お金は歴史が古くて、人類との付き合いも長い。お金は、古今東西を問わずどこでも発生する。日本だろうが、中国・インドや中東だろうが、アフリカとかマヤ・アステカ・インカの文明だろうが、どこでも変わらない。貝殻とか、貴金属とか、紙切れとか・・・。何を通貨として使うかはいろいろだけど、お金はどこででも発生する。
2千年前の古代ローマ帝国だって、現代の資本主義国などとはホド遠い農業国で、ローテクもいいとこだったけど、それでもやっぱり、お金がないと生きていくのが大変だった。貧富の格差は、現代のアメリカや中国よりもヒドかった。民衆の大半は、貧しさで生きていくのも精一杯の、ガケっぷち人生を送ってた。その一方では、富を独占する大地主の貴族たちが、世界から集めた珍味を食べては吐き、また食べては吐き、吐いた汚物を奴隷に掃除させていた。地球は、大昔からそういうところなのだ。
「お金がない世界」というのは、自給自足の世界ということになる。自給自足とまではいかなくても、モノとモノとを直に交換する、物々交換までしかやらない。
真っ先に思い浮かぶのは、南の島の人たちだ。食生活としては、ヤシの実を取って食べるか、自分で育てたイモを食べる程度。ときどき、他の島から船に乗った商人がやってきて、イモと魚を交換するとか、そういう物々交換をする。これなら確かに、お金はいらない。
でも、老子に出てくる「小国寡民」の社会は、そんな隣の村との物々交換すら、ほとんどやらない。徹底した自給自足の小さな村落だ。2千数百年も昔の春秋戦国時代の聖賢が思い描いたのは、そんな理想社会だった。
というのも、隣の村との物々交換をしただけでも、「イモ3本とライチー5個なら、交換OKあるよ」とかなんとか、交換レートが自然にできてくる。それはやっぱり、商売の始まり。だから、「お金がない世界」を維持するためには、そんな物々交換すらやらない方がよい。
実際には、物々交換には限界があって、すぐに行き詰ってしまう。
例えば、経済学者の家で、水道管が破裂したとする。交換に出すものといったら、経済学の講義とか、経済の本くらいしかない。これと水道管工事を交換してくれる相手を、どうやって見つけるのだろうか。また、建築業者と八百屋さんが物々交換するとしたら、ビル一軒と、ニンジン何本を交換すればよいのか。これは、頭が痛くなる問題だ。そんなこんなで、文明が進歩するにつれて、物々交換はすぐに行き詰まる。
でも、自給自足だって、本当は難しい。というのも、足りないモノが多いからだ。たとえば、寒いところではパイナップルが取れないし、鉄鉱石や石炭が出ないところでは鉄が作れない。
出口王仁三郎が、「外国には足りないものが多いから、天産自給は無理なのじゃ。その点、日本にはなんでもそろっておるから、天産自給できるのであるぞ」と言ってたのは、そのあたりの事情を指している。
ここで肝心なのは、自給自足できないものがあっても、あきらめることだ。たとえば、砂糖が自給できない村なら、「甘いモノなんか食べなくていいよ」と割り切る。老子が、「隣の村とも交流しない」にこだわったのは、そのあたりにも理由がある。自分の村にないものが隣の村にあれば、欲しくなる。そうすると、「売ってくれ」ということにならざるを得なくなり、必ずや貨幣経済の発生につながる。欲しくなるのを避けるためには、他の村を見ない方がよい。
このように、「お金のない世界」を本気で実現するのなら、そのために必要な条件は、かなり極端なものになる。出口王仁三郎も、「王仁は、都市(の人口)は十万になると言うとるのやで」と言ってたそうなのだが、十万都市なんかじゃとても無理だ。もっと、ずっと規模が小さく、それこそ老子が言うようなレベルで、自給自足の小さな村落にならないと。
浅川:それでは改めて、今年起きるかもしれない戦争についてお聞きしたいと思います。
ホボット:イランとイスラエルの間のトラブルが年末頃に本格化する可能性があります。それは衝突か政治的圧力の形となるでしょう。もしそうなったら、本格的な争いは2013年に起きることになるでしょう。
(中略)
ホボット:私が光の生命体たちに言われたのは、2010年の秋に、もしロシアがイランにロケットを渡したなら、イランとイスラエルの間に何か起きるということです。そのときに大きな戦争が始まるわけではありませんが、何かが起きる。
・・・この、2010年に行われた対談によると、「光の生命体」たちは、「(ロシアから供与されるロケット技術を巡って)イランとイスラエルの間に何かが起きる」というのを最も懸念していたという。ロシアがイランにロケット技術を渡さないよう、宇宙人もロシア政府に警告してたんだそうな。
時期はともかく、どうも、それが現実になってきたように思われる。
朝日新聞の報道によると、今月(2011年11月)に入って、イランの軍事施設で謎の爆発が起きた。イスラエルの諜報機関の関与が取り沙汰されている。
爆発は12日に、テヘラン郊外の軍事施設で起きた。
「ミサイルシステムの開発を担った准将を含む17人が死亡したとされるが、死者はもっと多いとの情報もある」というから、もしイスラエルの仕業とすれば、明らかにミサイル技術を標的にしている。
爆発は、40キロ離れたテヘランでも聞こえたため、「ついに攻撃が始まったか」と身構える市民もいたという。40キロと言えば、東京都心と横浜より離れている。そんなところまで聞こえるとは、半端でない大爆発だ。
軍事施設は、荒涼とした土漠の中の岩山(いかにもイランらしい風景だ・・・)のかげで、フェンスと有刺鉄線が張り巡らされ、厳重に監視されている。単なる事故でないとすれば、何者のシワザなのか?
これがゴルゴ13の漫画なら、「これだけのことを為し遂げるヤツは、世界にだってゴロゴロしてないだろうな・・・」とかなんとか言われて終了、となるところなのだが、現実はそれではすまない。波紋が広がっている。
米タイム誌は翌日、欧米情報筋の話として、爆発はイスラエルの諜報機関モサドの仕業との見立てを報じた。情報筋は、開発阻止のためイスラエルがさらなる破壊活動を計画していると話したという。
イスラエル政府は、事件へのかかわりについて肯定も否定もしていないが、国防相はイスラエル軍放送で、「もっと爆発が起きればいいのに」と物騒な発言をしている。
イスラエルは、過去にもレバノン・シリア・イラクと、アチコチに空軍を送って軍事施設を爆撃し、破壊してきた「実績」がある。それだけに、イランをいつ爆撃しても不思議はないと見られている。米軍と共同歩調を取るとも限らない。北朝鮮も、隣国が日本でなくイスラエルだったなら、とっくにミサイル施設を爆撃されてることだろう。
イラン政府は、コンピュータシステムにもサイバー攻撃をされているという。中国や北朝鮮のサイバー攻撃にヤラレっ放しの日本にとっても他人事ではない。
中東の激動は続き、イスラエルの隣国のシリアでは、デモ弾圧で大勢の市民が死んでいる。軍の一部反乱も伝えられており、プチ内戦状態だ。
いよいよ、中東情勢も大詰め。なんとかシリアやイランを民主化させて、ソフトランディングしたいところなのだが・・・。
仏教の修行者が涅槃(ニルヴァーナ)を目指すのと同じように、スーフィーにも目標とする境地がある。それは、「ファナー」と呼ばれる。
ファナーは、神と一体化して己れが無になっている、没我の状態だ。
仏教の「無我」とは異なり、スーフィズムでは「バカー」と呼ばれる真我のようなものがあって、それが神と合一する。バカーは、神の中で生き続ける永遠の生命。
ファナーは、熱狂的な信仰の極みだ。この世の人にとっては情熱と陶酔の夢幻境だが、ファナーを体験した人にとっては、それこそが真実在なのであり、むしろ、この世が夢マボロシだ。
コリン・ウィルソンいわく、
>われわれはスーフィーのファナーを、仏教の涅槃(ニルヴァーナ)と無条件に同一視することはできない。両語とも、個我性の消滅を意味するが、涅槃がまったく否定的であるのに対して、ファナーは神の中での永続的生命を意味する「バカー」を伴っている。スーフィーが神の美的観照の陶酔に我を忘れたときの歓喜は、仏教のアラハト(阿羅漢)の非情熱的、知的明澄性と完全に対照的である。
(コリン・ウィルソン著『イスラムの神秘主義』平凡社ライブラリー)
つまり、スーフィズムのファナーは、仏教のニルヴァーナと同じ忘我と至福の境地で、一見よく似てるけど、実は大きな違いがある。
「アッラーの他に神なし」という言葉を、一心不乱に魂に刻みつける。信仰を極限まで強めることにより、昇天して神と一体になる・・・というのが、スーフィズム。
一方、「汝もまた、信仰を捨て去れ」というのが、仏教の世界。凝り固まった信念からの解放を、何よりも優先する。もちろん、神への信仰もまた、捨て去るべき古い信念体系のひとつだ。信念を捨てることで、修行者は完全なる自由を手に入れる。
信仰の極致を目指す、スーフィズム。信念からの脱却を目指す、仏教。それぞれ目指すところは、実はほとんど正反対。
熱狂と陶酔のファナー。平安と静寂のニルヴァーナ。こんなに似てるのに、実は正反対なものも珍しい。
ただし、仏教にもいろんな宗派がある。浄土真宗の人たちは、「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ・・・」と、アミダ様の名を百万遍も繰り返して、法悦の三昧境に入っていたのだから、スーフィズムに似ている。というより、スーフィズムの行を、一般向けにカンタンにしたような感じ。まあ、浄土真宗の場合は、キリスト教とあまりにも似てるので西洋人がビックリしたくらいなのだから、もともとアチラの方の宗教的なノリに近いのだろう。
ファナーに到達したスーフィーは、まさしく至福の極み。これぞ、宗教の醍醐味だ。
脚の水腫が悪化していたスーフィーが、脚の切断手術を断固拒否していた。医者は、スーフィーがファナー状態になっているときに、切断手術を行った。麻酔もしてなかったにも関わらず、スーフィーは手術されていることにすら気づかなかったという。
このようなファナーに関するエピソードが、スーフィーの歴史には数多い。スーフィーの中でも過激な人たちが、異端で宗教裁判にかけられ死刑になるのはよくあることだったが、ファナーのおかげで死刑になっても平気だった。
どうやら、スーフィーには、ひと足お先にアセンションしてしまった人が少なくなかったようだ・・・。