光が強いほど、闇もまた濃くなる。誰かがそう言っていた。
実際のところ、新興宗教団体とかスピ系団体には、世間の一般人より遥かに健全で善良な人もいるのだが、作用半作用の法則というべきか、逆に普通じゃ考えられないほどネガティブな人間もしばしば見られる。異常な連中があまりにも異常だし、悪い奴らがあまりにも悪いので、ときとして、この業界が嫌になるのは仕方ない。周囲の人たちにいまひとつオススメできないのは、そこに理由がある。
でも、物事の暗い面にばかり目を向けていても仕方がない。そこから這い上がり、光の当たる明るい面に目を向けていくことが重要だ。
それはともかく、最近の筆者は、科学や哲学にますますハマっている。仕事で科学技術とかかわりあうことが多くなり、かつては別世界だった理系分野へと深く入り込んでいるせいだ。
ここで、自分の意外な面を発見している。というのも、高校生のときなどは、数学がいつも零点に近いので、しょっちゅう数学教師から職員室に呼び出されていた。あの頃はなぜか、本当に数学ができなかった。それなのに、今はむしろ、数学や物理に強いということが、ほぼ唯一の取り柄と化してきている(笑)。「数学が苦手だった」と最近の知り合いに言っても、なかなか信じてもらえない。
数学に限らず、そういうことが多い。昔は、何をやっても、本当にできなかった。
「地球での転生経験が無いか、あったとしても少ない」という、宇宙人の転生者について、しばしば書いてきたけど、これは必ずしも、スピリチュアルな信仰というわけではない。それより、自分自身の生活実感そのものなのだ。自分と他の人々とを観察してきた結果、明らかに、自分には地球環境で生活した経験が乏しい。どう見ても、スタートラインが同じではなかった。
このため、「過去の輪廻転生までも含めれば、膨大な経験値の個人差がある」と、かねてから主張してきている。「人は皆、何も書き込まれていない白紙の状態で生まれてくる」という、イギリス経験論の主張とは真っ向から反対の意見だ。
不器用さを克服しようと思って工場に入り、組立工の仕事を何か月もやって、結局は断念したこともある。だが、あれも、もっと長く何年も続けていたら、いつかは人並みにできるようになったことだろう。何事も、慣れがカンジンなのだ。
配送ドライバーもやったことがある。車の運転がヘタで、免許を取るのも9ヶ月かかったが、運転のプロに変身した。方向感覚がゼロで道順を覚えられないので、地図は書き込みだらけになった。クルマをあちこちぶつけてボコボコになったため、「弁償しろ」と怒られたこともあったが、そこは持ち前の弁舌で乗り切った。
異性との性行為も不得手だったため、風俗店に通って練習したこともある。これについては、過去に本ブログで書いたところ、マジメな読者からコメント欄でお叱りを受けた。でも、本当にそうなのだ。
筆者は、いつもテキトーに書いているように見えるかもしれないが、その背後では、このように常識では考えられないほどの努力をしてきているのである。何のための努力なのかといえば、「この世に慣れるための努力」だ。地球環境に適応するための絶大な努力である。
だからといって、この地球環境に慣れたところで何が得られるのかと言ったら、別に何も得られない。ひとたび寿命が尽きて地球を去ってしまえば、それまでの話。そこには、なにも意味はない。
でも逆に、意味がないから面白いのである。この地球の物質世界という環境は、よくできた仮想現実の世界だ。どこから見ても、ホンモノの実在としか思えないような錯覚を起こさせる仕掛けになっている。だが、しょせん仮想現実だから、アチコチに矛盾やほころびがある。それを注意深く観察して、じっくりと考えれば、「ボクはいま、仮想現実の世界にいるんだな」という結論にならざるを得ない。
さあ、今日もこの仮想現実の世界を楽しむこととしよう。「なんで、いつも楽しそうなのですか?」と、よく質問される。それは、この仮想現実の世界が面白いからだ。ここは、ゲームの中の創られた世界。なんで、こんな世界があるのか。いったい誰が、こんな巨大で精巧な仕掛けを創ったのだろうか。
世界がある。それが最大の不思議なのだ・・・。
特に、我が身に不幸が起こったとき、仮想現実だと思えれば楽(?)なのかもしれないけど、責任放棄(?)なような気もするし、まだまだ修行が足りないのかな・・・。
スマホやパソコンでゲームをやってるときでさえ、ゲームの中の仮想世界で大損害を食らえば、ショックで打ちのめされるのが当たり前なんだし(笑)