宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

「反省行」は有害無益

2009年11月17日 | 精神世界を語る
   
「神の使者」によると、人間を神から遠ざけている障壁は、罪悪感だという。それは、神に背いて分離の世界を創り出したことに対する、根本的な罪悪感。キリスト教で言われる「原罪」に当たるものでしょう。原罪は、人間という存在の根本にかかわる罪。単に「ボクは若気の至りで、悪さをしでかしました」というような、一時的な問題とは違います。
 
キリスト教徒とは違って、東アジア人には基本的に、このような原罪思想がありません。「ボクには、罪悪感なんかないよ?」という人も多いでしょう。

でも、原罪は、必ずしもキリスト教文明圏だけの問題とは言えません。他の文明圏においても、それは自覚されていないだけで、深層意識の奥にあると考えられます。
 
この場合、罪悪感を、「過去の悪い記憶」と言い換えたら、ピンときやすいかもしれません。「原罪」とはニュアンスが異なるとはいえ、人間の心理におよぼす影響は似ています。
 
日本人の場合、要注意なのは「反省が大好き」ということでしょう。過去の自分が、思い・行い・怠りによって、たびたびしでかしてきた罪を思い出し、「私が悪うございました」と、涙を流して反省する。

これはたしかに、日本古来の美徳なのかもしれません。でも、精神世界の探求者にとっては有害無益と言えます。

重要なのは、罪悪感から離れること。それなのに、わざわざ「反省」して自責の念を強化するなど、逆効果もいいとこでしょう。ましてや、「瞑想で精神統一して反省」するなどというのは、精神衛生上も危険です。

そもそも、探求者は、現在の一瞬に生きるものなのだ。過去は、忘れるためにある。わざわざ過去を思い出して、「私が悪うございました」などとやるのは、百害あって一利ありません。

ノイローゼなどの「心の病」も、たいてい、過去の嫌な思い出が元凶です。自分自身を責め、罰しようとする自虐。まさしく、人間を神から遠ざける「罪悪感」そのもの。宗教団体やセミナー等で「集中的に反省する瞑想」を実践した結果、精神を病んでしまった人さえいる・・・。

この件に限らず、精神世界探求者がハマリやすい罠は、一見もっともらしく「スピリアチュアルな教え」と見えるものの中にあります。そこにさりげなく毒を仕込むのが、高度に進化したネガティブ勢力の使う常套手段と言える。
 
気がつけば、余計な罪悪感を植えつけられ、従順な精神奴隷と化している。そんなことにならないよう、くれぐれも要注意。キケンキケンキケン・・・(←危険警報)。

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「魂修行」からの脱却

2009年11月16日 | 精神世界を語る
      
「意識を進化させなければならない」というのは、その通りでしょうが、だからといって、「がんばって意識を進化させるぞ~!」という具合に、気合いを入れればいいかというと、そういうわけでもない。

「われわれは、永遠の輪廻転生を通じて、魂を磨く修行をやっているのだ」とかなんとか・・・。そんな考え方は、断じて禁物。それは、このバラバラに分離した第三密度の世界に、どっぷり浸かって抜け出せない人の考え方と言えるでしょう。

それはあたかも、強制収容所で苛酷な労働に従事している囚人が、「がんばって永遠に働き続けるぞ~!」と言ってるのに等しい。

個人の自我というのは、たとえていえば、大海の水を、コップですくったようなものでしょう。コップの中の水が、自己意識に目覚め、「俺だよ」という自己主張を開始する。でも、中身は元の海水と変わらない・・・。この場合、コップに相当するのが、「身体」という形あるもの。海水が、「意識」という形のないものに相当します。

意識には、形がありません。それは、空気のように、目には見えないけど、そこら中に遍満しています。「コップの中の水」という個人の自我から離れ、元の大海へと戻り、一体化する。それが、精神世界探求者の目標というもの。「永遠に魂を磨き続ける」というような、自我の存続を前提にした話とは、そもそもの方向性が異なります。

もっとも、「自我をとことん磨く」という意識進化の道も、ないわけじゃありません。それは、永遠に個性を磨き、自力を強めていく道。大いなる海に戻ることを拒否して、コップの中の自我を強化していくという方向。こういう方向性を、「ネガティブな意識進化の道」と呼びます。

上に挙げた、「ボクは生まれ変わり、死に変わりつつ、永遠の魂修行を続けるぞ」というのは、ネガティブな意識進化を目指す典型的な例。このように、一見もっともらしく「スピリアチュアルな教え」に見えるけど、そこには自我を肥大させる毒が、さりげなく仕込まれている。それが、ネガティブ・サイドが地球人に入れ知恵するときの特徴・・・。

もっとも「ネガティブ」とはいえ、「意識進化」であることに変わりはありません。「ラー文書」によれば、「ネガティブな第四密度」という意識段階に進むことも可能だという。これはこれで、大きな意義があります。ただし、高くて険しいイバラの道ですが・・・。
 
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第三密度

2009年11月16日 | 精神世界を語る
 
地球は何億年もの間、動物や植物たちだけが生きる、人間がいない惑星でした。もちろん、「実は、人類は何億年も前から地球にいたのだ」というような勢力も、この世界にはまだ根強いのだが、そういう人は置いといて・・・(笑)。現実問題として、人間が地球に登場したのは、ここ数百万年の話にすぎません。
 
動物や植物たちは、激しい生存競争を繰り広げてきた。草食動物をむさぼり食らう肉食動物は分かりやすい例だが、平和に見える植物だって、実際には猛烈な陣取り合戦をやっている。敗れた者に待っているのは、絶滅。動物同士、植物同士の直接対決はもちろんだが、それ以上に、「誰が環境変化に適応して生き残るか」という、環境との戦いの方が大きい。
 
動物や植物たちには、人間のような明確な自己意識はありません。彼らは純真無垢で、悪気のカケラもない。だが、それだけに、素朴な生存本能をむきだしにして生きてます。原始的な生存競争を、何の疑問もなく続けていられる。それは、放っておいたら永遠に終わりません。

人類が登場して以来、数百万年。文明が発生して、数万年から数千年。残念ながら、人類もまた、弱肉強食の生存競争を繰り広げてきたというのが現実でしょう。人類の歴史は、戦争・疫病・貧困の歴史。「疫病で一国の人口が半減しました」とか、「大都会の市民が、一夜にして全員殺されました」とか、そういった事例が、日本の歴史には見当たらないが、大陸の歴史では、洋の東西を問わず事欠かない。
 
この厳しさが地球なのだ・・・と言ってしまえば、それまででしょうが、それも、そろそろ変わるときが来ている。「地球環境は、人類の意識によって変えられる」と考えるのが、精神世界論の考え方。
 
動植物とは違って、人間は、「原始的な生存本能」を自覚することができます。自覚することさえできれば、それを乗り越えることも可能となる。

トラやオオカミといった凶暴な肉食動物も、人間が愛情を持って育てれば、穏和な優しい動物に成長することが、現在では知られています。ブタをかわいがるトラや、ネズミにエサをやるネコなどが、その例でしょう。
 
人間には本来、高度に進化した愛と知の意識をもって、環境を調和する機能があります。でも、地球人の多くは、まだそれを自覚していません。地球人類が見せる凶暴さは、野生動物の延長線上にある。
  
いまだ自己意識に目覚めず、無意識で生きている動物や植物たちは、精神世界でいえば「第二密度」の住人。

一方、「ボクや、アナタ」という自己意識・他者意識に目覚めてはいるものの、いまだ動物の延長上にあるような生存競争を繰り広げている人間は、「第三密度」の住人です。第三密度は、自我を発達させたもの同士の争いだけに、最も深刻な闘争の世界と言える。地球人類が繰り広げてきた凄惨な殺し合いは、その典型例でしょう。
 
これに対して、十分な愛と知を発達させ、環境調節機能を果たしている人間は、「第四密度」の住人となる。驚くほど賢く、それでいて、超・天然の癒し系。それが、これからの地球人類のあるべき姿。世界が「意識の反映」である以上、第四密度の意識を持った人間が大勢いるだけで、特に何もしなくても世界は変わります。

それが実現するどうかは、これからの3年間が正念場・・・ということか。もちろん、たった3年で、人類全員が急に変身することなど期待できないのだが。とりあえず、まずは精神世界ファンが覚醒するしかない!?
  
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人類の意識変化が、地球環境を変える

2009年11月15日 | 精神世界を語る
 
最近は、すっかり寒くなってきました。もう、2009年の冬。時がすぎるのは、早いもんですな・・・。2012年の冬至まで、あと3年。もはや、10年先や20年先という話ではなくなり、格段に現実味を帯びてきてます。
 
そんな中、「フォトンベルト」という言葉を、めっきり耳にしなくなったように思う。かつては、「2012年」と言えば、「地球がフォトンベルトに突入して、大変動が起きる」という話が多かったものですが・・・。
 
「精神世界の2012年問題」は、長らく「大きな天変地異や、地殻変動を伴う」という捉え方をされてきたのだが、最近は変わってきたようだ。「地球のアセンションは、時間をかけて進められる。2012年は、その入り口となる年」という考え方が、定位置を確保してきました。いまや、ヘタに「天変地異」の話を持ち出そうものなら、「破滅願望のあらわれ」と受け止められかねません(笑)。
 
もちろん、全員がそんな風に変わったわけではありません。浅川嘉富氏やエハン・デラヴィ氏らは、以前と変わらない「地球大変動」の話をしている。そういう人たちは、「急進派」と位置づけられるでしょう。彼らの話は、おもしろくて夢にあふれています。ただ、全体的な傾向として、「天変地異が起きる・・・」の話に、かつての勢いが感じられないのも事実。
 
でも、天変地異や地殻変動が起きないのなら、いったい、何が起きるのか。
 
それは、やっぱり、「人類の意識の変容」ということしか、残らないでしょうね。ながらく眠りの状態にあった、人類の意識が目を覚ます。地球は、目覚めた人々が住む星になる・・・。

もっとも、地球の現状は、人類の集合意識を反映したものです。人類の意識が変われば、当然、それに合わせて地球の環境も変わると考えられる。言ってみれば、かつては「地球が変わる」ということに重点があった。いまは、「人間が変わる」ということに、より重点が移っている。でも、人間が変われば地球も変わるのだから、結果として、地球環境は激変することになる。
 
結局のところ、昔ながらの、「意識を覚醒させる」ことを目指すという路線。各自が内面的な意識改革に取り組むという、最も地味な路線なのだが、それ以外の方向はないみたい。
 
でも、かつては、人類の眠りは今よりもずっと深く、そんな中で覚醒するのは大変でした。今は、人類全体が覚醒へと向かっているので、その流れに乗りさえすれば、ずっと容易に覚醒できる・・・はずだ(笑)。やはり、今は、意識の覚醒へと向かう千載一遇の好機!!

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やはり、月には水があった

2009年11月15日 | こっくり亭日記
NASAが、「月で水を発見した」と発表した。以前から、「多分あるだろう」とは言われていたのだが、本当に発見された。

先月、無人探査機「エルクロス」が月面に衝突した。そのときに、衝突したクレーターから大量の水が噴出。「95リットル相当の水」というから、かなりの量だ。今は、水蒸気になって月の上空に留まっているという。

「月には水がある」といっても、もちろん、川や湖があるわけではない。太陽光が当たらない部分に、氷となって存在しているだけだ。もっとも、地下にはかなりの量の氷があると推測される。

この先、月面基地の飲料水として利用できる可能性もあるという。また、電気分解すれば、酸素も取り出せる。分解してできた水素は、ロケット燃料にすればいい。

アメリカ政府は、月に有人宇宙基地を作ることを、本気で検討している。月は、地球から宇宙への中継基地に最適だ。将来は、まず月に行って、そこから各惑星に向かって飛び立つ・・・という日が、きっと来るだろう。そんなとき、わざわざ地球から水と酸素を持っていくのと比べて、地下から掘り出せるのなら、格段にラクなのは言うまでもない。

月の環境は、おそらく、何十億年も前から変わっていないだろう。太古の地球から分かれたときに、そのまま持っていった水に違いない。それが、氷になって眠っていた。どうやら、月面基地建設に向けて、天の助けがあったようだ・・・!?
  
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コアラの数が急減、絶滅のおそれも

2009年11月12日 | こっくり亭日記


毎日JP

かの有名なオーストラリアの珍獣、コアラの数が激減しているという。

今年のオーストラリアは、異常気象に包まれている。もともと、「こんなに広いのに、人が住めるところは少ししかない」と言われる砂漠の大陸なのだが、最近は特にすごい。長引く日照り。乾燥した山々では、想像を絶する規模の山火事が発生。猛烈な砂嵐は大都会シドニーを飲み込み、「ここは火星かよ!?」と思わせる動画がUPされて、世界的な話題を集めた。

そんな異常気象は、コアラの生息地をも襲っている。コアラの大好物は、ユーカリだ。ユーカリほど、乾燥気候に適した植物は他にない。スプリンクラーのように、猛烈に地下水を吸い寄せて地上に引き上げる。成長も早いので、世界各地の乾燥地帯に移植されている。塩分にも強い。遺伝子改良により、「海水でも育つユーカリ」が開発されているという。実用化が進めば、「砂漠に海水をまいて、ユーカリを育てる」という、夢の緑化計画が実現だ!?

ユーカリの葉は消化しにくい。食べられるのはコアラだけ。コアラの胃腸は、ユーカリを消化するための特別製だ。コアラは、盲腸の長さがなんと2mもあり、時間をかけて消化するという(wikipediaより)。水分もすべてユーカリの葉から取っているので、水も飲まない。だから、いつまでもユーカリの樹上で、ジッとしていられる。実にノンビリした、樹上生活の一生だ。ユーカリの樹が枯れたり、切り倒されたりしない限り・・・。
  
もっとも、ユーカリの葉には、たいして栄養がない。コアラが、いつも寝ているのはそのためだ。そうすることで、栄養の浪費を防いでいる。つかまえやすいので、昔は乱獲されて、毛皮になっていた。今も、唯一の生息環境であるユーカリ林が減れば、他にいくところがない。
  
調査の結果、コアラの数は激減しており、「30年後には絶滅」という予測すら出ているという。調査したのは、オーストラリア・コアラ基金の研究チーム。それによると、オーストラリア大陸の現在のコアラの生息数は4万3000─8万頭。10万頭以上とされていた過去の推計を大幅に下回っているという。なんとも、残念なことだ。

それにしても、もしもオーストラリア大陸が緑化されたら、地球環境におよぼす影響は、さぞかし大きいでしょうな・・・。
   
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進化しない宇宙

2009年11月11日 | 神の使者
 
ゲイリー・レナードの「神の使者」に登場するアセンディド・マスターは、未来の地球で次元上昇して、人間から卒業したという。その意味で、彼らは未来からの来訪者でもある。

意外にも(?)、彼らが語る未来に、「近い将来、地球は次元上昇する」というような見方は含まれていない。今後も当分の間、基本的には今と同じような、激動の世界が続くとしている。ニューエイジに対するアンチテーゼと言われる所以(ゆえん)のひとつだろう(笑)。

次元上昇しないのは、地球だけではない。宇宙全体も、進化などしていないという。それは一見、高度な進化へと向かっているように見える。だが実際には、それは進化ではなく、循環しているだけ。宇宙は、完成に向かって前進しているように見えても、完成する前に崩壊してしまう。その繰り返し。進化と退化を繰り返し、同じところをグルグル回っている。それは、決して完成されることがない・・・。

地球人類の意識が、(もちろん、全員というわけにはいかないが・・・)急速に覚醒する局面を迎えているというのは、多くの観察者による、一致した意見だ。「神の使者」だって、それを特に否定するわけではない。

でも、「神の使者」の場合は、根本的に「地球や宇宙が進化する」という考え方をしていない。宇宙や地球は、神ならぬエゴによって誤創造された幻想の世界に過ぎない。完全な存在になることなど、永遠に待っていても決してないのである。

今の地球は、たしかに急速に進化している。だが、宇宙そのものが仮の姿である以上、地球の進化もまた、仮の姿にすぎない・・・。

宇宙は、やがて完成されるべく、着実に前進しているわけではない。宇宙にはゴールがなく、堂々めぐりを続けている。いつまでたっても、同じものの永遠なる回帰・・・。

「神の使者」によれば、この宇宙そのものが「分離」という幻想だ。宇宙は、真実ではない。真実なのは、神であり、神の愛だけ。

われわれの目標は、宇宙を進化させることではなく、この虚構の世界から離脱して、大いなる神のもとへと帰ることだ。

宇宙が完全無欠になることなど、未来永劫、ありえない・・・。


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赦し

2009年11月10日 | 神の使者
    
「神の使者」によれば、人々を輪廻転生へと縛りつけ、分離を固定化させている元凶は、「罪悪感」。そして、罪に対する罰を恐れることから生まれる、「恐怖」だ。
 
なんだか、ドストエフスキーの「罪と罰」を思い出す。殺人事件を起こしたラスコーリニコフは、恐怖に駆られて、悶々とした日々を送っていた。彼は、もともと度胸満点な上に、アコギな金貸しの老婆を殺すのは正義だと信じる確信犯。だが、ついでに他人を巻き添えにしてしまったおかげで、激しい罪悪感が生じた。それは、ラスコーリニコフの心をズタズタにしてしまった・・・。彼を精神的に追い詰めたのは、罪悪感。
 
もちろん、人類が潜在意識に持つ罪悪感というのは、「人を殺した」とか、そういうことではない。それは、大いなる神から離れて、分裂した世界を創り出したという、神に背いた罪。自分は全知全能の神に罰せられるのであるという、底知れない恐怖。これは、太古の昔から人間の意識にがんじがらめに絡み付いている、想像を絶するほど根深い問題だ。それは、あまりにも意識の奥深くに食い込んでいるため、一見すると打つ手がなさそうに思える。
 
だが、打つ手はあるらしい。これらの症状に対する効果バツグンの治療法は、「赦し」(ゆるし)だというのだ。
  
旧約聖書の時代は、まさしく「罪」といえば「罰」の時代だった。神様は、厳しい罰をもって古代人に向かい、人々にさらなる罪悪感と恐怖を植えつけた。それは、神と人間との距離を、途方もなく広げてしまった・・・。

だが、今はそんな時代ではない。われわれは「赦し」の時代を迎えた。いまや、「山」といえば「川」、「罪」といえば「赦し」というのが合言葉だ。神と人間との距離が、急速に縮まっていく時代・・・。

人間は、たびたび罪を犯すものだ。そんなときは、神にむかってザンゲする。「わたしは、思い・ことば・行い・怠りによって、たびたび罪を犯しました。罪深いわたしのために、どうか祈ってください」・・・。
 
敬虔な信者が、神の赦しを乞う姿は美しい。だが、赦すのは、神だけが持つ権能ではない。人間だって、神の一部だ。小さな神なのである。罪を赦すことは、人間にもできる。

「ACIM ~ 奇跡のコース」にいわく (出典は『神の使者』)、

>赦しは救済を貫く中心的なテーマで、すべての部分を有意義に関係づけており、まっすぐに続く道程であって、その結果は確実である。

「赦しなさい」という教えを受けたゲイリー・レナードは、毎日、あちこちで赦しを実践した。「バカ、アホウ」と罵られても、「バカはオマエだろ」と思いながら赦す。行列で待たされても、イライラしながら赦す。ひたすら、赦しまくる。このような赦しの実践を、何ヶ月も続けたという。
  
>赦すとは、兄弟があなたにしたとあなたが思っていることは、実際には起こっていないと認識することだ。・・・それは罪などないと見抜くことである。

言われてみれば、確かにその通り。そもそも、「世界はない」というのが、「奇跡のコース」の教え。世界そのものがないのだから、この世界で起きることなど、実際には何も起きていない。罪など、最初からあるわけがない・・・。
 
赦しの実践に熟達したら、苦しみや居心地の悪さはだんだん減っていって、いつかは消えるという。そして達人は、自分自身を赦し、このデキ損ないの世界をも赦す。その先には、大いなる神との一体化が見えてくる。
 
ありがたや・・・・・。合掌。
 
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エゴによる宇宙創世

2009年11月10日 | 神の使者
     
「神の使者」によれば、この宇宙という幻影を創りだしたのは、われわれ自身だ。といっても、われわれの全体ではなく、心の一部分が創り出したのだという。それは「エゴ」と呼ばれる、エゴイスティックな部分。
 
「エゴ」という言葉は、精神世界ジャンルではよく使われる頻出用語だ。それには、なんといっても「ACIM ~ 奇跡のコース」の影響が大きい。でも、「そもそも、エゴって何なのでしょうか?」というのが、素朴な疑問というものだろう。「奇跡のコース」では、このように定義されている。

>エゴとは、分裂を信じる心の一部である。
  
エゴは、徹底した分離主義者だ。常に、「全体になるな。離れた個になれ」と誘惑する。エゴとは、バラバラに分かれた個人の自我。人々がバラバラに分かれていなければ、存在できない。われわれが大いなる神と一体化してしまったら、エゴは消えてなくなってしまう。

エゴが居場所を確保したかったら、人間に「分離」という幻想をずっと見させておくしかない。それが、エゴの仕事なのだ。エゴは、エゴなりに必死。「奇跡のコース」にいわく、
  
>まことに、エゴは罪の上にその世界を創ったと言うことができる。そのような世界においてのみ、すべてがひっくり返り得る。この奇妙な幻想が罪悪感の雲を貫き通せない重いものに見せている。この世界の基盤が堅固であるように見える理由はここにある。

ここでは、「罪悪感」がキーワード。これが仏教文明圏なら、「執着」あたりが来るところなのだろうが、ここはキリスト教文明圏。「罪悪感」が、われわれを神から引き離している元凶だ。
 
背後には、旧約聖書に登場する、恐るべき神の存在がある。旧約聖書の神様は、荒っぽいのが特徴だ。なにかといえば、怒って人間を皆殺しにしてしまう。その、荒ぶる神に対する恐怖が、人々の精神に脈々と流れているという。「そんなの、キリスト教徒だけの問題じゃないか」と言われるかもしれないが、そんなことはない。イスラム教徒も、同じ旧約聖書の神様を信仰している。この二大宗教の信者数を合わせれば、地球人類の半分近くに達する。人類の集合意識におよぼしている影響は絶大だ。というより、むしろ旧約聖書こそが、人類の集合意識の象徴と言えるだろう。
  
恐怖は、愛の対極にある。愛の反対は、憎しみではなく、恐怖なのだ。なかでも最大の恐怖は、神に対する恐怖だろう。
 
というのも、われわれ人間は、心ならずも「大いなるすべて」である神から離れ、分裂してバラバラに別れてしまった。実際には分裂など起きておらず、錯覚にすぎなかったのだが・・・。とはいえ、神に背いた罪は、あまりにも深刻。
 
心の奥に消せない罪悪感を抱え、恐るべき神の罰におびえる人間は、絶対に神に見つからない洞窟へと逃げ込もうとする。そこには、魔物が住んでいた。「エゴ」という名の魔物だ。エゴは、気がくるっていた。

エゴは、なんと、「身体」という最強のツールを創り出した。身体は、本来は形のない意識であるはずの人間に、目に見える形を与える。おかげで、「ボクやアナタは、お互いに別々の、独立した個人なのだ」という思い込みは強化され、分断が固定化されたといえる。たとえていえば、広大無辺の海から、コップで水をすくってみたようなものだ。コップの中の海水も、もといた海の水と何も変わらないのだが、なんだか、自分と海とは、もともと違う存在だったような気がしてくる。人間の場合、コップに相当するのが、身体と言えるだろう。
 
ゲイリー・レナードの元を訪れたアセンディド・マスターたちは、「エゴによる創世記」を、滔々(とうとう)と語る。この宇宙は、銀河・惑星・人間・動物・植物・鉱物・・・などといった、個性あるものたちで成り立っている。それらは皆、「大いなるすべて」である神から分離して、それぞれが個別存在となってきたのだ。でも本当は、個別存在などというものはない。エゴが、「分離」という幻想を創り出しているだけだ。エゴがなくなれば、分離もなくなる。そのとき、あらゆる個体が消え失せ、宇宙は消滅する・・・。
 
エゴは、人が死んだ後でも残る。神から分離した個我のまま、生まれ変わり、死に変わり、輪廻転生を続けているのだ。神のもとに帰りたくても帰れず、道に迷ってしまっているのである。大いなる神のもとに帰るためには、輪廻転生を終わらせなければならない。ちょうど、2人のアセンディド・マスターたちのように。
 
いわく、「エゴの思考システムがどう働いているかを君が観察できるようになったら・・・君自身の救済を早めて、最終的には『生と死の循環』をどうすれば打ち破れるかを説明してあげるよ」。
 
そこでゲイリー氏いわく、「すると、ぼくは心の中にある無意識の罪悪感と恐怖のせいで、輪廻し続けているんだね。その罪悪感が癒され、隠された恐怖が消えたら、もう身体も世界も、この宇宙さえ必要なくなる!!」。

「やっと分かってきたみたいだな」と、満足そうな神の使者。
  
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「奇跡のコース」への入口

2009年11月09日 | 神の使者
 
この宇宙は、夢だ。一見、現実的に見えるのだが、実は、まったくの非現実。神こそが、唯一のリアリティである。

夢といっても、リアルな夢だ。これには、荘子の一節を思い出す。

古代中国の荘子は、夢の中で胡蝶となった。荘子はヒラヒラと舞い飛びながら、自分のことを胡蝶だと思いこんでいた。目を覚ました荘子は、自分が人間だということを思い出してガク然。自分は、実は胡蝶というのがホンモノで、夢の中で荘子になってるんじゃないかと疑った・・・。

あまりにも有名なストーリーだが、これは、すべての人間に当てはまるようだ。もっとも、われわれは「胡蝶」の夢を見ているわけではない。では、何の夢を見ているのか。

「分離」という夢である。

この、われわれが創り出した幻影の中で、われわれは「分離」という夢を見ている。それは、神からの分離。そして、人間同士の分離。ひいては、人間のみならず、あらゆる個体としての分離。
  
大宇宙に遍満する、「分離」。それは、夢まぼろしに過ぎなかった・・・。
 
そうなると、「さあ、分離という夢から覚めようじゃないか」となるのが自然な流れというもの。「神の使者」が勧める強力な目覚めのツールは、「ACIM~奇跡のコース」である。世界各国語に翻訳されているのだが、なぜか、世界に冠たるスピリチュアル大国のひとつ、日本では翻訳されていない。まだ、翻訳者が本部に認められていないからだという(笑)。もっとも、コアなマニアはすでに原書で読んでいる。原書を読む趣味がない人は、その代わりに「神の使者」を読むわけなのだが、これには賛否両論がある。「神の使者」に限らず、思想の世界に賛否両論はツキモノだ。

実際のところ、「神の使者」の読者には、著者のゲイリー・レナード氏に対して、「個性的」というか、「アクが強い」という印象を受ける人も多いというのが事実だ。そこに、賛否両論が生まれる素地がある。というのも、「奇跡のコース」のメッセージは、これを読む人々が、原典から離れないことを強く望んでいる。もともと、読者による自由な解釈や、アレンジを好まないところがあるのだ。そこには、血で血を洗う宗派対立に明け暮れてきた、キリスト教の歴史という背景があるらしい。そのためか、「奇跡のコース」は、自学自習用の教材として構成されている。そうすることで、宗派が形成されるのを、できる限り防ごうとしているのかもしれない。

もっとも、オリジナルの「奇跡のコース」しか認めない・・・という原理主義者(?)にも、「神の使者」の有益な使い道はある。それは、この分厚い本の隅々にまで満ちている、「奇跡のコース」からの引用部分を拾い読みすることだ(笑)。訳者は、「神との対話」で定評ある、吉田利子氏。さあ、さっそく読み始めよう。

・・・導入部

これは奇跡のコースである。これは必要なコースである。あなたがいつこのコースを学ぶか、それだけがあなたの意志に任される。(中略)・・・このコースは愛の意味を教えることを目的としてはいない。・・・そうではなく、(あなたがたが自然に受け継いでいる)愛の存在に目覚めるうえでの障害を取り除くことを目的としている。愛の対極は恐怖だが、すべてを包み込むものには対極がない。したがってこのコースは、ごく簡単に言えば次のように要約できる。

現実(リアル)であるものは、いっさい脅かされることがない。

非現実(アンリアル)であるものは、いっさい存在しない。

ここに神の平和がある。
 
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