「神の使者」によると、人間を神から遠ざけている障壁は、罪悪感だという。それは、神に背いて分離の世界を創り出したことに対する、根本的な罪悪感。キリスト教で言われる「原罪」に当たるものでしょう。原罪は、人間という存在の根本にかかわる罪。単に「ボクは若気の至りで、悪さをしでかしました」というような、一時的な問題とは違います。
キリスト教徒とは違って、東アジア人には基本的に、このような原罪思想がありません。「ボクには、罪悪感なんかないよ?」という人も多いでしょう。
でも、原罪は、必ずしもキリスト教文明圏だけの問題とは言えません。他の文明圏においても、それは自覚されていないだけで、深層意識の奥にあると考えられます。
この場合、罪悪感を、「過去の悪い記憶」と言い換えたら、ピンときやすいかもしれません。「原罪」とはニュアンスが異なるとはいえ、人間の心理におよぼす影響は似ています。
日本人の場合、要注意なのは「反省が大好き」ということでしょう。過去の自分が、思い・行い・怠りによって、たびたびしでかしてきた罪を思い出し、「私が悪うございました」と、涙を流して反省する。
これはたしかに、日本古来の美徳なのかもしれません。でも、精神世界の探求者にとっては有害無益と言えます。
重要なのは、罪悪感から離れること。それなのに、わざわざ「反省」して自責の念を強化するなど、逆効果もいいとこでしょう。ましてや、「瞑想で精神統一して反省」するなどというのは、精神衛生上も危険です。
そもそも、探求者は、現在の一瞬に生きるものなのだ。過去は、忘れるためにある。わざわざ過去を思い出して、「私が悪うございました」などとやるのは、百害あって一利ありません。
ノイローゼなどの「心の病」も、たいてい、過去の嫌な思い出が元凶です。自分自身を責め、罰しようとする自虐。まさしく、人間を神から遠ざける「罪悪感」そのもの。宗教団体やセミナー等で「集中的に反省する瞑想」を実践した結果、精神を病んでしまった人さえいる・・・。
この件に限らず、精神世界探求者がハマリやすい罠は、一見もっともらしく「スピリアチュアルな教え」と見えるものの中にあります。そこにさりげなく毒を仕込むのが、高度に進化したネガティブ勢力の使う常套手段と言える。
気がつけば、余計な罪悪感を植えつけられ、従順な精神奴隷と化している。そんなことにならないよう、くれぐれも要注意。キケンキケンキケン・・・(←危険警報)。
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