「お金がない世界」を実現するためには、老子の時代も今も、小さな村落で自給自足するのがベストだ。それなら、今でも実現可能だし、現に南洋諸島やアフリカでは、そういう共同生活をしている人もいるに違いない。
それだけでなく、社会主義国の共同体や、イスラエルのキブツなどで実現された前例が、過去にもある。残念ながら、これらは長く続けるのが難しく、しばらくすれば崩壊するか、もしくは貨幣経済に巻き込まれるのが通常だ。共同体の中の住民同士が、お金のやり取りをしていないのを見ると、「お金のない社会が実現された!」とつい思ってしまう。でも、実情はちょっと異なる。実際には、「キブツ見学ツアー」の観光収入とかで外部から資金を取り込み、それによって住民の生活を支えているケースが多い。それだと、本当の意味で「お金がない世界」とは言えない。
真の自給自足社会を実現する上で、それでは中途半端だ。もっと透徹した覚悟が要る。
「自給自足社会」が当面の目標だとしても、もう少し規模の大きな社会で、「誰もが生活に困らず、好きなことをして生きていける世界」を目指すというのが、人類にとって、より高い目標だと言えるだろう。
これを社会制度によって実現できるかどうかを、考えてみる必要がある。
たとえば、「生活に必要なお金を政府が全国民に提供する」というアイディアもある。
でも、現在の日本で200万世帯に達した生活保護世帯でさえ、財政を大いに圧迫している。まして、全国民を生活保護対象にするためには、いったいどれだけの財政支出が必要か。
たとえば、「国民ひとりに毎月10万円を支給」するという配給制度を作ったとする。月に必要な財政支出は、10万円×1億3千万人で、13兆円だ。年間では、157兆円も必要になる。いくらデフレ社会と言っても、政府・日銀がそれだけのお金を大量発行すれば、すぐに超インフレになって、お金の価値が暴落する。せっかく月に10万円もらったとしても、何も買えないから紙クズ同然だ。
だが、お金を配るのは無理でも、「現物支給」という手がある。つまり、生活に必要なものが、タダで手に入る世の中になれば良い。
たとえば、大工さんは、タダで飲み食いできて、服も誰かがタダでくれるので、生活に困らない。したがって、建築の仕事をする必要はないのだが、生き甲斐だけを求めて、家が欲しい人に無償奉仕で建ててあげる。まさしく、理想の利他社会だ。
でも、いくら大工さんが生き甲斐だけを求めてタダ働きしたとしても、木材を始めとする必要な材料を仕入れなければいけない。これまた、生き甲斐だけを求めてタダで木を切らせてくれる山林オーナー、タダ働きで木を切る人、タダ働きで運ぶ人・・・を、適切なタイミングで十分に確保しなければならない。
さらには、他者への奉仕だけを求めてタダ働きで木材を運ぶ人がいたとしても、そのために必要な輸送車を無料で手に入れなきゃいけない。さらに・・・という具合に、この話は無限に続く。
でも、「おカネのない世界」がたとえ実現したとしても、それで、ちゃんとスムーズに世の中が回っていくかどうかは、また別問題。
「タダ働きの大工さん」の例で言えば、それで本当に、必要な建物が必要な期限までにできるだろうか。できた建物が欠陥住宅だったり、納期が遅れたらどうするのか。
大工さんなら、まだ分からないでもないけど、脳神経外科医だったらどうか。やってもトクにはならないけど、生き甲斐だけを求めて、趣味で脳神経外科手術をやってる人。大丈夫だろうか。
また、世の中には、1人や2人でできる仕事の方が少ない。たとえば、自動車工場を立ち上げたとき、生き甲斐だけを求めてタダ働きする溶接工やプレス工やフォークリフト運転者その他・・・といった大勢の必要人員を、スムーズに集められるだろうか。
もちろん、ここに書いたことは、いきなり「すべてを無料にする」というような極論なので、現実にはもうちょっと適度なソフトランディングを目指すことになるんだろうけど・・・。