サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を読む気になったきっかけは、コンサートの帰りの地下鉄の中で、ひとりの中年女性が楽しそうにこの文庫本を読んでいる姿を見かけたことだった。そういえば一時評判になったけれど、そのうち・・・と思っているうちに忘れていたからだ。半年近く待って、ようやく手にした本は、予想以上に素晴らしかったのだが、中でも、あのご婦人が微笑みながら読んでいたのは、エヴァリスト・ガロアÉvariste Galoisの激しくも短く燃え尽きた列伝の記述ではないかと思っている。
ガロアは1811年10月25日、パリの南にある小さな村に生まれた。(来年は生誕200周年だ)当時のフランスは、ナポレオンが統治したかと思うと、ルイ18世が復権したりと政治的には激動の時代に彼は成長したことになる。ガロアは12歳で、名門ルイ・ル・グラン校に入学するものの、王政主義者と共和主義者がたえまなく闘争を繰り替える社会の影響もあり、共和主義に強く共鳴する生徒達の反乱計画が発覚し、首謀者が放校されるばかりでなく、ルイ18世への祝杯を拒んだ生徒たちも放校されてしまった。これを見ていたガロアは、共和主義へ傾倒することになり、そして政治活動が人生を支配していくようになる。
16歳で数学に出会ったガロアは、たちまち熱中し、数学に夢中になるうちに教師の手に余るやっかいな生徒となっていった。最新の数学をどんどん吸収し、天才的な頭脳の論理の飛躍には、教師すらもついていけない始末。フランス一の名門、エコール・ポリテクニクを受験するも、口頭試問でぶっきらぼうな可愛げのない態度をとって失敗。翌年、再チャレンジをするものの、またもや口頭試問で論理的飛躍のある回答に試験官を混乱に陥らせ、短気で無分別な若造は、いらだって試験官に向かって黒板拭きを投げつけるや、見事に命中。有り余る才能をもちながら、これ以降、ガロアがエコール・ポリテクニクの門をくくることはなかった。
しかし、自分の数学の才能を疑うことのなかったガロアは、17歳にして5次方程式の解法を見つけるという当時の最大級の難問にのめりこみ、科学学士院に2本の論文を提出。この論文で若者の研究に感心したオーギュスタン=ルイ・コーシーは、学士院の数学大賞の応募の資格を得るために1編にまつめるように、一旦、論文を送り返したところから、ガロアの不運がはじまった。村では、イエズス会の新しい司祭がやってきて、共和主義に共鳴する村長を務めるガロアの父を失脚させるべく汚い策略を謀り、名誉を守るために父は自殺を選んだ。父の葬儀の際も、イエズス会の司祭と、亡くなった村長の支持者たちの小競り合いから暴動が起こり、墓穴に投げ出された父の棺を見て、ガロアは益々共和主義を支持する気持ちが燃え上がった。一方、見事な洞察が示されたガロアの論文を受けとった、学士院の書記を務めていたジョゼフ・フーリアが、審査の数週間前に死亡。数学大賞どころか、ガロアの論文は紛失してしまい、正式に受理されていなかったことまで判明した。ひとりの新聞記者が不正の告発をする記事を掲載するも、翌年に提出した論文もつっぱねられた。
こんな不運が続き、ガロアはエコール・ノルマルの学生となっていたのだが、数学者としての名声よりも、やがてトラブルメーカーとして悪名が高まっていく。この学校の王政主義者の校長ギニョーは、1830年の7月革命の日に、共和主義者の学生たちを寄宿舎に閉じ込め校門を固く閉ざすと、ガロアは校長を臆病者と痛烈に批判する抗議文を発表して、放校処分となり、ガロアの数学者としての人生はとうとう潰えた。
ガロアの惨状を心配する数学者たちもいたのだが、ガロアの政治的情熱が続く限り、運命の歯車が狂っていくのを止めるすべはなかった。ヴァンダンジュ・ド・ブルゴーニュ亭で血気盛んに気勢をあげるガロアの姿は、文豪アレクサンドル・デュマによって克明に記録されている。そしてとうとう逮捕されたガロアは、1ヶ月サント・ペラジー刑務所の拘留された。若かったために、一旦、無罪放免となりまながらも、翌月またしても逮捕されてしまった。
「ねえ、ぼくに欠けているものがわかる?あなただけに打ち明けるよ。ぼくに欠けているものは、ぼくが愛することのできる、心から愛することができる人間なんだ。」
牢獄でごろつきに強制されて覚えた酒で錯乱状態になり、自殺しようとしたガロアが口にした言葉だった。そんな彼は、とうとう愛する対象を見つけた。ステファニー・フェリシー・ポトラン・デュ・モテル。パリ在住のりっぱな医師の娘なのだが、ペシュー・デルバンヴィルという婚約者が彼女にはすでにいた。このフランスで一番の拳銃使いの紳士は、すぐさま婚約者の不貞に気がついてガロアに夜明けの決闘を申し込んだ。1932年5月30日の早朝、デルバンヴィルには介添人がいたが、ガロアはたったひとりで決闘に挑んだ。
ガロアの葬儀は父の時とほとんど同じく茶番だった。これを政治集会とみなした警察は、同士を30人ほど逮捕するも、2000名以上の共和主義者が会場に集まり、乱闘騒ぎになった。恋人は、ガロアを誘惑した女狐で、婚約者は政府の諜報員で彼は政治的陰謀にはめられたという見方が広まっていたからだ。どちらにせよ、数学と政治の情熱に生き、たった一度の恋に死んだガロアはまだ20歳だった。決闘の前日、夜を徹してペンを走らせ論文を書いていたガロアだったが、複雑な数式に隠れるように、恋人の名前や”時間がない!”という走り書きがみえる。その論文は、10年たって悲劇のヒーローによる19世紀最高の数学のひとつと認められるようになった。
ガロアは1811年10月25日、パリの南にある小さな村に生まれた。(来年は生誕200周年だ)当時のフランスは、ナポレオンが統治したかと思うと、ルイ18世が復権したりと政治的には激動の時代に彼は成長したことになる。ガロアは12歳で、名門ルイ・ル・グラン校に入学するものの、王政主義者と共和主義者がたえまなく闘争を繰り替える社会の影響もあり、共和主義に強く共鳴する生徒達の反乱計画が発覚し、首謀者が放校されるばかりでなく、ルイ18世への祝杯を拒んだ生徒たちも放校されてしまった。これを見ていたガロアは、共和主義へ傾倒することになり、そして政治活動が人生を支配していくようになる。
16歳で数学に出会ったガロアは、たちまち熱中し、数学に夢中になるうちに教師の手に余るやっかいな生徒となっていった。最新の数学をどんどん吸収し、天才的な頭脳の論理の飛躍には、教師すらもついていけない始末。フランス一の名門、エコール・ポリテクニクを受験するも、口頭試問でぶっきらぼうな可愛げのない態度をとって失敗。翌年、再チャレンジをするものの、またもや口頭試問で論理的飛躍のある回答に試験官を混乱に陥らせ、短気で無分別な若造は、いらだって試験官に向かって黒板拭きを投げつけるや、見事に命中。有り余る才能をもちながら、これ以降、ガロアがエコール・ポリテクニクの門をくくることはなかった。
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こんな不運が続き、ガロアはエコール・ノルマルの学生となっていたのだが、数学者としての名声よりも、やがてトラブルメーカーとして悪名が高まっていく。この学校の王政主義者の校長ギニョーは、1830年の7月革命の日に、共和主義者の学生たちを寄宿舎に閉じ込め校門を固く閉ざすと、ガロアは校長を臆病者と痛烈に批判する抗議文を発表して、放校処分となり、ガロアの数学者としての人生はとうとう潰えた。
ガロアの惨状を心配する数学者たちもいたのだが、ガロアの政治的情熱が続く限り、運命の歯車が狂っていくのを止めるすべはなかった。ヴァンダンジュ・ド・ブルゴーニュ亭で血気盛んに気勢をあげるガロアの姿は、文豪アレクサンドル・デュマによって克明に記録されている。そしてとうとう逮捕されたガロアは、1ヶ月サント・ペラジー刑務所の拘留された。若かったために、一旦、無罪放免となりまながらも、翌月またしても逮捕されてしまった。
「ねえ、ぼくに欠けているものがわかる?あなただけに打ち明けるよ。ぼくに欠けているものは、ぼくが愛することのできる、心から愛することができる人間なんだ。」
牢獄でごろつきに強制されて覚えた酒で錯乱状態になり、自殺しようとしたガロアが口にした言葉だった。そんな彼は、とうとう愛する対象を見つけた。ステファニー・フェリシー・ポトラン・デュ・モテル。パリ在住のりっぱな医師の娘なのだが、ペシュー・デルバンヴィルという婚約者が彼女にはすでにいた。このフランスで一番の拳銃使いの紳士は、すぐさま婚約者の不貞に気がついてガロアに夜明けの決闘を申し込んだ。1932年5月30日の早朝、デルバンヴィルには介添人がいたが、ガロアはたったひとりで決闘に挑んだ。
ガロアの葬儀は父の時とほとんど同じく茶番だった。これを政治集会とみなした警察は、同士を30人ほど逮捕するも、2000名以上の共和主義者が会場に集まり、乱闘騒ぎになった。恋人は、ガロアを誘惑した女狐で、婚約者は政府の諜報員で彼は政治的陰謀にはめられたという見方が広まっていたからだ。どちらにせよ、数学と政治の情熱に生き、たった一度の恋に死んだガロアはまだ20歳だった。決闘の前日、夜を徹してペンを走らせ論文を書いていたガロアだったが、複雑な数式に隠れるように、恋人の名前や”時間がない!”という走り書きがみえる。その論文は、10年たって悲劇のヒーローによる19世紀最高の数学のひとつと認められるようになった。