千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「迷路」(上・下)野上弥生子著

2009-12-27 12:36:47 | Book
”女流作家”という名称がある。女が小説を書く時、女流作家と呼ばれたら、それは作家の世界では、同じ土俵でものをかく扱いを受けていないと私は考える。誤解を招きそうなので念のため断っておくが、女性蔑視や差別とは違う。しかし、昔流の文壇では、林芙美子も瀬戸内晴美も女流作家は対等な仲間もしくはライバルではなかったのは事実ではないか。しかし、野上弥生子は別格である。彼女の骨太の構成で重層的に組まれた精密な作品は、女流作家の範疇をはるかに凌駕している。

野上弥生子は1985年、大分県臼杵市に醤油製造家に生まれ、1900年上京して明治女学校に入学する。夏目漱石の門下生の野上豊一郎と高等科を卒業すると結婚。07年に漱石の推薦で「縁」を発表して作家として出発する。15歳の菊池加根を主人公にして明治の女学生や青年たちの瑞々しい群像を書いた自伝とも言える「森」を未完のままに、1985年に亡くなる。生涯現役の作家のまま、近代日本の畢生100年を生きた。

本書は岩波文庫で上下1200ページをこえる量質ともに長編大作。『迷路』は昭和11年に「黒い行列」の題名で「中央公論」に掲載されたが、社会情勢により書き続けることが許されなくなり中断、戦争がおわった24年「世界」に「江島宗通」を掲げて再開、31年に連載されて完結した経緯がある。

「菅野省三はそんなことを思い出してもいなかった。ほとんど写字生に近い今の仕事のため、ノートを二三冊買いながら・・・」

最初の文章が”そんなこと”で始まる巧みな文章で、読者はやがて本書の主人公の菅野省三が、大分県の町の二大勢力の領主、酒造一族の次男である良家の息子ながら、左翼運動に身を染めて滝川事件に連座して大学を放校になり、一族から疎んじられている青年だということを知る。(余談ながら、この事件をモデルにした黒澤明の映画『わが青春に悔いなし』は好きな作品である)作家は省三を中心に、出自の異なるインテリゲンジャーの友人たちの”その後”の苦しみに満ちた青春を描きながら、また一族のふるまいや考え方を通して当時の日本人像を鮮やかに再現し、支配層につらなる人々の暮らしや思想を精緻にあぶりだしていく。

現代でも世界的不況の大寒波におおわれた日本であるが、1931年の経済恐慌は省三のような転向した知識階級にも無慈悲で、「アカ」のシミは額に押された烙印に等しかった。おりしも時代はファシズムに向かっていく。彼は思想的な英雄ではなく、むしろ端整な顔立ちが特徴な平凡な若い知識人として描かれている。彼らの知性に現代日本を生きる私は、とても考えさせられる。ところが、この行動しないごく普通のインテリゲンジャ、現代だったら一流大学を卒業した頭脳明晰な若手サラリーマンになるのだが、彼、彼らのあらわれ方がいっそ清々しくも本物の知性が宿っている。若い省三は、性の欲望に負けるだらしなさや優柔不断さもありながら、徴兵回避の姑息な手段を捨てる愚かさと頑固さもある。野上弥生子は人間像の描き方が巧みである。様々な登場人物を決して類型的な役割をふらせることがなく、時代の波にのまれていく人間の愚かさとしたたかさを投影していく。

また、彼らを俯瞰する人物に生涯独身を貫き藩主の後裔者で能狂いのエゴイスティックな老人、江島宗通を配することで、達観した哲学で最後の幕引きも成功している。苦悩しながらも、生き生きとした彼らがやがて戦争であっけなくも命を失い、また生き延びる者にも民主主義の戦後の社会が待っていることを考えれば、この長編小説自体もひとつの「能」の世界とも考えられる。すべてはあわい夢の如し。

「女性である前にまず人間であれ」
そう提案した女流作家の感性を利用しないで書かれた本作には、実は何気ない文章にとてもエロスを感じられる部分があって、理性的な文章に矛盾しや不思議な印象もした。そして、野上弥生子をこえる、いや並ぶ”女流作家”もいない。

省三が中国の戦地で、たったひとりマッチをする描写が胸にせまってくる。
「むしろ火というものを、非常に久しぶりに見た感じであった。はじめは、なにか小枝にふと咲いた花のように揺らいでいたのが、すぐ金いろの鞠なりの小さな光にちぢまり、それがまた青っぽく透明な芯を持ったまま、か細く、鮮麗に、紅い燃えさしをあとに残しながら、軸づたいに這っていく。省三は感動をもって眺めた。指先が熱くなるまで捨てなかった。」

『キャピタリズム~マネーは踊る~』

2009-12-26 19:40:51 | Movie
『ボウリング・フォー・コロンバイン』では銃社会、『シッコ』では医療保険制度と、これまでもアメリカ社会の矛盾と問題をついてきた切込隊長のマイケル・ムーア監督の、次の標的はなんと「キャピタリズム」資本主義である。ムーア監督の益々体重が増加した巨体の今度の取組み相手は、とてつもなく大きい。きっかけは、サブプライム・ローン問題に端を発した世界的金融危機にあるが、監督によると「どんな映画も突き詰めれば、不公平で不公正な経済の問題に戻る。なぜ、常に貧しき者が犠牲になるのか、核心のシステムを問うべきだと思った」からだ。その言葉どおりに核心をついた彼のこれまでの集大成になる文句なしの傑作。

冒頭に住宅ローンを返済できなくなり、長年住んでいた住宅を差し押さえられ退去をせまられるある家族の映像が流れる。懸命に働いてローンを返済しても、雪だるま式に負債が積もって、毎月の返済額がどんどん増えて一家は破綻した。期限付きで自宅の退去を命じられる。さからったら、大変だ。不法占拠をたてに”市民のみかた”警察官が、即刻パトカーに乗ってやってくるからだ。しかし、こんな映像は今のアメリカ人にとっては見慣れた光景だろう。何しろ、1%の富裕層(←単なる金持ちレベルではない)が底辺の95%より多い金を独占している国なのだ。2年前から配偶者の転勤に伴いサンフランシスコに住む友人が、ドル安のために引越しをしようと考えているが適当な物権がないという。周辺には1億円以上の高額な家か、移民が住む治安に問題があるアパートしかないそうだ。
「この国は、金持ちしか貧乏人しかいないのよ」
その友人のため息を思い出したが、でも1億総中流と揶揄された日本丸も沈みかかっていてて危ないんだけど・・・。

マイケル・ムーア監督はこれまで同様、お茶目にユーモラスのシロップをかけながらアメリカ社会の皿に盛られた毒を次々とお披露目していく。ペンシルベニアの更正施設は民営化され、思春期の小さな罪を犯した反抗児たちも次々と収監していく。経営者の弁護士ロバート・パウエルとマーク・シバレラ判事は、アメリカ人お得意のwinwinの関係。本人たちも知らない間に滞在期間を延長され延泊料金もふくらみ、彼らの目的が少年少女たちの”更正”という旗に隠された小さな政府が実現する利益追求しかないことが判明した。またある金融業界の大企業は、本人及び家族に知らせずに従業員に高額な生命保険をかけていた。自社の優秀なアクチュアリーに、従業員にかける生命保険のコストとリターンの確率を計算しておけば、確実に従業員の死は会社に収益をもたらすのだろう。彼らはこの制度を”くたばった農民保険”と名称をつけている。(日本では、本人の知らない高額な生命保険を会社がかけるのは現在禁止されている。)そして経営悪化のため、一方的に突然解雇された工場の労働者たちの途方にくれて涙を流す場面も流れる。現在、55歳になるムーア監督の父上は、フリント市でGMの工場労働者だった。まじめに働けば、それなりの豊かな生活を約束された典型的なアメリカの中流程度の労働者家庭。父と息子がかって3キロも工場施設が並んでいた元職場を訪ねれば、なーーーっんにもないっ、そこは草もはえない荒涼としたほこりっぽい地がはるかかなたまで続くだけ。ここに本当に工場があって、みんな働いていたのか。彼らは、彼らの家族はいったいどこへ消えたのか。

ムーア監督が突撃取材したウォール・ストリート・ジャーナルの記事によると、2000年間からの10年間は、米経済にとって失われた10年になるそうだ。(以下、当該記事によると)日本人にとっては、散々聞き飽きた失われた10年、アメリカよおまえもか、とつぶやきたいが、日本とアメリカでは意味が違う。かっての米国の繁栄は、米国資本主義による自由市場の活力のモデルだった。21世紀に入った時点で、米国の国民純資産額はが10年前よりも44%も増えた現象に、世界の政策立案者は、柔軟な(←ものは言いようだ)労働力とダイナミックな財政市場を国の目標のモデルとした。しかし、今日では米国は資本主義のベンチマークから欠陥モデルとなりさがった。住宅購入ブームに踊らされて、本来なら融資基準に満たない層までローンを組んで借金漬け。しかも貧しい人々を利用した金融工学のきっかけは、おなじみのブラック・ショールズ方程式。この経済学が社会科学の女王であることまで証明するオプションのプレミアムの計算式は、それ自体はノーベル賞受賞に値する画期的な成果と私は思うのだが、優れた発明や研究を悪用するのも金儲けの狩猟民族の業なのか。ムーア監督は、1980年代のレーガノミックス時代からの規制緩和、新自由主義がアメリカを変えたと考える。ブッシュ大統領に、ぴったりとゴールドマンサックスの会長兼CEOのヘンリー・ポールソンが財務長官として寄り添う。まるで木偶の人形を繰る人形使いのように。おりしもクリントン元大統領とヒラリー・クリントン国務長官の一人娘チェルシーさんが、ゴールドマン・サックス勤務のマーク・メズビンスキーさんと婚約したニュースが流れた。優秀な頭脳は高額報酬をゲットできる金融業界に集まる。映画では、その昔のポリオの生ワクチンを開発したジョナス・ソークがインタビューに答える映像が流れる。彼は特許申請をするよりも、人類に貢献することを選んだ。尚、今後は、レバレッジ取引の規制がされるだろうことから、米国はダイナミックさよりも安全で公正な資本主義をめざすというんが専門家の予測である。

マイケル・ムーア監督は、あの体型と服装、キャラクターがきわだつ取材方法から損をしていると思う。映画評論家の蓮實重彦さんなどは、突撃インタビュー方式を下品きわまりないとその名前する口にすることすら不愉快と拒絶されているが、本来もっている知性を感じられたのも本作である。蓮實さんにも観てほしい。確かにインテリゲンジャー好みの整然とした美意識は彼の映画にはないが、いつも彼の視点は弱い人々のためにあることを評価してほしい。
現在は、ムーア監督は自宅のあるトラバースシティーの古い映画館を改修して非営利で運営をしている。「厳選した新旧の映画を完璧な映像と音響で楽しめる」ようにした。映画芸術を救済することにも意欲的なマイケル・ムーア監督の次回作がこの映画館で上映されるのはいつになるのだろうか。ドキュメンタリーものではないことは確かだそうだ。ところで、例の友人から届いたクリスマス・カードの最後には、「アメリカの失業率は10%以上。税金を投入した金融機関のトップは数億~数10億円のボーナスで、どうにも納得できないものであります」と結ばれていた。確かに。。。

■書き散らしたアーカイヴ

『華氏911』
『シッコ』
米医療保険制度を痛烈に批判、ムーア監督の新作が評判
米国の医療問題
クリントン大統領の「マイ・ライフ」
ドキュガンダ映画ヒットの背景
「なぜGMは転落したのか」ロジャー・ローウェンスタイン著
「資本主義はなぜ自壊したのか」中谷巌著
映画『怒りの葡萄』

「君について行こう」向井万起男著

2009-12-20 23:23:04 | Book
「謎の1セント硬貨」でマキオちゃんとチアキちゃんの会話を読みながら、ついつい思い出して本棚から取り出したのが、10年前に読んでいる「君について行こう」。
”私の恋女房は宇宙飛行士である”
そんなマキオちゃんの宣言から始まるエッセイは、ふたりの出会いからはじまる。その時、マキオちゃんは医師としてスタートをしたばかりで、アイツはまだ医学部の2年生だったという。そっかーっ、そんなマキオちゃんも今では還暦じゃん。このちょっと変わったご夫妻の間にはすでに30年以上の歳月が流れている。で、「謎の1セント硬貨」ではあいかわらずマキオちゃん、チアキちゃんととーーっても仲がよい親友であり、恋人であり、別居結婚を続ける夫と妻のふたりがお互い独身だった出会いからはじまり、内藤千秋さんが宇宙飛行士に選ばれた後に諸々あり結婚、そしてNASAへ、、、と手にとってパラパラと読み始めたら、機知に富み、軽妙洒脱、そして正直で純粋、いやあ~おもしろいのなんのって再び一気に完読してしまったではないか。

まずはやはり登場人物おふたりのキャラクターの魅力によるところが大きい。見た目どおりの豪傑な千秋さんの数々のエピソード。オンナだてらに、いやか弱きオンナの分際で外科医を選ぶところが酒豪伝説に加わり、中でも長時間の手術で女性にとっては前人未到の心臓外科医になってしまうところがすごい。(ご存知の方もいらっしゃるが、俳優の石原裕次郎さんが倒れて手術をされた時の受け持ち医でもあった。)型破りなのはそれだけではない。結婚した時マキオちゃんとの生活をスタートするマンションにボストンバック片手に「こんばんは」とやってきたのだ。1本しかもっていないGパンを夜洗濯機にかけながら、乾かなかったら明日着ていく服がないと騒ぐ千秋さんにあきれながら、そんな彼女にいつまたボストンバック片手に「さようなら」と出て行かれちゃうんではないかと不安で心配なマキオちゃん。そんなモノをもたない身軽な妻をはらはらと見守りながら、彼女がものすごーっくいとおしくって、ものすごーっく大好きなんだから仕方がない、宇宙をめざす、夢を追いかける女房を応援しながらついていくしかない!と武士の覚悟を決めた。

本書が評判になるや、仕事をする女性を支援する団体などから、講演の依頼が殺到したそうだ。しかし、マキオちゃんはスペース・シャトル、ディスカバリー号がケネディ宇宙センターから打ち上げられた時の真っ赤なハッピ姿に見られるように、むしろ保守的な日本男児である。”女のくせに”と言う男尊女卑タイプでは決してないが、か弱き女を守ってやりたいという気概があるために、千秋さんの武勇伝を”オンナだてらに”と感心するばかりか、最初にスペースシャトルに乗り込むのは最年長の毛利さんで、今の日本では女は絶対に不利だと、もしも飛べない宇宙飛行士になったら専業主婦になればよいなどとなぐさめるつもりでとんでもない失言までしちゃう。どんなに真剣で、どんなに努力をして宇宙飛行士の候補者になったのか、本気で挑まなければ最終候補者に残るわけがないのが宇宙飛行士への道である。”女のくせに”真剣に宇宙をめざし、全力をだして訓練をする千秋さんを見て少しずつマキオちゃんの男としての矜持が変わっていく。まあ、ほれてしまった弱みもある。そしてそこはやはり、チアキちゃン=”みなし児一人旅”説からわかるように恋女房の最も理解者だからである。

ところで、当初マキオちゃんは、女房が乗り込んだスペースシャトル打ち上げの見学を行く気持ちなどさらさらなかった。「宇宙飛行士の亭主」が最大の肩書きとなり、男としての意地を見せるためにも通常どおり日本で仕事をする予定だった。オレは髪結いの亭主なんかじゃねえぞ、オレだって慶応大学から給料をもらって働いている一人前の男なんだぜ、と誇示する機会だと思った。女房が宇宙に飛び立つ時、夫は自分は仕事があるから日本に残っているのは、男として絵になるではないか、、、と。笑わせる、いやちょっと泣かせるなかなかハードボイルドなマキオちゃんなのだ。そんな夫を更正させ軌道修正させたのが、NASAの家族支援プログラム。だいたい、宇宙飛行士がとても危険な任務であることは、映画『宇宙へ。』を観なくても想像がつくだろう。緊急時に判断しなければならない最も重要な直系家族である配偶者が、遠い時差もある異国で顕微鏡をのぞいている場合か、と私だったらつっこみたくなる。オレも少しは成熟して、配偶者としてアメリカの常識に沿った行動をとらなきゃマズイな・・・という延長線上に宇宙飛行士の夫としてのあの溌剌と元気な赤いハッピ姿と打ち上げられたスペースシャトルを見上げる感無量の表情にある。

今回読んで気がついたのが、決して楽しい理想ばかりではないことだ。ヒューストンで訓練を続ける千秋さんのところに、マキオちゃんも留学して短いながら同居の新婚生活を送る。千秋さんは、多忙になりきつい訓練がおわってからも毎日の食事の準備をした。本音は共働きなんだから家事を手伝ってもらいたいのは当然だ。しかし、マキオちゃんは女房の手料理を期待した。その方がラクだしと、多忙な女房におんぶにだっこ、ちょっとウシロメタイ気持ちがするがおんぶにダッコと。そのウシロメタイ気持ちが、自分のだらしなさを本書で正直に反省はしていないが白状しているところが、万事率直なこの人らしい。そういえば、千秋さんがマキオちゃんを大好きだけれどプロポーズになかなかOKしなかったのは、彼の中に男女の差別意識を見抜いていたからだった。女房をすごい奴だと尊敬しても、女性が働くことに理解を示して協力するのはまた別である。しかし、そんなおふたりも別居結婚のベテランで、それからもずーーっと仲よしのご夫婦。マキオちゃんも「謎の1セント硬貨」では、第25回講談社エッセイ賞を受賞。最大の肩書きも「宇宙飛行士の夫」から今や「妻は宇宙飛行士」に昇格し、やがては「妻は元・宇宙飛行士」になる日も近いのだろうか。でも、あの千秋さんのことだから、60代、70代になっても宇宙に飛べそうだ。女房がたとえ宇宙に飛んでも、ふたりの旅行はこれからも続く。運転手はマキオちゃんでチアキちゃんは助手席で、それともチアキちゃんが運転してマキオちゃんは助手席にかな。何しろ、千秋さんによると、夫のマキオちゃんはカラダが弱くて守ってあげなくちゃいけない人らしいから。

■アーカイブ
「謎の1セント硬貨」

「謎の1セント硬貨 真実は細部に宿る」向井万起男著

2009-12-19 17:37:22 | Book
著者は、1947年東京生まれ。72年、慶応義塾大学医学部卒業。現在、慶応義塾大学医学部准教授、病理診断部部長。妻は、日本人女性初の宇宙飛行士、向井千秋。
・・・とプロフィールを紹介すれば、誰もがまずあのけったいな髪型の赤いハッピ姿を思い出すだろう。まったく向井万起男さんは、あのアナ・ウィンターと同じ奇妙な髪型、しかもがんこに同じ髪型を貫く点もアナ・ウィンターばりのうえ、 「宇宙飛行士の妻をもった男」が最大のキャッチフレーズという肩書きを利用してエッセイを書けば、世間(特に男性軍)から偏見や誤解(もしかしたらやっかみも?)を受けちゃっているんじゃないか、と私は心配している。しかし、向井千秋さんとの出会いから結婚、結婚後の「君について行こう」を読んだ女性は、みんなもれなくマキオちゃんのファンになってしまう。そんなわれらがマキオちゃんの10年ぶりのエッセイが、第25回講談社エッセイ賞に選ばれたと聞けば読まずにはいられない。

その日、12月24日はマキオちゃんと女房のチアキさんは、ジョンソン宇宙センターがあるテキサス州ヒューストンからマイアミへ向かう飛行機のエコノミー席に座っていた。(エコノミーというのがこのご夫婦らしい)と、突然アテンダントの明るいアナウンスが機内に流れる。ファースト・クラスで用意していたシャンペンが1本あまり、一番古いペニー硬貨をお持ちの方にクリスマス・プレゼントをするというのだ。おっ、なんと粋なことをするんだ、アメリカ人。するとある30代半ばの知的なビジネスマン風男性が喝采をあげて名乗りをあげた。彼は父からもらった「スチール・ペニー」をお守り替りにいつもお財布に入れてるからだという。
ところで、スチール・ペニーって何?
スチール・ペニーとは、第二次世界大戦時に軍事用に使用される銅にかわって、一時的に鋼鉄でつくられた1セント硬貨のことである。製造されたのは1943年だけらしい。
誰もがスチール・ペニーと聞いて、納得。第二次世界大戦じゃ相当古いもんね。日本人としては、な~るほど、そうかっ、で普通の人は終わる。。。
ところが、病理診断をオシゴトにしているマキオちゃんは、私だって科学者のハシクレと、1943年”らしい”というあいまいではまずい、断定しなくちゃとばかりに帰国後スチール・ペニーの詳細な調査をはじめる。まさに微に入り、細に入り。早速、コイン収集愛好家のホームページを見つけるや、おそるおそるながら質問メールを送るマキオちゃん。すると親切のもちゃんと解説の返信がかえってきた。これに気をよくした彼は、ウォールストリート・ジャーナル相手にもやってみることにした。そっ、なんでもやってみるのがマキオちゃんの流儀。

向井さんご夫婦は、広大なアメリカを長距離でもドライブ旅行をするのが大好きらしい。どうやら運転手はチアキちゃん、助手席にマキオちゃんが多いらしいが。勿論、ひとりでもアメリカをたくさん旅行するマキオちゃんは、クリントン元大統領の故郷などのいまや有名な観光地から、ポパイの巨大な像のある無名の町、大リーグ・マニアのマキオちゃん好みのハンク・アーロンが少年時代に野球をした球場など地図を片手に車でたくさんの旅行をしてきた。やがて単なる観光旅行から
「なぜアメリカのトヨタ販売店は、巨大なアメリカ国旗をかかげているのか?」
「マクドナルドのトイレは、ハンバーガーを買わなくても使えるのか?」
「アメリカのモーテルやホテルでは、なぜシャワーヘッドが固定されているのか?」
「キルロイ伝説」
と次々と疑問や謎がわいてくる。疑問は解決すべくばんばん質問メールを送信して、細部を病理解剖よろしくつまびらかにしていくマキオちゃん。気さくに、ある人は丁寧に、また中には事務的に、とにかくばんばんメールの返信がかえってくるのがアメリカ人。なんでそんなどうでもよいことにこだわるの、妻のチアキちゃんでなくても思うのだが、そんなこだわり派のマキオ流をうっとうしいと感じるよりも、おもしろいと一緒に楽しめるのは、アメリカの文化であり、国民性であり、懐の深さである。そして、マキオちゃんの軽妙洒脱な語り口と相かわらず仲のよいご夫婦ぶりが伝わるのも魅力。
宇宙飛行士の妻と遠距離恋愛を続ける医師の夫の夫婦によるアメリカ大陸横断、珍道中。笑いあり、トリビア伝説あり、と楽しいだけで終わらないのが、本書。そのマキオちゃんの真価を発揮するのが、スチール・ペニーのプロローグからはじまり、最後にしめる人口8人の街のエピローグである。軽いエッセイの中に沈むのが戦争のかげであり、鋭くも繊細な著者の感性である。
本書を読むと、はるかかなたまでドライブモードをオートに切り替えてアメリカをドライブしたくなること間違いなし。そして、本書でも向井千秋さんが宇宙飛行士の資質を備えていることがわかる。そして、なんとなくマキオちゃんが頑固に絶対に髪型をかえない理由も・・・。やっぱり、真実は細部に宿るのだ。

「東京クヮルテット」リクエスト・プログラム発表

2009-12-17 22:20:01 | Classic
お待たせしました!

来年、2月18日~20日の三日間に渡る王子ホールで開かれる東京クヮルテットの創立40周年の記念コンサート。第2日めの19日<~Transit 現在地~>は、曲目アンケート(候補作品15曲の中から3曲投票)をもとに、メンバーがプログラムを決める企画だった。その曲目発表のお手紙が、今夜届いたのだ。

待ちました!

来年1月発表の予定をくりあげてのご連絡。まずは、惜しくも選にもれてしまった名曲の数々。

2位 シューベルト:弦楽四重奏曲 第14 番 ニ短調 「死とおとめ」 (38.6%)
5 モーツァルト:弦楽四重奏曲 第19番 ハ長調 K.465 「不協和音」(27.1%)
6 ドビュッシー:弦楽四重奏曲  ト短調 Op.10(20.0%)
7 ヤナーチェク:弦楽四重奏曲 第2番 「内緒の手紙」 (18.6%)
8 シューベルト:弦楽四重奏曲 第8番 変ロ長調 Op.168,D.112 (14.3%)
9 武満 徹:ア・ウェイ・ア・ローン(13.6%)
10 ハイドン:弦楽四重奏曲 第78番 変ロ長調 Op.76-4, Hob.III-78
「日の出」 (12.9%)
11 バーバー:弦楽四重奏曲 ロ短調 Op.11(12.1%)
12 細川俊夫:「開花」(07年3月ケルンで世界初演、08年札幌PMFで日本初演)(11.4%)
13 ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調 Op.95 「セリオーソ」(10.7%)
14 シューマン:3つの弦楽四重奏曲より イ長調 Op.41-3(8.6%)
15 ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 Op.18-2 「挨拶」 (4.3%)

惜しい・・・私が投票した「死と処女(おとめ)」・「不協和音」が落選。しかし、

「・・・さて、演奏会のプログラムをたった3曲の弦楽四重奏曲で終わらせる訳にはいきません。皆さんご安心くださいね。アンコールでは惜しくも選にもれた曲を幾つか演奏するつもりでいます・・・」
――マーティン・ビーヴァー

この言葉に期待というか最後の望みをかけている。そして、最終的に選ばれた曲は次のとおり。

******************************
2010年2月19日(金) 19:00開演
<第2日> ~Transit 現在地~

ハイドン:弦楽四重奏曲 第77番 ハ長調 Op.76-3, Hob.III-77 「皇帝」

ラヴェル:弦楽四重奏曲 ヘ長調

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第9番 ハ長調 Op.59-3 「ラズモフスキー第3番」

ちなみに「ラズモフスキー第3番」の得票率は41.4%の堂々1位。「皇帝」は31.4%で、ラヴェルは29.3%。

■東京クヮルテットのアーカイヴ
東京クヮルテットの室内楽 Vol.3
東京クヮルテットの室内楽

『副王家の一族』

2009-12-16 22:37:49 | Movie
現在公開中の、19世紀半ばのシチリアを舞台にした、ブルボン朝の副王家に連なる名門貴族を描いた映画『副王家の一族』では、作家の塩野七生さんのご子息アントニオ・シモーネさんが製作助手を務めたという。超辛派の塩野氏が、珍しく一人息子アントニオさんと映画をテーマーにした対談集「ローマを語る」が話題なのだが、アントニオさんが「美に対して敏感な、面食いの女性の意見です」と映画のご意見番としてのママを批評しているには、思わず笑ってしまった。あの塩野氏と同類扱いにするのは恐れ多いのだが、美意識に強い面食いの女性とは、まったく映画を観る私自身のことでもある。

そんな映画に一過言をもっているオンナたちをいたく満足させてくれるイタリア人監督といえば、まずルキノ・ヴィスコンティ。シチリアを舞台に同時代のイタリア貴族の落日と新興勢力の日の出を書いたランベドゥーサの「山猫」を映画化したヴィスコンティの作品と対をなすかのように、フェデリコ・デロベルトの小説「副王たち」を映画にしたのがロベルト・ファエンツア監督である。副王家の豪奢な暮らしぶりを描くための資金集めに11年もの歳月をかけた本作品は、久々のイタリアらしい美意識が隅々まで行き届いた女性好みの映画だったが、貴族への哀愁をただよわせた自身も貴族出身のヴィスコンティ監督による「山猫」とは、描き方が異なる。そして、アラン・ドロンに代表されるヴィスコンティ好みの目がさめるくらいの超美形俳優ではなく、ファエンツァ監督はリアリティのある俳優たちを起用している。

カターニヤで国王の代理も務めるウゼダ家のジャコモは、一族の党首として絶対的な権力と富をもつ封建的な男だった。彼は長男のコンサルヴォ(アレッサンドロ・プレティオージ)をしつけや教育として、現代だったら家庭内児童虐待になるくらい厳しくしつけつつ、本音は息子の対して災いをもたらす者という思い込みをもっていた。その結果、コンサルヴォは父からの愛情を受けられず、成長とともに反動でいつしか父に憎しみを抱くようになっていく。名門だからこその父と息子の確執は、やがてイタリア統一の激動の時代の波に翻弄されていく。そして、美しい娘になった妹テレーザの結婚の選択とコンサルヴォが一族を守るために選んだ道は。。。

映画の舞台になった素晴らしい屋敷は、なんとウゼダ家が実際に暮らしていた城だという。(現在は、美術館や博物館になっている。)彼らの非常に豊かな暮らしぶりが映画から伝わってきて芸術品のような美しさが目と心の保養にもなるのだが、ヴィスコンティが貴族社会への回顧主義的な惜別で時代を肯定した一方、本作品ではユーモラスなタッチで貴族たちのしたたかだが保守的な思想からぬけられない様子をあぶりだしている。その愚の骨頂ともいえるハイライトがテレーザのおぞましいくらいの結婚式である。ファエンツァ監督は、その風貌から察せられるとおりの社会派だった。そして、驚くほど教会の偽善が暴かれていることも見逃してはならない。公開当時、本国では議論をよんだそうだが、日本人の私でもここまで描くかと感心したくらいである。また、今回、この映画製作の台所事情を知ってわかったのが、イタリアでは9割が国とテレビ局で映画製作の資金を提供しているそうだ。当然、政府や教会を批判する内容の映画化は困難、というよりもNGである。しかし、ラッキーにもテレビ局内で権力闘争が勃発して、その隙を突いて企画が通って実現したのがこの映画である。なかなか反骨精神のある監督にとっては、だから19世紀の階級社会も現代の保守性にもつながり、よくも悪くもイタリアは変わっていない。

ところで、塩野氏のご子息のアントニオさんはグローバル不況のあおりを受け、失業中とのこと。イタリアでも映画製作で食べていくのもなかなか大変なんだ。この続きは、対談集の「ローマを語る」で続編の幕を開ける予定。

監督:ロベルト・ファエンツア
2007年イタリア・スペイン製作

『ゼロの焦点』

2009-12-12 16:23:31 | Movie
1957年7月17日の新聞には、経済企画庁による経済白書「日本経済の成長と近代化」の発表記事が掲載されている。その結びには「いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。・・・もはや戦後ではない」と記述された。
前年の1人当たりの実質国民所得が戦前の最高水準を13%も上回るまでに日本経済は回復し、「もはや戦後ではない」が流行語になった。敗戦をのりこえ、高度成長期に移行する時代の分岐点となった言葉が「もはや戦後ではない」。

翌年、女子大の英文科を卒業したばかりの禎子(広末涼子)は、広告会社に勤務する鵜原憲一(西島英俊)とお見合い結婚をする。挙式から7日め。夫となった憲一は、以前の赴任先の金沢支店に仕事の引継ぎを行うために旅立った。しかし、独身時代の荷物は届いたが、帰京予定の日を過ぎても夫は帰ってこなかった。彼は確かに金沢をたったと言う。彼はどこへ行ったのだろうか。お見合いで結ばれた禎子は、自分が夫のこれまでの過去、夫自身について何も知らなかったことに気がつく。禎子は夫を探しに雪の金沢への向かう。
夫が懇意にしていた室田耐火煉瓦株式会社を訪問し、社長の室田儀作(鹿賀丈史)とその妻、佐知子(中谷美紀)に面談をするが、憲一の失踪の手がかりはつかめなかった。おりしも、金沢では市長選挙がはじまり、日本初の女性市長誕生の可能性をめぐってゆれていたのだったが・・・。

映画はホテルでの禎子と憲一のお見合いの席ではじまる。ドレスを着た初々しい禎子とスーツを着た憲一を囲む親族の正装が古臭くやぼったいとはいえ、その晴れ晴れとした雰囲気は現代とそう変わらないのが、作品の最後までベースとなっている。若いふたりが高層の窓から外を眺める姿のシルエット中に、廃墟から復興して高度成長期へ向かう時代の転換点となったその頃の東京の街並みがうかんでいる。戦争のため、10歳も年が離れていることが多少気にはなるが、ふたりはまさにお似合いの新婚夫婦にみえ、それがこれからふたりが築く家庭のあかるさを約束しているようだった。

寒くなると北陸の日本海の荒波を見たい。そんな風変わりな好みだけで、まず劇場では日本映画を観ない私が足を運んだ松本清張原作「ゼロの焦点」の映画化は、期待以上におもしろくてすっかりひきこまれてしまった。日本映画だって、こんなにおもしろかったんだ!その私のツボにはまった理由は以下に集約されるだろうか。

①忠実な時代性の再現
遠い昭和30年代を小道具を含めてあますことなく、しかもさりげなく忠実に再現をしている。「三丁目の夕日」が、昭和の再現を可能にしたCGによるテクニックに感嘆し、当時の雑貨類の収集や大道具に目をひかれがちで、映画のコンセプトでもある昭和の時代性そのものが物語りと並行していたのだが、「ゼロの焦点」では”時代”が実に自然に物語にとけこんでいて、隅々まで完璧である。時を刻む時計の音、風呂敷、柳行李、鞄、佐知子の着る真珠色のワンピースの絹の重み、清張誕生100周年記念、東宝映画50周年事業の映画にかける気合が充分に伝わる。

②キャスティングの成功
30歳近い出産経験もある広末涼子が、23歳の新妻の役を演じられるのかと心配だったが、聡明で芯も強い禎子役を好演。考えたら、彼女以外に「昭和」を演じられる実力のある若手女優が思い浮かばないというのも問題か。それともそれほど昭和も遠くなったということか。また、脇役の男性陣のキャスティングもはまっているのだが、それ以上に魅力的だったのが、中谷美紀、田沼久子役の木村多江、市長に立候補した役を演じた黒田福美らの存在である。唯一の難点?は、長身の木村多江のスタイルが抜群なだけである。田沼久子役は、もんぺが似合う体型でなければならないので、木村多江さんはとても好きな女優なのだが、手足がすらりと長くもんぺが似合わないのが惜しい。しかし、私がこの映画で最高の演技賞をさしあげたいのは、女性市長立候補者を応援する市井の女性たち、その他の通行人や外人相手の売春婦を演じた無名の女優陣かもしれない。むしろ本作品は、多くの女優が出演した女たちによる女性映画とも言える。

③社会背景のおさらい
主人公の禎子はお見合いで簡単な経歴しかわからない男性と結婚し、失踪されてはじめて夫に秘密の暗い過去があることに気がつく。恵一が禎子を選んだのは、「もはや戦後ではない」新しい時代の象徴のような素直で希望に満ちた戦争の影のない若い娘だったからだ。恵一や佐知子、久子たちの存在は、ネットによる情報化時代、できちゃった結婚、事件ともなれば被害者のプライバシーまでさらけだされる現代とはあまりにも遠い隔たりを感じさせられる。久子は、貧困によって学校に通うことすらかなわず文盲だった。まるで別の発展途上国のようでいて日本の変貌にいまさらながら驚かされる。過去を知ることは、この国の将来を考えることにつながる。

最後に場面は一転、益々高速化する新幹線が走りぬけ、近代的な高速ビルが林立する東京を映す。禎子と恵一がお見合いをしたホテルの窓から眺めた町は、奇跡とまで諸外国から評価されるほど見事に発展した。そして携帯電話を片手にブランド・バッグを持ち歩き我が者顔に闊歩する夏の平成21年の女たち。その現代の日本を大きく美しい瞳でじっと見守っているのは、銀座の画廊に飾られた佐知子の肖像画だった。あれから50年あまり。彼女たちが希望を抱いたこの国は、戦争の跡形もなく大きく変貌し、そして今、どこへ行こうとしているのだろうか。東宝映画50周年事業にふさわしい企画による映画だったと思う。


「もうひとつの世界でもっとも10の美しい科学実験」ジョージ・ジョンソン著

2009-12-11 23:50:30 | Book
今月9日、総合科学技術会議(議長・鳩山由紀夫首相)が開か、有識者議員から「日本では若手や外国人の研究者の雇用環境が厳しい」と指摘され、鳩山首相は「予算に反映できるよう努力する」と発言したそうだ。その一方、会議では次世代スーパーコンピューター事業を「推進」などとした10年度科学技術関連予算の「優先度判定」の結果を報告。行政刷新会議の「事業仕分け」ではスパコンは縮減とされるなど判断が異なった点について、菅直人副総理兼国家戦略担当相(科学技術担当)は会見で、「行政刷新会議の結論に加え、総合科学技術会議の結論を勘案し、総合的に政治判断される」と語った。

21世紀の科学は実に金がかかる。トップ・クォークの存在の証明など、数100万ドルもの費用がかかると言われている。また、Ips細胞の研究などは、国益にからむ産業化にも結びついている。スパコンなどは、計算工場と呼ぶべき規模に肥大化し、発生する熱を冷却するには小さな町に匹敵する電力を消費している。人的資源も含めて、企業規模の大きさが必要になっているのも今日の科学である。しかし、つい最近まで偉大なる科学的な発見は、ひとりの人間の知識と実験によって誕生したのではないだろうか。

名著ロバート・P・クリースによる「世界でもっとも美しい10の科学実験」の美の基準を、意外性、必然性、効率のよい経済性、シンプルさ、議論の余地のない明白さ、衝撃の大きさに求めていたが、本書の著者であるサイエンス・ライターのジョージ・ジョンソンは、実験に単純明快な優雅さ、古典的な意味での美しさを求め、更に実験の計画と実施、思考の流れに無駄のないエレガンスな美しさで選別したのが次の実験である。

第1章 ガリレオ・ガリレイ―物体はほんとうはどのように動くのか
第2章 ウィリアム・ハーヴィ―心臓の謎
第3章 アイザック・ニュートン―色とは何か
第4章 アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ―徴税請負人の娘婿
第5章 ルイージ・ガルヴァーニ―動物電気
第6章 マイケル・ファラデー―奥深く隠されしもの
第7章 ジェームズ・ジュール―世界はどのように仕事をするのか
第8章 A.A.・マイケルソン―宇宙で迷う
第9章 イワン・パブロフ―測定不可能なものを測定する
第10章 ロバート・ミリカン―ボーダーランドで

偉大な科学者には、意外にも科学とはほど遠い人間くさい非科学的なドラマがころがっているのものだが、実験者ではなく実験そのものを主人公にするために、伝記部分はあっさりと淡いタッチで書かれている。(ほんの短い”脇役”の科学者のエピソードや語りのうまさに、著者はなかなかの名文家だと察せられる。)物理分野におされぎみの美しい実験に、今回は化学や生物の実験も登場。いずれも情熱的な科学者による実験は、理論と実験がシンプルなだけに一種のショーのような驚きに満ちている。ただ時代が近代に近づくにつれ、実験が複雑になりわかりにくくなるのも自分の勉強不足かと嘆かわしくなったのも本当である。美しさを感じるのもまったく知性が必要である。

さて、私が今回もっとも美しいと感じたのは、ウィリアム・ハーヴィによる血液循環の実験である。彼はさまざまな生体の心臓を研究し、最終的に血液がひとつのサイクルをなして循環をしていることを、血液をつまんだり腕を縛ることで反論する人々に証明した。彼の小宇宙の太陽と崇められていた心臓への探究心の源をたどれば、ぬるま湯で満たされた容器のなかにおかれたニワトリの小さな雲のような胚の観察にある。非常に小さい針の先ほどの赤い点に過ぎないニワトリの心臓が胚の内部で鼓動をしている時の現象を彼は実に詩的に説明している。

「見えるものと見えざるもののあわい、存在と非存在のあわいというべき状態で、その鼓動は、ある意味、生命のはじまりを体現していた」

鼓動のたびに見えなくなっては、また現れる小さな赤い生命。その生命のあわいまたたきが、当時としては画期的な血液が心臓から出て動脈経由で身体各部を経ながら再び心臓へ戻ることの証明にやがてつながったのである。

■アーカイヴ
「世界でもっとも美しい10の科学実験」ロバート・P・クリース著

ある訃報

2009-12-09 22:44:20 | Nonsense
11月11日の夕刻、ドイツのあるサッカー選手が猛進してくる列車に自らの身を投げて亡くなった。
遺体は事件の現場となったハノーバー近郊の踏切の近くに自宅をもつ、ブンデス・リーガー「ハノーファー96」のゴールキーパーだったロベルト・エンケ選手。
2007-08シーズンにはチームメイトによって主将に選出されるほど信望もあつかった。2008-09シーズンでは所属クラブが11位だったにもかかわらず、キッカー誌のベストイレブンにも選ばれたほどの実力の持ち主だったそうだ。まだまだ?いやこれからの、選手層の厚いドイツでようやく正ゴールキーパーの座をつかんだドイツの至宝とまでたたえられた32歳の選手。そんな彼が何故サッカーボールではなく、鉄の塊に飛び込んだのであろうか。ドイツ全体が嘆き悲しみに沈みながら不可解なその死を誰もが思った。

3年前の9月、エンケ選手は妻テレーザとの間のひとり娘、2歳のララちゃんを先天性心臓疾患で失った。ご夫婦の心情を想像すると、生まれてからずっと愛娘の容態を薄氷をふむように大切に見守ってきた日々だったのではないだろうか。一日、一日、赤ちゃんの健やかな成長を喜ぶ親としての日々も、夫婦にとっては一般的の親とは少し違っていたかもしれない。深い悲嘆の末、エンケ選手が「うつ」になっていたことは、主治医とテレーザ夫人以外、誰も知らなかった。今年の5月、夫婦は新しくライラちゃん名づけられた二ヶ月の女の子を養女に迎えた。ふたりは、ライラちゃんを掌中の玉のごとく愛情をそそぎ慈しんだ。新しい生命、新しい愛情をかける確かな存在。たとえ血のつながりはなくとも、ライラちゃんの笑顔がどんなにかうつ病に悩むエンケ選手の心を癒してくれることかと思うだろう。

しかし、彼は違っていた。ライラちゃんに深い愛情を感じればこそ、新たな不安に翻弄されるようになった。
再びこの子も失ってしまうのではないかと。
あまりも痛ましい自殺の背景に、サッカーを知らない私でも胸がつまされるようだ。我が国内でもうつ病は増加傾向にある。警察庁の発表によると昨年一年間に自殺した32249人のうち、原因・動機が遺書や関係者の話などから「うつ病」が動機の一つとなった人が6490人にも上る。専門家の間では、10年も前からうつ病対策の重要性が言われているが、いっこうに減る傾向がない。がん予防、がん対策も重要な課題だが、心の病のよい治療方法の確立も急ぐ必要があるのではないか。自ら死を選ぶとは、なんてむごい病なのだろう。

11月15日の日曜日午前10時、ハノーファー・スタジアムは3万5千人観客で満たされた。フーリガンなる言葉もあるくらいの熱狂ぶりも話題のサッカーの試合だが、その日のスタジアムは静まりかえっていた。集まった人々は殆ど喪服。フィールドの中央の台の上には、白い薔薇に囲まれた木製の棺が沈黙している。その棺の中で眠っていたエンケ選手は、やがてララちゃんのお墓の隣に埋葬された。

『ファッションが教えてくれること』

2009-12-07 22:34:02 | Movie
定期購読をしている「Domani」(←女性向けファッション雑誌)の今月号の表紙を見た時は、心底がっかりした。
全体的にグレーのモノトーンなのである。ファッション雑誌の表紙にモノトーン?斬新さをねらったのであろうが、1月号と言えば、新年号。いくら不景気だからとはいえ、いつもよりもいっそう華やかに幸福感を装うのが新年号の特徴ではないか。しかも、今時?な素肌にジャケットをはおったスタイリングで「ミス・ユニバース世界大会」で準優勝の実績のあるモデルの千花くららさんのグレーな表情はさえず、なんとなくやつれ感すらただよう。そもそも、ファッションに色彩は重要で、単に黒といっても様々な黒があり、布の質感がわかるカラー版にすべきではないか。これでは、まるで黒いサングラスをかけて洋服を眺めているみたい。・・・そうだった。私がいつも疑問に感じていたのは、真っ黒なサングラスをかけて”グラマーな昆虫”とおそれられる米国版「ヴォーグ」誌の名物編集長、アナ・ウィンターがあのようなサングラスを通して、いったいどうやって服装の色彩を見て感じることができるのだろうか。

閑話休題。
米国版「ヴォーグ」は、アメリカ女性の10人に1人が読むという。そんな驚異的なファッション誌に88年から編集長として君臨してきたアナ・ウィンターのサングラスをはずした素顔にせまったドキュメンタリー映画が、このR.J.カトラー監督による『ファッションが教えてくれる』である。監督は、9ヶ月に渡って契約交渉し、準備に1年、撮影に約9ヶ月をかけ、ファッション誌にとって年間で最も重要な特大号「9月号」完成までの5ヶ月間を切り取った興味深い作品である。(以下、内容にふれておりまする。)

まずはアナ・ウィンター編集長の出勤する様子が映像に流れる。迎えにきた車に颯爽と乗り込んだ彼女は、戦闘モードへの準備にスタバに寄って”自分で”コーヒーを買う。映画『プラダを着た悪魔』を意識したかのようなシーンにはちょっと笑わせられるのだが、出社するや次々に部下に厳しい意見を飛ばす様子は、まさしくプラダを着た悪魔である!若い女性編集者に「あなたが使うモデルはいつも同じ印象、あなたと同じストレートの髪型をしていて新鮮味がない」と厳しくも鋭い指摘。老舗の天下のサン・ローランのメゾンに出向いては、椅子にこしかけ腕を組みデザイナーを相手にコレクションの進捗状況をチェックしてアドバイスをする。
しかし、この鬼編集長が看板だけでなく確かに実力の持ち主であることは、映画が教えてくれる。

アナは次々と多忙なスケジュールをこなし、写真を一瞥しただけで雑誌掲載の的確な採用・不採用の決断をくだす。彼女の有無も言わせぬ審判に納得がいかないのが、いつも黒い服に身を包んだベテランのクリエイティブ・ディレクター、グレイス・コディントン。老女といってもよいグレイスは「ヴォーグ」の表紙を飾ったこともある元モデル。若かりし頃の写真によると、さすがに表紙を飾るだけあって繊細で気品のある美貌の女性だった。彼女は当時の美貌そのままに独特の美意識をもつハイ・ファッションのセンスではまさに天才である。セレブの時代を予感して常に流行を先取りして読者の心をつかんできた有能な編集長のアナと、あくまでも洗練された最先端の究極の美の世界にこだわるグレイスとは方向性の違いでしばしばぶつかることもある。しかし、お互いに相手の能力とセンスを尊敬している点で相乗効果をうんでいるのが「ヴォーグ」である。「ネオンカラー」をテーマーにしたグレイスの作品を、即効で却下。不服をもつグレイスだったが、すべて撮りなおしした写真は、確かにテーマーのコンセプトがより明快で素晴らしくセンスのよい写真に仕上がっている。これならアナも満足。またグレイスがこだわった1930年代をイメージした写真の数々は、まさに「ヴォーグ」らしい夢のような美しい芸術品そのものである。一流の写真家、モデル、デザイナー、ディレクターら多くの人々が精魂こめて作り上げたのが、たった一枚のページを飾る写真であり、それらが編まれたのがファッション誌「ヴォーグ」なのである。

毛皮をまとった”グラマーな昆虫”は、関西系おばちゃん的ノリと思っていたアナ・ウィンターだが、実はサングラスをはずした素顔は間違いなく美人でスタイルもよい。しかも、流行を司る巫女にも関わらず、むしろコンサバな育ちのよさが感じられる服装の趣味は可愛らしいのである。ベビーピンクのカーデガンにふわりとしたスカート、シャネルかと思われるスーツ、そしてある日のノースリーブのワンピースはピンクのリボン柄。さりげなくて、上品、でも女性らしい可愛らしさがある。すっかり私は、彼女のファッションを気に入ってしまった。常に新しい流行をつくる女性は、シグネチャーとなっているボブカットと同様、頑固にも流行路線とは別に自分の趣味を貫く女性でもある。アナ・ウィンター自ら認める長所は決断力。そして弱点は、こども。

それにしても、ネット時代にも関わらず雑誌という形態のメディアの力の大きさである。芸術家に近いデザイナーと流通業界、そして消費者を結ぶファッション誌の名物編集長。彼女自身がファッションを創造するわけではないが、”流行”という見えない波を予感してつくる現代の巫女の存在は、現代のファッション業界を象徴している。そして噂どおりの鬼編集長であり、それゆえに優秀な仕事人間だった。

監督:R.J.カトラー

■こんなアーカイブも
『プラダを着た悪魔』の名物編集長
映画『プラダを着た悪魔』