1952年4月、ニュージーランドのクライストチャーチで、ひとりの中年女性が煉瓦で頭部を撲殺するという事件が起こった。平和で美しい街を騒がすこの暗い事件に人々が震撼したのは、犯行に及んだのが15歳の被害者の娘、ポーリーン・イヴォンヌ・パーカーと彼女の親友の16歳のジュリエット・マリオン・ヒュームだったことである。
ポーリーン(メラニー・リンスキー)は、下宿屋を営む平凡な低所得者の家庭に育つ。創作活動が好きな彼女は、同級生の少女たちになじめない一風変わった孤独な少女。そこに転校してきたのが、リヴァプール大学教授、王立グリニッジ天文台副所長を経て、カンタベリー大学学長に赴任した父をもつジュリエット(ケイト・ウィンスレット)だった。全く生活環境の異なるふたりの少女。しかし、ふたりとも幼少期に病気を患い孤独な入院生活を強いられた経験をもつこと、作家志望であり、俳優や音楽の好みがぴったりと重なったことから、唯一無二の親友となっていく。DNAが全く一致しない双子のような少女は、壮大な「ボロウィニア王国」という架空の国を舞台に、互いに文通という形式で物語を創作していく。ふたりの関係に危険を感じたジュリエットの父は、自分の娘ではなくポーリーンを精神科医に受診させるように彼女の母にアドバイスをするのだったが。。。
この映画で描かれている母と娘の関係は、現代の日本の母と娘に時々見られる母からの過干渉や束縛を示す「投影性同一視」はない。母と娘の関係で難しいのは、父と息子よりも狭い社会に囚われがちな心理的な近すぎる距離感や、自己実現を娘に投影しがちな母により過干渉を指摘されるが、むしろ、ジュリエットの母親は名門にありがちな自分の自由な時間を”母”よりも”女”として生きるタイプで、「添い寝」という言葉の意味もわからないだろうと思えるほど娘には殆ど無関心な母親。またポーリーンの母親は、生活に追われ自分の価値観を古い因習の中に見出し安住するタイプ。しかし、娘の感性を理解していない、社会(学校生活)における娘の状況、要するに娘を理解していない母という共通項はある。だったら、殆どの母親が娘を理解しているかと言えば、それは違うだろうと私には思える。
娘たちのよる母殺しという事件性から母と娘の関係に注目するのではなく、映画ではむしろ同性愛に近い恋愛感情が背景として描かれている点に、日本と西洋の違いを感じる。友情で相手への固執や執着は、ありえない。やはり、そこには何らかの”愛情”があったのだろう。お互いに相手以外とは人間関係を築けないポーリーンとジュリエットにとっては、相手がすべてだった。彼女たちの個性が学校生活で孤立化を深めていくにつれ、つくりあげているフィクションが現実の世界を浸蝕されていくのが、作品の中ではよく描かれている。愛情不足だったり、現実社会で否定されている彼女たちを承認するのが、彼女自身たちがつくりあげた非現実の物語の世界であり、その世界をふたりが共同作業でつくったのだから、離れ離れになることは彼女達が住む世界の消滅を意味する。小説を読む少女、創作活動をする少女イコール繊細で多感だとは私は考えない。だが、あまりにも関わる世界が狭すぎたふたりにとっては、一途な思い込みが突き進んで凶行に至ったという過程は、身近にも感じられる。およそ半世紀前の実際の事件をピーター・ジャクソン監督が映画化したのだが、CGでふたりの創造を映像化しているのがヴィジュアル的にも美しくわかりやすいのだが、逆に深層心理の底を浅く感じられもした。
野暮ったいポーリーンと美少女のジュリエットをふたりの女優が名演している。
その後、ふたりの少女はどうなったのか。
単純な隠蔽工作はすぐに警察にわかってしまい、無期懲役を宣告されるものの、二度と会わないことを条件に5年後に仮釈放される。映画はここで終わっているが、ポーリーンは高校を卒業後にオークランドの書店に勤務、ジュリエットは推理小説の作家としてベストセラー作品もうみだした。
監督:ピーター・ジャクソン
ニュージーランド アメリカ 1994年製作
ポーリーン(メラニー・リンスキー)は、下宿屋を営む平凡な低所得者の家庭に育つ。創作活動が好きな彼女は、同級生の少女たちになじめない一風変わった孤独な少女。そこに転校してきたのが、リヴァプール大学教授、王立グリニッジ天文台副所長を経て、カンタベリー大学学長に赴任した父をもつジュリエット(ケイト・ウィンスレット)だった。全く生活環境の異なるふたりの少女。しかし、ふたりとも幼少期に病気を患い孤独な入院生活を強いられた経験をもつこと、作家志望であり、俳優や音楽の好みがぴったりと重なったことから、唯一無二の親友となっていく。DNAが全く一致しない双子のような少女は、壮大な「ボロウィニア王国」という架空の国を舞台に、互いに文通という形式で物語を創作していく。ふたりの関係に危険を感じたジュリエットの父は、自分の娘ではなくポーリーンを精神科医に受診させるように彼女の母にアドバイスをするのだったが。。。
この映画で描かれている母と娘の関係は、現代の日本の母と娘に時々見られる母からの過干渉や束縛を示す「投影性同一視」はない。母と娘の関係で難しいのは、父と息子よりも狭い社会に囚われがちな心理的な近すぎる距離感や、自己実現を娘に投影しがちな母により過干渉を指摘されるが、むしろ、ジュリエットの母親は名門にありがちな自分の自由な時間を”母”よりも”女”として生きるタイプで、「添い寝」という言葉の意味もわからないだろうと思えるほど娘には殆ど無関心な母親。またポーリーンの母親は、生活に追われ自分の価値観を古い因習の中に見出し安住するタイプ。しかし、娘の感性を理解していない、社会(学校生活)における娘の状況、要するに娘を理解していない母という共通項はある。だったら、殆どの母親が娘を理解しているかと言えば、それは違うだろうと私には思える。
娘たちのよる母殺しという事件性から母と娘の関係に注目するのではなく、映画ではむしろ同性愛に近い恋愛感情が背景として描かれている点に、日本と西洋の違いを感じる。友情で相手への固執や執着は、ありえない。やはり、そこには何らかの”愛情”があったのだろう。お互いに相手以外とは人間関係を築けないポーリーンとジュリエットにとっては、相手がすべてだった。彼女たちの個性が学校生活で孤立化を深めていくにつれ、つくりあげているフィクションが現実の世界を浸蝕されていくのが、作品の中ではよく描かれている。愛情不足だったり、現実社会で否定されている彼女たちを承認するのが、彼女自身たちがつくりあげた非現実の物語の世界であり、その世界をふたりが共同作業でつくったのだから、離れ離れになることは彼女達が住む世界の消滅を意味する。小説を読む少女、創作活動をする少女イコール繊細で多感だとは私は考えない。だが、あまりにも関わる世界が狭すぎたふたりにとっては、一途な思い込みが突き進んで凶行に至ったという過程は、身近にも感じられる。およそ半世紀前の実際の事件をピーター・ジャクソン監督が映画化したのだが、CGでふたりの創造を映像化しているのがヴィジュアル的にも美しくわかりやすいのだが、逆に深層心理の底を浅く感じられもした。
野暮ったいポーリーンと美少女のジュリエットをふたりの女優が名演している。
その後、ふたりの少女はどうなったのか。
単純な隠蔽工作はすぐに警察にわかってしまい、無期懲役を宣告されるものの、二度と会わないことを条件に5年後に仮釈放される。映画はここで終わっているが、ポーリーンは高校を卒業後にオークランドの書店に勤務、ジュリエットは推理小説の作家としてベストセラー作品もうみだした。
監督:ピーター・ジャクソン
ニュージーランド アメリカ 1994年製作