宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

自給自足の社会

2011年11月23日 | お金が要らない世界

   
お金は歴史が古くて、人類との付き合いも長い。お金は、古今東西を問わずどこでも発生する。日本だろうが、中国・インドや中東だろうが、アフリカとかマヤ・アステカ・インカの文明だろうが、どこでも変わらない。貝殻とか、貴金属とか、紙切れとか・・・。何を通貨として使うかはいろいろだけど、お金はどこででも発生する。
 
2千年前の古代ローマ帝国だって、現代の資本主義国などとはホド遠い農業国で、ローテクもいいとこだったけど、それでもやっぱり、お金がないと生きていくのが大変だった。貧富の格差は、現代のアメリカや中国よりもヒドかった。民衆の大半は、貧しさで生きていくのも精一杯の、ガケっぷち人生を送ってた。その一方では、富を独占する大地主の貴族たちが、世界から集めた珍味を食べては吐き、また食べては吐き、吐いた汚物を奴隷に掃除させていた。地球は、大昔からそういうところなのだ。
 
「お金がない世界」というのは、自給自足の世界ということになる。自給自足とまではいかなくても、モノとモノとを直に交換する、物々交換までしかやらない。
 
真っ先に思い浮かぶのは、南の島の人たちだ。食生活としては、ヤシの実を取って食べるか、自分で育てたイモを食べる程度。ときどき、他の島から船に乗った商人がやってきて、イモと魚を交換するとか、そういう物々交換をする。これなら確かに、お金はいらない。
 
でも、老子に出てくる「小国寡民」の社会は、そんな隣の村との物々交換すら、ほとんどやらない。徹底した自給自足の小さな村落だ。2千数百年も昔の春秋戦国時代の聖賢が思い描いたのは、そんな理想社会だった。
   
というのも、隣の村との物々交換をしただけでも、「イモ3本とライチー5個なら、交換OKあるよ」とかなんとか、交換レートが自然にできてくる。それはやっぱり、商売の始まり。だから、「お金がない世界」を維持するためには、そんな物々交換すらやらない方がよい。

実際には、物々交換には限界があって、すぐに行き詰ってしまう。
  
例えば、経済学者の家で、水道管が破裂したとする。交換に出すものといったら、経済学の講義とか、経済の本くらいしかない。これと水道管工事を交換してくれる相手を、どうやって見つけるのだろうか。また、建築業者と八百屋さんが物々交換するとしたら、ビル一軒と、ニンジン何本を交換すればよいのか。これは、頭が痛くなる問題だ。そんなこんなで、文明が進歩するにつれて、物々交換はすぐに行き詰まる。

でも、自給自足だって、本当は難しい。というのも、足りないモノが多いからだ。たとえば、寒いところではパイナップルが取れないし、鉄鉱石や石炭が出ないところでは鉄が作れない。
    
出口王仁三郎が、「外国には足りないものが多いから、天産自給は無理なのじゃ。その点、日本にはなんでもそろっておるから、天産自給できるのであるぞ」と言ってたのは、そのあたりの事情を指している。

ここで肝心なのは、自給自足できないものがあっても、あきらめることだ。たとえば、砂糖が自給できない村なら、「甘いモノなんか食べなくていいよ」と割り切る。老子が、「隣の村とも交流しない」にこだわったのは、そのあたりにも理由がある。自分の村にないものが隣の村にあれば、欲しくなる。そうすると、「売ってくれ」ということにならざるを得なくなり、必ずや貨幣経済の発生につながる。欲しくなるのを避けるためには、他の村を見ない方がよい。

このように、「お金のない世界」を本気で実現するのなら、そのために必要な条件は、かなり極端なものになる。出口王仁三郎も、「王仁は、都市(の人口)は十万になると言うとるのやで」と言ってたそうなのだが、十万都市なんかじゃとても無理だ。もっと、ずっと規模が小さく、それこそ老子が言うようなレベルで、自給自足の小さな村落にならないと。
    


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2 コメント

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その小さな村 (あたたかい風)
2011-11-29 00:02:45
各ギルドにしたらどうですかね。
村人が専門職人なんで、探しやすいです。

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Unknown (ブログ管理人)
2011-12-02 21:57:17
確かに。

未来の社会の姿として、「小さな村」というのは大いにありうると思うけど、未来的な村の在り方を考えてみないといけませんね(笑)。
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