千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「透明マント」の使い道

2006-05-31 23:18:03 | Nonsense
「透明マント作れます」英の学者ら開発理論

英米の科学者らが26日、米科学誌サイエンス電子版に、「物体を見えなくする素材の開発は可能」とする論文を発表した。
この理論を基に開発が進めば、小説「ハリー・ポッター」に登場する透明マントの作製も夢ではなくなりそうだ。光は普通、物体に当たって反射したり散乱したりするため、人間は物体を見ることができる。
英セントアンドリュース大のレオンハルト教授らによると、光の進む方向を制御できる特殊な微細構造を持つ複合素材を開発できれば、川の水が丸い石に妨げられず滑らかに流れていくように、光が物体を迂回(うかい)して進む。
この場合、人間の目には、そこには何もないように見え、影もできない。
教授らは、手始めに特定の波長に対する“不可視性”を持つ素材の開発に挑むという。透明マントが実現すれば、軍事技術として利用できるため、研究は米国防総省が支援している。(2006年5月26日 読売新聞)

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科学の研究が、すべて人類に貢献するという虹は消えかかっている。まるでSF小説や漫画「ドラエモン」に登場するような透明マントの開発理論を、そのユニークさで興味をもったが、軍事技術利用目的のために米国防総省が支援しているという最後の説明におおいに納得しつつも、なにか一抹の不興も感じる。

中島秀人氏の著書「日本の科学/技術はどこへいくのか」で、<変化する科学技術>として村上陽一郎氏が科学が歴史的に三つの段階を経て、発展したとする説を紹介している。

■第一期「前科学期」
ガリレオ・ニュートンまでさかのぼり、宗教的世界観と渾然一体化している科学研究。

■第二期「プロトタイプ期」
ダーウィンの「種の起源」に代表されるように、宗教のような世界観と分離して、研究主体の学問の自由も主張される。相対性理論のような新しい発見が、学術雑誌に発表されるようになり、評価は学会の内部でなされ、科学は自己完結した。

■第三期「ネオタイプ期」
化学の戦争といわれる第一次世界大戦からはじまり、国家や企業による科学への支援が本格化し、自己完結型でなく使命達成型の研究が進められるようになった。

このタイプの研究を決定的にしたのが、原爆開発をミッションとしたビッグプロジェクトであるマンハッタン計画だと中島氏は解説している。

しかし、すぐに科学者が国家や企業の使徒となってしまったかというとそうでもない。キュリー夫人、鉄腕アトムのお茶の水博士のような高潔な真理追求型の科学者も延命していた。現在の日本では、企業のミッションを背負った研究者が全体の3/4に及ぶと言う。科学者の高潔の源を英国物理学者は、

①科学の公有主義
②人種・国籍にこだわらない普遍主義
③私的利害にとらわれない無私性
④学問的独創性
⑤全ての主張を検討する懐疑主義

に求めている。こうした科学にふさわしく、我々の科学者へのイメージは、「プロトタイプ期」の古典的科学者像としてとらえている。しかし現代科学の実態は、所有的、局所的、権威主義的、請負的、専門的になっている。こうした実態のそぐわない科学者のイメージを改めるべきだというのが、村上氏の主張だ。

村上氏の異見は、もっともな意見だろう。しかし、そこには夢が育たない。また科学者をめざす人々のモチベーションが減退すれば、優秀な人材は研究分野ではなく産業界に流れてしまうのではないだろうか。ここで佐藤文隆氏のナイーブな探究心である科学と、社会化された括弧のついた「科学」を区別しようという説に耳を傾けたい。純粋科学の才能に富んだ者は、教師として密やかに知的オーラを放ちながら生きていくべきだと佐藤氏は説いている。

軍事目的のために透明マントを開発する「科学者」を非難しているわけではない。国のひもつき、ということでは大学という城の中に蟄居する純粋科学者とはかわらない。また独立行政法人移行に伴い、益々産業界から資金が流れる「科学」が大学でも生き残りやすい。ただ大局的に人類の発展と科学へ思いをはせると、マイノリティになりつつあるお茶の水博士を大切にしたいのである。

『遠い路』イ・ビョンホン

2006-05-29 23:37:22 | Movie
萌える韓国俳優多数。(やっぱり私はミーハーか。オドレイ・トトゥはそんなに可愛いか?)けれども演技力においては、イ・ビョンホンが最高の役者だという確信はゆるぎない。ドラマでは駄作もあるが、少なくとも映画出演に関しては作品に恵まれているとも思う。そこで2001年旧正月に放映されたというアットホームな韓流ドラマ『遠い路』で、梅雨のうるおいを我がこころにも・・・。

田舎を出て独り暮らしをしながらソウルの郵便局に勤めるソンジュ(パク・チミ)の目下の楽しみは、旧正月に恋人ギヒョンを連れて故郷の海辺に帰省すること。毎晩のように、婿の顔を見ることを楽しみにしている父からの電話が入る。ところが帰省を目前にして、ギヒョンから他に恋人ができたことを告白される。ショックを受けながらも列車の切符を渡して、当日いつまでも彼を待ち肩を落とすソンジュの姿はいかにも寒そうだ。
そこへ日頃は配達の仕事をしているウシクが、白タクの仕事でひと稼ぎしようとソンジュに声をかける。誰もが家族と過すことに思いをはせる旧正月だが、孤児院育ちの彼にとっては無縁だ。ソンジュは婿の来訪を楽しみにしている父のために、ウシクに報酬を支払うかわりに期間限定の恋人役を依頼する。道中、ギヒョンのバックグランドを教えられながら、彼女のためになんとか身代わり役を務める決心をするウシク。
ところが彼女の実家でそうとは知らず婿を大歓迎する父や近所のおばさんの存在によって、家族の暖かみを感じるウシクは、少しずつソンジュと彼女の家族と離れがたくなって行く。そこへ近所まで来ているギヒョンからソンジュに突然電話がかかり、偽装恋人の契約は中途で解約することになってしまうのだが。

旧正月にあわせて二日間に渡って放映されたと思われるこのホームドラマは、ふたりが出会って契約を交わし、ソンジュの実家の前に車が到着するまでが前編。偽りの婿になる恋人として初めて父に会うところから後編がはじまる。
ニット帽をかぶりジャンバーを着込み、楽しげな人々の間をぬって違法な白タク営業をもちかけるウシク(イ・ビョンホン)は、いかにも孤児院(この表現は不適切だと思うが、韓国ドラマではこのように訳している)育ちの家庭的な幸福から遠い存在に見える。ラジオから流れる帰省ラッシュの報道を聞きながら、簡素な食事や家具に囲まれた室内でひとり所在なげだ。それでも、お金持で優柔不断なギヒョンより人として上等に見えるのは、ソンジュが窓口を務める郵便局から、孤児院のこどもたちひとりひとりにプレゼントを贈るエピソードでわかる。
イ・ビョンホンは、孤児の役がよく似合う。
しかし、しかしである。前編の最後、車から降りドアを開けてソンジュに手を差し出し笑顔のイ・ビョンホンは、どこから見ても裕福な育ちの良い好青年になりきっているではないかっ。このような乖離した役を演じわける彼の演技には毎回驚かせられるのだが、もはや得意技なのであろう。
ドラマは旧正月にふさわしく、父を思いやる優しい娘、妻を10年前に亡くし娘に愛情のすべてをふりそそぐ父、やもめ暮らしの父をなにかと面倒みる近所のおせっかいなおばさん、そして主人公である偽装婿を中心に進行していく。ここで注目すべきは、娘の選んだ婿を精一杯歓待する父に、一生懸命親孝行をする偽装恋人だ。通常だったら、少々重く感じる義理の父の愛情を彼はすべて受け止める。彼には、幼い頃の父の思い出しかないからだ。家族をもたない彼にとって、婿がやってくることを村中が知っているこの風光明媚だが辺鄙な村は、ひとつの大家族ともいえるコミュニティーだ。そのコミュニタリアニズム(共同体主義)の懐に包まれた彼は、ソンジュの父と離れがたくなっていくのが、このドラマの最大の泣き所だ。

28日の「日経新聞」と「読売新聞」の書評欄に、偶然同じ一冊の本がとりあげられていた。41年生まれハーバード大学教授であるロバート・D・パットナム氏の『孤独なボーリング』である。
(クリントン大統領の一般教書演説にも影響を与えた全米ベストセラーの本書は、読みたいと思っている。)
豊かさが庶民の及んでいなかった時代、日本でもこの韓国の「遠い路」のように近隣同士相互に助け合った。婿の噂話を楽しむ村人のような濃密な人間関係の息苦しさを代償にして、困難や悲しみを乗り越えるインフォーマルな互助制度が作動していた。
本書は、米国をベースにこのような人々の互酬性(贈与の交換)の量と質の変換、そして帰結を分析している。つまり、社交が「公」から「私」への急激な偏りが進んだ結果、人づきあいが共同体を支える「糧」ではなくなり、社会全体を枯渇させているとしている。(著者は、この「糧」を「社会的資本関係」(ソーシャルキャピタル)と呼んでいる。)かって人々が返礼をくりかえすことによって構築された社会的ネットワーク、人脈関係の市民的インフラ(資本)の衰退、地域社会の絆の消失は、すなわちセイフティネットが働くなることでもある。

孤児として育ち、よるべのない日々を暮らしていた主人公は、「冬のソナタ」でもロケ撮影に使われたという海辺村で、はじめて父と息子、妻と夫、という家族関係だけでなく、地域社会との絆をももつようになる。こののどかな村では、米国や日本のような近隣共同体の衰退とは無縁だと信じたい。

『さよなら、子供たち』

2006-05-28 18:03:39 | Movie
1944年も明けた早朝、冬の凍てついた道をひとりの神父と3人のこどもたちがナチスによって連れ去られていく。
整列させられたこどもたちは寒さにふるえながら呆然として、「神父さん、さようなら」と声をかける。そして、彼は振り返って応える。
「さようなら、子供たち。また会おう」

ルイ・マル監督は、40年以上経ってもこの日のことを忘れないと言う。この映画「さよなら、子供たち」を撮るために、自分は映画監督になったと。

シューベルトの「楽興の時」第二番が流れる。ナチスが占領する1948年、短いクリスマス休暇をおえてパリから離れた郊外のカソリックの寄宿舎へ戻る駅、12歳のジュリアン・カンタン(ガスパール・マネッス)は、母との別れを惜しんでいる。生意気盛りのジュリアンではあるが、母と別れる寂しさに車窓の冬の寂れた風景も涙でけむる。
こどもたちがそれぞれ寄宿舎に戻ると、縮れた黒い髪の転入生ジャン・ボネ(ラファエル・フェジト)がやってくる。文章表現能力ではジュリアンの右にでる者はいなかったが、ボネは彼をもしのぎ、また難しい数学も次々と解き、まさに才気煥発。しかし、誰にもこころを開かないボネを意識しながらも、反発を感じるジュリアン。
やがて森での宝捜しのゲームで、ふたりきりになった彼らは好きな小説の話をしたり、親しくなっていく。会計士だったボネの父は捕虜となり、母は非占領地域に行ったまま音信普通になっている。まだ幼いジュリアンは、ボネの事情を理解できない。父母参観の日、ジュリアンは誰も参観にこないボネを母と兄との食事に招待する。「ユダヤ人に偏見はない」と言う母に、ボネは母を思い出し親しさを感じる。
勉強、食事、運動、神父さんたちも参加する遊びの時間、寄宿生活での日々は、塀の外の戦禍と離れて平和に過ぎていくようにみえるのだが。

映画の最初から最後まで、忠実に再現された当時のカソリック系の寄宿舎でのこどもたちの生活である。広い部屋にいくつも並んだベッド、石鹸とタオルをもって近所にお風呂に入りに行く日、黒い制服に身を包む上品なこどもたち。その淡々とした日常生活を描くことによって、戦争という非条理な世界におしつぶされていく人間のあり方をルウ・マル監督は問いかけている。
同じドイツ人といっても、レストランでひとり静かに食事するユダヤ人紳士を恫喝するゲシュタポと、彼らのふるまいを嫌悪して逆にやりこめるドイツ空軍の将校たち。また寄宿生は、みな裕福な資産家のこどもたちである。そんな彼らが勉強し、運動する姿を横で見ながら同じぐらいの年齢で料理番として働き、給仕して奉仕するジョセフ(フランソワ・ネグレ)。ここに生まれながらにして富める者と貧しい者の対比がある。
そんなジョセフは、戦争の物資不足もあいまって少しずつ精神がゆがんでいく。闇商売に手をそめるようになった。
「富めるものは、もたざるものに分け与えよ」という共産主義的な富の再分配を信条とする校長のジャン神父は、その事実に気がつき彼を厳しく解雇処分にする。物資を提供したこどもたちになんのお咎めもなく、自分ひとり解雇されて放り出されたことに強い不満をもつジョセフは、憎悪をつのらせる。そして彼は、ユダヤ人少年をかくまっている校長をゲシュタポに密告するのである。弱者の復讐の対象が、さらなる弱者ユダヤ人少年へと向かう対立が、人間の哀しい存在をうきあがらせる。

そしてゲシュタポが教室に侵入してユダヤ人狩に来た時、ボネを気遣い思わず振り返ってしまうジュリアンの視線の先をドイツ将校のミュラーは、見逃さなかった。教室から退出するように命令されるボネは、すべてをあきらめたかのように「いいんだ、いつか、この日がくると思っていたんだ。」とジュリアンに声をかける。この達観した言葉は、生涯苦しむジュリアンをゆるすのだろう。

学校は、その日閉鎖された。ジュリアンたちは、二度と彼らに会うことはなかった。
ボネを含む3人の少年達はアウシュビッツへ、校長の神父さんはマウトハウゼへ連れて行かれたのだった。

人体用チップ 米国で注目

2006-05-27 22:42:55 | Nonsense
近々職場で組織変更があり、私も来月はそのための研修がつまっていたりと、誰かにスケジュール管理をお願いしたいくらいになんだか毎日いろいろある。その多忙な日々、お疲れ気味の某女が部屋に入る暗証番号を一瞬すっかり忘れてしまって入れず、パニックになって外から電話をしてきた。ガラス越しにうろたえる姿をみんなで笑った。でも、ありえない話ではない。告白すると私も一度、フリーズしたパソコンを再起動した時、最初のパスワード(共通)を忘れてしまい、頭の中が真っ白になったという経験がある。「私の頭の中に消しゴム」が、現実としてせまってきた事件だ。
考えてみると、ブログの管理者ナンバー、複数の銀行口座の暗証番号、フリーのメルアドのパスワード、勤務先のパソコンの起動用パスワードや自分のIDコード、3ヶ月に一度更新する自分用のパスワード、仕事用のCDを開くためのパスワード、最近では添付ファイルを開くためのパスワード、アマゾンやチケットを購入するサイトのパスワード・・・とてもじゃないが、記憶して管理するのは大変。そんな忘れっぽい人のために管理する便利なサイトもあるらしいが、これからはこんなICチップを腕に埋め込めば大丈夫。
万が一将来アルツハイマー病になってもICチップを読み取れば、個人情報をあなたの代わりに、医師や警察に伝えてくれる。
5月26日の読売新聞で、「米注目 人体用チップ」という近未来を予測させる記事が掲載されていた。
(以下↓、要約)

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コメ粒ほどのチップ(集積回路)を人体に埋め込み、患者の病歴照会や立ち入り制限区域へのアクセス制御に役立てようという試みが米国で始まった。

「鍵をなくしたり、盗まれたりする心配がない」シンシナティで防犯カメラの取り付けを行う会社を経営するショーン・ダークスさんが、腕を白いプラスティック板の前にかざすと、ランプが点灯して電子錠が解除された。ダークスさんが腕に埋め込んでいるのは、米ベリチップ社が開発した人体用マイクロチップ「ベリチップ」全長12㍉の特殊なガラスに入ったチップを、局所麻酔した皮膚に注射器のような機器で挿入する。費用は、200ドル。チップには、固有の16ケタの数字が振当てられ、読み取り機で微弱な電波をあてると読み取ることができる。(記者が腕にさわると、皮膚のうえからチップの埋め込みを感じとれるそうだ。)
製造元ベリチップ社が、将来の市場として期待しているのが医療現場。2004年、米食品医薬品局(FDA)から、患者特定用の読み取り技術の認可がおりた。チップを埋め込んでいれば、意識障害レベルになっても、医療関係者は病歴を知ることができる。
実際、初期の認知症を患う母親(83)に本人同意のうえチップを埋め込んでから、「母や家族に利益になっている」と64歳の娘が語っている。

しかし、こうした管理体制を「市民ひとりひとりに番号を振られること自体が問題」と、強制収容所の囚人の入れ墨にたとえて市民団体は、強く反発する。プライバシー侵害でもあると。
(記事には、読み取り機に腕をかざすダークスさんとチップや挿入する機器の写真もあり)
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職場の部屋の暗証番号を忘れた某女も、一年中365日入念に手入れをされたアートのような爪の変わりに、この人体用チップを埋め込めば暗証番号は不要になる。
理想的な社会主義は、完璧に管理された美しい世界。けれども、それは実現不可能である。決して、人類はそれを望まないだろうから。
学生時代にそう考えて、甘い社会主義は捨てた。ところが、知らないうちに管理され、監視されている世の中がひたひたとやってきているような気がする。今はコメ粒大だけれど、必要性が高まれば人体用チップをもっと小さくすることは可能だろう。男を1女を2にし、生年月日、名前を乱数で数値化すれば16ケタで殆どの個人情報を集約するのは簡単だ。便利で役にたつ情報と、個人の尊厳に関わるプライバシーの確立の両立、技術革新とともに益々問題になっていく。科学のあり方さえも、問いたい。
この世に誕生したとたん目にみえないバーコードを腕につけられ、病歴、学歴、犯罪歴等々・・・どこかで管理されている社会がやってくるという悪夢は、ありえない話ともいえなくなった。どんなに便利でも、頭の中が消しゴムになったとしても、私は人体用チップは拒否したい。人工心臓を奨励しながらも、矛盾しているかもしれないが自分の体の中に異物を埋め込むことへの生理的な抵抗感、そして管理社会への恐怖である。

「ウィーン弦楽四重奏団」The Vienna String Quartet

2006-05-26 23:00:32 | Classic
演奏家にとっては、室内楽は大変難しいが演奏が楽しいジャンルだという話はよく聞く。しかし室内楽のチケットは、なかなか売れない。
けれどもウィーン弦楽四重奏団のチケットは、ほぼ1時間で完売。1964年創設されたという伝統の重みなのだろうか、メンバーのいずれもウィーン・フィルハーモニーのトップ奏者で構成されてきたという実績によるものなのだろうか。予想していたように、観客の年齢層は高い。ヴァイオリンを習っているというお子様の姿はない。それが室内楽というものだ。音楽の最終的に到達するスタイルがオペラとしたら、私は逆に室内楽に向かうだろう。熱心に耳を傾ける聴衆のための音楽は、まるで熟成したワインのような香りを放つも、現代人むけのきりっとした新鮮な切り口も忘れない。ウィーンの伝統ある柔和な響きに、繊細だがしなやかなつよさを秘めた音、というのが特に「狩」で感じられた印象だ。

さて、なんといっても今年はモーツァルト生誕250周年だからオール・モーツァルト・プログラム。なかでも人気の高いハイドン・セット。
モーツァルトは、1781年に作曲されたハイドンの「ロシア四重奏曲」に感動し、彼の6人の息子にたとえて1782年から85年にかけて6曲の弦楽四重奏曲を作曲して献呈した。形式的にはハイドン風の上品な装いで整えながらも、随所に天才らしい創意と妙技がひかる傑作ばかりである。またハ長調という調をとりながら「不協和音」というニック・ネームを与えられている最後の第19番の序奏は、当時としては非常に斬新な和声進行をこころみている。まさに天才の名にふさわしい業績である。同時代のサリエリが、既成の形式にそった中身のない音楽をただきらびやかに繰り返してつくった作品とは違うのだ。

モーツァルトの高い完成度と無垢な音楽性を表現するのは、実は難しい。まるで神から決められたような黄金の旋律を、あくまでも自然な音として演奏されることが望まれる。しかもこんな個人的な理屈とこだわりの美学を意識させてくれないように。
ただひたすら、モーツァルトの音楽をたっぷりと味わった2時間弱、近頃お疲れ気味の我が身を心身ともにいたわってくれたかのような演奏会。「ウィーン弦楽四重奏団」にやっぱり感謝。
アンコール曲も、格別な味わいがあった。

------ 2006年5月25日 王子ホール -----------------------------------------

第1ヴァイオリン:ウェルナー・ヒンク
第2ヴァイオリン:フーベルト・クロイザマー
ヴィオラ:ハンス・ペーター・オクセンホファー
チェロ:フリッツ・ドレシャル

<オール・モーツァルト・プログラム>
弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421
弦楽四重奏曲 第17番 「狩」 変ロ長調 K.458 
弦楽四重奏曲 第19番 「不協和音」 ハ長調 K.465 

■アンコール
弦楽四重奏曲 第21番 「プロシャ王第1番」ニ長調 K.575 第二楽章から

『私の頭の中の消しゴム』

2006-05-24 00:44:53 | Movie
■ガテン系の男は好きですか?



好きでーーーっす!
なにやら一時のヨン様ブームが落ち着いた頃、私も大好きなクォン・サンウが韓国俳優で人気トップを誇ったと思ったのもつかのま、最近ではダークホースとしてチョン・ウソンが人気急上昇中。国内では、多くの韓国俳優のかげにかくれて知名度・人気度ともに今ヒトツだったチョン・ウソンの人気に火がついたのが、映画『私の頭の中の消しゴム』である。映画館で4回も観て大泣きしたという「消しゴム普及活動委員長」から、いかにも大事という感じでビニールに包まれたDVDを拝借。

この映画は、史上最後の唯一生き残っている清純派女優!ソン・イェジンを相手に、チョン・ウソンのガテン系の魅力が満載な映画でもあった。
この野獣派への「萌え感覚」は、某所で読んだ「知的な女性の仕事中とか勉強する時にかけるメガネが、最高」とする男性からの眼鏡っ娘大好きと対極をなすものだ。思えば、男女共同参画というお役所のお達しであらゆる分野に女性が進出するようになった。そのおかげで職場ではかってより男らしさや女らしさを求められることも、求めることもなくなった。カイシャでの役割としての男女の性別は縮まりつつある。そんななかで、最近でこそ女性の姿もちらほら見かけるが、建設現場は今だにか弱き女人の近寄り難い男の砦、聖域として残されている。近代的なオフィスでスーツ姿は素適だがなんだか頼りなげな男性、女性におされぎみの哲学者土屋賢二さんのようなおぢたちを見ていると、汗とほこりにまみれて建設現場で働くガテン系のヘルメット姿に、郷愁じみた男らしさの原点、色気を感じるのだった。

この映画で、チョン・ウソンはそうした男のフェロモンを熱望する女性たちの期待に見事応えてくれた。長身と無精髭、最近では蔑視される煙草を吸う姿がキマッテイル。親に捨てられた貧しい境遇から、仕事熱心、誠意のある熱血漢ぶりという性格で周囲に仕事ぶりも認められ、はじめて好きな人と家庭らしい家庭をもつというのもいい。直情型で頑固、自分を捨てた母への恨みを妻になったスジン(ソン・イェジン)の「こころの部屋をひとつ空ける」という説得から”ゆるすこと”の大切さを教えられ、一生かけても返済できるかどうかという金額の借金のかたがわりをする。無骨な男が、お嬢様育ちの素直な女性から家庭のあたたかみと愛情を学ぶ姿勢に、ガテン系好みの女性の胸をきゅんとさせる。
ブランドもののおしゃれさとは無縁なラフな服装が日頃の仕事で鍛えられた肉体によく似合う、運転する車はぼろぼろのジープ。喧嘩っぱやいのがハラハラさせるが、妻には寛大だ。

この映画は、少女漫画に近い。「若年性アルツハイマー」という難病による自己喪失、意識レベルでのもうひとつの死を扱ってはいるが、スジンの病気への恐怖や記憶の消滅の根源的な悲しみよりも、妻の病気を受け入れる夫チョルスの立場としての悲しみや苦しみに中心がある。そのため本作品でこの病気への理解をえるには弱いが、あくまでもラブ・ストーリーとして鑑賞するのであれば、やはり上出来な作品である。
チョン・ウソン自らが映画化を熱望していたのも、主人公の男くさいキャラクターに共感するものがあるのだろうか。妻がみずから介護ホームへ行くことを決意し家を出た後も、なかなか会いに行けない感情のあやはよくできている。
やはりこの映画は、チョン・ウソンのための映画だ。
綺麗な男にも癒されるが、彼のような男らしい男復権待望。音楽もしゃれている。
この後、チョルスはどうなるのだろう。一生スジンだけを愛し続けるのだろうか。

コーチング入門

2006-05-22 23:03:49 | Nonsense
研修の提出期限がまじかにせまり、そろそろ最後のしめくくりをしたいのではあるが。
近年流行している「コーチング入門」もなるほど、と思いつつもなんだかこうしたモチベーションづくりにも疲れる気がする。
正解がないとはいえ、パッケージされたコースを提示されている印象もある。
合理的といえば、合理的だが。。。

「スノッブな家族にうんざり」

2006-05-22 00:15:08 | Nonsense
 18歳の男子。有名大学を受験したが、見事に滑った。
今は、家で、犬と共に暇を持て余している。退屈だといろんなことを考えてしまう。家族について話たい。
 僕の家族はかなりスノッブな中流家庭だ。俗物な父を中心に、能天気で空っぽの母と、一流大学を出て精神不安定になってしまった哀れな姉、そして無気力で偏差値の低い僕。
 父は芸術かぶれである。家は、ダリに画集やらその手の本で埋まっている。僕は父がそれらを手にしているのを見たことがないし、実際彼はくだらないテレビ番組を一日中見ている。
 姉は毎日、自分がどれほど繊細かを延々と語り、突然泣き出したりもする。母は僕に「あんたはストレスに無関係な人間でよかったね」と真顔で言ってくる。
 冗談じゃない。僕は自分の考えを語るのが苦手なだけだ。誤解されると本や映画で、自分を慰めてきた。
 でも限界だ。

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これは、今度映画化される小説の冒頭。
自分が監督だったら、主人公の18歳浪人生を誰にしようかと考える。こういうキャスティングには、けっこううるさい。宮部みゆきの『模倣犯』のピース役を今だに、中居くんもいいけれど、あの役はもうちょっと若い織田裕二しかいないと言っている。
勉強は今ひとつだけれど、現代的で頼りない感じの亀梨和也くんがイケルかもしれない。彼がひとめぼれする年上の女性には、長谷川京子さんあたりがよいだろう。間違っても、米倉涼子さんというのはありえない。俗物な父親は、能天気な母親は・・・。
けれども、この文章は小説ではない。
(以下続く↓)

「家族にはうんざりする。だけど仕事が見つかるまでは、家族とうまくやっていかねばならない。アドバイスをお願いします。(福岡・I男)」

この奥田英朗なみに巧みな文章は、昨日の読売新聞の「人生案内」をコピーしたものである。本人には深刻な悩みかもしれないだろう、私は最初創作ではないかと疑ってしまうくらい彼の文章のセンスが抜群でうまい!。芸術かぶれの父親が買い込む画集が、ゴッホやモネ、ドロクロアでもいけない。ダリというのが、ツボにはまっている。
そして、回答する映画監督の大森一樹氏のコメントもふるっている。
現在、芸術系の大学で同年齢の学生と接しているが、これだけの観察力と表現力をもっている学生はそう多くない、と感想を述べている。そして彼に文学でも映画でもなにか作品を創ることを薦めている。

「何かものを書くことで、あなたのいる場所が少し見えてくるのでは」と。

文章を書くこと、そういった作業で自分のいる場所が見えてくる、そして自分というものも見えてくる。ブログでとりあげる観た映画、読んだ本、感じる話題、そこに自分を再確認しているようなものだ。そして同病あい憐れむではないが、なにか書かざるをえない脳をもつ人ってけっこう多いのだと感じる今日このごろである。

大森一樹氏の回答全文


『隠された記憶』

2006-05-20 12:58:31 | Movie
映画を監督で選ぶとしたら、私にとってはなんといってもMichael Haneke。年下の美青年との恋愛映画につかのまの現実逃避を求めたパリのマダム達だけではない、18禁映画にある種の期待をもって観た私も前作『ピアニスト』には、心底のけぞるような衝撃を与えられた。人間の深層心理の悪をここまでショッキングな手法で暴く監督を決して好きにはなれないだろうが、目をそらすこともできない。

それは、1本のビデオテープが届いたことから始まった。(以下、内容にかなりふみこんでいます。)
作家を招いての書評番組が好評の人気キャスターであるジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)が、出版社に勤務する妻アン(ジュリエット・ビノシュ)と12歳の息子ピエロが平和に暮らす家庭に、そのビデオが届いた。延々と自宅が映された意味不明のビデオに、夫婦は最初は不快に感じるだけだった。それよりも、思春期にさしかかり無口になったピエロのことが気がかりだ。やがて、何度も届くビデオはプライベートな部分を徐々に侵蝕する内容にエスカレートし、幼稚で不気味な絵も届くようになった。それらは、ジョルジュの勤務先やピエロの学校にまで送られるようになる。
じわじわと恐怖感に追いつめられて、ヒステリックになっていく夫婦。そして生家が映されたビデオを観るうちに、ジュルジュにはひとつの封印していた幼い記憶がよみがえる。
「マジッド」
思い出すのも忌まわしい名前と顔。
ジョルジュが6歳の頃、マジッドの両親は彼の家で働いていたが、ある日警察に呼ばれてそのまま消息を絶った。1961年、フランスのアルジェリア人虐殺事件に巻き込まれたのだった。ひとり残されたマジッドをジュルジュの両親は不憫に思い、養子に迎えようとする。ひとつの部屋で生活するようになるジョルジュとマジッド。
記憶をたどるかのように、ジュルジュは生家を久しぶりに訪れて、老いた母が寝たきりになっていることをはじめて知る。
そして何本目かに届いたテープに示された部屋をとうとうつきとめて、ジュルジュはマジッドと再会する。

壁一面の本棚に整然と並ぶ膨大な本、ユーモアとウィットに富んだ友人たちとのホームパーティでの会話、スイミングスクールに通う美しいひとり息子。彼らの生活は、フランスの典型的なインテリジェンスなプチブル階級。次々と映る彼らの家、部屋、ジョルジュの勤務先、すべてが近代的で機能的なあかるい美しさに満たされている。そして生まれ育った家も、田舎にあるとはいえさまざまな絵画を趣向凝らして飾り、なんと知的で美しいことか。私は、何度もため息がでた。そして後半今のマジッドが暮らすアパートの暗くて狭い陰気な廊下と、胸がふさぐような貧しい小さな部屋。このあまりにも隔たった室内の様子は、この映画で重要な役割を果たしている。幼い頃の彼の犯した罪を告発している。そして現代の階級社会の”差”をもハネケは告発しているのである。しかし、その疚しい気持ちと決して向き合おうとしないジョルジュ。そしてジョルジュが呼ばれて3度目に訪ねた時、その部屋は奇妙にかたずいていたのだ。この室内で、映画史上に残る衝撃的な場面がはじまる。

再会を複雑な気持ちながら穏やかに微笑むマジッドに比べ、ビデオのテープを送り付けた犯人を彼だと決め付け、怒り脅迫までするジョルジュには、自己保身しか頭になく、相手の気持ちを考えるという様子は微塵もない。教養あるはずのジョルジュの方が、人としての品格に欠けている。この姿は、6歳の自己中心的なジョルジュそのものだ。ここで誰もが、犯人がマージョではないと気がつくだろう。そして夫には苦しみをわかちあいたいと叫び、息子には愛しているとうつろな言葉をかける妻の、中年の脂肪と同じくらいのうっとうしさと醜さ。そんな妻が最近出版して好評な作品が、グローバリズムに関する本だったという皮肉。ここにミヒャエル・ハネケらしくインテリの欺瞞が暴かれる。そして誰もがうらやむような一見平穏に見える家庭の脆さと危うさと、メディアを通して与えられる私たちが真実と思い込んでいる現実のあやふやさ。

幼いジョルジュが犯した小さな罪を、マジッドの息子がまっすぐな瞳で訴える。
「父は、一生懸命私を育ててくれた。あなたは、そんな父の教育の機会を奪った。」
現代も社会の抑圧された人々の声は、彼に、そして彼らには届かない。

それではいったいビデオを送った真犯人は誰なのか。マジッドの衝撃的な行動の意味。ピエロが反抗する理由。妻は、本当に友人と浮気をしていたのか。そしてラストシーンの謎。
しかしハイネケンは、ここでも”親切な”謎解きはしない。難解さということで、作品の価値を高めようという意図はないのだが。そのおかげで、今日は観終わった後、ずっとこの映画のことを考え込んでいる。考えること、感じることを監督は、観客に課題としてつきつけているのだ。まさにハネケ監督の術中の見事な罠にはまる。だから観終わった後、「恐かったね」と笑いながら食事を楽しむ映画ではない。
ちなみに、「サスペンス」や「スリラー」というジャンルわけされているこの映画には、効果音としての音楽を、”効果的に”いっさい排除している。
孤独な女性を主人公にした「ピアニスト」では、徹底的に”個”の闇を描いた。誰もが犯しやすい無邪気な罪、やましさと向き合うことで人の品性を問い、さらに移民問題という社会性までとりこんだ本作品も、予想に違わず不快指数100%。それでも貴重な時間をさいて対峙するのは、ハネケの嫌悪する残酷さが、社会や人の深層心理の闇を見事に衝いているからだろうか。

「フランスの政治家は現代の“階級社会”が生み出す矛盾に対処できていない。これから貧富の格差がますます深刻化していくはずですが、あの“暴動”をめぐるメディア報道がそのことを正確に伝えていたとは思えない」
このハネケの言葉には、真摯に耳を傾けるべきだろう。

マジッドを犯人と決め、彼の死とともにすべてがかたずいたとようやく安心して眠りにつくジョルジュ。カーテンをかけ、室内を暗くしベッドに横たわる。

米軍再編の日本負担

2006-05-19 23:58:08 | Nonsense
ローレス米国防副次官は25日、国防総省で記者会見し、在日米軍再編全体にかかる日本側の負担について、少なくとも約260億ドル(約2兆9800億円)にのぼるとの見通しを明らかにした。内訳は概算で、沖縄も含めた日本国内の再編関連経費約200億ドルと、沖縄海兵隊のグアム移転経費約60億ドルとしている。ローレス氏は「控えめな試算」としており、日本側負担の総額は3兆円を超える可能性がある。日本国内での再編経費は、主に日本側が負担することになっている。ローレス氏の発言は日米間のこれまでの調整を踏まえたものと見られるが、積算根拠や詳細な内訳は不明で、日本政府が今後、国会などでの説明を迫られる。
ローレス氏は、在日米軍の再編にかかわる経費の総額が約300億ドル(約3兆4300億円)との見方を示した。このうち米側の負担についてはグアム移転費の約40億ドル(約4600億円)にとどまると明言した。
 ローレス氏は「財政支出上の義務は多くが2012年までの時期に入っている」と指摘。在日米軍の再編を実現する目標である12年までの支出を想定しているとみられる。ただ、普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設を例に挙げ、「ほかの再編より時間がかかるかもしれない」と語った。
約260億ドルの日本側負担について、ローレス氏は「同盟に対する日本側の投資は膨大な金額だ。日本側は海兵隊のグアム移転費だけでなく、かなりの出費をする」と強調した。議会などの理解を得るため、日本側の負担が中心になることを強調したとみられる。
総額100億ドルのグアム移転経費については、23日の日米防衛首脳会談で、日本側の負担が59%とすることで決着した。この点についてローレス氏は、「公平にまとめられた取引だと思う」と述べた。
一方、外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)については「来週開くよう準備しているが、再編全体のパッケージで合意しなければ開催されない」と述べた。(2006年4月26日朝日新聞)

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「軍事オンチ」は小泉首相だけではなかった。今年の第一生命サラリーマン川柳の入選作「ウォームビス 懐常にクールビス」どころではない。この天文学的な負担金額◎◎。。。気になる米軍再編を調べてみると、日本と米国の関係がうきぼりになる。

国内の米軍基地は、無償提供。光熱費&軍人の給与を負担し、基地返還時には原状回復を要求しない。ベトナム戦争からイラク戦争まで、米軍は日本の基地から出撃。かって在日米軍は、日本という国土に築いたソ連の太平洋進出を牽制する防波堤の役割を果たしてきた。その防波堤に日本人は”守られている”という感謝への気持ちが、米軍維持費負担である。いざとなったら日本がまっさきに戦場になり、国民は最初の捨石になるなんて想像してはいけない。しかし9・11同時多発テロ以降、米本土防衛の重要性を実感した米国では、中東から朝鮮半島までの弧状の地帯を「不安定の弧」と名づけ、紛争の防止と制圧のために世界規模で米軍の再編計画が練られた。
対象を広くアジア・太平洋地域全体を視野に入れた「前線司令部兼出撃基地」への”日本列島改造計画”である。

①米陸軍第一軍団の日本移設
米国が極東戦争する場合、本土より時差の少ない日本から指揮をすることが狙いだという。当初日米安全保障条約の「極東条約」違反と拒否するものの、小規模司令部とすることで受け入れる。

②第五空軍のグアム移転
米軍がハワイに戦闘司令部を置くため、中途半端な司令部が不要となったため。

日本としては、第一軍団受け入れのみかえりに沖縄の海浜隊をグアムへ追い出すという交換条件でグアム移転費負担を低く抑えることもできたのだが、普天間飛行場移設問題、厚木基地の空母艦載機部隊の岩国移転も含めての基地問題解決という縛りがつき、このように惨敗した。当初、有利なカードを握っていたのに、本気であたらない政治家、軍事オンチの首相では、負けるに決まっている。
再編交渉に関しては、「米側の申し出を検討するにとどめるべき」とした外務省を、防衛庁が「この機会に基地負担軽減の実現」という主張でねじふせた。
基地経費負担軽減、この言葉のマジックに私ももう少しでかかりそうだった。
基地問題の解決のために、米軍再編を受け入れるという発想では、本末転倒である。空軍をグアムに移転していただくために、米軍第一軍団の移設を招いたわけではなかった。米軍が軍の再編をするために、基地問題を利用したというのが真相ではないか。

国防費削減と米本土防衛(日本の防衛ではない)という難技を決めたブッシュ大統領は、すご腕だ。(もっとも優秀なのは、大統領ではなく、ブレーンだというのが定説ではあるが。)それとも、よくよく日本人はおひとよしなのだろうか。