「透明マント作れます」英の学者ら開発理論
英米の科学者らが26日、米科学誌サイエンス電子版に、「物体を見えなくする素材の開発は可能」とする論文を発表した。
この理論を基に開発が進めば、小説「ハリー・ポッター」に登場する透明マントの作製も夢ではなくなりそうだ。光は普通、物体に当たって反射したり散乱したりするため、人間は物体を見ることができる。
英セントアンドリュース大のレオンハルト教授らによると、光の進む方向を制御できる特殊な微細構造を持つ複合素材を開発できれば、川の水が丸い石に妨げられず滑らかに流れていくように、光が物体を迂回(うかい)して進む。
この場合、人間の目には、そこには何もないように見え、影もできない。
教授らは、手始めに特定の波長に対する“不可視性”を持つ素材の開発に挑むという。透明マントが実現すれば、軍事技術として利用できるため、研究は米国防総省が支援している。(2006年5月26日 読売新聞)
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科学の研究が、すべて人類に貢献するという虹は消えかかっている。まるでSF小説や漫画「ドラエモン」に登場するような透明マントの開発理論を、そのユニークさで興味をもったが、軍事技術利用目的のために米国防総省が支援しているという最後の説明におおいに納得しつつも、なにか一抹の不興も感じる。
中島秀人氏の著書「日本の科学/技術はどこへいくのか」で、<変化する科学技術>として村上陽一郎氏が科学が歴史的に三つの段階を経て、発展したとする説を紹介している。
■第一期「前科学期」
ガリレオ・ニュートンまでさかのぼり、宗教的世界観と渾然一体化している科学研究。
■第二期「プロトタイプ期」
ダーウィンの「種の起源」に代表されるように、宗教のような世界観と分離して、研究主体の学問の自由も主張される。相対性理論のような新しい発見が、学術雑誌に発表されるようになり、評価は学会の内部でなされ、科学は自己完結した。
■第三期「ネオタイプ期」
化学の戦争といわれる第一次世界大戦からはじまり、国家や企業による科学への支援が本格化し、自己完結型でなく使命達成型の研究が進められるようになった。
このタイプの研究を決定的にしたのが、原爆開発をミッションとしたビッグプロジェクトであるマンハッタン計画だと中島氏は解説している。
しかし、すぐに科学者が国家や企業の使徒となってしまったかというとそうでもない。キュリー夫人、鉄腕アトムのお茶の水博士のような高潔な真理追求型の科学者も延命していた。現在の日本では、企業のミッションを背負った研究者が全体の3/4に及ぶと言う。科学者の高潔の源を英国物理学者は、
①科学の公有主義
②人種・国籍にこだわらない普遍主義
③私的利害にとらわれない無私性
④学問的独創性
⑤全ての主張を検討する懐疑主義
に求めている。こうした科学にふさわしく、我々の科学者へのイメージは、「プロトタイプ期」の古典的科学者像としてとらえている。しかし現代科学の実態は、所有的、局所的、権威主義的、請負的、専門的になっている。こうした実態のそぐわない科学者のイメージを改めるべきだというのが、村上氏の主張だ。
村上氏の異見は、もっともな意見だろう。しかし、そこには夢が育たない。また科学者をめざす人々のモチベーションが減退すれば、優秀な人材は研究分野ではなく産業界に流れてしまうのではないだろうか。ここで佐藤文隆氏のナイーブな探究心である科学と、社会化された括弧のついた「科学」を区別しようという説に耳を傾けたい。純粋科学の才能に富んだ者は、教師として密やかに知的オーラを放ちながら生きていくべきだと佐藤氏は説いている。
軍事目的のために透明マントを開発する「科学者」を非難しているわけではない。国のひもつき、ということでは大学という城の中に蟄居する純粋科学者とはかわらない。また独立行政法人移行に伴い、益々産業界から資金が流れる「科学」が大学でも生き残りやすい。ただ大局的に人類の発展と科学へ思いをはせると、マイノリティになりつつあるお茶の水博士を大切にしたいのである。
英米の科学者らが26日、米科学誌サイエンス電子版に、「物体を見えなくする素材の開発は可能」とする論文を発表した。
この理論を基に開発が進めば、小説「ハリー・ポッター」に登場する透明マントの作製も夢ではなくなりそうだ。光は普通、物体に当たって反射したり散乱したりするため、人間は物体を見ることができる。
英セントアンドリュース大のレオンハルト教授らによると、光の進む方向を制御できる特殊な微細構造を持つ複合素材を開発できれば、川の水が丸い石に妨げられず滑らかに流れていくように、光が物体を迂回(うかい)して進む。
この場合、人間の目には、そこには何もないように見え、影もできない。
教授らは、手始めに特定の波長に対する“不可視性”を持つ素材の開発に挑むという。透明マントが実現すれば、軍事技術として利用できるため、研究は米国防総省が支援している。(2006年5月26日 読売新聞)
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科学の研究が、すべて人類に貢献するという虹は消えかかっている。まるでSF小説や漫画「ドラエモン」に登場するような透明マントの開発理論を、そのユニークさで興味をもったが、軍事技術利用目的のために米国防総省が支援しているという最後の説明におおいに納得しつつも、なにか一抹の不興も感じる。
中島秀人氏の著書「日本の科学/技術はどこへいくのか」で、<変化する科学技術>として村上陽一郎氏が科学が歴史的に三つの段階を経て、発展したとする説を紹介している。
■第一期「前科学期」
ガリレオ・ニュートンまでさかのぼり、宗教的世界観と渾然一体化している科学研究。
■第二期「プロトタイプ期」
ダーウィンの「種の起源」に代表されるように、宗教のような世界観と分離して、研究主体の学問の自由も主張される。相対性理論のような新しい発見が、学術雑誌に発表されるようになり、評価は学会の内部でなされ、科学は自己完結した。
■第三期「ネオタイプ期」
化学の戦争といわれる第一次世界大戦からはじまり、国家や企業による科学への支援が本格化し、自己完結型でなく使命達成型の研究が進められるようになった。
このタイプの研究を決定的にしたのが、原爆開発をミッションとしたビッグプロジェクトであるマンハッタン計画だと中島氏は解説している。
しかし、すぐに科学者が国家や企業の使徒となってしまったかというとそうでもない。キュリー夫人、鉄腕アトムのお茶の水博士のような高潔な真理追求型の科学者も延命していた。現在の日本では、企業のミッションを背負った研究者が全体の3/4に及ぶと言う。科学者の高潔の源を英国物理学者は、
①科学の公有主義
②人種・国籍にこだわらない普遍主義
③私的利害にとらわれない無私性
④学問的独創性
⑤全ての主張を検討する懐疑主義
に求めている。こうした科学にふさわしく、我々の科学者へのイメージは、「プロトタイプ期」の古典的科学者像としてとらえている。しかし現代科学の実態は、所有的、局所的、権威主義的、請負的、専門的になっている。こうした実態のそぐわない科学者のイメージを改めるべきだというのが、村上氏の主張だ。
村上氏の異見は、もっともな意見だろう。しかし、そこには夢が育たない。また科学者をめざす人々のモチベーションが減退すれば、優秀な人材は研究分野ではなく産業界に流れてしまうのではないだろうか。ここで佐藤文隆氏のナイーブな探究心である科学と、社会化された括弧のついた「科学」を区別しようという説に耳を傾けたい。純粋科学の才能に富んだ者は、教師として密やかに知的オーラを放ちながら生きていくべきだと佐藤氏は説いている。
軍事目的のために透明マントを開発する「科学者」を非難しているわけではない。国のひもつき、ということでは大学という城の中に蟄居する純粋科学者とはかわらない。また独立行政法人移行に伴い、益々産業界から資金が流れる「科学」が大学でも生き残りやすい。ただ大局的に人類の発展と科学へ思いをはせると、マイノリティになりつつあるお茶の水博士を大切にしたいのである。