千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

「フェルマーの最終定理」番外編~ガロアの生涯~

2010-11-30 23:01:36 | Book
サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を読む気になったきっかけは、コンサートの帰りの地下鉄の中で、ひとりの中年女性が楽しそうにこの文庫本を読んでいる姿を見かけたことだった。そういえば一時評判になったけれど、そのうち・・・と思っているうちに忘れていたからだ。半年近く待って、ようやく手にした本は、予想以上に素晴らしかったのだが、中でも、あのご婦人が微笑みながら読んでいたのは、エヴァリスト・ガロアÉvariste Galoisの激しくも短く燃え尽きた列伝の記述ではないかと思っている。

ガロアは1811年10月25日、パリの南にある小さな村に生まれた。(来年は生誕200周年だ)当時のフランスは、ナポレオンが統治したかと思うと、ルイ18世が復権したりと政治的には激動の時代に彼は成長したことになる。ガロアは12歳で、名門ルイ・ル・グラン校に入学するものの、王政主義者と共和主義者がたえまなく闘争を繰り替える社会の影響もあり、共和主義に強く共鳴する生徒達の反乱計画が発覚し、首謀者が放校されるばかりでなく、ルイ18世への祝杯を拒んだ生徒たちも放校されてしまった。これを見ていたガロアは、共和主義へ傾倒することになり、そして政治活動が人生を支配していくようになる。

16歳で数学に出会ったガロアは、たちまち熱中し、数学に夢中になるうちに教師の手に余るやっかいな生徒となっていった。最新の数学をどんどん吸収し、天才的な頭脳の論理の飛躍には、教師すらもついていけない始末。フランス一の名門、エコール・ポリテクニクを受験するも、口頭試問でぶっきらぼうな可愛げのない態度をとって失敗。翌年、再チャレンジをするものの、またもや口頭試問で論理的飛躍のある回答に試験官を混乱に陥らせ、短気で無分別な若造は、いらだって試験官に向かって黒板拭きを投げつけるや、見事に命中。有り余る才能をもちながら、これ以降、ガロアがエコール・ポリテクニクの門をくくることはなかった。

しかし、自分の数学の才能を疑うことのなかったガロアは、17歳にして5次方程式の解法を見つけるという当時の最大級の難問にのめりこみ、科学学士院に2本の論文を提出。この論文で若者の研究に感心したオーギュスタン=ルイ・コーシーは、学士院の数学大賞の応募の資格を得るために1編にまつめるように、一旦、論文を送り返したところから、ガロアの不運がはじまった。村では、イエズス会の新しい司祭がやってきて、共和主義に共鳴する村長を務めるガロアの父を失脚させるべく汚い策略を謀り、名誉を守るために父は自殺を選んだ。父の葬儀の際も、イエズス会の司祭と、亡くなった村長の支持者たちの小競り合いから暴動が起こり、墓穴に投げ出された父の棺を見て、ガロアは益々共和主義を支持する気持ちが燃え上がった。一方、見事な洞察が示されたガロアの論文を受けとった、学士院の書記を務めていたジョゼフ・フーリアが、審査の数週間前に死亡。数学大賞どころか、ガロアの論文は紛失してしまい、正式に受理されていなかったことまで判明した。ひとりの新聞記者が不正の告発をする記事を掲載するも、翌年に提出した論文もつっぱねられた。

こんな不運が続き、ガロアはエコール・ノルマルの学生となっていたのだが、数学者としての名声よりも、やがてトラブルメーカーとして悪名が高まっていく。この学校の王政主義者の校長ギニョーは、1830年の7月革命の日に、共和主義者の学生たちを寄宿舎に閉じ込め校門を固く閉ざすと、ガロアは校長を臆病者と痛烈に批判する抗議文を発表して、放校処分となり、ガロアの数学者としての人生はとうとう潰えた。

ガロアの惨状を心配する数学者たちもいたのだが、ガロアの政治的情熱が続く限り、運命の歯車が狂っていくのを止めるすべはなかった。ヴァンダンジュ・ド・ブルゴーニュ亭で血気盛んに気勢をあげるガロアの姿は、文豪アレクサンドル・デュマによって克明に記録されている。そしてとうとう逮捕されたガロアは、1ヶ月サント・ペラジー刑務所の拘留された。若かったために、一旦、無罪放免となりまながらも、翌月またしても逮捕されてしまった。

「ねえ、ぼくに欠けているものがわかる?あなただけに打ち明けるよ。ぼくに欠けているものは、ぼくが愛することのできる、心から愛することができる人間なんだ。」

牢獄でごろつきに強制されて覚えた酒で錯乱状態になり、自殺しようとしたガロアが口にした言葉だった。そんな彼は、とうとう愛する対象を見つけた。ステファニー・フェリシー・ポトラン・デュ・モテル。パリ在住のりっぱな医師の娘なのだが、ペシュー・デルバンヴィルという婚約者が彼女にはすでにいた。このフランスで一番の拳銃使いの紳士は、すぐさま婚約者の不貞に気がついてガロアに夜明けの決闘を申し込んだ。1932年5月30日の早朝、デルバンヴィルには介添人がいたが、ガロアはたったひとりで決闘に挑んだ。
ガロアの葬儀は父の時とほとんど同じく茶番だった。これを政治集会とみなした警察は、同士を30人ほど逮捕するも、2000名以上の共和主義者が会場に集まり、乱闘騒ぎになった。恋人は、ガロアを誘惑した女狐で、婚約者は政府の諜報員で彼は政治的陰謀にはめられたという見方が広まっていたからだ。どちらにせよ、数学と政治の情熱に生き、たった一度の恋に死んだガロアはまだ20歳だった。決闘の前日、夜を徹してペンを走らせ論文を書いていたガロアだったが、複雑な数式に隠れるように、恋人の名前や”時間がない!”という走り書きがみえる。その論文は、10年たって悲劇のヒーローによる19世紀最高の数学のひとつと認められるようになった。

「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著

2010-11-28 15:22:36 | Book
「n≧3のとき、 Xn+Yn=Zn を満たす、自然数 X、Y、Zは存在しない」

私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない・・・こういう苛立たしい思わせぶりこそフェルマーの真骨頂。1637年に出版された『算術』問題8に記されているシンプルで中学生レベルでも理解できる「フェルマーの最終定理」は、300年以上もの長い間、数学者にロマンをかきたてつつ、藤原正彦氏が師匠から「あれに手をつけたら数学者としての人生を棒をふる」とまで忠告を受けたように、証明そのものが不可能ではないかとまでささやかれ、悪魔ですら解けない超難解な問題だった。懸賞金までかけられたその定理を証明したのは、1953年イギリス生まれのアンドリュー・ワイルズ。1993年に発表、翌年に致命的な誤りも修正して「Annals of Mathematics」に完全版の130ページに及ぶ論文が掲載された。本書は、ピュタゴラスの時代の数学者たちの波乱に満ちた船出(無理数の存在を証明した弟子のヒッパソスに死刑を宣告する汚名を後世に残したピュタゴラスは、最後には市民によって追放され殺された)からはじまり、「フェルマーの最終定理」に果敢に挑戦した数学者たちを中心としたノンフィクションである。

著者のサイモン・シンは英国生まれだが、祖父母はゼロを発見したインドからの移民。ケンブリッジ大学で素粒子物理学の博士号を取得して研究所センターで勤務した後に、英テレビ局BBCにコペ転。96’年に放映されたTVドキュメンタリー「フェルマーの最終定理」を基に書き下ろした処女作が本作だが、世界的なベストセラーとなった。その理由として、フェルマーの命題そのものがシンプルで誰にも理解しやすいことから受容れ窓口がこの分野にしては圧倒的に広かったこと、純粋数学という学問のおもしろさや歴史をわかりやすく書かれていることもあるが、チャーミングな”数学者”という人物の描き方がとても処女作とは思えないくらい手馴れていてうまい。しかも数々の定理の発見には、プリミティブな美しさと感動が生まれる。

めでたくも20世紀における核分裂の発見やDNA構造解析と同じくらいの快挙となった、フェルマーの最終定理を完全に証明したアンドリュー。10歳の時に、近所の図書館でフェルマーの最終定理に出会ってから夢を追い続けて、40歳を過ぎてとうとう叶えたアンドリュー。彼の功績と栄光はとてつもなく大きいが、しかし、それもそこに至る過程には多くの数学者の努力と才能があってこそ。オイラーの法則として有名なオイラー、ディレクレ、ガブリエル・ラメ、アーベル、そして「谷山=志村予想」の谷村豊と志村五郎、フライ・セール、ケン・リベットなど、彼らがもっていたバトンを受け継いで360年に渡る超長距離マラソンの最終ランナーとして見事にゴールのテープを切ったのが、アンドリューになる。本書では、7年間の沈黙を守り成功したアンドリューの体験は勿論だが、これまでの数学者にもスポットライトをあてていることで、さながら交響曲のような厚みがある。特に、日本人として谷村豊、志村五郎、岩澤健吉氏などの貢献も丁寧に取り上げられていることが興味深い。

それにしても数学者たちの情熱と粘り強さ、集中力とひらめきにはおそれいる。フランスの数学者ポアンカレの「数学者になることはできない。数学者として生まれるのでなければならない」という言葉のとおりだ。彼らは非常に繊細で、寝ても覚めても、つまり24時間数学のことで頭が一杯の人種である。研究者というのは概ねそういうタイプの方が多いのかもしれないが、ずば抜けた頭脳の上に、コツコツと実験を重ねていく他の理系の分野の研究者たちとは、一味違う。まさに限られた数学者として生まれた天才によるプレーである。残念なことに、たった2ページのDNA構造解析の論文が幅広く人々の知識の種となり応用されているのに比べ、最終定理の証明を理解できるのは、地球上ではほんの50人ほどらしいので、その妙技を堪能することはできないのだが。

さて、ある日のNY8番街の地下鉄に、こんな落書きが書かれていた。
「xn + yn = zn この方程式に解はない
私はこれについて真に驚くべき証明を発見したが、電車が来てしまったので書くことはできない。」

確かに、現代のスピード化された時代に、電車の待ち時間でこの証明を書くのは無理だろう。(笑)
とてつもなく大きな達成感という収穫をえたアンドリューは、喪失感もあるが、それと同時に解放感も味わい穏やかな気持ちで満たされているそうだ。
ところで、アンドリュー理論は現代の数学論を駆使して証明されているそうだ。では、フェルマーの時代の数学で、彼はいったいどのように最終定理を証明したのか!?私はこれについて彼自身のオリジナルの真に驚くべき証明を発見したが、弊ブログの余白はもうないのでここに記すことは・・・。

□「木曽のあばら屋さま」とも共感したい数学にまつわるアーカイヴ
「完全なる証明」マーシャ・ガッセン著
「心は孤独な数学者」藤原正彦著
「心は孤独な数学者」続
「世にも美しい数学入門」藤原正彦著
映画『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』
「素数の音楽」マーカス・デュ・ソートイ著

NHK音楽祭2010

2010-11-25 22:41:13 | Classic
NHKホールはいろいろな意味で遠い。ところが、そのNHKホールで開かれてコストパフォーマンスで優れものが「NHK2010音楽祭」である。チケット代のことから入るのは少々下世話なのだが、この内容でこのお値段、、、というのもやはりNHKホールだからなのか。
今年8回目を迎える音楽祭は、ドイツ音楽「三大B」という王道のテーマで開催された。(余談だが、同じくドイツ生まれのメンデルスゾーンもとても良い曲を残しているのに、御三家とくくられるとどうしても入らない不運がある。)

ステージ前方には、ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートを連想させられるように華やかに花々が並ぶ。しかし、そこは(しつこいが)NHKホールなので、やはりださめで地味め。そこに登場したのが、ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団 と指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ。思ったよりも小編成のオケなのだが、音響の悪さを感じさせないくらい迫力があり、ドイツ人の体格のように厚みのある音楽が朗々と鳴り響く。

更に堂々たる体格の今夜の真打、ジャニーヌ・ヤンセンが登場。彼女はオランダでは大人気のスターだそうだが、なるほど、女優のように美しく背も高いのに10センチぐらいのハイヒールをはいてやってきた。姿勢もよく舞台中央に立つと、その貫禄だけでも聴衆を魅了する。彼女が使用している1727年製ストラディヴァリウス「バーレル」が奏でる音楽は、シャープで現代的な演奏というよりも、その音の輝きがからみつくようなぬめりを感じる。まるで若い女王のように圧倒されるようなスケール感がある。しかし、ブラームスも素晴らしかったが、むしろチャイコフスキーの協奏曲の方が彼女の持ち味がいきるのではないだろうか。それにしても日本とは違うヨーロッパ大陸の音楽である。

-------------------11月25日 NHK音楽祭 -----------------------------

出演者: ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団
パーヴォ・ヤルヴィ(指揮)
ジャニーヌ・ヤンセン(バイオリン)
曲目: ベートーベン:「プロメテウスの創造物」序曲
ブラームス:バイオリン協奏曲 ニ長調
ベートーベン:交響曲 第5番 ハ短調 「運命」


12月24日NHK教育テレビで午後11時から「NHK音楽祭ハイライト」が放映予定です

共和党顧問、カール・ローブという男

2010-11-24 22:13:14 | Nonsense
米共和党上院トップのマコネル院内総務は15日、「イヤマーク予算」と呼ばれる利益誘導型のひも付き予算の慣行の禁止を目指す意向を表明した。中間選挙前には、この慣行を擁護していたが、連邦政府予算の削減を求める保守系の草の根運動「ティーパーティー(茶会運動)」の選挙中の要求を受け入れた。茶会運動の影響力の大きさを印象付けるものとして、注目を集めている。
イヤマーク予算は、議員らが雇用確保などのため地元選挙区の特定の事業に連邦政府予算を配分するもの。「小さな政府」を支持する茶会運動は、米議会による典型的な税金の無駄遣いだとして批判してきた。
マコネル氏は同日の議会で「私自身が地元州(ケンタッキー)にもたらした(イヤマーク予算による)事業はよい結果を生んだと考える」と弁明したうえで、「この慣行が乱用され、米国民が無駄遣いの象徴と見るようになったのは疑いようがない」と述べ、禁止方針を表明した。
マコネル氏はこれまで、茶会運動と連携するデミント上院議員(共和)らによるイヤマーク予算禁止の活動を封じ込めてきた経緯があるだけに、方針転換は衝撃的に報じられた。
中間選挙で共和党指導部の推す候補者を落選させてきた茶会運動は、選挙後も共和党指導部とは一定の距離を置いている。マコネル氏の姿勢転換の背景には、今後の議会運営をにらみ、茶会運動に歩み寄る必要があるとの判断があったものとみられる。
11/17毎日新聞より

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今年、米国の中間選挙戦で話題をさらったのは、「ティーパーティー(茶会)」だったが、全米の共和党候補者に軍資金を提供して、オバマ大統領と民主党を追い詰めた「影の共和党」の司令塔は、カール・ローブという人物である。情報誌「選択」で、41の選挙戦で34勝、2001年のブッシュ政権誕生から07年8月の辞任まで、大統領の上級顧問、次席補佐官として強大な権力を握っていて「影の大統領」とまでささやかれていた伝説の参謀、カール・ローブについて、その知られざる素顔が掲載されている。

1950年、コロラド州デンバー生まれ。幼い頃に両親が離婚。経済的にも豊かではなかったカール少年が、高校に進学して夢中になったのが、「政治」。奨学金を受けて進学したユタ大学では、共和党学生組織の活動を通じて、当時共和党全国委員長だったパパ・ブッシュとのコネができ、息子とは20代前半からの長いお付き合いになる。ダイレクト・メール会社を設立して、候補者の宣伝、広報を引き受けた。ご承知のように米国には、巨大な選挙産業がある。参謀、世論調査会社、下働きまで様々な職種が確立されているが、おおかたは舞台裏の職人さんでおわるところ、候補者を勝たせることによって、米社会の階段を登りつめた選挙屋がカール・ローブである。

そんな彼の戦略は、攻撃的で手段を選ばずに相手を貶めるところに特徴があるが、政権中枢では官僚や議員の経験不足で、行政・立法のプロセズは苦手とされ、内政課題では失敗続きで出番がなくなったという選挙屋の悲しい過去がある。しかし、ここにきて見事に本来の家業で復活して返り咲き。オバマ政権の終焉を願うビジネス界から数十億円規模のお金を引き出し、それを配分する組織を作り、中枢にはブッシュ政権時代のベテランや選挙プロを集めて戦略をねった。「アメリカン・クロスローズ」は連邦選挙委員会の規制を受けないことから、大量のテレビ広告、メール、電話攻撃で民主党を圧倒させた。巧みだと感心したのは、「茶会」が推薦する候補者を質が低いだの、勝ち目がないとまで攻撃しておき、後から、彼らを”草の根”や”普通の人”という形象で金権選挙の隠れ蓑に利用したところだ。共和党の常勝時代を築くことが夢である彼が、2年後の次期大統領選挙では、共和党の凄腕のキングメーカーとして活躍するとのもっぱらの噂である。
写真を見たところ、太ってめがねをかけたブルース・ウィルスという感じのおっさんなのだが。

『バーダー・マインホフ 理想の果てに』

2010-11-23 16:07:45 | Movie
キレがよくて洞察力が深いkimon20002000さまの「サーカスな日々」で知ったのだが、中核派の最高幹部の北小路敏氏が、敗血症により亡くなっていたそうだ。
11月15日の日経新聞によると、北小路氏は1956年に京都大に入学後、共産主義者同盟(ブント)に所属。63年に結成された中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)に加わり、政治局員として参加していたそうだ。私が大学に入学した頃は、すでに学生運動の嵐はとっくに過ぎ去っていたので、中核、核マル、民青の違いもヘルメットの色以外はわからないし、北小路敏氏の名前も初めて知った次第なのだが、調べたところ北小路氏は60年代の安保闘争では、全学連の指導者として知られた大物で、樺美智子さんが死亡した6・15国会突入デモの最高指揮者だったそうだ。(もうひとつ、知ったのが都学連副委員長をあの西部邁氏が補佐を務めたそうだ)かっての学生運動の闘士だった北小路氏は1936年生まれ、享年74歳だった。

本作『バーダー・マインホフ 理想の果て』は、1960年代後半から70年代の10年間に渡って活動した極左過激派集団 “バーダー・マインホフ”、ドイツ赤軍(RAF)の闘争と興亡を描いている。1967年6月、西ベルリン。左翼系の雑誌でジャーナリストとして活躍するウルリケ・マインホフ(マルティナ・ケデック)は、過激な記事を書いているが、私生活は編集長の夫とふたりの娘に囲まれた進歩的だが平穏な生活を送っていた。彼女は、ベトナム戦争に反対する学生たちの反米デモの活動中に、ひとりの学生が警官によって射殺されるという事態に衝撃を受ける。同じ頃、運動の中心的人物となるアンドレアス・バーダー(モーリッツ・ブライプトロイ)とグドルン・エンスリンのふたりは、ベトナム戦争に抗議するためにデパートに放火し逮捕された。夫の浮気に失望して離婚したマインホフは、正義のためにペンだけではなく”行動”するふたりにシンパシーを感じて、やがて、彼らと共に「バーダー・マインホフ グルッペ」、後のドイツ赤軍を組織して、次々と過激なテロを実行していくのだったが。。。

映画のはじまりは、ヌーディスト・ビーチでの海水浴風景からはじまる。年齢を問わず(怖い?)、ポンで休暇を楽しむドイツ人たちの大柄な群れに圧倒、ひるむものがある。はじらいを文化とする日本人とは、かけ離れたドイツの濃さを感じるのだが、そんなことは映画のテーマーとは全く関係なく、若者たちを中心とした政治活動をドキュメンタリー風にした本作は、右でも左でもない中立な立場でひとつのドイツ現代史をなぞっていく。制作費30億円も投下したドイツ映画史上空前のスケールは、迫力あるデモシーン、銃撃戦、爆破シーンに存分にいかされていて、まるでハリウッド映画並み。たたきこむような効果的な音楽も流れ、思わずブルース・ウィルス主演の最新アクション映画を観ているかのような錯覚すら覚えてしまうような、娯楽映画にころびがちな雰囲気があり、それは製作側の狙いとは違うはずだ。”理想の果て”というサブ・タイトルにあるように、彼らはもともとはベトナム戦争に抗議した反戦主義者だったのだが、国家権力の弾圧もあり、反権力、反帝国主義をスローガンに掲げていくようになり、地下組織で活動を続けるようになった。私も何度も観たことのあるベトナム人が米兵によって射殺される映像、こどもを含めた民間人が戦争の犠牲になっていく痛ましい写真など、前世代のナチスを許した過ちの遺産が、彼らをデモや運動にかりたてた気持ちは、現代の日本人の私でもよくわかる。しかし、ここから先の彼らの行動と理論は、学生運動の経験がないとこの映画から理解するのは難しいのではないかと思われたのだが、本国のドイツでは大ヒット。改めてドイツはおとなの国だと感じる。

ウルリケ・マインホフは、1934年生まれ。日本の政治運動を振り返ると亡くなった樺美智子さんが、35年生まれなので、北小路氏ともども同世代である。アンドレアスと彼女の名前にちなんだバーダー・マインホフグルッペは、1970年5月に日本の赤軍派に共感して、その名称をドイツ赤軍と改称する。なんと、日本赤軍と同じようにレバノンのPFLP(パレスチナ解放人民戦線)訓練施設で戦闘訓練も受け、多くの武器を使用できるようになり、爆弾も自ら製造できるようになった。彼らは、革命のために次々の政財界の要人を暗殺し、建物に爆弾をしかけていく。民間人を巻き込まないという思想も、過激なテロの前でかすんでいくようになった。巨大な国家権力に挑む彼らが、やがて袋小路の追い詰められていくのに従い、行動がどんどんエスカレートしてどちらにも犠牲者が増えていくのは、日本の赤軍派と同じ末路のように感じる。唯一違うのは、日本の赤軍派が内ゲバに闘争の活路を見出していっていることか。

同じ頃、日本では1960年、70年の安保闘争、70年3月に発生したよど号ハイジャック事件、77年のダッカ日航機ハイジャック事件では、当時の福田赳夫首相に「一人の生命は地球より重い」の言葉とともに超法規的措置で犯人の要求をのんだ。しかし、その後のドイツ赤軍派によって引き起こされたルフトハンザ航空181便ハイジャック事件では、ドイツ社会民主党のヘルムート・シュミット首相率いる西ドイツ政府は、交渉を続けながら犯人の要求は一切拒否し、ミュンヘン・オリンピック事件を契機に創設された特殊部隊・GSG-9のコマンド部隊によって事件は鎮圧された。(ちなみに、この時の実行犯はアンドレアスたちも知らない第二・第三世代のドイツ赤軍だった。)この報を受けて、シュトゥットガルトの刑務所に収監されていたドイツ赤軍の3人のメンバーが自殺する。ウルリケにはふたりの娘、グドルンにもパートナーとの間にまだ赤ちゃんのひとり息子がいた。ふたりの女性活動家は、可愛いこどもたちを手離してまでも、個人的な幸福よりも世界の革命をめざした。

首謀格のアンドレアスを演じるのは、とても濃い顔立ちのモーリッツ・ブライプトロイ。いつも精悍で整った顔立ちをしている俳優だと思うのだが、またしても、はまり役。スピード狂で時速オーバーであっさり警察に捕まったりと、理論よりも行動派のテロリストとしてのカリスマ性がある。実在のアンドレアスも無法者だが、性的魅力に溢れ指導力は抜群だったそうだ。ウルリケは、ドイツ女優の代表のようなマルティナ・ケデックが好演している。なかなか一度観ただけでは、諸々消化しきれなかったのだが、過去の歴史をふりかえる意味でも、この映画は観ておくべきだったと実感。

邦題:「バーダー・マインホフ 理想の果てに」
原題:The Baader Meinhof Complex
監督:ウリ・エデル
2009年、ドイツ/フランス/チェコ製作

■俳優たちの過去の出演作
『素粒子』
『アグネスと彼の兄弟』
『善き人のためのソナタ』
『クララ・シューマン 愛の協奏曲』

「課長!イキイキ働いていますか?」クローズアップ現代より

2010-11-22 21:23:25 | Nonsense
今夜のクローズアップ現代のテーマーは、「課長!イキイキ働いていますか?」

近頃、気になっているのが所謂「課長本」。昇給も昇格なしの女子だって、マネジメントについて学ばなきゃいけない時もある、そんな女子力の読書傾向の影響もあるのか?(おそらくないだろうが)、この課長本は今年、12万部も売れるヒットになったそうだ。社長に比べて、サラリーマンにとってはより身近な存在で、振り返れば奴(課長)がいるのが職場、頑張れば手に届く範囲にあるかもしれない管理職の課長。「クローズアップ現代」によると昭和の時代の課長は、新入社員の憧れの先輩で上司だったそうだ。そうか?と突っ込みたくもなるのだが、サラリーマン役の西田敏行さんが縄のれんをくぐって、行きつけの焼き鳥やさんに部下の小池栄子さんを連れて行き、お店の人に「この子、今度きたうちの新人!」と紹介するビールのCMは、私のお気に入りなのだが、あの雰囲気は間違いなく昭和の課長だと想像する。(こんな呑み会は私は嫌いではないのだが、部下の女性を個人的に呑みに誘うとセクハラになりそうで、うっかり誘えないという悩みどころもあるらしい)

平成の課長は、長い出口の見えない不景気の中、グローバル化だの成果主義だの厳しさが増し、一時は組織の簡略化が進み、課長不要論までまかりとおっていたのだが、近年、日本企業の組織力が再認識される中で、再び復活してきたのが、組織の要となる課長の力。但し、平成課長は、昔の全員正社員で同じ価値観をもった終身雇用の部下たちに囲まれていたのに比較し、嘱託社員などの年上の先輩が部下になったり、全国型や女性を中心とした地域型の社員のマネージメントと多様な雇用形態の部下を管理、面倒を見なければならない。具体的な成果を求められる中、よく言われる上司と部下の板ばさみとなって孤独を募らせている課長もいる。番組では、ふたりの課長をクローズアップしていた。

最初に登場したのは、生花店に花を包む紙を売る1000人規模の企業の課長。Aさんは、30代後半でお洒落な雰囲気の方でスーツやYシャツの着こなしがスマート。リーマンショック以来の不景気にあえぎ、お花そのものの売上が落ちている中、生花を包む紙も売上が前年度割れが続く。ミーティングでひとりひとりの営業マンから数字の報告を受けるAさんの表情は曇る。毎日6時45分に、上司に成績を報告するのもAさんの役割。そんなAさんは、毎朝、一番早く6時に出社!すぐにみんなが営業に出られるように、資料やサンプルを整理して机の上に配布して回る。本当に、大変だな~~~っ。当然、課長になったら、残業手当もでないでしょ・・・。

次は、損保ジャパンのある支社の課長、Bさん。昨年までは、自分と同じ全国に転勤がある営業のグローバル型社員だけを管理すればよかったのだが、今年から転勤のない女性が多い(と言うよりも、女護島)エリア型社員や嘱託社員も管理することになった。部下が増えた、が、さして嬉しいわけではないだろう。(これに派遣社員も含まれることも珍しくないのが、今の多様な雇用体系だ)。この会社の人事部の規定で、課長は部下からも評価を受ける「多面評価」を実施している。マネジメント能力、コミュニケーション能力など、いくつかの項目で自己評価と部下からの評価が並ぶ。厳しかったのが、地域型からの評価で自己採点と部下の評価に乖離がある。この結果には、Bさんももショックを受ける。地域型社員を集めてミーティングを行い、はっきり自己評価と部下の採点を公表して、これまでの反省と今後の対応と想いを伝える。これを受けて、NHKの取材に応える部下の今度は優しいコメントに、思わず涙ぐむオトコ、42歳の課長。本当に、本当に、大変だな~~~~っ。上司の顔色をうかがい、部下のご機嫌もうかがい、自分自身が多面にならなければやってられないよな・・・。人事部長自身への多面評価、社長に対する社員全員の評価というのはないのだろうか。

ゲスト出演していた東京大学の中原氏によると、このような評価はあくまでもマネジメント能力への評価であり、その人の人格とは全く別であるということを解説していたが、あのように低く評価されたら人格まで否定されたようでショックを受けるのは仕方がないだろう。こうした課長の仕事ぶりに、会社も報酬という形で報うことも考えなければけいないと、最後に結ばれていたのだが。
さて、ニッポンの平成課長は実際、いきいき働いているのか?課長の4割が悩みの相談もできず、「いきいき働いていない」そうだ。やっぱり・・・、課長って大変!
以下は↓、11月9日の朝日新聞より

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課長の4割「いきいき働いてない」 悩み相談もできず

上場企業の課長の約4割が「自分はいきいきと働いていない」と感じていることが、産業能率大の調査でわかった。業務量が増え、成果も求められているが、悩みを相談できる相手がおらず、自分で抱え込んでいる姿が浮かび上がった。
 調査は9月下旬、従業員数100人以上の上場企業で部下がいる課長を対象に、インターネット調査会社を通じて実施。428人が回答した。
「いきいきと働いていない」(「どちらかといえば」を含む)は38.3%だった。回答者の98.6%が職場管理と営業などを兼務する「プレーイングマネジャー」で、このうち54.8%が「プレーヤー活動が職場マネジメントに支障を与えている」と答えた。 仕事の悩みを抱えるのは約9割。「業務量」「部下の評価」「部下の育成」の悩みが多かった。ところが、悩みを相談できる相手が「いない」が50.2%。心の健康に不安を感じた経験が「ある」は43.7%に上り、原因は「上司との人間関係」「成果へのプレッシャー」と続いた。


『野良犬』

2010-11-21 16:17:17 | Movie
【大卒内定率、最低の57% 10月時点で「氷河期」を下回る】
来年春に卒業予定の大学生の10月1日時点の就職内定率が57.6%で、前年同期を4.9ポイント下回ったことが16日、文部科学省と厚生労働省の調査で分かった。「就職氷河期」と呼ばれた2000年代前半を大きく下回り、現在の方法で調査を始めた1996年度以降で最悪となった。11月17日日経新聞より


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通勤電車の車内広告を眺めていると、これが本当に大学か?と失礼だが考えざるをえないような大学が乱立している昨今なので、この報道にあるような”大学生”の範囲を疑ったりもしたのだが、難関と言われる大学の学生たちの中にもまだ内定をとれずに焦燥を募らせている方も多いと知り、本当に厳しい就職戦線なのだと実感する。実際に、勤務先でも、不採用通知ばかりが届き、自分の存在を否定されたように感じて精神的に落ち込み、ノイローゼになって戦線から脱落し実家に帰省したまま休学状態の国立大学の女子学生の気の毒な話も聞いた。今の日本の採用制度では、希望の会社に入社できるかどうかが、新卒で就職する年の運・不運にも左右される。人生には、いつもラッキーばかりがついて回るわけではなく、不運が振り返れば別の幸運をよぶこともあるのだが。

さて、1949年製作された黒澤明監督の映画『野良犬』は、終戦後の混乱と傷の中にも荒廃から復興して立ち直ろうとする闇と光が交錯する東京が舞台。
猛暑の一日、射撃訓練から帰宅する途中の新米・村上刑事(三船敏郎)はへとへとになりながらバスに乗っている間に、何者かにコルトの拳銃を盗まれてしまった。警察官としてあるまじき失策にあせる村上は、復員兵の服装で犯行を幇助した女のスリを尾行しながら必死で拳銃の行方を探して街中をさまようのだが、とうとう恐れていた盗まれた拳銃による強盗事件が勃発する。失意の村上刑事に、係長が紹介したのがベテランの佐藤刑事(志村喬)だった。その日からふたりは、連日の炎天下の中を、犯人である遊佐(木村功)を追い詰めていくのだったが。。。

白黒映画にも関わらず、いやだからこそであろうか、復員兵の服装で街を犯人を求めて探し回る村上の姿に、真夏のギラギラした太陽の光に敗戦から平和を取り戻して活気に溢れていく庶民の姿と、疲弊してぼろぼろになって貧困にあえぐ人々が背景に重なり、このような時代と社会を活写した場面をあえて長く撮影した黒澤の意図が成功し、その対比が鮮やかに描かれている。天才とあがめられ映画史に多くの影響を与え軌跡を残した反面、徹底的に映像にこだわり民家の二階を壊したエピソードから天皇とまで呼ばれた黒澤明。専門家や世間の評価はともかく、個人的には、何度観ても、どんな映画を観ても、黒澤監督の作品には心底感嘆させられる。映画芸術も円熟期に入り、どの作品も非常によくできていて完成度が高いのだが、きれいにまとまっているためこじんまりとした印象か、大金を投下したスペクタル的なただのガタイの大きさしか感じられない近頃の作品の中で、黒澤作品は骨太で不朽の名作にふさわしく、全く色あせず観る者の心を躍らせる。そんな映画を支えるのは、名役者陣だ。佐藤刑事に会うために取調室に向かい階段を勢いよく登る新米刑事の三船敏郎のがっしりとした背広に包まれた肩と端整なマスク、したたかで老練さを感じさせられる志村喬のベテラン刑事ぶり。そこには、前作の『酔いどれ天使』で演じたチンピラやくざとは全く別人がいた。

拳銃のブローカーを追って、後楽園球場にふたりの刑事が張込みに行く場面がある。5万人もの観客が入った球場は、人々の夏の白いシャツでびっしりと埋まっている。軽快な音楽にあわせてリズムよくすすむ巨人対南海の試合の実写が使用され、犯人を捜す緊張感と試合を楽しむ観客のあかるさが錯綜して『瞳の奥の秘密』のサッカー球場の場面の原点ともいえる。また、この場面もそうだが、映画における音楽の使い方のセンスで言えば、私は黒澤はナンバー・ワンだと常々思っている。村上刑事が遊佐を追い詰めて、林の中にふたりが倒れる場面では、近くの裕福な民家のピアノからモーツァルトのソナタを練習している透明な音楽が鳴り、幼稚園からはこどもたちが歌う童謡がかすかに流れてくる。絶望と悲しみにあえぐ犯人に心に、この音楽はどのように届いたのだろうか。

追う刑事と追われる犯人。善と悪。日常と非日常の狂気。対位法を用いた最後の場面で手錠に繋がれたふたりの共通体験は、復員兵として帰還途中の電車の中で唯一の財産である鞄を盗まれたことにある。生きることに必死で悪に染まりやすいそんな”不運な時代”に、だからこそ正しい道を歩こうと警察官になった村上と、負けて堕落していく遊佐。猛烈に暑いバスの中で拳銃をすられてしまう”不運”におそわれた村上。責任をとるためにうなだれて辞表を持参した彼に、上司の係長が辞表を破いて叱責する。
「不運は人を鍛えるか、押しつぶすかのどちらかだ。君は、押しつぶされたいのか!」

「厳しいとは思っていたが、まさかここまで落ち込むとは。」と明治大学キャリア支援部の担当者はため息をつく。就職相談窓口には何社回っても決まらないという焦りの声が届いている。一方、上智大学のキャリアセンターの採用担当者は、「まだ10月の段階で今後回復する見込みもある。企業からの求人自体もそこまで減っていない。企業と学生の間でミスマッチのあるのではないか」と分析していた。まだシュウカツの途上にある学生が、時代の不運に流されずによい企業との出会いがあることを願いたい。

■三船敏郎と志村喬共演のこんなアーカイブも
『醜聞(すきゃんだる)』

「グラハム・ベル 空白の12日間の謎」セス・シュルマン著

2010-11-20 15:26:37 | Book
「ワトソン君、―ちょっと来てくれたまえ」

1876年3月10日、ボストンのエクスター・プレース5番地にある質素な下宿屋の一室で、ベルは電池式の液体送信機を使って10メートルの離れた導線で繋がれた助手のワトソンに、自分の声を伝えることに成功した。その声を聞きつけたワトソンが部屋に飛び込んだ時、今日、世界中で使用されている電話が誕生した瞬間でもあった。 電話を発明した父として、またわずか12日違いで生まれたエジソンと一緒に「伝記」にふさわしい人物としても、約130年もの語り継がれた歴史的にも有名であり、ある種のロマンさすら感じさせられるこの「達成の瞬間」には、実は裏があった。その発端は、著者のセル・シュルマンが発見したベルの実験ノートに残された謎の空白の12日間だった。そして、後に法廷でどちらが先に電話を発明していたかと争っていた電気技師の発明家であるイライシャ・グレイが発明特許権保護の申請中で当時非公開だった図と、あまりにもよく似ているノートに書き込まれた電話機で話をしている図。「二重らせん」「ダークレディと呼ばれて」であきらかにされているワトソンとクルックによるDNA二重らせんの解明に貢献したのが、盗まれたフランクリンのX線解析の画像だったように、ベルの発明に最後のヒントを与えたのは、実はグレイの保護申請中の一枚の図だったのではないだろうか。

アレクサンダー・グラハム・ベルを検索するとウィキペディアではこのように紹介されている。
「アレクサンダー・グラハム・ベル(Alexander Graham Bell, 1847年3月3日 - 1922年8月2日)は、スコットランド生まれの学者、発明家。その生涯を通じて科学振興および聾者教育に尽力した。」

電話の発明家として有名なベルだが、むしろその生涯は祖父、父から受け継いだ聾唖者への教育を献身的に行い、ヘレン・ケラーにアン・サリヴァンを家庭教師として紹介したりっぱな教養と滋味が溢れる偉大な人物として知られている。そんなベルが剽窃者だったとは、疑問を抱くことすら恐れる著者の心情が伺える。さらにウィキペディアから引用すると少し長くなるが、
「アメリカ人の発明家であるイライシャ・グレイはスコットランド人であるベルと同時期に電話を発明したが、ワシントン特許局への特許申請がベルより(2時間か3時間程度)遅れたため、特許取得を逃したとする説がある。アメリカは日本のように先願主義ではなく先発明主義でありしかも外国人のベルはこのシステムを利用できなかった。またグレイが申請したのは特許予約の申請であったため、順番で遅れてもリカバリーの手段があったのはグレイや彼の協力者も知っていたはずである。しかし先手を打たれたグレイが不利であった点も間違いはなく、このためグレイとの競争説は誤りとはいえないが、また本当であるともいえない。」となっている。

もし、著者が抱いた疑問が事実だったとしたら、130年ほど前から訴訟天国だったアメリカで、どうやってわずか特許の申請の”2~3時間の差”でベルは訴訟に勝ち、グレイは敗北していったのだろうか。高潔だとされるベルが、こっそり非公開のグレイのアイデアである図を盗み見していたのだとしたら、そこに至る動機はどこにあるのだろうか。

27歳になったベルは、恋に落ちた。生真面目な彼らしく、だからこそ真剣に激しく。相手は、大富豪で弁護士であるガーティナー・ハバート家の16歳の娘、メイベルだった。猩紅熱で聾唖になってメイベルの家庭教師として訪問していたベルが、彼女と結婚するためには、社会的な成功と何よりも彼女も実家と同じレベルの暮らしを約束できるだけの経済的バックボーンが必要だった。そして、義父になるかもしれないハバートは、ベルの研究に興味をもち資金援助もしていて、米国特許庁にも繋がりをもつやり手の弁護士だった。疑惑と憶測を電話の回路をたどるように、リサーチしていくシュルマンがたどりついた結論は、充分に説得力に満ちている。発明に与えられる対価の大きさと、それにからまる人間のドラマが、本書の読みどころである。「二重らせん」を読んでも感じたのだが、ひとつの「発明」に至るまで多くの研究者の努力と才能という礎があり、その土台の上に最高にして最後の”発見”をした者に栄光がふりそそがれ、やがて過程で貢献してきた人々の名前はひっそりと忘れられていく。もし、当時、ノーベル賞というものがあったら、いったい誰が受賞したのだろうか。

最後に、サイエンス・ライターである著者が勤務しているディブナー研究所は、MITのにぎやかなキャンパスの西端にある。謎に満ちた実業家のバーン・ディブナーが趣味で収集していた科学技術史に関する書籍がやがて世界でも一流のコレクションとなり、1990年の創設以来、毎年2~30人ほどの錚々たる研究者を招いて、豪奢な本部の中に研究室を与えて、名高い蔵書を利用して研究活動の支援を行っているそうだ。ベルが単独で電話を発明したという神話は、1922年にベルが亡くなってからも守られ語り繋がれている。この神話がすこぶる都合のよいある独占企業によって、巧みに育まれ広められてきたからだ。神話を暴いたサイエンス・ライターが勤務したディブナー研究所と神話を創った巨大な独占企業。米国という国の厚みも感じさせられる上質のミステリー。

ギル・シャハム バッハ 無伴奏ヴァイオリン リサイタル「深秋のシャコンヌ」

2010-11-15 23:04:10 | Classic
私のギル・シャハムが、ようやく!3年ぶりに来日。(・・・だよね。毎年、訪日を楽しみに情報をチェックしていたので、こっそり国内のどこかで私に内緒で演奏会を開いていた、な~んてことはないはず。)前回は、オール・ブラームスで攻めてきたが、今度は、オール・バッハ無伴奏のプログラムをひっさげていよいよ勝負にでたっ?。あいかわらずビジネスマンのようにダークスーツにネクタイを締めたギル・シャハムは、見た目どおりの誠実で有能なビジネスマンのように、ヴァイオリン音楽の最高峰と言われるバッハの無伴奏を高い技術力に支えられて理路整然と弾いていく。

最初はおなじみの耳にすっかりなじんだ第3番のプレリュード。ギル・シャハムの演奏の特徴は、なんと言っても音の馥郁としたまろやかな美しさにあるのだが、彼の音はこの曲にとても向いているようで、深遠なるバッハの親密性が伝わってくる。端整に、むしろオーソドックスな正攻法で攻めていくのかと思いきや、やがて意表をつかされるようにトリルを入れたりして彼の人気の由縁たるエンターティメント性、幅広い意味での音楽性が発揮されていき、バッハを弾いても、やはりギル・シャハムはギル・シャハムだと感じる。

また、私が最も好きなのは、彼の音のあたたかさである。最後のシャコンヌは、無神論者の私ですら、神の存在を感じて敬虔で厳かな気持ちにさせられる曲である。粛然として清々とした音楽に包まれて、まさに天井から、神がおりてくるような感覚の演奏に出会うこともある。この曲は、ひとつの音楽以上のものだと考えるのだが、ギル・シャハムの演奏はその音の美しさとあたたかさ、そして優れた技術力が、神の存在とは関わらず音楽という芸術に高めている。それは、バッハがこの曲にこめた意図とは、不幸にも異なっているのではないだろうか。この曲を弾くことは、なんと難しいのことか。アンコール曲のパガニーニのカプリスでは、ハイ・スピードで魅力たっぷりに聴衆を楽しませてくれる演奏を聴いて、まさに彼の本領発揮とばかりにたくさんの拍手に囲まれて思い出したのが、シャルリー・ヴァン・ダム監督の映画『無伴奏 シャコンヌ』だった。

フランスのリヨン。ヴァイオリニストとして成功したアルマン(リシャール・ベリ)、第一線で活躍している彼は、音楽家として愛され尊敬されている。ところが、すべてが順調に幸福な音楽家としての人生を歩いていたはずのアルマンは、同じヴァイオリニストの親友の自殺をきっかけに、演奏することの意味、真の芸術を問い詰め考えるようになっていった。ほどなく、アルマンは華やかな舞台を去り、選んだステージはメトロの地下道だった。音楽を知っていて、彼の演奏を楽しみに集まる知的な観客が待つ快適な空間ではなく、ほこりが舞い、雑音が流れ、音楽やアルマンにも無理解で無関心な通行人たちが行きかう路上。整えられた髪、清潔で落ち着いた服装を来ていた彼は、すこしずつ路上の垢を身につけてやつれ、汚れていく。しかし、メトロの職員や心を閉ざしていた切符売りのリディア(イネス・ディ・メディロス)も彼の音楽に癒され、演奏は街行く人々の心をなごませるようになっていくのだったが。。。

演奏をすることを哲学的につきつめた1994年にフランス・ベルギー・ドイツで製作されたこの映画を、私はレンタル・ビデオで観たのだが、その時に日ごろ映画を殆ど観ないヴァイオリニストの方がもこの映画を観ていたという話を聞き、ギドン・クレメールが映画の最後に流れる「無伴奏 シャコンヌ」を演奏していたという事情もあったのだが、音楽家の間では世間以上にこの映画が話題になっていたのだと思った。確かに、およそ音楽が好きな私の周囲の者で、この映画を観ていない者はいない。立ち退きを命令した警官に愛器を壊される場面では心が苦しくなり、最後のシャコンヌを弾きながらどこまでも漂っていくアルマンの姿には衝撃を受けた。何かと恋愛や家族愛に転び勝ちな映画作品群の中で、この映画が与えるテーマーは際立っており、哲学的で深い。 今回のギル・シャハムのバッハを聴いて、まだまだ彼にとってはバッハは進化の途上であると感じた。

ところで、シャハムがこれまでに録音してきたCDは20枚を超えるのだが、彼の特徴として、フォーレ、サン=サーンス、ドヴォルジャーク、パガニーニ、シューベルトなどなど、ひとりの作曲家をテーマーにしぼって名盤を数々と世に送り出してきたところにある。(この方の「パガニーニ・フォー・トゥー ヴァイオリンとギターのための作品集」のCDを聴いた私は、音楽という賜物に抱かれた感動のあまり泣いた。。。)ドイツのグラモフォンから発売されたCDはその数多くが話題となり、何度もグラミー賞、レコード大賞を受賞してきたのだが、専属契約を打ち切られたそうだ。今後のプログラムの計画があったのに、とても残念だというシャハムのインタビューの読んだ記憶があるのだが、最近、「カナリー・クラシックス」という自主レーベルをたちあげることで解決したようだ。今後も彼らしいコンセプトのCDが登場するのを待ちたい。

-------------------------------- 11月15日(月) 紀尾井ホール ----------------------------------------

出演 : ギル・シャハム(ヴァイオリン)
曲目 : オール・バッハ 無伴奏ヴァイオリン プログラム
パルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006
ソナタ 第2番 イ短調 BWV1003
パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004

■アンコール
パガニーニ:カプリス 24番
バッハ:ソナタ 第3番 ラルゴ

□前回のリサイタル
「ギル・シャハム ヴァイオリン・リサイタル」

「夜と霧の隅で」北杜夫著

2010-11-14 17:14:55 | Book
「たちこめた夜霧のせいばかりではなかった」

演奏家にとって、音楽を演奏する時は最初のフレーズで聴衆の心を惹き付けることが重要であるように、作家は小説の書き出しの1行はこだわり才能とセンスを注ぐべきだろう、、、というのが私の自論。「夜と霧の隅で」というタイトルそれ自体が、暗い、重い、寒いの三重苦を小説や映画に求める私にとっては充分に関心をそそられるのだが、この最初の一行は、軽い衝撃すら感じられるくらいの芥川賞作品にかなう文章である。第二次世界大戦末期、ドイツ南部の郊外にある世間から孤立した精神病院。そこで暮らす知能のたりないこども、肢体が不自由なこども、奇形のあるこどもたちが次々と夜霧にまぎれて、輸送用トラックに積み込まれていく。1933年、ナチスは「遺伝子孫防止法」を制定するや、ユダヤ人を排斥するための「国民血統法」、さらに「婚姻保護法」が翌々年に制定され、遺伝性精神病者の断種手術が行われた。その手術数は56000件以上にも及ぶ。その自然な流れとして、ナチスは不治の精神病者に安死術を施すことを決定する。「民族と戦闘において益のない人間」を対象に。カール・ケルセンブロックが勤務する州立精神病院にも、とうとうその指令を携えたナチスがやってきたのだったが。。。

モチーフこそはナチス・ドイツの人間の尊厳を犯した蛮行にあるのだが、作品の主題はこれまで語りつくされた戦争やナチスではなく、そのような状況下におかれた対比する一精神科医の苦悩と精神、人間存在の不安にある。患者に、誰にも変わることができないひとりの人間に、治療不可能というレッテルをはられて選別される前に、何とか医学的な治癒のわずかな曙光を求めて、医師達は奮闘する。辻から描写力が優れていると評価されていた北らしく、脳溢血で倒れる院長をはじめ、医長のフォン・ハラス、太っちょのラードブルフ、女医のヴァイゼ、若いゼッツラーと主人公のケルセンブロック、そして物語で重要な役割を果たすタカシマという日本人の患者がリアリティをもって読者にせまってくる。そうだった、水産庁の漁調査船に船医として五ケ月の航海に出た動機は、我らが憧れのトーマス・マンをうんだドイツへ行きたいという願いだったそうだが、ドイツ滞在の経験がないにも関わらずまるでドイツ人によるドイツの小説を読んでいるような感覚になってくる。解説の埴谷雄高によると私たちの精神の傾向を大まかに求心型と遠心型にわけると、訪れたこともない場所を背景に作品を書く特徴のある北は、遠心型になるそうだが、仮説空間で可能性の多様さを示した、これもひとつの文才だろう。また、治療効果がではじめて希望がもてるようになったタカシマの最後にとった行動は、予見しながらも人間の矛盾をつきつけられたような気がする。全体に暗闇と孤独を帯びながらも、わずかな抒情も漂っていて、最後のひっそりとした文章の閉じ方も見事に完結している。

北杜夫という作家を私は知らなかった。歌人の斎藤茂吉の次男。「どくとるマンボウ」シリーズで一躍人気作家になった精神科医にして躁鬱病の作家、などなど、周辺知識はそれなりにあるが、肝心の本は一冊も読んだことがなかった。青年時代の辻邦生との往復書簡集「若き日の友情」を読んで、「どくとるマンボウ」で大当たり、更に「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞した北が、先輩格の辻に多くのアドバイスをしてなんとか辻にも作家としての道を見つけるよう考えているのだが、その内容の辻の作品に対する批評やら心がまえなどのアドバイスが、実に的確なのである。作家としての有能さが、ラフスケッチのような手紙の文章からも伝わってきた。本書を読んでその期待を裏切られなかったばかりか、久しく手ごたえを感じることがなかった日本のこれぞ”純文学”との邂逅を堪能した。

■アーカイブ
・。辻邦生との往復書簡集「若き日の友情」