千の天使がバスケットボールする

クラシック音楽、映画、本、たわいないこと、そしてGackt・・・日々感じることの事件?と記録  TB&コメントにも☆

究極のトリオ・パフォーマンス!!“Bee”

2008-10-31 22:48:17 | Classic
いまだに惜しいことにホスト・クラブなる魔窟に侵入したことがないのだが、この男性たち3人が舞台に登場した瞬間、あっ・・・ホスト・クラブにはまる女性の気持ちがちょっとわかるかも、なんていう感想がうかんでしまった。
彼らは敬愛なる”Beethoven”にBravo!Excellent!Energy!をかけた男衆である。だんご3兄弟風に紹介すると、長男はキャッチフレーズが「人気実力No1.」と言い切っちゃっている「情熱のピアニスト」の及川浩治さん。次男は、「孤高の”カリスマ”」らしいヴァイオリニストの石田泰尚さんで、チェリストの石川祐支さんは「華麗なる超絶技巧」

まず、ヴァイオリニストの石田泰尚さんはスタイリッシュで洗練されたものごしにも関わらず、マイクを持ちながら「えー・・・えー・・・、え~~・・・」のたった3文字で会場を沸かせられる特技?の持主でもある。神奈川県民の★から、「Bee」でのご活躍から一躍全国区に踊り出た石田さんの演奏は、エッジが利いていてその”細部に宿る美”の象徴のような耳から零れ落ちる光を放つ凝ったピアスからも予想されるとおり、音も繊細でまるでベルギーレースのような美音。しかし、石田さんが弾くピラソラのタンゴ・エチュードは、水面に跳ねる光のような繊細さから一転、暗い情熱がゆれる。演奏からも自分をよく知り尽くしている音楽家という印象があり、ステージで歩く姿とお辞儀に、計算された美しさがある。友人が少ないから孤高なのか、カリスマを装いながらも、案外この方はお茶目かもしれない、と私は観た。

素朴な3男風の石川さんは、個性的で道行く人が思わず振り返ってしまいそうな独特のオーラがある兄達に比べ、まだ毒されていない?けなげさがある。ソロに選んだ曲が、「エレジー」と「白鳥」。この選曲も、シンプル。端正で素直な演奏は、今後その成長が楽しみな若手チェリストである。最近どうやら髪型を変えたらしいのだが、高校生風の黒い髪が似合っていると私には思われる。

そして、「Bee」の発起人であり、トリオのまとめ役であるダンディな及川浩治さん。このほぼ満席のサントリーホールでの公演を、一番楽しんでいる雰囲気が感じられたのもダンディ・及川さんである。弦楽器と異なり、ソロで演奏する機会が圧倒的に多いのがピアニストだからだろうか。トリオでの演奏を心から楽しんでいる様子から、人柄の明るさとおおらかさが感じられる。さすがに、マダムの心をつかむだけある。長男としての調整役もかねるバランス感覚にもたけ、今回発見したのが、伴奏者としてもその音楽性がとっても素敵な方でもある。単に上手な伴奏者はたくさんいるが、それだけではない魅力が演奏にあり、ピアノをひきたてつつソリストを盛り立てている。思わず、目ではなく耳がハートになってしまいそうだ。
最近、発作性上室性頻拍症で公演をキャンセルされたようだが、心臓への負担を考えて喫煙は控えた方がよいのでは、とつい余計なことを言ってしまいたくなるのも、これからの「Bee」を楽しみにしているからである。
「究極のトリオ・パフォーマンス」のパフォーマンスを考え抜き、このトリオのコンセプトを明確に打ち出したのが、今回のツアー。
最後のこだわりのベートーベン、スリリングでエキサティングなアンコールの演奏を含めて、彼らのパフォーマンスに酔いしれた秋の夜だった。

-------08年10月31日<サントリーホール>--------

ピアソラ :アディオス・ノニーノ
     :ミケランジェロ’70
     :リベルタンゴ
     :タンゴ・エチュード 第3番
モーツァルト :ピアノ三重奏曲 K.548から第1楽章
ベートーヴェン :ピアノ三重奏曲第5番 「ゴースト」から第1楽章
(ここで休憩)
ブラームス:ピアノ三重奏曲第3番から第1楽章
グルック :『妖精の踊り』から「メロディ」
サン=サーンス :白鳥
リスト :ラ・カンパネラ
ラフマニノフ :ヴォカリーズ
リムスキー=コルサコフ :熊蜂の飛行
ベートーヴェン :ピアノ三重奏曲第5番 「ゴースト」から第2,3楽章

■アンコール
ピアソラ:天使の死
    :リベルタンゴ

■すでに懐かしいコンサート
・「Bee’s 3大協奏曲2007」

ドキュメンタリー:『永遠のルチアーノ・パヴァロッティ』

2008-10-30 22:50:54 | Classic
Ma un altro sole
   piu` bello, oh ragazza,
   il mio sole
   sta in fronte a te!
   il sole, il mio sole!
   sta in fronte a te!
   sta in fronte a te!

オー・ソーレ・ミ~オ~~♪
この歌で、彼ほど私の心をつかんだ歌手はいない。イタリアが世界に誇ったテノール歌手、ルチアーノ・バヴァロッティである。
ヘルベルト・フォン・カラヤンから”神からキスを受けた声”と絶賛され、’King of High C’と称賛されたダイヤモンドのような輝きのある美声、地中海の海のような明るさ、豊かな声量、正確な音程、明晰な発声、すべてに恵まれた20世紀最高の歌手。パヴァロッティが、昨年、まるで国葬のような葬儀で、政治家、芸術家、たくさんの報道陣や10万人のファンに見送られて旅立ったのは、記憶に新しい。
その声とパヴァロッティを追悼した2007年12月29日にBSジャパンにて放送された映像のDVD化である。

90分という時間の中で、パヴァロッティ本人のインタビューも含めて、駆け足でたどった彼の軌跡だが、「素晴らしき人生を贅沢に綴った感動の90分!」というにはもの足りない。まず、中国公演にコックや調理器具、大量の食材をもちこんだり、共演したお気に入りの女性を舞台衣装を着たまま追いかけたりといった彼の人生が素晴らしいのは、「王様と私」を読めば充分わかる。海辺でリラックスした時の雑談のようなインタビューでは、彼のおちゃめな人間性まではうかがえない。又、様々な歌うシーンもエンターティメント系のステージが多く、クラシック音楽ファンとしてはCMを観ているような雰囲気であり、ついつい日頃の睡眠不足のために途中で爆睡してしまったくらいである。(私としたことが・・・)
私でも知っているボン・ジョヴィ、セリーヌ・ディオン、デュラン・デュラン等々、世界に名だたるスーパー・ミュージシャンとの共演シーンが多く、クラシックだけだと思っていた私としては、そうだったの、パヴァロッティ・・・と意外な発見をした感もある。
スマートで洗練された身のこなし、センスのよい体にぴったりとした服を着てマイクに向かう彼、彼女たちのアーティストの隣で、蝶ネクタイに燕尾服を着た巨大な被り物のようなパヴァロッティは、ここでも幸運を呼ぶトレードマークのハンカチーフを左手に握りしめて、輝かしい声と豊潤な声量で歌っている。それが、華やかな舞台の中で妙に違和感を感じてしまう。ロック・ミュージシャンとして妖しいオーラを放つボン・ジョヴィと一緒に並んで歌うパヴァロッティは、非難されるのを覚悟で言ってしまえば、とんでもなく歌だけ巧い道化師のようにさえ見えてしまう。せっかくのデュエットも、貴重で素晴らしい共演にも関わらず、何故か声が重ならない。
今となってしまっては、文字どおりの軌跡でしか価値がないようだ。やはり、純正パヴァロッティを堪能したかったら、中途半端なDVDでなく、本格的な音楽だけの記録を探すべきだろう。

それから、これはテレビで観て本当に楽しかった記憶のある1990年イタリア、ワールド・カップでのプラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスとの「世界3大テノール歌手」の抱き合わせ販売の模様は、懐かしかった。同じテノールの音域だが、それぞれにそれぞれの持ち味と個性が感じられるのだが、王様はパヴァロッティ!というのがちょっと素人目にも判断できる映像である。ただ、円熟期から晩年に向けて、体重は兎も角、顔色がどんどん不健康に悪くなっているのが、はっきり映像からもわかった。
クラシック音楽ファンにとっては、格別観るほどのこともなさそうなDVDだが(私はレンタル)、パヴァロッティを全く知らない世代には、彼に興味をもっていただける入口にはなりそうだ。
永遠のこどものようなパヴァロッティ、女たらしでいつも食べることに異常な関心を示していたパヴァロッティ。それでも、それでも、パヴァロッティだ。本当のパヴァロッティに会ったことがない(つまり、生の声を聴いたことがない)私でも、あなたは永遠に太陽。

■アーカイブ
・「王様と私」ハーバード・ブレスリン著
・プッチーニ≪歌劇≫ラ・ボエーム

お手伝いロボットが我家にやってくる②

2008-10-28 23:23:43 | Nonsense
【掃除や洗濯これ1台で 東大やトヨタなど家事ロボ開発】

掃除や洗濯、食器の片づけなど、家庭内でのいろいろな仕事を1台でこなしてくれる「家事支援ロボット」を、東京大やトヨタ自動車などの研究グループが開発した。東京大で24日、その仕事ぶりが公開された。
このロボットは車輪で移動し、身長は155センチ。単身世帯や高齢世帯の家事負担を減らすことを目標に開発した。事前に命令しておけば、留守中に家事をこなしてくれる。
この日は、洗濯機のふたを開けて衣類を入れたり、トレーにのせた食器を台所へ運んだりした。搭載したカメラやセンサーで周囲にある家具などの位置を確認しながら作業をする。床を掃除するときには、いったんイスをどかしてモップがけをし、きれいになると元の位置にイスを戻す細やかさも見せた。

研究グループは10年以内の実用化を目指しており、量産すれば1台の価格を100万円程度にできると見込んでいる。稲葉雅幸・東京大教授は「今後も改良を重ね、皿洗いや洗濯物をたたむ作業もできるようにしたい」と話している。

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私が将来セツジツの欲しいのが、お手伝いロボット。3年前にブログで「お手伝いロボットが我家にやってくる」という記事を書いた時は、およそ30年後に実現化するとの予測だったが、「Gacktさんそっくりのロボット」という妄想&暴走型はちょっと残念だが(今は!無理としても)、100万円程度の価格でお手伝いロボットが我家にやってきそうだ。

身長155センチのこのお手伝いロボット君は、写真と記事の説明を読む限り、なかなかかいがいしく”けなげ”にも見える。ロボットに”けなげ”という感情を抱く事自体、ふさわしいことではないのだが、そのような感情を引き起こさせるのも、ヒューマン型ロボットの特徴だろう。昔の手洗いだった洗濯に洗濯機がかわり、お茶碗洗いも自動洗浄機にとってかわったことと、これからの家事ロボットはかなり異なるように思える。洗濯機は人間に近いか、と言えば全く異なる工場のベルトコンベアーのような単なる機械である。然し、擬人化されたロボットが、人間と同じような動作から、やがて人間の感情表現を模倣した表情をできる時代がそう遠くない未来にやってくるような予感がする。瀬名秀明さんの「デカルトの密室」のケンイチのような人工知能を搭載されたロボット開発は、不可能に近いと聞いているが、かなり複雑なパターン化された言語と表情を組み込まれたロボットは、いずれ製作される時代がやってくると思う。そうなると、人とロボットの関係は感覚的に共生に近くなるのではないだろうか。それは、決してあかるい未来と安易に言えないのではないだろうか。

1994発表された萩尾望都氏の漫画「あぶない丘の家」(3部作)の「あぶない未来少年」を、先日再読し改めてロボットと人間の関係を考えさせられた。(以下、内容にふれております。)

両親を不慮の事故で亡くした真比古は、不思議なアズ兄ちゃんと二人暮しの高校一年生。或る日、200年後の未来からタイムマシンの自転車に乗ってやってきたジーンと友人になる。彼によると、未来の地球は隕石の落下とともに、世界的な食料不足と第3次世界大戦が勃発し、核と化学兵器によるオゾン層の減少、大量の放射能の変異と免疫力の低下で、人類を含めてあらゆる動植物にカタストロフィがやってくる。何とかそれをとめられないかと先に出発していた姉のトロイを追って、ジーンがタイムマシン付自転車でたどり着いたのが、1994年の住宅街のゴミ捨て場だった。。。

小学生時代、ジーンは、親友だったハックがスキー場で事故にあった時、彼がいつのまにかロボットにすりかわっていたことに気が付いた。驚き混乱するジーンに、パパは、あのロボットは1年ほど前病気で亡くなったハックのかわりに、悲しんだ両親が注文した特別製(エクストラ)だったと説明をした。疑問に感じたジーンは、こっそり図書館で調べ始めると、2178年の世界人口は、2万人。2192年には、5千人。やがて、ジーンはもしかしたらみんなロボットで、ここはロボットが人間のふりをする社会で、生きている人間は、僕だけかもしれないと疑うようになる。

この漫画で描かれるロボットは、ジーンのために存在し、一緒に成長していく友人であり両親である。何故、このような社会になったのか。兄役のロボット・モノンの話しは悲しく胸にせまる。進化したヒューマン型ロボットは、本来のこれまで人間がこなしていた家事や労働を担うための機械とは全く別物である。

■さらっとアーカイブ
・「第九の日」瀬名秀明著
・人肌そっくりの人工皮膚開発をロボットに

「兄弟」(上・下)余華著

2008-10-27 22:51:09 | Book
この本は、トイレ事情に難のある中国では便所においてトイレットペーパーがわりに一枚一枚ちぎって使うべきモノなのか、それとも確かに異臭だが?中国の近代文学の香りぷんぷんの傑作なのか。13億の民の中国でノーベル賞に最も近いと評判の作者の10年ぶりの長編は、中国で出版されるやいなや、130万部を超える大ベストセラーになりながらも賞賛と批判の両極端の声の嵐で論議を呼んだという。それもそのはず。。。

およそ40年ほど前の上海に近いとある田舎町。
14歳の少年・李光頭(リ・グアントウ)は、公衆便所で女性の尻をのぞいて捕まってしまうシーンから始まる。少年は町中を引き連れ回されるが、5人の尻の中でも、絶世の美少女の林紅(リンホウ)の美尻もおがめた僥倖を語ることを商売にして、次々と男達と取引する。李光頭は、同じように覗き見をして肥溜めに落ちて溺死した父よりも、ずっとウンがついて回り商売の才能があったと言うべきだろう。
やんちゃな次男には、母親が再婚した相手の連れ子にあたる義理の兄、宋鋼(ソンガン)がいた。宋鋼は、彼とは対照的に背も高く顔立ちも整い、誠実で実直な少年だった。彼ら兄弟の繋がりは強く、病弱な義理の母に、宋鋼はけなげにもたった一杯のごはんも李光頭に譲ると約束するのだったが、文化大革命という激動の時代が過ぎて開放経済に移行していくと、やがて弟は廃品回収業から商才をあらわし大富豪になっていく一方で、兄は愚直過ぎたために愛する女性と結婚して家庭を持ちながらも、失業して生活に行き詰まりとうとう自分の人生の道を失い、兄弟の道はわかれていってしまった。

物語のはじまりの悪臭漂う場面、彼らの汚く雑多な会話、暴力と貧困。そんな展開に、自分の感性にはこの本は堪えられない、あわないのではないかと迷いながらも読み始めたのだが、彼ら兄弟の暮らしぶり、劉鎮の町の市井の人々の生活の変動、文化大革命の悲惨さと悲劇の中に踊る喜劇の躍動感、そして開放経済の力強さと発展の中に織り込まれた悲しみのペーソスに、いつのまにかひきこまれてしまい、1000ページ近い上・下を一気に読まされてしまった。
処女膜再生、美処女コンテスト、豊乳クリームに整形手術、滑稽で荒唐無稽な道具立てと欲望剥き出しの展開に、差別用語も並び、知識人の道徳心と感性を逆なでするような文学を誕生させた余華は、確信犯である。私は、文章にこだわりをもつ。それは、より洗練された美しい文章をということなのだが、その整然とした美の中に、時に本質が浅くなるときもあることを知っている。
余華は言う。

「益々多くの人が優雅さこそ文学のスタイルに慣れきってしまった時、粗野であることも同じように文学のスタイルであることを。益々多くの人が自分たちの生活がブティックとカフェからなっていると考えている時、私は見せたいのです。見るに堪えないような光景の方がブティックやカフェよりも普遍的であることを」

私たちは、欧米流の優雅な旋律に憧れ、今ではそれが純文学だと思い込んでいるのではないだろうか。荒削りな文章に漂う叙情性を忘れてしまったのだろうか。
60年代からはじまった文化大革命という粛清が70年代半ばに終息し、この40年間で肥大化する開放経済の奔流に、多くの中国人は様々なものを捨て、失い、多くのものを産み出した。本書は、先進国がゆっくり時間をかけて獲得した近代化を、一気に激変した結果、混迷する現代の中国そのものである。”優しさ”が、路上でまるで使用済みのトイレットペーパーのように流れている日本には、見当たらない圧倒されるような傑作、、、と私は断言したい。いずれにしろ、本書を愚作とトイレットペーパーがわりに肥溜めに捨てる意見もありだが、今後少なくとも10年は、中国文学、ひいては現代中国を語るに「兄弟」は人々の口の端にのぼり無視できないであろう。

『幸せになるための27のドレス』

2008-10-25 15:48:59 | Movie
イイ人って信用できない。人柄の良い人と所謂”イイ人”は、微妙に違うと感じている。この微妙な違いが、けっこうな落差になる時もある。自分が一番になりたいためにイイ人を演じているが、中身を知れば意外とダークですね・・・とくわばらくわばらと退散したいという事もあり。或いは、嫌われたくないという保身術のために、ちょっと自分に無理しているイイ人。

27人もの花嫁の付添人をりっぱに務めたジェーン(キャサリン・ハイグル)は、8歳の頃からこの奉仕に生きがいを感じている。花嫁のかわりにドレスを試着して、招待状リストの作成などなど、、、結婚という人生一代イベントを控える友人の期待に応えるため、それこそ献身的に尽くすイイ人。週末ともなれば、人気者のジェーンは、完璧な笑顔でふたつの結婚式のかけもちで走り回る始末。仕事も目下恋をしている社長ジョージの秘書として、いつも気が利き彼のために最大のサポートをしている。なんて、イイ人なんだ、ジェーンって。私もジェーンとお友だちになりたいわ。その感想の本音を探れば、結局、友人としての彼女は有能で便利で使える人だから?
いくつもの花嫁付添人を務めた経験は、その人の人望のあつさや友人の数を証明しているかもしれないが、そもそも、花嫁付添人は、ブライドメイド。用足しをする花嫁のためにトイレでドレスの裾までもち、おまけに今度は好きなジョージと妹・テス(マリン・アッカーマン)の結婚式のため、わがままな妹にふりまわされながらまるで召使状態。

ここでジェーンを応援したくなるが、幼い頃母親を失い、モデルとして周囲からちやほやされてきた妹の自己中心的なふるまいにも、それなりに同情する点もありそうだ。しかし、イイ人ジェーンも失恋のショックだけでなく妹の勝手な行動にとうとう爆発した。しかも、いくら何でもあのやり方は如何なものかと彼女自身の人間性を疑われてしまうくらいのやり方で。
結局、ジェーンは大好きなジョージを傷つけ、妹に恥じをかかせてパパも悲しませたが、一番落ち込み傷ついたのは自分だった。本来なら、彼女は只野イイ人ではなく、人格的にも優れた女性だったから。。。

「結婚はいつの時代も女性の夢」。
日経トレンディネットで最初に目に付いたのが、この定番のキャッチコピー。しかし、これは、もはや全然トレンディではない。確かに、前世紀では、経済的に自立が難しかった女性の生活手段としての結婚が、恋愛というマターで結婚がいつのまにかまぶしいロマンチックな出来事に変容していき、結婚が女性の幸福な夢となった時代もあったが、それももはや過去のことだろう。だいたい就職活動というイベントから、時代が「結婚活動」もしくは「婚活」なる迷言をうんだ時点で、結婚は女性にとっても夢というよりも人生で達成すべき、もしくはしておいた方が望ましいくらいのひとつの通過点になったのではないだろうか。そこにジェーンのように花嫁になることに夢を見る女性も勿論あり、そろそろ子どもが欲しいという理由で積極的に結婚を意識する現実派もあり。そこで観るべきものは、さすがに米国らしいブライダル産業のお膳にのって行われる婚約式も含めたイベントの華やかさだ。花嫁ひとりに付添い人に任命された女性たちのおそろいのドレス、工夫をこらして創作されたケーキ、会場、料理は、ノリのよい音楽とともに費用もノリがよく流れていることが窺がわれる。日本では、少子化、未婚者の増大に伴いブライダル産業のマーケットは縮小傾向にある。そして披露宴も家中心から結婚するふたりの個性があらわれ、ゲストに気配りしたアットホーム型に変遷しているのだが、映画の中の米国結婚式事情は、一見衣装、宗教、会場はバラエティに富んでいるものの、そのあり方はどれもこれも似通っている。

また、ジェーンの仕事は、秘書業務。仕事もプライベートも、主役の誰かのために気配りしながら尽くす役どころである。自分以外の誰かをひきたてたり、サポートしたりと決して私もそれが決して損とは思わないのだが、こんな役まわりに共感する人も多いのではないだろうか。いつかは、それがかえってきて自分を輝かせてくれる時がくることを願って。花嫁のためにきたセンスの悪い27着のドレスは、自分を輝かせるための投資だった。

『プラダを着た悪魔』
のスタッフが製作したロマンチック・コメディ。予想どおり、ジェーンが結婚記事を書いている記者・ケビン(ジェームズ・マーズデンの前で付添い人用の27枚のドレスを着るファッション・ショーあり。ジェーン役のキャサリン・ハングルは次世代スターとして人気上昇中の女優だそうが、スタイルが良くても大人すぎてキュートというタイプではないのが惜しい。むしろジュディー・グリア演じる美人の親友の毒舌が冴えていた。それでも、本作品は米国ではスマッシュ・ヒットだったとか。
イイ人が成長して好きな男性と結婚する映画は女性好みであり、結婚は未婚女性にとって大きな関心時であることは、今の時代に変わらない。映画の中でケビンは、ブライダル産業に踊る女性たちを半分は離婚するのにと言っていたが、米国の離婚率は過去35年で最低になった。これは、晩婚化と非婚化、事実婚の増加のおかげ?だが、メリーランド大学の社会学者スティーブン・マーティン氏によると離婚事情にも「格差」があるそうだ。大卒女性の妻との結婚10年後の離婚率は、1/3に減少している。
高学歴妻の稼ぎは、結婚安定につながるのかっ?!

監督:アン・フレッチャー

■乙女心をゆらすアーカイブ
・『プラダを着た悪魔』
・『プラダを着た悪魔』のモデル名物編集長
・『近距離恋愛』

ペイリン氏の衣装代、2カ月で1500万円

2008-10-24 21:09:41 | Nonsense
米共和党初の女性副大統領候補ペイリン・アラスカ州知事が着る服飾費として、同党全国委員会が15万ドル(約1500万円)以上を投じていたことが明らかになった。候補に起用された8月末から約2カ月間、全米各地の有名店で多額の買い物を繰り返しており、持ち前の庶民派イメージに傷がつきそうだ。
 最初に報じたインターネットの人気政治サイト「ポリティコ」によると、ペイリン氏の起用後、党の会計記録には「選挙用の衣装代」の欄が新設された。ニューヨークと激戦のミズーリ州で約500万円▽9月上旬に党全国大会の開かれたミネソタ州で約750万円▽髪のセットとメークアップに9月だけで約50万円――などの支出を記載。さらに夫の紳士服や、4月に生まれた男児の子ども服も購入。額の高さに反発の声があがっている。だが、マケイン陣営は「この国難の時にパンツスーツやブラウスの議論をしているとは驚きだ」「(買った服は)選挙後に慈善目的で使う」と釈明した。

米メディアによると、ペイリン氏は06年の知事就任後、3人の娘をニューヨークなどへの出張に繰り返し同伴させ、航空運賃やホテル代を州に請求していた疑惑も浮かんでいる。

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カルフォルニア在住の有閑マダムさま情報を読むと、ペイリン氏はなかなかの器でけっこういい線を走っているらしい。いい線といってもビジュアル的な話しではない。が、そんな米国初の副大統領候補たる女性のお衣装代が、わずか二ヶ月で1500万円!一日に平均して、約25万円也のお買い上げ。お買物をしたお店は、主にサックス・フィフス・アベニュー、ニーマン・マーカスといった高級百貨店らしい。選挙のための必要経費だということを国民は理解していても、庶民感覚を売り物にしている同氏の大人買いは、国民には上品な公人にふさわしい”勝負服”というよりも単なる”浪費”に映ってしまったのだろうか。これまでファッションも投票に影響を与えると考えていた私だから、身なりを整えるのは当然、マケイン陣営の「国難の時に、服装の論議は驚き」に同調したいところだが、ことアラスカ出身の庶民派には、むしろこれまでのやぼったいスタイルの方が逆に好感、投票に結びつくという説もあった。しかし、副大統領候補の服装の論議はあっても、お衣装代に論議が及ぶとは予想外だった。つい「ドーデモイイ」のではないか、とつぶやいたのだが、そう言えばどこかで聞いた話がある。今朝の読売新聞の<編集手帳>で麻生首相の毎晩の「高級バーはしご酒」の話題から、寺田寅彦氏の「『ドーデモイイ』という解決法のある事に気の付かぬ人がある」という言葉が紹介されていた。

現在、我が国でも麻生首相の有名ホテルのバーや高級料理店通いが、まさにペイリン氏のお衣装代のようにまな板にあげられている。資産家の麻生首相が、かねてよりよく人を引き連れてバーで遊んでご馳走するのだが、その割には好かれなくて人望がないという話しは巷で聞かれていた。政治献金や政党への支援金は高級な食事のために提供されたものではないと追求する記者に、麻生氏は激怒して「幸い僕にはお金がある。(←いつもの決めセリフ)僕のお金を支払って食べている」と言い放ったそうだ。確かに麻生氏は資産家である。このような4億5548万円(資産2位)の資産家の麻生氏の行状を、7億6460万円(資産1位)の資産家・鳩山総務相は、「場所は庶民的な場所ではないかもしれないが、高級料亭ですごいお金を使うような話ではない。喫茶店でお茶を飲むのに毛が生えたような話ではないか」と擁護した。毎度、究極のお坊ちゃま君の庶民からずれた感覚には笑っちゃうのだが、確かに編集手帳記者のいうように、バー通いをやめて、その分のお金が麻生家の通帳に積み上がったからと言って喜ぶ庶民はいない。自分の資産をどう浪費しようが、どうでもよいである。しかも、あの方に漫画好きだからといって、私も庶民感覚を求めない。

しかし、しかしである。マケイン陣営が言うように我が国も「国難」の時を迎え、しかもアラン・グリーンスパン前FRB議長が23日、米下院の監視・政府改革委員会の公聴会で証言し、米国は「100年に1度の信用の津波」に見舞われており、消費と雇用への影響は避けられないとの認識を示したのだから、我が国も大津波にのみこまれる危機にさらされている。息抜きに私費でバーに通うのもけっこう、散財してもどうでもよいのだが、国民あっての首相ということを呑んでも忘れないでいただきたい。もっとも、最初から日本の政治家に成り立ちと新首相にはあきらめているのだが。

ペイリン氏は、今回の服装代が注目を集めた背景には、クリントン上院議員のスーツや髪型の話題がとりあげられたこともあわせて、性差別があるとも主張している。いやいや、庶民感覚を売り物にしている方の、あまり似合っているとも思えないお買物の中身よりも、その金額が話題になっているのだけれども。

■アーカイブ
・ファッションも重要な投票条件

『スノー・エンジェル』

2008-10-22 22:45:54 | Movie
【ニューヨーク】米共和党の副大統領候補に起用されたペイリン・アラスカ州知事の長女(17)が妊娠中と判明したことがさまざまな反応を引き起こしている。米国では10代の妊娠増加が社会問題になっているが、中絶に反対する保守派団体はペイリン氏の長女が子供の父親と結婚し、出産を決意していることを歓迎、中絶の権利を支持する団体は「マケイン陣営が女性の選択の権利に関し、かたくなで極端だということが分かった」と批判している。

ペイリン氏は、中絶反対とともに結婚前の未成年に対する禁欲教育を主張していることでも知られている。10代の娘の妊娠は後者の点に限れば自らの政策方針とは相容れない。
しかし、ペイリン氏もメンバーという反中絶団体の代表はCNNに「自分自身の問題となると政策と違う行動をとる人もいるが、ペイリン氏は言行一致の政治家」と評価するコメントを寄せた。
ブッシュ政権の支持基盤である保守系有力団体「家族調査協議会」もペイリン家への支持を表明した。
民主党大統領候補のオバマ上院議員は自身の母親も18歳で出産したと明かし、「家族、とくに子供を政治に巻き込んではならない」と述べ、この問題を選挙戦とは切り離すべきだとの考えを強調した。

米国立保険研究所によると、2006年に出産した15~17歳の女性は13万9000人と、前年の13万3000人を上回っており、10代の出産が15年ぶりに増加している。

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アラスカ州知事、ペイリン氏の17歳の長女が妊娠している報道を読んだ時、民主党立候補者がエリートと批判されるのもわからぬでもない、副大統領候補者の家庭の”普通っぽさ”を感じた次第である。かっての強いパパや優しいママのいる絵に描いたようなあたたかく理想的な家庭像は、現実の米国民の実態とは離れてしまっているのだろうか。そんなことを考えさせられた映画が、『スノー・エンジェル』。

地方の小さな田舎に近い町。大学教授のパパと専業主婦のママ。一見、何不自由なく理想的に見える家庭のひとり息子の高校生、アーサー(マイケル・アンガラーノ)は、マーチングバンドでトロンボーンを吹き、放課後は中華料理店でバイト。夜遅くなるとママがバイト先まで車でお迎えもしてくれる。目下気になるのは、魅力的な転校生ライラの存在だ。お互いに好意をもっているのを感じるのだが、そこから先に進むことを躊躇するアーサー。それには、理由がある。ある朝、突然パパは自宅を出てしまった。そして、バイト先の素敵な同僚、アニー(ケイト・ベッキンセール)は高校時代の同級生のグレン(サム・ロックウェル)と結婚したのだが、今は離婚してひとり娘を育てている。その失業中だったグレンは、ようやくカーペットのセールスの仕事を紹介してもらって、なんとかアニーと復縁をしたいと願っているのだが。。。

冬の寒々とした田舎の景色を借景に、もっと寒々として物語が淡々と悲劇に向かって進行していく。ここで描かれているのは、インテリ家庭の崩壊、夫の浮気もあれば、昔は女の子のもてただろうと思われる同級生であり元ダンナの病、そのグレンの親から見れば、彼は離婚され失業して精神の危うい気がかりな息子になり、老いた実母と娘を抱えサービス業に従事するアニーには孤独な暮らしが用意されている。米国の不幸な人々や暮らしぶりはとっくにグローバル化して、我が国でも離婚、失業、両親の不仲は珍しくもなく、よくある現象になってしまっている。スペシャル・メニューも珍しくなければ、ごく普通の平凡な不幸になっていく。
そして、更なる悲劇の予兆を漂わせながら、アニーとグレンの関係はどんどんと緊張していき、最悪な不幸も事件も、誰もとめることができず、結局周囲の人間は傍観者でしかなかった。アーサーとライラの若い高校生カップルにとって、アニーたちの事件はどんな意味をもたらすのだろう。あまりにも苦い教訓なのか、これからの人生の虚しさなのだろうか。
アニー役のケイト・ベッキンセールの知性的な風貌が、冬の景色に冴え冴えとした余韻を残す。
たまには誰も観た事がない映画をと、新作でレンタルしてきたが劇場未公開作品だった。地味で淡々とした、まるでダニエル・ハーディングの指揮するブラームスを聴くようだった。

原題:Snow Angels 
監督・脚本:デヴィッド・ゴードン・グリーン
2007年米国製作

『宮廷画家ゴヤは見た』

2008-10-21 23:13:13 | Movie
18世紀末のスペイン、マドリード。スペイン最高の宮廷画家として名声を築いた画家、フランシスコ・デ・ゴヤ(ステラン・スカルスガルド)のアトリエには2枚の肖像画が完成を待っている。1枚は、天使のように美しい富豪の商人の娘、イネス(ナタリー・ポートマン)。そして、もう1枚の絵には、神父ロレンソ(ハビエル・バルデム)が、威厳を誇示するかのように立っていた。神父ロレンソは、高名な画家に描かせた自分の”威厳”にふさわしいように、カトリック教会の権力強化のための異端審問を復活するよう提案して自ら陣頭指揮をとるようになった。その異端審問所から、ユダヤ教徒を疑われたイネスは出頭命令を受けるのだったが。。。

映画のはじまりは、次々とゴヤが描いた版画が浮かんでは消えていく映像。そこで暴かれている人間の怒り、欲望、残酷さ、矮小さ、裏切り、、、ゴヤの”目”に映る人間像、ゴヤの心が見た人間の本質を、観客はいやでもある固定観念としてまずすりこまれる。とにかく、これでもかっというくらいにつきだされるゴヤの絵に、まず私は圧倒された。ゴヤの絵筆は、彼の類まれなる芸術的な才能の力で、対象の権力と地位にある者の裏の真実や不正を容赦なく暴き出す。神父を描けば、聖職の服装の中の傲慢さといかがわしさが匂い、王妃を描けば、どんなに豪奢な衣装で身を飾っても、内面の醜さが表情に表れる。

しかし、本作品のテーマはスペインの最高の画家としてのゴヤ自身ではなく、またその作品の芸術性でもなく、次々と変わる”権力”と社会、権力を手にした人々の愚かな振舞いと欲望を、政治的にも精神でも自由な立場の芸術家、ゴヤから見た移ろう時代と権力の物語そのものにある。1807年、スペインにナポレオンが率いるフランス軍が侵攻すると、当時のスペイン王室は凋落し、教会は一気に権力を失った。昨日の聖職者としてあがめられ絶対的に権力をもっていた者が、裸になり血に落ちる。しかし、ナポレオンが後退すると今後は高らかなバグパイプの音楽とともに英国軍が攻めてきて、再び権力の構図が激変する。スペインにとって激動の時代だったのだろうが、昨日まで栄華を極め権力を誇示していた者が、今日は裁判で死刑を宣告される。しかも、その位置関係も時代と運命の波に流されると、明日はひっくり返る。年々、少しずつ老いていき難聴から完全に耳が聞こえなくなるゴヤだったが、彼の目は誰が権力をもとうとも、戦いで町が荒廃しようとも、いつでも変わらぬ真実を見つめようとする。
何が、変わらないものなのか、人々は何を失ってはいけないものなのか。そこにゴヤの目を通して、現代にも映画が訴えかけてくるものがある。

ゴヤが描いた2枚の肖像画は対極にある。
権力を誇示するための異端審問の実行者と彼らの犠牲になって拷問を受けるイネス。愛情と欲望、打算と信念を体現するロレンソと信仰をもち一途にかわらぬ愛情を抱えるイネス。穢れた聖職者と天使のような市井の少女。身分と地位に一致しない人間に翻弄されるのは、いつの時代にもありうる。
さて、やはりこの映画を評価するには、この対極にある肖像画の主人公を演じた、ハビエル・バルデムとナタリー・ポートマンの演技に関する話題ははずせない。ハビエル・バルデムは、とらえどころのない自己中心的な神父としての存在感におされまくり、不快感を感じながらもその表情にどんどんひきこまれて目をそらすことができない。一方、ナタリー・ポートマンが演じた美少女が長い歳月の風化による変遷の姿は、あまりにも痛々しくて思わず顔をそむけてしまった。ニコール・キッドマンが、スーザン・サランドンから自分も若い頃はいつも顔立ちのことばかりが話題だった声をかけられたという対談を読んで、美しい顔だちの人は容姿よりも肝心の”演技”に人々が注目してくれないというある意味贅沢な悩ましさもあるものだと納得した。おまけにイェール大学ご卒業の優秀な頭脳もかねそなえているショディ・フォスターが、『告発の行方』でその美しさと名声、学力の誉れを裏切るかのようなレイプの被害者という役どころを、ショッキングな文字通り体当たりの演技で、演技の実力を証明したように、本作品ではハーバード大学出身のナタリー・ポートマンがぼろぼろの服をまとい、あの可憐で知性的な美しい顔立ちを大丈夫かと心配になるくらい歪めて”演技力”のパフォーマンスを見せてくれる。その他大勢の女優とは私は違うのよ、という差別化の意気込みが感じられるではないか。

ユーモラスな音楽もさえ、唯一、ゴヤ役ステラン・スカルスガルドの不自然なくらいホワイトニングしている歯を除いて、時代の雰囲気が史実を交えて忠実に再現されている。まるでそれ自体名画のような映像は、コンビニのおでん以上に、芸術ものが旬の季節の到来を感じさせてくれる。しかし、監督があの『カッコーの巣の上で』のミロス・フォアマンだから、表層的に鑑賞しただけではゴヤの目も曇る。ここで描かれている人間の顔を決して見逃さないように。。。

監督・脚本/ミロス・フォアマン
原題: GOYA'S GHOSTS
製作年: 2006年 アメリカ/スペイン 製作

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『アマデウス』・・・傑作!!


「なぜ僕は「悪魔」と呼ばれた少年を助けようとしたのか」今枝仁著

2008-10-18 22:48:02 | Book
光市母子殺害 重い意味持つ「厳罰化」(4月23日)<北海道新聞>
山口県光市の母子殺害事件で、広島高裁の差し戻し審が、当時十八歳の少年に死刑を言い渡した。
判決は、殺意を否定する被告の新たな主張をすべて退けた。弁解や反省も刑事責任を軽くするための偽りだとして、「くむべき事情はない」と判断した。

今年の4月22日のこの判決を聞き、著者の今枝仁氏はどんなにか号泣したであろうか。
著者は、光市母子殺人事件を”死刑制度廃止”運動のために、キャラクターやオカルトの儀式を被告人の元少年・F君に語らせえるという奇襲作戦を発案したと言われる21人の「大弁護団」のひとりだった。過去形で紹介するのは、殺意はなく傷害致死と事実誤認に重点をおく弁護団と現在の反省状況と、将来の更正といった一般情状を訴えるべきとした今枝氏は対立して、道半ばで解任されたからだ。しかし、根本的な対立要因は、弁護方針の意見対立というようりも、遺族対応とマスコミ対策についての考え方の相違だった。この事件には、少年事件の問題、被害者遺族の感情や救済制度、死刑制度の是非、精神鑑定の信用性、弁護団の弁護方針、事件報道と弁護側の報道対応等、100年に一度という日本の裁判制度の大改革、裁判員制度の開始もあり、被害者や遺族の方には申し訳ないと感じつつも様々な論点で考えさせられた。

著者の今枝氏は、”被害者に寄り添いともに泣く検察”を理想を胸に検察官としてキャリアをスタートしたのだが、実際の判決公判で”号泣”してしまい、自分の資質に疑問をもち早々に退官。本事件で弁護団を解任された理由のひとつも、記者会見で号泣する失態をして、職業法曹としての態度に疑問が呈されたことにもある。著者自ら”号泣”してしまう自分の弱さ、持病は、本書の中心を占める彼のこれまでの特異な生育歴で説明されている。ヤメ検の弁護士と言えば、その努力に報いる金銭的な対価は別として、やはり社会のエリート層であろう。そんな事件には全く共通性がないように思えた今枝氏の司法試験に受かるまでの履歴書は、実は光市母子殺人事件を考えるうえでの、有効な情状の参考になりうる。

今枝氏のお父様は、私学の雄といわれる大学を卒業しているのにも関わらず、こういうこともあるのだが異常な学歴コンプレックスの塊だったそうだ。勉強で苦労したことのない今枝少年は、中学受験をしてH学院に進学。親からも教師からも期待される「完璧な少年」を演じる少年は、機嫌が悪いと家族にあたり散らす父に脅える環境で、やがてひきこもるようになり自殺未遂事件までおこすようになった。せっかく入学した名門高校も中退。17歳で思春期心療内科病棟内で生活をしながら、大検を取得。九州の私大に合格もするが、心身の調子が悪く中退。その後、再起して上智大学法学部に進学して上京した時は、学習塾の講師だけでなく水商売の世界でも働く経験もする。そして2年間裁判所事務官として働きながら、司法試験に合格。1970年生まれ、妻とふたりの娘がいる父親でもある。

本書で初めて知ったのだが、被告人のF君は、1歳の時に頭部を打撲したことがあり、その後遺症が外面からもわかり、脳に器質的な脆弱性が疑われているが、医学的な検証はされていない。彼は、一流企業に勤務する父の、恋愛結婚した実母への家庭内暴力を見て育った。やがて暴力は、実母を守ろうした幼い少年にも及び、「いつか殺される」という恐怖感を抱いて成長するようになる。度重なる暴力に耐えかねて、精神的に荒廃し混乱していった実母は何度も自殺未遂を繰り返しながら、12歳の時に亡くなった。この時の体験は、少年に自己消滅の感覚をもたらし、また女性に母親を重ねる異常な恋愛感を育てる契機となった。F君の精神年齢は12歳で遅滞し、性的非行や問題行動はないが、ピエロ役を演じることで人とつながり、現実世界での人間関係を築く能力が弱い。ゲームや仮想世界に没頭するうちに、現実と仮想や虚構の境界が曖昧になっていった。

今枝氏には、あまりにも不幸な家庭環境で育ったF君に、もうひとりの自分だったかもしれない姿を見ているような印象がある。司法の解説では理路整然とした文章を書く著者が、F君のことに及ぶとかなり感情的な人になる。彼の主張に同調しながらも、やはり考えるのは被害者の方とご遺族である。犯行当時18歳だった少年に死刑が宣告されるかもしれない裁判を通じて、誰ひとり情状証人がいなかった事実と生育歴を考えると大弁護団の理由もわからなくもない。しかし、事件を弁護できたことを一生の誇りと言った今枝氏の発言は少なくとも私には誤解をうみ、殺害状況を画用紙に描いて記者会見に挑んだマスコミ対応は、メディア論以前に国民感情を逆なでして裁判に不利に働いたと思う。本書を通じて、今枝氏の弁護を読む限り、本当に「被告の罪責は誠に重大で、特にくむべき事情がない限り死刑の選択しかない」のだろうかという疑問は残る。今回、事件の報道をめぐる偏向的で感情的なメディアによって、裁判そのものに公正さが欠けてしまったと反省すべき我々が、もうひとつのメディアとも言える本書からすべてを理解したつもりになるのは危険である。それを充分に承知しながらも、著者が全人格をかけ、全身全霊をこめて書いた著者が感じる真実に、”くむべき事情”はないと言い切れるだろうか。メディアによって「悪魔」にされた少年を死刑台に送ることが、望ましい正義なのだろうか。私たちは、事件の本質を知らない。
「F君は、まだ反省を深めて更正することができる。その機会を不当にも奪ってきたのは、司法の携わる大人たちだ」という著者の反省を私は否定ができないでいる。
今枝氏は、F君の身元引受人でもある。

■アーカイブ
・「つぐない」

「閉鎖病棟」パトリック・マグラア著

2008-10-15 23:08:08 | Book
「店長、この本もすごいんです!」
先日、推奨した銘柄、パトリック・マグラアの「愛という名の病」で、完全におとなのエロティシズムにやられた永遠の16歳の乙女は、果敢にも二作目に挑戦。この1996年出版された「閉鎖病棟」も乙女心を発情させてくれるパワーがありますです!・・・しかも、今度のエロティシズムも複雑だが、乙女の感度でもちゃんと妄想できるくらいに親切に描写が・・・えっ・・。

1959年夏。将来を期待される精神科医のマックス・ラファエルは、ロンドン郊外の精神病院の副院長として妻子とともに赴任してきた。20歳で彼と結婚した妻、ステラの美貌は際立っっており、また容姿の気品にふさわしい知性もかねそなえていた。夫婦の間には、チャーリーという賢くも素直な10歳の愛児がいる。資産家である実家の援助も受け、若いながらも社会的な立場にふさわしい家と車や、万事、ヴィクトリア調を好むマックスの趣向にかなった典雅さをそなえたロマネスクな温室。
すべてが整えられた家庭の美しさに侵入してきたのは、猟奇的な殺人を犯した狂人の彫刻家エドガー・スタークだった。精神病院の副院長の妻と狂人の患者の情事。ふたりの恋愛は充分にスキャンダラスで、マックスがこれから順調に登るはずだった梯子をはずす事態にまで及んだ。しかし、本当の悲劇はこれから始まる。。。

著者のパトリック・マグラアは、1950年生まれ。年代で考えれば、本作品中で唯一こどものチャーリーにあたる。作家自身も、父が精神科医として勤務する病院の近所で育ち、犯罪を犯した患者との交流や様々な凄惨な事件を聞いて育ち、それらが彼の心に深く影響を残したというが、本作こそはまさにこどもの頃の体験が昇華した作品である。物語の語り手は、初老に入った同じ病院に勤務する独身の精神科医のピーター・クリーヴ。悲劇を予告させて語り部を第三者の初老の精神科医に設定することによって、狂人の恋愛という本来の情熱の猛々しさと激しさが、静謐で硬質なタッチにかわるところが、マグラアの真骨頂である。職業医師として性的強迫観念が滲みでた情事に関心を抱いているピーターとっては、同僚の妻であり友人でもあるステラと自分の患者のエドガーは、等間隔で眺め観察し、私的な感情を排除して推敲する対象である。ピーターによって、あたかもステラとエドガーの関係は、分子の世界にある構造はそっくりなのに性質が異なる「鏡像異性体」のように、医師らしく洞察され分析されて進行していく。彼らが互いに惹かれるのは、もはや逃れられない運命だったかもしれない。しかし、両手が重ならないように、決してその恋は同一化、成就することはできないし許されない。

確かに訳者の池央耿氏の言うようにエドガーは階級社会における領域侵犯者ではあるが、社会性を描くよりも純粋な恋愛小説が本書の真髄だと私は思うし、主人公はあくまでもステラである。読者は、「ホワイト・マリッジ」であり友人もいないステラの孤独な感情と行動を通して、人が狂気の淵を歩きついに落ちていくさまを体験するであろう。それは、まさに”悲劇”というよりも”さま”である。拝金主義、物質主義に汚染されたような現代の日本女性にとっては、ステラの異常な恋愛への傾き方にはなかなか入り込めないかもしれない。そこはやはり、50年前の英国の田園と嵐が丘のような厳しい風という借景が必要だろうか。読みながら、これって映画になるな~、映画で観たい!と感じていたのだが、どうやらやっぱり映画化されているようだ。
店長、映画はやっぱり18禁でしょうかね?

■アーカイブ
「愛という名の病」