どうも、世の中には「精神世界」に対して、拒絶反応を起こす人が少なくない。誰も精神世界の話をしていないのに、「俺は、精神世界なんかにゃあ、興味ねえんだよ!」とかなんとか、なぜか力強く主張し始める人もいるからビックリしてしまう。実際のところ、精神世界に興味がある人より、ない人のほうが世の中には多いんだから、わざわざ主張するまでもないと思うのだが・・・(笑)。
かつて高度成長期の日本では、会社から帰ったサラリーマンの大半が、テレビでプロ野球の巨人戦を見ていたという時代もあった。年末のNHK紅白歌合戦の視聴率は、80%を超えて「お化け番組」と呼ばれてた。それに比べて、今は関心が多様化していて、誰もが興味を持っているテーマなど考えにくいのが実情だ。野球中継の視聴率も、ドン底まで落ちている。誰もが知っている歌謡曲も、なくなったと言われて久しい。そういう、関心が多様化した世の中に、今の「精神世界」もある。
精神世界に対して感情的に反発している人は、おそらく新興宗教に嫌な思い出があるのだろう。しつこく勧誘されたとか、身近な人が新興宗教に染まって、聞くに耐えない異常な話ばかりするのでウンザリしたとか・・・。筆者にも、そういう経験が人一倍あるので、それはよく分かる。
でも、「精神世界」と新興宗教は、似て非なる分野だ。というより、私見では、「精神世界」というのは非常に大雑把な広い括りなのであって、新興宗教もその中の一分野だと考えている。つまり、新興宗教というのは、精神世界を探求する上での、多くの形の中のひとつなのだ。
新興宗教だって、いつまでもそのままではない。たとえば、大本教の出口王仁三郎などは、もはや「新興宗教の教祖」という枠を超えて、「日本を代表する神秘家」くらいの位置づけをされるようになってきていると思う。それには、大本教をベースにしている船井会長たちの影響もあるわけだが、それだけではない。合気道の植芝盛平や、日月神示の岡本天明といった、宗教の枠におさまらない人物を輩出してきたというのが、なんといっても大きい。
歴史上の宗祖たちも、みんな、在世当時は新興宗教の教祖みたいなものだ。それが、時間が経つにつれて位置づけが変わってくる。後になってみないと、それは分からない。
新興宗教が嫌われるのは、「霊を信じなさい、信じなさい・・・」と言われるのが大きな原因だろう。失礼ながら、丹波哲郎の映画に出てくる「自縛霊」みたいな信者諸氏が、「霊を信じろ~、信じろ~」と呪文のように言ってくるのだから、そりゃ一般人にとっては大きなストレスだ。
でも、精神世界を探求するのに、霊を信じる必要があるかと言ったら、別にそんなことはない。霊の話が嫌いなら、しなければよいのである。
以前、「霊が実在するのなら、証明してみせろ」と言う人に対して、「じゃあ、『精神』が実在すると証明できますか?」と反問した・・・という人を見たことがあるのだが、それもどうかと思う。「霊」が実在すると思わなくても、「精神」が実在すると思っているのなら、精神世界を探求する資格は十分だ。
「霊界はあるかどうか」とか、「輪廻転生はあるかどうか」というような話をし始めたら、人それぞれの信念が衝突して、話がややこしくなる。だから、そういう話は、なるべく避けたほうがよい。そんなの、あってもなくても誰も困らないのだから(笑)、信じたい方を信じてくれれば良い。というより、それは、世界をどのように解釈するかという問題であり、見る角度の違いでしかない。この分野に長く取り組んできているマニアにとって、そんな入口段階の話で紛糾するのはウンザリだ。
重要なのは、「信じる」ことではなく、「観察する」ことだ。人間の精神を徹底的に観察して、見えてくるものが真実なのである。
釈迦もクリシュナムルティも、「観察」することを強く勧めているが、「信仰」することなど、まったく勧めていない。むしろ、釈迦には「汝もまた、信仰を捨て去れ」という有名な言葉があるくらいだ。
でも、それはインドの話。さらに西方を見れば、また考え方が違ってくる。
イスラム教圏は、「信仰」の世界だ。アッラーを信じる者は、天国でフカフカの寝椅子にゆったりと寝そべり、清浄な美女のお酌で、ごくごく酒を飲める。まさしく、夢の楽園だ。一方、アッラーを信じない者は悲惨。ゲヘナ(火炎地獄)に投げ込まれて、とても苦しい目に合う。
アッラーは、厳格な裁きの神なのだが、それでいて、人間の失敗には寛大だ。愚かな人間が、まちがえて多神教の偶像崇拝に染まってしまうのは仕方がない。でも悔い改めて、正しいアッラーへの信仰に目覚めれば、慈悲深く慈愛あまねきアッラーは許してくださる。
実にシンプルな教えで、心が癒される。マニアでない、世間の一般人にまで教えを広めようとするのなら、このくらい話を単純にする必要がある。まさしく、宗教の見本とはこういう教えを言うのだろう・・・。