)は、電話会社で働きながら9歳のひとり息子ウォルターを育てている。ウォルターの父にもとに、息子が誕生した日に箱が届き、それを開けると中には”責任”という贈物が入っていた。「パパには耐えられないくらい重かったのよ」そうウォルターに伝えるクリスティン。或る休日、彼女は急用で出勤できなくなった同僚のかわりに息子との約束を延期して、出社することになった。ひとりで寂しく留守番をしているであろうウォルターに一分でも早く会うために、帰宅を急ぐクリスティン。ところが帰宅したら息子の姿はなく、行方不明。必死に探す彼女だが、愛する息子は見つからない。
その5ヶ月後、「イリノイ州で見つかった」と警察から連絡があり、逸る気持ちで駅まで迎えに行くのだったが、連れられてきた男の子は別人だった。。。

この映画の内容に関しては、ここからは守秘義務あり。これから鑑賞される方は、内容を知ってはいけない。
母と息子の愛情物語に、ミステリーをからめた観客、特に女性を泣かせるための映画とあなどったらとんでもないのだ。男の子は自分の子ではなく別人であり、自分の息子を探してくれるように必死に、それこそ必死に訴えるクリスティンの行動に同情しているうちに、善良な一般市民の常識をこえるような警察のありえないような対応に、それはあまりにもひどいと観ている方も憤ってしまう展開になる。しかしそこで終わらないのが、この映画が凡作ではないところ。更なる驚愕する事実が発覚する。このあたりの撮り方が、すごくうまい。教会が果たした役割、不正を犯す権力への抵抗と戦い、そして希望と多彩な切り口でありながら、奥が深く丁寧に慈しむような映像に、老映画人の映画への愛情がにじみでている。
クリスティン役のアンジェリーナ・ジョリーがシングル・マザーにも関わらず裕福な主婦に見えるおしゃれな服装が似合っているのが愛嬌、彼女の熱演もさることながら、ある重要な役を演じたジェイソン・バトラー・ハーナーが強烈な印象を与える。初めて登場した時の、ちょっと気の良さそうな、それでいて完璧に無邪気な笑顔。この最初の笑顔が後半で恐ろしいくらいにとてもいきていく。アカデミー賞をあげるなら、私は彼にこそ助演男優賞をさしあげたいくらいだ。

この映画が、実際に起こった事実をほりおこして製作されているということを、事前にインプットしてから鑑賞するのがポイント。観ているうちに、事実と事件からある程度映画のために脚色しているだろうと思われる部分(クリスティンが昇格するなど)とを区別しながらも、クリント・イーストウッド監督の映画つくりの鮮やかさとねばりの手中にはまっていく。2時間22分があっというまの映画の世界。そして、最後のクリスティンの笑顔が静かな感動をもたらす。

閑話休題。
映画を鑑賞して都会の雑踏の中で不図感じたことがみっつある。
ひとつは、クリスティンはやはりアメリカの女性だということだ。たとえ、どんな事情があろうとも、生きていくために働く必要があろうとも、こどもをひとりで留守番をさせているうちに我が子が行方不明になったとしたら、日本の母親はどこか自分自身を責める気持ちがあるのではないかと思う。さらに、警察が別人を連れてきて息子にしたてあげたのも、彼女がシングルマザーだからとあなどっていたことである。女性蔑視だ。
そして、もうひとつは、こんな警察の対応は80年前の大昔だから起こったこと・・・とこんなこと現代ではありえないと感じていたのだが、どこかで似たような話があったと不図考えた。北朝鮮の拉致問題も似たようなものではないだろうか。中学生の娘が当然姿を消して行方不明。何十年もたってこれがあなたの娘だとあやしげな「写真」と「孫」にチェンジリングされようとしている。あの国は、大事な娘を”遺影”で帰宅を待つ両親を無理やり納得させようとしている。後世の人々が、この拉致問題に対してどのような感想と怒りをもつかは、この映画を観ればわかることだ。

原題:Changeling
監督・製作・音楽:クリント・イーストウッド

「幻影シネマ館」佐々木譲著

2009-02-22 11:21:54 | Book
昨日、ブログで更新した映画『戦争はまだ始まっていない』の感想は、映画マニアの方だったらすぐに気づかれたと思うが、実は存在しない映画である。
真相をあかすと、推理小説作家の佐々木譲さんが「小説すばる」で連載していた”架空の映画の紹介と批評”を昨年まとめて、世界初の<実在しない映画>の本として出版された36本の中にだけ、”存在する”映画である。こんな映画があったらいいなという著者の映画の中で、私が一番熱心に観たいと感じた映画に、多少の妄想をふくらませた幻想の映画が『戦争はまだ始まっていない』である。

著者の語り口は、絶妙。この映画が存在しないということがわかっているだけに、単なる作品紹介や批評に留まらず、映画製作の背景や経緯、他の映画との関連や登場する俳優たちの計算など、いかにもありなんという感じで、ただただ著者の豊富な知識と想像に感心しきりである。ある種の知的遊戯の雰囲気もある。但し、この本のお楽しみ指数は、読者の映画のはまり度、偏愛度、マニアックさに比例する。だからそこそこレベルの映画好きでしかない私としては、昔の俳優の知識がいまひとつで、その遊戯に参加できない無念さも感じる。全くだーーっ。勿論、単なる知識の披露に留まらず、映画へのおだやかな愛情と俳優を慈しむようなまなざしが感じられ、また実在の映画ともリンクして紹介されていて、やっぱり映画好きなら読んでおくべきじゃないかの一冊である。

過去に、ウッディ・アレンが架空の戯曲やバレエについての批評を書いたそうだが、著者はそれにならって映画版で連載したのだが、連載当時の読者のなかには、「あの映画は見逃した」という反応があったり、実際にレンタル・ビデオショプで当該作品を探した被害者の方?もいたそうで、ちょっと罪つくりな本だったそうだ。慌てものの私も「小説すばる」でこの連載を読んでいたら、きっとビデオ屋で探していただろうと確信するもう1本の映画。

後にエイズで亡くなるアルファンソ・デミル製作の1981年『サマー・デイズ』という青春群像映画である。
トレントンの街を舞台に、地元の市立高校を卒業したブラスバンドのメンバーのその後の一夏である。彼らを指導した教師がウィリアム・ハートで同僚との不倫の恋に悩む平凡な教師。まだ無名だったケビン・コスナーが、卒業後、町の警察官になる主人公の役で登場し、政治家をめざすデニス・クエイドや、彼の恋人役にアンディ・マクダウェル。そして、女優の卵になったミシェル・ファイファーや、挫折してやくざになったミッキー・ロークたちが、帰省してきた者たちとの一夏のできごとを繊細に描いた作品である。医師になるためプリンストン大学に進学したアレック・ボールドウィンは、学費が続かず休学を考えているのだが、優秀な兄(デニス・クエイド)にコンプレックスをもつ弟に言う。

「人生というのは、幸福を選ぶか不幸を選ぶか、という実に単純な選択だということだ。人は不幸になるんじゃない。不幸を選ぶんだ」
・・・こんな青春映画を観たい。。。

『戦争はまだ始まっていない』

2009-02-21 23:16:07 | Movie
今宵は、イタリア産ワイン、DOCG銘柄の「トルジャーノ・ロッソ・リゼルヴァ」をたしなみながら、めったに観ることができない映画を堪能した。ベルナルド・ベルトリッチ監督による1985年製作イタリア・西ドイツ合作の『戦争はまだ始まっていない』である。ベルトリッチ監督の作品中、唯一日本未公開映画であるが、米国在住の従妹にビデオを拝借して鑑賞。(以下、内容にふれております。)

タイトルからも想像できるように、舞台は1939年の第二次世界大戦勃発前夜のベルリンが舞台である。
ドイツ国家元帥ゲーリングの屋敷から、男女のさざめく会話と窓からのまぶしい明かりが戸外に帯をつくって流れていく。季節はまだ肌寒い春。しめやかな夜の帳の中で華やかな大広間には、ワーグナーの音楽が流れている。ナチ党員で親衛隊将校セバスティアン(ドナルド・サザーランド)は、黒い親衛隊の制服を身に付け、パーティの客たちを眺めている。今夜の花は、なんと言ってもベルリン駐在のイタリア外交官の妻・フランチェスカ(ドミニク・サンダ)である。金髪と青い瞳に、清楚な肢体に翡翠色の幾重にもジョーゼットの布が重なったドレスがよく似合う。彼女は、ファシズムの粗野な部分を軽蔑しながら、ファシストたちの権力だけは充分に利用し、自由奔放にふるまう快楽主義者。そこへやってきたのが、日本の軍人ミシマ(ジョン・ローン)である。まるで東洋の禅を体現化したように、静かな湖のような佇まいの黒い髪、黒い瞳のミシマは、広間の人々をたちまちのうちに魅了する。

理想の東洋の男ミシマ、男たちが崇拝する美貌の人妻、そしてバイセクシャルで耽美主義者の狂気じみたナチス将校。彼らの出会いが、戦争の足音とともに、戻ることにできない道にふみはずすことをもたらすとは、この時夢にも思わなかったのではないだろうか。いや、将校にとっては、悲劇すら甘い快楽と夢想していたかもしれない。。。

ジョン・ローンとドミニク・サンダの美しさがあまりにも印象に残る映画である。ふたりとも私好みの大好きな俳優なので、眺めているだけで満足。ファンであることをさしひいても、俳優の存在が、これほどはかなく、美しくかげろうのように描いた作品はめったにないと断言したい。そういう意味では、少々過激なベッドシーン◎◎と悲劇的な結末を含めてベルトリッチ監督らしい佳作である。ここであえて”佳作”と言ってしまったのは、恋愛をテーマーに扱いながら東洋人の神秘さにこだわったためだろうか、ミシマの内面をうまく描けていないと日本人としてはいささか残念なところである。日本男児とは言え、ミシマは寡黙過ぎる!

しかし、ミシマとフランチェスカが晩秋のふたりが最初に出逢った大広間でダンスをする場面は、映画ファンならずとも必見である。
退廃的な雰囲気の中、ミシマとフランチェスカのどちらが誘うでもなく、ふたりは自然に手をとりダンスをする。見つめあうふたり、軽いステップが、やがて情熱的な舞にかわるのにそれほど時間はかからない。ここで、フランチェスカは真紅のドレスを着ているのだが、それは衝撃的なラスト・ダンスを暗示しているようではらはらさせる。女の白い肌、真紅のドレス、男の黒い髪。人々はいやでもこのカップルに注目するようになる。そして、嫉妬に狂った夫が密かに拳銃で彼らを狙うと、それに気がついたセバスティアンが阻止しようとフランス人外交官の妻を誘ってダンスをして、彼らを守ろうとする。音楽のテンポが速くなり、めまぐるしく入れ替わる4人のダンスが、夫の焦りを募らせるのだが、セバスティアンの機転で人々が再びダンスに加わり、広場はカップルであふれて、夫の殺意はそこで押しとどめられる。
愛情と愛するがゆえの狂気を描いたこの映画。イタリア人、ドイツ人、日本人の三人の関係を描いたこの作品は、ベルトリッチによるファシズムとその時代の映画でもある。日本語の字幕版が未発売なためか、国内では観る事ができないのが、実に惜しい。

監督:ベルナルド・ベルトリッチ

東京クヮルテットの室内楽 Vol.3

2009-02-20 23:43:57 | Classic
今年も来日してきた「東京クヮルテット」。そして、今年も王子ホールに聴きに行った「東京クヮルテット」。しかも「オール・ベートーヴェン・プログラム」という魅力的なプログラム。

かって世界に通用する音楽家は、3人だけと言われていた時代があった。小澤征爾と五嶋みどり、内田光子、そして「東京クヮルテット」と。その後、世界的なコンクールの入賞者に日本人の名前が見つからない時がないくらい、若手の台頭と飛躍がめざましい日本の音楽家の充実ぶりと観客の成熟度ぶりだが、弦楽四重奏団だけで食べていけるかというとそれは現実的にははっきり言って無理。オケやソロで活躍する音楽家がイベントや気のあう仲間で結成して不定期に集うクヮルテットではなく、文字どおり弦楽四重奏団だけで演奏活動と生計を担うことができる音楽家は、世界中探してもそうそういない。演奏の難しさと採算ベースにのせるのが難しいのもカルテットであろう。

しかし「東京クヮルテット」は1969年結成以来メンバーの入れ替わりはあったが、世界に通用するというよりも世界最高峰の弦楽四重奏団として聴衆を魅了し続けている。年間、彼ら4人は世界中で100以上のコンサートをこなす。今夜は、銀座の王子ホールで、明日は川崎。そして何故か、富山をめぐって、来月は、カナダ、ドイツ、イタリア、英国、またイタリアに戻り、4月からはスペイン、ポーランド・・・。まさに「Tokyo String Quartet」は、ハリウッドで言えばセレブな渋い俳優のような知名度と。熱心なファンが各地で待っていることが予想される。逆に四重奏楽団ではひとつの国内を主な拠点で活動していくのは難しく、世界中を旅しなければならないご苦労もありかと思われる。

時差や各国の季節の違いなどに慣れるのもなかなか大変では、そんな余計な気使いも霧散させるかのような第6番の演奏。ベートーベンが30歳を目前とした初期の力作で、ベートーベンらしい野心的な面をのぞかせながらすでに完成度も高いこの曲を、メンバーは高い集中力と緻密さで演奏していく。音のひとつひとつが明晰でありながら、融和して響き、極上のブランデーというのはかくものかと想像される。
次の「セリオーソ」(”まじめな”という意味だそうだ)は、昨年王子ホールで録音され、今般CDとして発売中の曲でもある。
アラ-フォー世代のおじさんベートーヴェン(当時40歳)だった彼は、かかりつけの医師の親類、18歳のテレーゼ・マルファッティと真剣な恋をする。彼にとって、いつでも恋は本気度100%。そんな”オジ”のやる気満々のアプローチにおじけづいたのか、テレーゼは突然、故郷に去ってしまった。何度目かの失恋にうちのめされた彼に、友人ニコラウス・ズメルカルのアドバイスがあったのか知らないが、彼はテレーゼへの想いを整理して、この曲に昇華して封印した。それゆえか、東京クワルテットの憂いをひめた旋律に踊るスケルツォも、一時のなぐさめのような悲しみすら漂う。
最後の第15番は、長丁場の演奏にも関わらず、紡がれる4つの音の旋律の豪華さに、最後の演奏にふさわしい充実感がある。ホールに響き渡る黄金の響きは、結成40周年という円熟期を迎える弦楽四重奏団の実力を知らしめ、そこにたちあえた者の幸福感をあらためて感じさせてくれる。

ところで、来年の2010年2月18~20日まで、王子ホールで創立40周年を記念した企画が催される。1年後の19日(金)の夜は、観客のアンケートによる人気曲を演奏する予定。当日配布されたアンケートに私も3曲チェックを入れて投票!
・「死と乙女」シューベルト
・「皇帝」ハイドン
・「不協和音」モーツァルト
全体のプログラミングは考えず、東京クヮルテットの生演奏でとっても聴きたい曲をリクエスト。
やっぱり来年も聴きにいきたいぞ、「東京クヮルテット」。

--------2009年2月20日(金)19:00開演 王子ホール--------

【プログラム】 オール・ベートーヴェン・プログラム

弦楽四重奏曲 第6番 変ロ長調 Op.18-6
弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調 Op.95  「セリオーソ」
弦楽四重奏曲 第15番 イ短調 Op.132

【出 演】 Tokyo String Quartet

マーティン・ビーヴァー(ヴァイオリン)
池田菊衛(ヴァイオリン)
磯村和英(ヴィオラ) クライブ・グリーンスミス(チェロ)

■アーカーヴ
東京クヮルテットの室内楽

「沸騰都市 シンガポール 世界の頭脳を呼び寄せろ」NHKスペシャル

2009-02-16 22:45:00 | Nonsense
昨夜のNHKスペシャル「沸騰都市」でとりあげられたのは、小さな都市国家であるシンガポール。
シンガポールが大好きという女性もいるのだが、土地面積は東京23区程度で480万人もの国民が住む。私は訪問したことがないのだが、近代的な高層ビルが林立していながら、裾野は緑のオアシスが整備されて教育熱心で清潔な金融の街というイメージだったのだが、なんと最近の統計では、国民ひとりあたりのGDPは35000ドルを超えて、アジアで最も豊かとなった。土地が狭い、資源もない、という日本に似ているが、日本より厳しい状況のなかでの成長の秘密が番組で紹介されていた。シンガポール建国の祖といわれたお爺さんをもつ現在のリー・シェンロン首相は、幼い頃より帝王学をしこまれて、ケンブリッジ大学とハーバード大学で学ぶ庶民とはかけ離れたエリート。日本のただの資産家の子孫の首相とは違う頭脳明晰なシェンロン首相のトップダウン方式による冷徹なまでのしたたかな戦略は、今後も『シンガポール株式会社』の業績と成長を予想させられる。

資産がなければ、かっての日本のように頭脳で勝負。政府は「向こう20年間に200万人の高度専門人材の移民を受け入れる」という方針を発表した。優秀な頭脳を輸入して、お金をつぎ込んで自家栽培するのである。大金を投資した研究設備「バイオ・ポリス」には、クローン羊を生んだイギリスのコールマン博士をはじめ、世界中から優秀な研究者を集めている。日本からも京大を定年退職した大腸がんの世界的に有名な研究者や、白血病の研究者などが破格の研究費と設備という恵まれた環境で日夜研究にあけくれている。

彼ら研究者の多くは主にEDB(経済開発庁)という政府直轄組織の人材スカウトマンなどから、声をかけられてやってきた。その責任者は、ノーベル賞は2の次で、産業に直結した研究でGDPを増やし、国家収入を増やすことが大事、日本はお金がありながら使い方を知らない」とはっきり言う。確かに、もっともだ・・・。1億円もの機材を2機も購入する天井知らずの研究予算、豊富な実験動物とそれを飼育するスタッフの充実。日本の貧しい手づくりの研究環境とは桁違い。但し、3年以内に目に見えるまざましい成果がでないと簡単に解雇されるという厳しい成果主義である。長くかかる基礎研究はここでは用がない。すぐにビジネスに直結する研究しかとりあげられないし、名誉よりもお金である。「cell」「ネイチャー」「サイエンス」の御三家科学誌に論文が掲載されることが必須。”天才”そう称される科学者たちが何人もしのぎをけずっているのが、バイオポリスである。

その一方で、低賃金で海外からの労働者を雇っているのもシンガポールである。
フィリピンからこどもをおいて出稼ぎにやってきた女性の仕事は、所謂お手伝いさん。月給は3万円。彼女たちは、なんと半年に一度妊娠検査を受ける義務がある。妊娠したら即、国外退去(追放)。また観光にも力を入れているシンガポールでは、ホテルやイベント会場の建設もすすめているが、そこでは安価な労働力としてバングラディッシュなどから2年間の期間限定の派遣労働者が活躍している。日本人研究者がプール付きのマンションに住みながら彼らはエアコンもない倉庫で大勢で寝泊まりをして、トラックの荷台で現場に運ばれるなど、まともな扱いを受けているとは思えないのだが、1年間働ければ、10年分ほどの収入を得られるとしてシンガポールにやってくる希望者は後を絶たない。そして彼らも家族を呼び寄せることはできない。単純労働ではない仕事をこどもたちにさせたいと、学校を建設するための資金稼ぎに出稼ぎにきた教師もいたのだが、今般の世界的不況により仕事が減ってしまい、結局夢が叶わず解雇されて祖国に戻ることになった。

こんな次々と解雇される外国人労働者の現状を外国人記者がリー・シェンロン首相に質問したところ、「外国人労働者は、雇用のバッファー(調整弁)だ。景気が良い時は必要で、仕事がなくなれば解雇される。彼らは雇用の調整弁の役割を果たしている。国益を優先するのは当然だ。」優秀な頭脳がない単純作業用の外国人労働者がこの国に移住されることは断固として阻止し、安価な労働力の使い捨て要員として利用する。

シンガポールは資源がないから教育熱心な国として知っていたが、ここまでやるかと衝撃も受けた。恵まれた研究環境に、ips細胞の山中教授が一時シンガポールに移住するという噂が流れた根拠はここかとわかったものの、その競争の厳しさに本来の研究の意義が失われてしまう危惧もなきにしもあらずである。しかし、徹底した国益優先をめざすリー・シェンロン首相の「日本ではネマワシと言って時間がかかるのですよね」と笑った顔に、日本の政治家の愚策を怒りたくもなる。(それこそかんぽの宿売却事件なんぞ、全く国辱ものの”ネマワシ”ではなかろうか。)同じ人間でありながら、他国民を踏み台に貪欲に繁栄を求めるシンガポールに、賛同できかねる部分もあるが学ぶべきところも多そうだ。
シンガポールでは、F1を誘致して公道でレースも行った。魅せる国、金融の国、そして今後どんな国の顔を見せるのだろうか

『我が至上の愛 ~アストレとセラドン~』

2009-02-15 13:40:27 | Movie
5世紀時代の舞台はローマ。羊飼いの美しい青年セラドン(アンディー・ジレ)と彼に似合いの美少女アストレ(ステファニー・クレイヤンクール)は、村人たちも公認のカップル。ところが、このセラドンは純粋な男だが少々おとなしいところがある。ちょっとした出来事、アストレではなく女性だったら誰もが”ちょっとした出来事”では済まされないことなのだが、ある事をきっかけにアストレの誤解から生じた嫉妬と怒りのため、彼は身の潔白を証明するために河に身を投げて自殺を図る。運よくニンフ(精霊)たちに救出されて一命をとりとめたセラドンだったが、今度はその美しさゆえ姫にすっかり気に入られてお城でまるで幽閉状態になってしまう。全く水難どころかこれでは女難だ。もてる男もなかなか大変!しかし、セラドンの心は一途に、かわらずアストレにあるのだったが。。。

17世紀に発表されてベストセラーになったと言われるオノレ・デュルフェの長編小説「アストレ」を、88歳になる巨匠エリック・ロメールが映画化。つまり、この映画の最大のみどころは、フランス映画の巨匠とまで賞賛されている老映画人が”最後の遺作”をどう撮るかにあると思う。
なるほど、冒頭に物語の本来の舞台(旧フォレ地方)が都市開発のために当時の牧歌的な雰囲気と異なってしまったため、我々は原作と数百キロ離れた地帯(オーベルニュ地方とショーモン城周辺)で撮影せざるをえなかったと、監督自身のナレーションの断りがはいる。この監督をあまり知らない私としては、これが「エリック・ロメール」かと鑑賞の準備をする。映画は、もともと空想の産物である。ドキュメンタリー映画を除いて、作家や脚本家たちがひねりだした現実とはまた別の空想の物語を映像化したのが映画である。原作ですら寓話に過ぎないのに、舞台がえの断りをあえて最初に説明するの監督の意図はなんなのだろうか。

雨も嵐すらありえないような一年中日本のG・W状態のような気持ちのよい風景にとけこむように、美しい男女が登場する。ひばりや小鳥の鳴き声、心地よい音楽、草原を渡る風。そこにあるのは、ただただ自然の営みだけである。撮影スタッフはたった6人で登場人物も限られている。監督による演技指導も全くなく、ワンテイクしか撮らない手法は俳優たちにかなりのプレッシャーを与えただろうが、すべてが素朴にかえる映画つくりの原点と余計な技術や意志すら排除した自然へのこだわりが随所に感じられる『我が至上の愛』。
そして、作品中、セラドンが女装するのだが、たとえ美貌でもどう見ても長身の”彼”は”彼女”に見えないし、誰もドルイド層(司祭)の娘をアストレと見抜けないのはヘン。また何日も野営でひきこもり生活をしているのに、アストレの髭も伸びずに衣服も清潔なのはリアリティに欠ける。そう感じる方もいるかもしれない。しかし、オペラを見慣れている者にとっては、古代の神話をモーツァルトが作曲してオペラにしたように、これはサロンでパリの貴婦人をうっとりさせたファンタジーものを、あくまでも美しく自然なままに映像化した映画であると思えば、なんら違和感も滑稽な印象もない。映画の役割が空想のストーリーに限りなくリアリティをもたらし観客の共感をよび”泣かせ”て、最新のCGを駆使してジェームズ・ボンドの活躍に臨場感と緊張感を与えるものだとしたら、最初に監督が撮影場所変更の断りをしていることからも、これは御伽噺を御伽噺そのままにまるで作曲家がオペラ音楽をつくるように撮った映画であることがわかる。だから、彼の女装を見抜けないアストレをスザンヌ・キャラと同様のおばかさんキャラだと思っては勘違いになるのである。

そして映画の根底にあるのは、人を愛すること、至上の愛を問うことにある。
彼らの友人に、次々と女を抱く青年が登場する。艶福家の彼の主張ももっともだが、絶対唯一の存在の相手を説くセラドンの兄リシダス(ジョスラン・キヴラン)とイラス(ロドルフ・ポリー)の主張が、結局は最後にたどりつく人間の真理なのだろうか。老境にはまだまだ届かない若輩ものとしては、そんなピュアな心境は、こんな映画でなければ受け入れがたいだろう。最後の、セラドンとアストレが感極まって抱擁する場面は、映画史に残るような官能的なエロティシズムが溢れている。この場面は、個人的に必見だと主張したいのも私らしさであるのと同様に、あの場面こそエリック・ロメールらしさなのだろう。

監督・脚本:エリック・ロメール
2007年/フランス・イタリア・スペイン/109分

「流星の絆」東野圭吾著

2009-02-14 12:07:33 | Book
「生まれて初めて好きになった男性は、自分たちの両親を殺した犯人の息子なのだ」

小学生時代、夜中に抜け出してペルセウス座流星群をこっそり観に行った功一、泰輔、静奈の三兄弟が自宅に戻ると、両親が殺されていた。ひきとってくれる身内もなく、養護施設で育った彼らは、詐欺の被害にあったことから、逆に詐欺師になってお金を騙し取るようになる。ところが、次のターゲットの優良物件と思えた有名な洋食チェーン・レストラン「とがみ亭」のオーナーの息子、戸神行成に、静奈は生まれて初めて恋心が芽生えていくようになる。しかも、行成の父の店の名物ハヤシライスは、亡き父のつくるハヤシライスの味にそっくりだった。
やがて、兄弟は戸上政行こそ両親を殺害した犯人だと確信していくのだったが。。。

「容疑者Xの献身」で念願の直木賞を受賞した東野圭吾氏の次の作品が、この「流星の絆」である。
元々多作でありながら駄作がない作家らしく、読者の期待を違わず、今回もミステリーらしい謎解きに兄弟の情、犯人のはずみで殺害に至ってしまった経緯や最後にとった彼なりの責任をとる行動を含めて生来もっている”悪意”よりも最後は善良さが勝るところに、この作家が幅広い世代の人気と指示が集まる理由であろう。

新聞を開くと毎日驚くばかりの残酷で非情な事件が後をたたない。そんな殺伐とした世の中で、何故人々は殺人事件などを扱った小説を読みたがるのか。ミステリー小説は本来は、謎解き、しかけたトリックの巧妙さのおもしろさに読者がひかれるのだが、あらゆるトリックが出尽くした感のあるミステリー小説の飽和状態では、単なる謎解き以上の”なにか”がないと売れない。東野圭吾さんは、そこに誰もが共感できる6畳間ぐらいの人の機微や情をからめて成功した。それは所謂人情ものを扱ったわかりやすく押し付けがましいテレビドラマとは違い、さらりとしたなにか郷愁を感じさせるような懐かしいような情である。デビュー作の「放課後」からもっている東野さんならではの独自のオリジナリティである。

今回の「流星の絆」も、両親殺害というあまりにも不幸な境遇のなか、必死に生きている彼ら兄弟の更正と再生、そして理想的過ぎて現実感はないのは否めないが、こんな不幸な境遇にいる静奈のせめてもの初恋が実ることを、ついつい願いながら一気に読んでしまった。泰輔がさまざまな役を演じる場面では、映画化してもいけるのではと思っていたところ、実際ドラマになって放映されていたようだ。功一役の二宮クンは少し線が細い印象もするし、行成を演じた要潤さんは顔立ちが端正すぎる気もするが、ドラマの方もなかなかおもしろかったのではないだろうか。
本書を最高傑作と宣伝しているが、私は「容疑者Xの献身」や「トキオ」あたりの方が好き。。。

■アーカイブ
「容疑者Xの献身」
「赤い指」
「夜明けの街で」

社員の7割が知的障碍者 人は働いて幸せを知る

2009-02-11 15:50:20 | Nonsense
「社員の7割が知的障碍者 人は働いて幸せを知る」
いつもなら不遜にも「長老の智慧」のコラムなんか読むことはないのに、1月17日号の週刊「東洋経済」のチョークを製造する日本理化学工業会長・大山泰弘さんの談話には不肖の私も全く目が覚めるようだった。日本理学工業は、教室で使うようなチョークを製造する典型的な中小企業だが、国内シェアは3割で業界トップ。小粒でも暗雲漂う「あおぞら銀行」なんかよりはるかに優良企業。しかし、従業員72人のうち知的障害者が7割超にあたる55人が働いている。
7割も障碍者を雇用していて生産性は劣らないのか、非合理的な経営に陥らないのか、そんな素人の杞憂に回答してくれたような今日の読売新聞の「はたらく」シリーズではこの日本理化学工業をとりあげていたのである。

厚生労働省によると18~64歳までの障碍者は325万人。なかには、どうやっても働けない状態の方もいるだろう。しかし、年々障碍者の勤労意欲は伸びていて、11万人の求職者数がいて就職できる人も増えてはいるだが、職にあちつけるのは全体の半分にも満たない。障害者雇用促進法に基づく民間企業の法定雇用率は1.8%だが、そんな人たちを雇用するかわりにお金を納める、納めれば企業としての義務を果たすからよいという意見も聞いたことがある。ふけば飛ぶような零細企業ならともかく、一部上場企業でそれはないだろう。政府も障碍者を初めて採用した中小企業向けの奨励金(100万円)、賃金の一部に充てる助成金の拡大と対策をとってきたが、こんな不景気では障碍者は「雇用は最後、失業は最初」となってしまうおそれがある。健康な社員ですら人件費を資本ではなくコストととらえるのもありなので、障碍者の雇用そのものを負担と否定的にとらえる企業も多いのだから、障害者雇用促進法を達成している企業は44.9%。

日本理化学工業では、計量用の重りを数字ではなく色分けし、時間を計るのに砂時計を使用し、通常の作業を複数の工程に単純化し、仕事に人をあわせるのではなく、能力にあった工程に製造ラインに組み直しをした。知的障碍者といっても最初は軽度の方だと思っていたのだが、半分が重度の障碍者だったことに驚いた。大山さんは作業内容や職場環境をきめ細かく対応しやすい大企業よりも中小企業の方が向いているかもしれないとはおっしゃっているが、人も仕事も膨大化している大企業こそ、すきま仕事のような単純な軽作業もあるはずだが、それはきっと下請けの下請けぐらいの派遣社員にまかせているのだろう。

昨年、その第一期生だったHさんが、勤続50年を祝う会が開かれた。彼女は64歳だが15歳から働いているのである。当時大田区に工場があったのだが、近くの養護学校から女の先生が「このままでは働くことを知らずに一生を終えてしまう」と何度断っても通って雇用の受け入れを熱心に訴えたそうだ。期間限定で職場体験に来たふたりの女の子は、休憩のチャイムに気づかないほど夢中で働いた。その一途さが同世代のこどもをもつ社員の胸を打ち、採用を全く考えていなかった人事担当者を社員が囲んだ。「私たちが面倒をみますから、一緒に働かせてあげて」
ふたりの女の子は、その一途さそのままに正社員として入社して定年まで勤め上げた。そのひとりがHさんだった。

障碍者を雇って数年たっても彼らがなぜ喜んで工場に通うのか不思議でたまらない大山さんに禅寺のお坊さんが、「幸せとは、人に愛されること、人に褒められること、人の役に立つこと、人に必要とされること。愛はともかく、あとの3つは仕事で得られる」と語ったそうだ。障碍者の美談と言えば、スポーツや芸術、学者など華やかな舞台で活躍をされる方たちがとりあげられることが多く、それも彼らの可能性を示し希望となるのだが、一番の基本は、やはり働いてお金をえることではないだろうか。
作業を覚えるのも時間がかかるが、明るい笑顔がハンデのある人を支えようと社内の一体感も生まれる効用もあった。米国のダイバー・シティの発想をもっとひろげたのが、日本理化学工業である。

■長老の智慧・・・その1 その2 その3

■こんなアーカイヴも
「クロネコが届けた正しい反骨精神」
「スワンベーカリー」でひととき

伊ベルルスコーニ首相がまた暴言

2009-02-10 22:27:00 | Nonsense
失言癖で話題のイタリア、シルビオ・ベルルスコーニ首相(72)が、今度は自国で多発している強姦事件(年間約34万件、日本では年間約2100件)について「イタリアには美女がイッパイだからレイプはなくならない」と発言。批判の集中砲火を浴びていることが28日、分かった。

イタリアでは強姦事件が多発しており、内務省が街頭警備の警察官を3万人に増員することを検討中。首相はこれについても、「どんなに兵士を増やしても強姦を防止するのは不可能」「強姦防止は国家警察でもミッション・インポシブル(不可能な任務)」などと発言した。

これに対し左派陣営は「薄汚い飲み屋のカウンターで言う冗談」などと“抗議”したが、首相は「イタリア女性をほめたに過ぎない」と強弁。「ユーモアと軽妙のセンスを失ってはならない」と開き直っている。(2009.1.29)


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また放言、失言、暴言しちゃいましたイタリアのベルルスコーニ首相なのだが、私の認識不足だったのが、日本での強姦事件が年間2100件もあるということだ。1日ほぼ3件も発生していることか。もしかしたら被害届を出していないだけで本当の被害者はもっといるのかもしれない。これは怖い。夜道にはくれぐれも注意!そして娘さんたち、背景のよくわからない狼の後をついていかないように。

しかし、もっと驚くのがイタリアの年間34万件!銃殺まではできないが、イタリア男にもっと重い刑罰を課してもよい。なんだったら、罪を犯したら懲役100年ぐらいでもよいのではないだろうか。イタリアには美女がイッパイでどんなに兵士を増やしても防止できないなら、そもそもそんな獣のような男たちは一生刑務所から出られないようにしてもよい。なんだったら、小説「東京島」のように、罪を犯した男たちを地中海の無人島に放置してもよい。「ユーモアと軽妙のセンスを失ってはならない」しね。田丸公美子さんが、「シモネッタのデカメロン」でイタリア男は「一期一会、あらゆる機会に愛の模索をする」と、さまざまな誘惑を振り払うのもなかなか大変だったようだ。

日本の森元首相の「男はそれくらい元気があった方がよい」なんたるとんでもない発言も思い出したが、この世代のじいさんたちの中には、旧式の女性を男性の対等なパートナーとしてでなく従属物としてみているのがわかる。