千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

『乙女の祈り』

2009-08-31 10:36:41 | Movie
1952年4月、ニュージーランドのクライストチャーチで、ひとりの中年女性が煉瓦で頭部を撲殺するという事件が起こった。平和で美しい街を騒がすこの暗い事件に人々が震撼したのは、犯行に及んだのが15歳の被害者の娘、ポーリーン・イヴォンヌ・パーカーと彼女の親友の16歳のジュリエット・マリオン・ヒュームだったことである。

ポーリーン(メラニー・リンスキー)は、下宿屋を営む平凡な低所得者の家庭に育つ。創作活動が好きな彼女は、同級生の少女たちになじめない一風変わった孤独な少女。そこに転校してきたのが、リヴァプール大学教授、王立グリニッジ天文台副所長を経て、カンタベリー大学学長に赴任した父をもつジュリエット(ケイト・ウィンスレット)だった。全く生活環境の異なるふたりの少女。しかし、ふたりとも幼少期に病気を患い孤独な入院生活を強いられた経験をもつこと、作家志望であり、俳優や音楽の好みがぴったりと重なったことから、唯一無二の親友となっていく。DNAが全く一致しない双子のような少女は、壮大な「ボロウィニア王国」という架空の国を舞台に、互いに文通という形式で物語を創作していく。ふたりの関係に危険を感じたジュリエットの父は、自分の娘ではなくポーリーンを精神科医に受診させるように彼女の母にアドバイスをするのだったが。。。

この映画で描かれている母と娘の関係は、現代の日本の母と娘に時々見られる母からの過干渉や束縛を示す「投影性同一視」はない。母と娘の関係で難しいのは、父と息子よりも狭い社会に囚われがちな心理的な近すぎる距離感や、自己実現を娘に投影しがちな母により過干渉を指摘されるが、むしろ、ジュリエットの母親は名門にありがちな自分の自由な時間を”母”よりも”女”として生きるタイプで、「添い寝」という言葉の意味もわからないだろうと思えるほど娘には殆ど無関心な母親。またポーリーンの母親は、生活に追われ自分の価値観を古い因習の中に見出し安住するタイプ。しかし、娘の感性を理解していない、社会(学校生活)における娘の状況、要するに娘を理解していない母という共通項はある。だったら、殆どの母親が娘を理解しているかと言えば、それは違うだろうと私には思える。

娘たちのよる母殺しという事件性から母と娘の関係に注目するのではなく、映画ではむしろ同性愛に近い恋愛感情が背景として描かれている点に、日本と西洋の違いを感じる。友情で相手への固執や執着は、ありえない。やはり、そこには何らかの”愛情”があったのだろう。お互いに相手以外とは人間関係を築けないポーリーンとジュリエットにとっては、相手がすべてだった。彼女たちの個性が学校生活で孤立化を深めていくにつれ、つくりあげているフィクションが現実の世界を浸蝕されていくのが、作品の中ではよく描かれている。愛情不足だったり、現実社会で否定されている彼女たちを承認するのが、彼女自身たちがつくりあげた非現実の物語の世界であり、その世界をふたりが共同作業でつくったのだから、離れ離れになることは彼女達が住む世界の消滅を意味する。小説を読む少女、創作活動をする少女イコール繊細で多感だとは私は考えない。だが、あまりにも関わる世界が狭すぎたふたりにとっては、一途な思い込みが突き進んで凶行に至ったという過程は、身近にも感じられる。およそ半世紀前の実際の事件をピーター・ジャクソン監督が映画化したのだが、CGでふたりの創造を映像化しているのがヴィジュアル的にも美しくわかりやすいのだが、逆に深層心理の底を浅く感じられもした。
野暮ったいポーリーンと美少女のジュリエットをふたりの女優が名演している。

その後、ふたりの少女はどうなったのか。
単純な隠蔽工作はすぐに警察にわかってしまい、無期懲役を宣告されるものの、二度と会わないことを条件に5年後に仮釈放される。映画はここで終わっているが、ポーリーンは高校を卒業後にオークランドの書店に勤務、ジュリエットは推理小説の作家としてベストセラー作品もうみだした。

監督:ピーター・ジャクソン
ニュージーランド アメリカ  1994年製作

メロスフィルハーモニー 第14回演奏会

2009-08-30 21:16:30 | Classic
今日は、日本の政治が転換期を迎える(かもしれない)歴史的な選挙の日。投票を済ませてメロスフィルハーモニーの演奏会へ向かう。
今回初めて「当日券」を購入して会場に入ったら、前列の数列ほど空席がめだつが、第一生命ホールの767席のおおかたが観客でうまっているなかなかの盛況ぶり。前回の「第九特別演奏会」の時は、合唱に出演された方のつながりで来場された方もいらっしゃるだろうが、1200人以上の集客だったそうだ。念のため、今後は事前にチケットはおさえていた方がよさそうだ。特別演奏会を含めて、今日は15回めの演奏会を数える。私が聴き始めたのは、第8回の「ティアラこうとう」での演奏会からだったと思う。この会場は、地域になじみがあるが、ちょっと交通が不便。第9回の「石橋メモリアルホール」は、春の風が強く地元に住む友人が途中で漢方薬局に立ち寄って漢方薬を買ったことや、第10回の「紀尾井ホール」では・・・、と次々とその時の情景やら会話がうかんできて、またとまらなくなる。(肝心の音楽の感想は、遠いアルバムに閉じられてしまっているようで再現しないのが情けないのだが。)
指揮者の中田延亮さんも当時はまだ20代の半ば頃?だったのだろうか。ちょっとした歳月の流れを感じて感傷的になってしまい諸々感慨にふける。それから、このようなアマチュアオケも少しずつ種をまくように”実績”を積んで、進化しながら継続していくことに価値があるとつくづく考える。特別演奏会を経て、メロスフィルハーモニーは第2ステージへとすすんでいる。

先日読んだ「マエストロ、それはムリですよ・・・」の著書で、音楽監督の飯森範親氏が団員に厳命しているのが、お客さまに生活感を感じさせる会話をしてはいけないことだった。「けっこう、生活が苦しくって大変なんですよ」ということは、禁句。なぜならば、音楽家は夢を売る商売だから、ということだ。格別、チケット代と交換で夢を買っているつもりはなかったが、団員やソリストが正装してステージに登場するのは、日々日常の生活の苦悩?(我家の場合は生活苦も?)や些事をこの時だけは完璧に封印して、美しい音楽や荘厳な音楽の調べにおける非日常の”ハレ”という儀式に参加しているからだ。夢はともかく、この非日常性の”夢のような時間”は、私にとっては絶対に必要なものである。

前半のベートーベンは、丁寧に練られた音楽つくりに誠実さを感じたが、メロスらしい音楽への喜びがこめられた演奏を感じたのは後半だったような気がする。特に「フィンガルの洞窟」は素晴らしい演奏で、この曲の魅力を再発見!

---- 09年8月30日 第一生命ホール -------

曲目:
L.v. ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲第3番
L.v. ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番
F. メンデルスゾーン 演奏会用序曲「フィンガルの洞窟」
F. シューベルト 交響曲第7(8)番「未完成」

■アンコール
F. シューベルト 「ロザムンデ」バレエ音楽第2番より

指揮: 中田延亮 (メロスフィルハーモニー 音楽監督)
ピアノ独奏: 村田千佳

「なぜアーレントが重要なのか」E・ヤング=ブルーエル

2009-08-27 23:43:08 | Book
映画『愛を読むひと』の主人公のハンナは、教会が火事になった時に収容させたユダヤ人を救出せずに出口を塞いだ行動を、裁判官から厳しく追及されるという場面があった。質問にとまどうかのように、ハンナは「入口を開放したらせっかく集めた囚人が逃げてしまう」と反論した。彼女にとって、教会の中に閉じ込められたユダヤ人が焼死することよりも、”囚人”を逃がしてしまうことの方がより重大なことだったのだ。彼女は、自分に与えれられた任務を遂行することに必死だったのである。
この姿に、私はいみじくもアイヒマンの姿を重ねて観ていた。

カール・アドルフ・アイヒマンは、第二次世界大戦中、ナチ親衛隊の中佐としてユダヤ人の収容所送還に関して、いかに効率よく大量に移送できるかを考えて指揮をした人物としてよく知られている。イェルサレムで行われた裁判を傍聴して、アイヒマンが浅はかな人物で、自分が属する陳腐な社会への順応者であり、独立した責任感がなく、ナチの階層社会で出世することにしか興味がない「思考が欠如した人物」と喝破したのが政治哲学者のハンナ・アーレントだった。
自分は総統が命令し国の法律が要求したことを行っただけであって犯罪者ではないと主張したアイヒマンを、アーレントは犯罪国家の代理人として犯罪国家の新たな形態を示している人物として、人類に対する新しい形態の犯罪を実行することによって国際的な共同体の秩序全体を犯したと断罪した。つまり、何100万人もの人々を殺したのではなく、彼らが人類の秩序を犯したところに彼らにくだされた判決は正しかったと考えた。

ハンナ・アーレントは1906年にドイツに社会民主主義者の両親のもとに生まれた。知的な家庭環境にも恵まれ高い理解力をもつ少女は、ベルリン大学に進学してキルケゴールの授業から影響を受ける。その後、マールブルク大学では一時恋愛関係にもなったマルティン・ハイデッガーと出会うことによって哲学にのめりこむようになった。更にフライブルク大学ではフッサールとともに過ごし、ハイデルブルク大学ではヤスパースの指導も受けた。不幸にもナチス迫害の難を避けるために33年にフランスに亡命、40年には米国に亡命という流浪の生活を体験するも、75年に亡くなるまでの彼女の人生の中で光をともす非凡な人々で出会ったことは幸運なことだった。著者は学派をつくらなかったアーレントから教えを学んだ唯一ともいえる弟子である。著者は、アーレントに出会ってからの30年以上にわたって、世界で出来事が起こるたびにアーレントはどのように考えたかとということを考え続けてきた。本書は、そんな弟子によってアーレント生誕100年の2006年に出版されたのだが、混迷する世界で今アーレントが再び脚光をあびている。

ブッシュ前大統領は退任する時のホワイトハウスでの国民向け演説で「9.11」を真珠湾攻撃以来の最悪の対米攻撃だったと語った。約3000人もの人が亡くなった同時テロで”真珠湾攻撃”という言葉がマスコミで使用された時、日本人としては納得できない嫌な違和感をもった記憶はぬぐえない。あの「9.11」のテロにわざわざ”真珠湾攻撃”を重ねるブッシュ・ジュニアやマスコミに、その後のイラクへの侵攻の正当性をすりこませる意図はなかったのだろうか。著者によるともしアーレントが生きていたら、即刻「世界貿易センターは真珠湾ではないし、『テロにたいする戦争』は意味のない言葉だと異議を唱えただろう」となる。然り、、、である。アーレントは51年の「全体主義の起源」で新しい概念は絶えず新しい現実に適合したものにならなければならないとした。彼女が言葉に求めたのは、新しい世界に適していること、きまり文句を失効させうること、考えなしにうけ入れられたしそうを拒否しうること、紋切り型の分析を打ち破りうること、嘘や官僚的まやかしを暴露しうること、そして、人びとがプロバガンダによるイメージへの依存から脱するのを助けうることである。このように、哲学者が深く言葉を洞察することを生業としているのがよくわかるのが、たとえば「許し」というキーワードにもある。行いを間違っていると判断することは、アーレントによれば許しへの第一歩ではない。人は行いを許すのではなく、行為者を、その人物を許すのである。

本書を読むにつけ、アーレントはカント、ヤスパースと夫のハインリッヒ・ブリュッヒャーを共鳴板にもつ複雑な性格の女性と想像される。その一方で夫が心臓病で急死すると数週間姿を消した後に授業に戻ってきた彼女は、黒い未亡人の装いでかなり弱ってみえたという証言に強靭な意志の裏にナイーヴな感受性がみえる。
「なぜアーレントが重要なのか」
このタイトルに著者のすべての思いとメッセージがこめられている。
人が危機に直面した時、判断の基準や善をどのように考えるだろうか。アーレントが語るのは神でもなく人間に由来する掟でもなく「自己という基準」である。

わたしは自分自身について忠実でなければならない。わたしは、自分と折り合いがつかないようなこと、思い出したくないようなことを行ってはいけない。わたしがある事柄を行動できないのは、それを行うとわたし自身と共に生きていくことができない。

この言葉には深く共鳴した。人が悪意をもち転ぶのは簡単である。しかし、そうした行為を行ったら、もはや自分自身ではないと考えて私もこれまで生きてきた、つもりではあるが、日々是反省の毎日である。たががはずれ、連日の”のりピー”の報道に殆ど劇場型のドラマを観ているような拡散しつつある意識が、本書との出会いを通じて目をさまして気持ちよくしまってくること間違いない。

『Amakudari The Hidden Fabric of Japan's Economy 』

2009-08-24 22:20:59 | Nonsense
衆院選:期日前投票1.5倍 有権者の関心高く
総務省は24日、衆院選の期日前投票について、19日から23日までの5日間で305万5634人に達したと発表した。前回05年の同時期(201万4072人)と比べると1.52倍に伸び、全有権者の2.93%(前回は1.96%)がすでに投票した。各党が政権交代の是非をかけて激しい選挙戦を繰り広げる中、有権者の関心の高さがうかがえる結果となった。(09年8月24日毎日新聞)

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今度の日曜日は選挙だ!
「日本の未来が危ない」なんちゃってるんだ。ここまで危機的状況にしたのは、当の自民党ではないかっと言いたい。「自民党は雇用を守ります」そんなそらぞらしい嘘の宣言、もう誰も信じないと思うが・・・。報道によると民主党の有利が伝えられている。民主党がよいというよりも、国民の怒りが反自民党の流れとして民主党支持にまわているのではないだろうか。

その鳩山民主党は、日本政府の「大掃除」を公約に掲げているのだが、官僚の「天下り」、特殊法人へのスライドや「渡り鳥」(別名、高給鳥」といった不透明で腐敗したムダだらけの自民党利益誘導政治を大掃除してきれいにする予定である。我々の税金も、本来使うべきところへ、必要な人々の手元に届く前に、官僚の中間搾取といううきめにあっている。これらの高給鳥は、最近では世間の批判を避けるために退官後すぐに民間企業に天下りをしないで、特殊法人という止まり木で一旦羽を休めてから民間の役員へと飛び立つ迂回型に習性が変化しているという。そんな日本の「Amakudari」を米国の社会学者、外国人の視点で記されたのが本書である。

と言っても、私は未読。(全く語学力の貧困を後悔する。アマゾンのなか見検索で読むとそれほど難しくないようだが。)雑誌「選択」で連載されている「本から見る地球」で本作をとりあげていたので興味があったのでご紹介まで。

そもそも「天下り」という言葉を最初に世に送り出したのは作家で社会評論もしていた内田魯庵で、1902年に「社会百面相」で使用して以来、すっかり日本の社会になじんでしまった。しかし、それが官僚機構に巣づくりをしたのは、38年の国家総動員法で、勇退する高級(高給?)官僚の鳥たちの再就職先を確保するのが、各省の事務次官と官房長の主な御仕事となってしまった。特殊法人へのスライドは、財務省、経済産業省、農水省が最も多い。関西空港などの80年代の「民活」は、理念はともかく官僚機構の影響力を拡大する効果があったため、官僚や族議員には評判がよかった。確かに官僚はとても優秀だし、実際の給料のわりには猛烈に働くのだから、定年後の天下りでようやく帳尻があうとも聞く。そして、「選択」の記事によると「天下り」ネットワークは、官僚機構が政治や経済秩序の安定と組織防衛のためのシステムとのこと。公共事業とともにそのシステムは日本にしっかり根付いている。

しかし、米人ジャーナリストのアレックス・カーはこう断言もしている。
「日本の硬直した官僚制が90年代の”日本の失敗”をもたらした」と。
今の政府に、私たちは信頼をおけるかと問うたら、少なくとも私ははっきり「NO」である。ここまで政府とその機構に不信感を抱かせてしまったのでは、もはや長年のムダと埃を一掃すべく「大掃除」をしたいと思うではないか。

『Amakudari: The Hidden Fabric of Japan's Economy』   
Richard A. Colignon Chikako Usui

About the Author(アマゾンより)⇒
Richard A. Colignon is Associate Professor, Department of Sociology and The Center for Social and Public Policy, Duquesne University. He is the author of Power Plays: Critical Events in the Institutionalization of the Tennessee Valley Authority. Chikako Usui is Associate Professor, Department of Sociology, Graduate Program in Gerontology, and Center for International Studies, University of Missouri-St. Louis.

■怒りのアーカイブ
「補正予算案:予定通り13日衆院通過の方針」

『クララ・シューマン 愛の協奏曲』

2009-08-23 15:10:40 | Movie
日本を代表する画家、平山郁夫画伯の成功には、藝大時代の同級生だった妻、美知子夫人の存在が大きい。平山氏よりも絵の才能があったと伝えられる美知子夫人は、藝大に合格して一生結婚をしないと両親に宣言をするも、その後出逢った平山氏との結婚を二年間考えぬき、夫婦で絵描きの家庭は妻の方が画家として残ることが多いため、ふたりで画家になるのは無理だと結論をだし、夫を画家にするために自身は教える立場にまわった。天才は天才を知るというエピソードもあるが、美知子夫人の生き方は日本女性の「内助の功」と美談で語られることが多い。

さまざまな紆余曲折があり、今だったらマスコミの格好のターゲットになりそうなかけおち結婚をした作曲家のロベルト・シューマンとクララ。ピアニストととしてその才能は観客に愛されたが、経済的な理由もあり旅から旅への落ち着かない演奏活動の生活に疲れぎみのクララ。デュッセルフにようやく音楽家夫婦にふさわしい家を手に入れ、夫も作曲活動に専念できると喜ぶ。夫のその才能に、自らの音楽的才能は封印してまでかけてきたのは、シューマンの優れた天才的才能は無論だが、この時代では、女性の作曲家や指揮者はありえなかったからだった。女には無理。しかし、充実した日々もつかのま、夫の精神状態はだんだん不安定になっていく。平山画伯のように、旺盛に創作活動を長く続けて社会的な地位を築ければ彼女の選択も報われたかもしれない。病んだ夫をかげながら献身的に支える妻。悩める夫婦の間にまぶしいくらいに颯爽と登場したのが、作曲家志望の青年ブラームスだった。

作曲家のロベルト・シューマンの妻、クララ・シューマンもピアニストとしての才能だけでなく作曲家としての才能がありながらも、内向的で後に精神を病んでいく夫を献身的に支える妻、また彼との間に恵まれた7人のこどもを育てる母としても知られている。そして、夫を尊敬してシューマンの芸術的理解者となり一時生活をともにしたある作曲家の憧れの女性としても、そのロマンスの真偽はともかく、彼女の名前は今日に至っても、尚神々しく輝いている。恩師の妻に想いをよせ、生涯に渡り未亡人となった後の生活を支えてきた青年こそ、天才作曲家のヨハネス・ブラームスである。夫のシューマンだけでなく、金髪の20歳の美青年から「一日中ずっと、昼も夜も、あなたを想います」と愛を捧げられたクララ・シューマン。実在の人物でこれほど素材として映画にしてみたい魅力的な女性はなかなかいないのではないだろうか。これまでにキャサリン・ヘプバーンやナスターシャ・キンスキーが演じたクララを、『善き人のためのソナタ』『素粒子』で一気に知名度があがったマルティナ・ケデックを主役に、ブラームスの末裔にあたる女流監督ヘルマ・サンダース=ブラームスが大胆な解釈をいれて映画化したのが本作である。女流監督らしい視点で、クララの才能とそれに報うことができなかった時代の社会とそれにも関わらず彼女のたゆまぬ努力がよく描かれている。

音楽史上に重要な功績と名前を残した3人の人生が交錯する。音楽ファンにとっては、わくわくするようなシチュエーションであるが、あくまでも主役は美人で才能溢れるクララ。クララ役のマルティナ・ケデックは、ただ綺麗なだけの女性ではなく、7人ものこどもを産みながら演奏活動で生活費を稼いだたくまさしさと、年下のボーイのハートをつかむという難しい両立もこの人だったら”ありうる”と太鼓判をおせる史実に一番近いイメージである。(あのようにピアノと格闘するように弾くスタイルはないと思うが。)ところが、映画では複雑で気難しい性格のシューマン役を演じた俳優パスカル・グレゴリーの存在感に圧倒されっぱなし、またブラームスの真意が無邪気そのものでどこまで本気なのか今ひとつつかめないところがあり、惜しいことにクララの愛の協奏曲も散文的な映画となってしまった。作曲家としての自信と若いブラームスに妻の関心がうつっていくのではないかという疑惑と嫉妬。男としてのプライドと自信と気弱さにゆれるシューマン。その一方で、自分の音楽の最大の理解者であるブラームスへの愛情と、その才能を誰よりも認めて愛でるのもシューマンだった。その複雑な心境は、若かりし頃の傑作「クライスレリアーナ」(Kreisleriana)にその予兆を聴くような気がする。

またここで描かれている天真爛漫なブラームス像は、最初の交響曲の作曲に20年の歳月をかけた粘着質のイメージとは少し違う。恩師の妻をずっと敬慕してきた悶々とした煩悩はない。それはありか。。。と思って観ていたが、ブラームスを演じたマリック・ジディを誰かに似ているとつらつら考えたら、春に聴いたウィーン放送交響楽団でチャイコフスキーピアノ協奏曲を独奏したピアニストのヘルベルト・シュフによく似ているではないかっ。女神に魅せられた青年というよりも、今時のパリのカフェにたむろするギャルソンのような軽さがあるのだが。

ともあれ、美しい音楽と秘められたロマンスは、映画の完成度やお好み以前に観客動員に着実に結びついているようで、良い席を確保するには早めにおでかけになった方がよさそうな盛況ぶりだった。

監督:ヘルマ・サンダース=ブラームス
2008年/ドイツ・ハンガリー・フランス合作

「眼の奥の森」目取真俊著

2009-08-22 17:12:55 | Book
その事件は、沖縄の周囲が10キロに満たない小さな島で起こった。今日のようなうだる暑い夏の日、米軍の兵士4人が対岸の海を泳いでフミたちが貝をとっていた(しま)の浜辺にやってきた。赤く日にやけた上半身は金色の毛が覆い、下半身はトランクスをつけているだけの興奮したような彼らの表情と雰囲気に、少女たちは膝が震えて逃げようとする。年少の少女たちをかばいながら最後に米兵の横をすり抜けようとしたひとりの少女の腕を引き寄せ、彼らは口をふさいでアダンの茂みに連れて行った。
美しく誰にでも心優しい小夜子が米兵に襲われたという話は、その日の夜には中に伝わった。なすすべもなく、ただおびえて身を守るのが精一杯な村人たちの中で、小夜子に思いを寄せていたが、常日頃胡乱でいじめの対象になっていた盛治が、銛で米兵を刺して重傷を負わせて森の中に姿を隠した。
そして、米軍と村人たちによる山狩りがはじまった。。。

1995年9月4日、沖縄県に駐留する3名の米軍の海浜隊員が、商店街に買物にきていた12歳の女子小学生を粘着テープで目を覆い手足をしばったレンタカー内に拉致し、その後海岸に連れて行き暴行に及んだ。数々の証拠から海浜隊員の事件の関与は明らかであり、沖縄県警は9月7日に逮捕状をとったが、現行犯でなければ身柄を日本側に引き渡せるのは起訴後であり、それまで逮捕できないとした日米地位協定に捜査がはばまれた。日頃から反基地感情がくすぶっていた沖縄県民の怒りが爆発して、米軍抗議集会に8万5千人もの県民が参加した報道は、まだ覚えている。沖縄県は日本で唯一の戦場となり、72年まで米軍の施政権下に置かれ、返還後も中央に米軍基地が残され重要な政治問題ともなっている。

本書は、その沖縄の第2次大戦末期を時代背景としたフィクションである。戦後から50年近い歳月を経て起こった少女への暴行事件から本書が誕生したと考えられる。当時のアメリカ太平洋軍司令官・リチャード・マッキー海軍大将は、事件について「レンタカーを借りる金で女が買えた」という主旨の発言をした。その発言の裏には女性蔑視だけでなく、支配する国に対する欧米人流の意識もうかがえる。奴隷制度があった時代、奴隷の黒人女性は白人男性の「所有物」だった。時代は移り、基地は残しながらも沖縄は日本に返還され、最近では観光地やリゾート地としても人気が高い。沖縄で結婚式を挙げたり、何度も旅行を重ねる熱い沖縄大好き人間も珍しくない。けれども、修学旅行でひめゆりの塔を訪れた時にピースをして集合写真におさまる中学生たちの姿になじめないように、単純には沖縄を観光目的で旅行できない自分がいる。
しかし、物語はモデルとなった事件からの「米軍基地問題」や「戦争批判」だけでなく、小夜子と盛治をとりまく人々を登場させることによって人間の悪の根源にせまっていく。

真実を隠蔽してまでも米軍に強力することによって身の保全を図る区長、事件の後の小夜子と盛治に対する民の反応と投げつける言葉の、黒々とした人間の根源的な悪には戦慄に近い憎悪すら感じさせられる。やがて、その人間に巣くう悪は現代にも根をはり、中学校でいじめにあっているひとりの少女の視点を通して、さらにおおきくなった姿を現していく。恐ろしいことに、根源的な”悪”は勢いを増して、根をひろげて我々あらゆる人間の中にひそんでいるのではないだろうか。根源的な悪とは、哲学者のカントのよれば悪い動機や悪を行う意図や人間の悪い心に根ざすタイプの悪で、無知や善を行おうとして失敗したことからなされる悪とは別のものとしてとらえられ、根源的な悪はめったにないとされた。しかし、ある種、ナチのアドルフ・アイヒマンの悪とは別の根源的な悪に、人間は元から、或いはいつしか染まっているのではないだろうか。とてつもなく大きな問いを、本書は読者に与えている。

の人々の語りを沖縄弁にすることによって、著者は物語に重みとリアリティを与えることに成功した。沖縄の言葉には、本土の人間を圧倒する重みがある。本書で述べられたこの言葉を「やさしくて美しい」と評する作家もいるが、私はむしろなまりのきつい沖縄弁に後ろめたさと歴史の悲しみを感じてしまったのだが。事件から10年以上の歳月が経ち、少女もおとなの女性になっていることだろう。心身の傷が癒えて、健康をとり戻していることを願うばかりである。決して、小夜子のようにならないようにと。

「マエストロ、それはムリですよ・・・」構成・松井信幸

2009-08-20 23:08:31 | Book
現在、社団法人「日本オーケストラ連盟」に加盟しているオーケストラは24団体ある。指折り数えたら15ぐらいで終わってしまったのだが、その中で最も小さな本拠地をもつオーケストラが山形交響楽団である。失礼ながら、不肖私めも本書で初めて「山響」の存在を知ったくらいである。県庁所在地の山形市の人口は約25万人で、山形県全体ではさいたま市とほぼ同じ規模の120万人。そんな小さな東北でも存在感の薄い山形にある山形交響楽団は、実は1972年に東北地方で初めてのプロ・オーケストラとして誕生した。山形といえば、さくらんぼ、ラ・フランス、山形牛ぐらいしか思い浮かばない田舎で産声をあげた小さなサイズのオーケストラは、途中3分の1以上の団員の離脱という存続の危機にもまれ、慢性的な人員不足と予算不足に悩まされながらもなんとなく生命線がつながっている状態だった。ところが、今の山形交響楽団は美しい響きとアンサンブルの質の高い演奏で日本の音楽文化を代表するオーケストラに変貌しようとしている。

ださくって、まったりとした覇気のない多くのエキストラ頼みの”おらが街のオーケストラ”を見事に変身させ、その魅力に東京や近県からも足を運ぶ観客や固定客を増加させた秘訣とは。それは、なんといってもおらがのオケにあの人が颯爽とやってきたからだ。
マエストロ、飯森範親氏の登場!

本書の構成は山響の歴史をふりかえりつつ、団員の人気投票でムリだろうけど”この人に常任指揮者をお願いしたい”アンケートで、ダントツ1位になった飯森氏にダメモトで就任のお願いをしたきっかけから、飯森氏と山響が次々とオケを改革てし、新鮮なアイデアを実行して集客力に結びつけたかという複数の人々の”証言”が続く。東京の真似をしても仕方がない、山響のサイズにあった山形でしか聴けない音楽づくり、それは彼らのひとつの挑戦でもあった。そして、県民にもっとその存在をアピールするためにはどうしたらよいか、観客に満足してもらうためにはどうしたらよいだろうか、またチケットを買ってもらうためにはどうしたらよいだろうか。
単純に売る商品、音楽がよいだけではなかなかその魅力が県民に浸透しないし、そしていくら手をつくしてチケット販売戦略を練っても、所詮音楽に個性と素晴らしさがなければいつかあきられる。この両輪をうまく運転していくには、飯森範親氏は芸術家にしてなかなかの経営感覚にも優れたバランス抜群な方、しかも発想が斬新でチャレンジャーなマエストロ。

04年に常任指揮者、一昨年から音楽監督になった飯森氏からは事務局に次々と指示の電話やらFAXが届く。通称、飯森氏の「マニフェスト」は50項目ものにも及び、そのたびに事務局は「えっ、マジですか」とあわてたり、奔走したり、時には
「マエストロ、それはムリですよ・・・」と青くなったり。ちょっと電話恐怖症になった時もあったとか。
しかし、山響をもっとよいオケにしたいという情熱は、マエストロ、団員、事務局、そして応援する団体みんな同じ思いである。次々と実行できるものはなんとかやり遂げ、勿論棚上げや変更、修正する部分もあるが、確実に山響は変わっていった。

本書を読んだら、これはもう、絶対に山響の演奏を聴きたいと思った!それも6月に東京で開催される「さくらんぼコンサート」なんぞ、行ってみたい。場合によっては、温泉ツアーでもよし。読者をそんな気持ちにさせるだけでも、すごいと思う。といっても音楽ファンよりもむしろビジネスマン向けの本書は、読んでいて元気がでる。どうやら売れ行きも好調で一時は品切れ状態だったらしいのだが、本書の出版は、全国に山響の存在をアピールする宣伝効果もあり、収益もあり、まさにシナジー効果である。こんなところにも山形交響楽団の快進撃ぶりがうかがえる。大学時代の親しい友人が、実は山形出身。山形弁でさんざん山形の自慢話を聴いてきたが、全くおそるべし、山形、である。


「マエストロ、それはムリですよ・・・」プロローグ 飯森範親氏列伝

「マエストロ、それはムリですよ・・・」プロローグ 飯森範親氏列伝

2009-08-17 22:49:10 | Classic
来年の年始に放映予定のご存知「のだめカンタビーレ」の撮影も、順調にすすんでいるようだ。今から、とっても楽しみにしている。
ところで、のだめ憧れの千秋先輩に最もイメージが近い現役指揮者といえば、多少年齢が上になるが、私はこの方以外に思い浮かばない。東京交響楽団の正指揮者、飯森範親氏、46歳。珍獣系の多い指揮者族で、決して玉木宏さんのような完成されたハンサムではないが、身長もすらりと高く、ジムで鍛えた肉体はメタボとは無縁、さらりと流した長髪、そして何よりも華やかさと指揮者にふさわしいオーラとカリスマ性がそなわっている。少女漫画に登場する指揮者の典型、文句なくかっこいい。彼を追いかけて全国のコンサート会場に出没するオッカケ族もいるらしいという人気ぶりもわかる。音楽家には美食家は多いが、彼もご多聞にもれず、千秋のように料理も美味いらしい・・・。持ち物にもこだわりがありなんだか決まり過ぎていて、一歩間違えれば千秋のように”オレ様”タイプのキザ男によろめきそうな御仁、、、と思っていたのだが、とんでもない!
飯森氏と山形交響楽団の挑戦を書いた「マエストロ、それはムリですよ・・・」という本の後に、著者の松井信幸氏とのインタビュー記事が掲載されているのだが、それを読んですっかり私めも遅ればせながら飯森さんのファンになってしまったのだった。

飯森さんのお父様は広告代理店勤務の会社員だったが、チェリストを志したことのあるおじい様の影響で生まれた時からおうちにクラシック音楽が流れ、1歳の誕生日前にコンサート会場にデビュー。(当時は、乳幼児でも会場に入れたのだろう。)音楽だけではなく幅広い体験を、というお母様の意向でわずか3歳にしてルノアールの裸婦像に感動する。しかも、麻雀大好きで「葉山のピラニア」とおそれられていた?お父様の手ほどきで、幼稚園時代にすでにりっぱに麻雀を打ち、小学生時代に身に付けた盲牌の技能は、後年指揮者になってからの集中力にも役にたったとか。但し、本格的に音楽家を志すようになると、打つ時間がなく中学に入学する前には麻雀もめでたくご卒業された。

一方、お母様の方はオリジナリティをとても大切にされる方で、一般的な学習机ではなく押し入れを改造した”お城”を作ったり(このお城に感動した時の気持ちは今でも鮮明だそうだ)、当時、範親少年のランドセルはあの時代に特注の緑色だった。豪快でありながら人への感謝の気持ちを説くお父様と、雑誌に子育ての記事を書いていた素敵なお母様に育てられ、中学生頃になると範親少年は指揮者を志すようになる。

高校は神奈川県立追浜高校。経済的な理由から、当初藝大をめざすもテレビで小澤征爾氏の指揮に感動して、桐朋音大に志望大学を変更する。これはどういうことを意味するかというと、なかなか複雑な苦労が伴うものである。飯森高校生は、自分で尾高忠明氏を訪ね指揮科に入る準備をはじめる。一般の高校から桐朋の指揮科に入るのはみんなに「ムリッ」と言われつづけたが、朝は6時前に起きてピアノの練習、ソルフェージュ、スコアリーディング、高校に登校して帰宅すると夜10時までピアノの練習、それから和声学の勉強と、睡眠時間は平均3~4時間!そんな超多忙なカラダなのに、土日はバンド活動をして文化祭にも出演していたところが笑える。
そんな努力が実り、普通科から現役で桐朋学園大学の指揮科に進学した唯一の学生になる。

ところがせっかく希望の大学に進学して小澤征爾氏の指導を受けるも周りのレベルもすごく、プレッシャーとストレスで体を壊してしまった。そこで思い切って学校の近くに下宿して勉強時間を確保、毎日図書館にこもって勉強して200曲以上のスコアを暗譜。この暗譜のレベルが、五線譜を渡されたらすべての音符を全部書けるところまで!自信家に見えるが本当に自信があるんだ。これまでお坊ちゃまと思っていた飯森氏だったが、周囲の雑音に迷わず、信念をもって自ら道をきりひらいた努力家なのがわかる。

勿論、彼に備わっているのはそれだけではない。
高い音楽性、明確なヴィジョン、優れた統率力とカリスマ性、おまけに芸術家にも関わらず金銭感覚や経営能力も抜群。芸術家にありがちな、プライドが高くて経営や生活に無頓着な変人でもなく、非常にバランス感覚にたけた方でもある。まさに指揮者になるべくして生まれた人材、と実感するのが本書における山形交響楽団との挑戦である。
この続きは、また明日。。。

追記:それにしても、この後姿のお尻がかっこいい、とほれぼれするのは私だけか。

本編「マエストロ、それはムリですよ・・・」

「ナイトミュージアム2」

2009-08-15 15:49:53 | Movie
お盆だ!やっぱり今年も猛暑だ!民族大移動中の道路は台風と地震の余波もあって更に渋滞が予測される。もう、やってられない。。。
・・・というわけで涼しい真夜中のパーティに行ってみませんか。会場は、ワシントンDCにある世界最大規模のスミソニアン博物館!

ニューヨークの自然博物館が、改築のため休館中。展示場所のない多くの展示物は、スミソニアン博物館に疎開されることになった。本来だったら残るべき石板も、一緒に誤って移送されてしまった。とんでもなく広いスミソニアン博物館の地下倉庫の一角に、囚人にように押し込められているジェイダイアから緊急の助けを求める電話が入ったのが、元警備員にして今や発明家としてベンチャー企業の社長になったラリー(ベン・スティラー)。
よみがえってきたのは、世界制服をねらう古代エジプト王の残虐王とよばれたカームンラーや、彼と共謀するナプレオン、イワン雷帝とアル・カポネ。なかなか国際色豊かで個性派の粒ぞろい。救助と事態の収拾のために、再び警備員の服をビシッと着て巨大な博物館群に潜伏していったのだが。。。

多少の事情があって、全く好みではないこのタイプの映画を、字幕ではなく”吹替え版”で鑑賞することになった。前作を観ていないために最初こそ登場人物像が把握できなかったが、次々と登場する歴史上の有名人たちのキャラクターが、あまりにも類型的で直球のどまん中、そのため本来の本作のターゲット層ではないオトナには逆に製作側のギャグねらいの意図が感じられて興がそがれ、オトナになってしまったつまらなさもちょっぴり味わう。ナポレオンが実は小柄だったことをコンプレックスに感じていたと会話の中で紹介したり、逆にリンカーンは長身だったことを巧みに映画の演出でいかしたりする場面では、そんなの知っているよーっなんて思ったり、カスター将軍をかけ声はよいが実は大風呂敷の気弱なタイプの米国男性、女性として世界ではじめて大西洋を横断したパイロット、アメリア・イヤハートを金髪と赤い唇のチャーミングな”女”でありながら昔のウーマンリヴの闘士のような発想の持主になっているのもあまりにも定番で食欲がわかない。

まあそうは言っても、18禁映画には入れないお子ちゃまたちとはこのてのおもしろさをわかちあえないかもしれないが、騒動が大きくなりスピードとCGの多様が、にぎやかな祭りとなってさすがに幅広い年齢層で理屈ぬきに楽しめる点でやっぱり価値ある1作。この”理屈ぬき”に楽しめる夏休みというのが、いっそいとおしいのが、本作を観に行った諸々の事情にも通じている。
哲学者のゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが、「法の哲学」の序文で記した有名な一節がある。

「理性的であるものが現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」

今存在している現実を把握することが大事だったとしたら、ありえないことを理屈ぬきに楽しむことも理性的でもありきかな。ラリーのキレのよい動作は、超クール!!

ところで、本作の吹替えがとてもよくできていると感じたのだが、字幕は毎度おなじみの戸田奈津子さんだが、監修に放送作家の鈴木おさむさんが参加していた。ママになって頑張っている辻ちゃんが「私でもわかる」と絶賛している吹替えは、この私でもわかるギャグに仕上がっている。なかなかの”good job”である。ちなみに各登場人物を日本人が演じた場合のキャスティングが、鈴木さんによると顔が濃くて悪そうなファラオは中尾彬さん、背が低いことにコンプレックスを持っているナポレオンは爆笑問題の田中さん、ラリーはナインティナインの岡村さんとのこと。なるほどっ、もしもこのキャスティングで3が製作されたら数倍おもしろくなるはず!

監督:ショーン・レヴィ
2008年 米国制作

「資本主義はなぜ自壊したのか」中谷巌著

2009-08-05 22:07:12 | Book
今や3人にひとりは非正規雇用社員。勿論、なかには主たる生計者の夫の補助輪、もしくはちょっとした自分のお小遣い稼ぎ程度に、残業なし、家庭に支障なし、という範囲でおさまる派遣社員を自ら希望されている女性もいる。けれども個々人の都合はともかく、3人にひとりが正社員ではない社会は、どう考えても問題があるのではないだろうか。雇用の調節弁、或いは人件費削減のための非正社員には、カイシャにとって基本的に研修を行ったり等、”人材”として育てる義務もつもりもないのだから、カイシャとしての人的資本は確実に低下していると私は思う。スタッフさんは本人の能力の有無以前に責任や権限、受けた教育が乏しいことから、仕事で照会しても返事が要領をえないのもしかたがないとあきらめる。いったいいつからこんな社会になってしまったのか。かっては一億総中流と揶揄されたがみんなが一応中流の生活を楽しめたのが、この10年間で年収200万円も満たない貧困層が200万人も増加して、とうとう1000万人の大台にのってしまった。ネットカフェ難民の存在は、衝撃だった。年越し派遣ムラの盛況も話題になった。今や米国についで世界第2位の貧困国に失速しているではないか。サブプライムローン問題、世界的不況、いろいろあるが、現在の貧困は主に経済的にというよりも政府、国の失策が招いた貧困である。

そのA級戦犯のひとり、細川内閣の「経済改革研究会」委員、小渕内閣の「経済戦略会議」の議長代理を歴任、三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社の理事長である中谷巌氏の懺悔の書が「資本主義はなぜ自壊したのか」という本書である。
ここで疑問に思うのが、本書のタイトルである。”資本主義”という経済システムは自らの意志がないにも関わらず、”崩壊”という単語を使わずに著者が”自壊”という迷言にしたのか。複雑系の発想を利用すると資本主義社会そのものが生き物のようなふるまいをした結果の自壊というのが、本書の猛省の弁である。そして、著者はグローバル資本主義社会を「モンスター」とたとえているが、その表現に人知を超えて暴走した現象ともとらえられ、なんとなく責任逃れの感も多少抱いてしまうのだが、ではその「モンスター」を育てた者は誰なのか、と私は問いたい。

日産自動車に勤務していた若き中谷青年はサラリーマン生活にあきたらずハーバード大学院に留学し、後にノーベル経済学賞を受賞したケネス・アロー教授の指導を受け、素晴らしい学業の環境のもと経済学を学び、すっかり熱狂的な米国ファンになって帰国した。確かに、米国の教育環境の魅力は大きい。しかし青春の思い出に、小さな政府のもと自由な市場主義経済、グローバル化が真の「豊かな社会」をつくりあげるという幻想(妄想)を抱いてしまったのは、大きな過ちだったと私は断言しておきたい。実際、最近の研究によると、米国経済政策は30~40年ごとの循環を繰り返し、”適切な”政府の介入が行われた時期に、黄金時代を謳歌してきたことがあきらかになってきたというではないか。

労働者を生かさぬよう、殺さぬように留めておくのがグローバル資本主義の論理、カール・ブランニーの第二次世界大戦時の著書「大転換」より、「資本主義とは個人を孤立化させ、社会を分断する悪魔の碾き臼」「悲惨な貧困の原因は、労働力、すなわち人間の生活さえも商品化してしまった資本主義のメカニズムにある」という言葉を引用して敗戦と悪しき改革派の急先鋒だった犯人・中谷氏の懺悔は続く。。。ついでに不破哲三氏のように「マルクスは生きている」くらいの発言をしてもよいじゃないか、とついつっこみたくなる。しかも映画『シッコ』にえらく感激したらしく、キューバーの医療システムを絶賛している。けれどもキューバーだけでなく、デンマークの福祉社会、ブータンの王政国家を絶賛する姿は、多分に表層的で研究者の姿とは遠く、キリスト教型一神教の弊害から日本的多神教を評価する、むしろ観念的な宗教者のようである。トヨタをモデルにした日本企業のデザイン・インなどの工夫は説得力もあり、環境立国としての日本のリノベーションや「還付金付き消費税」の導入から貧困・格差解消も提案している。

本書はかなり話題になって売上が伸びているようだが、おそらくワーキングプアとは無縁な人々である読者が、本書を通じて行き過ぎた構造改革の弊害を真剣に最高するよい機会になると期待したい。おりしも政権交代がありうるかもしれない選挙も近い。

■こんなアーカイブも
「日本の貧困と格差拡大」日本弁護士連合会編
「縦並び社会」毎日新聞社会部
「マルクスは生きている」不破哲三著
フリーター漂流
いま憲法25条”生存権”を考える