何事にも、「勉強」はつきものだ。もちろん、学校でやる勉強というのもある。仕事をしても、業務知識や関連知識をつけるために、勉強する人は多い。
勉強というのは、学校や仕事のためにするだけではない。趣味のためにする勉強ってものもある。
コンピュータが趣味の人は、たいてい、驚くほどITに詳しい。韓流おばさんも、韓国ドラマのことには詳しい。サッカー・ファンも、サッカーには詳しい。
これは、学校でやらされるか、自発的にやるかの違いがあるだけで、「知識を増やし、理解を深める作業」であることに変わりはない。
「勉強」に対しては、極端にポジティブなイメージを持っている人から、極端にネガティブなイメージを持っている人まで、幅は広いけど、「いかなる分野にも、まったく知識がない」という人は滅多にいないのだから、誰でも、何かの分野で勉強したことはあるはずだ。
学校での勉強というのを、「子供たちに、詰め込み学習を強制している」と言って嫌う人も多いのだが、そうとばかりは限らない。世の中には、いろんな人がいるのである。
たとえば、たいていの人にとって、「数学」は、学校で仕方なくやらされていた難行・苦行のようなものだろう。高校生のときの筆者にとっても、正直なところ、それ以外の科目をすべて合わせたよりも、数学1科目だけのほうが遥かに難しく感じられた。でも、「全員にとって、そうなのではない」ということを、決して忘れるべきではない。そこはやっぱり、人それぞれなのだ。
世の中には、数学が好きでたまらないマニアというのも、決して少なくない。実際、問題が解けさえすれば、パズルみたいで面白いのも確かだろう。ただし、それを「おもしろい」と思えるようになるためには、それなりの修練を必要とする。
人によって、どれほど好みが違うかは、少年期の自分自身の経験からも実感させられた。
というのも、筆者は幼少の頃から精神世界ファンだったこともあり、広く深い読書によって、自然にコテコテの文系少年へと成長していった。そのおかげで、学校でやってる文系科目(英語・国語・社会)などは、とても簡単で、本当に楽勝だった。自分が日ごろから趣味で読んでる哲学書とかの方が、学校の教材よりも遥かに難解なのだから、当たり前。
その代わり、数学はいつも限りなく0点に近かった。100点満点で、3点とか5点くらいしか取れなかった。
これに対する、筆者の父親の評価はきわめて低かった。父の感想としては、「オマエは、数学ができないな」の一言に尽きた。数学を除けば全科目が得意で、理科の化学や生物にまで強かったのだが、それでもダメだった。というのも、父は理学部・数学科出身だったため、数学にしか興味がなかったのだ。
昔も今も、数学マニアにとって、人間の「アタマの良し悪し」とは、ほぼ、数学のデキだけで決定されると言っていい。彼らにとって、数学以外の科目とは、すべて、「ひたすら暗記するもの」と相場が決まっているのである。そういう価値観の下では、数学がデキれば、「アタマが良い」。数学がデキなければ、「アタマが悪い」の一言で片付けられてしまう(笑)。
筆者が読んでいた精神世界の本とか、宇宙について書いてある本とか、そんなの、家族にとっては意味不明の奇妙な文字の羅列にすぎなかった。そんなところで、いくら探求を深めたとしても、まったく意味はない。
もっとも近い血縁者でさえ、これほど価値尺度が異なっているのだから、まして、アカの他人においてをや。こればっかりは、どうにもならないということを、しみじみ実感したものだ。
またまた話が脱線してきたけど、要するに、「勉強」というのは、人それぞれだということ。他人の価値観に惑わされず、自分のやりたいことをやるのが一番。
精神世界という分野にも、当然のことながら、「勉強」はある。情報があれば、知識もあり、理解が必要な事柄もある。
そのあたりは、やっぱり、勉強する・・・ということになるだろう。「私は、精神世界に関しては、日本で一番くわしい」と豪語した人もいるほどだ。
ただし、精神世界という分野には、特殊な要素がある。それは、単に「知識が多い」というだけでは、それほど意味がないということ。
精神世界というのは、最終的には「知識」よりもむしろ、「直観」で決まるものだ。
というのも、この分野では、「すべての答は、もともと自分の潜在意識の中にある」と考えられているから。「本当の真実は、自分の外側からではなく、内側からやってくる」と言われるゆえん。
でも、いくら「潜在意識の中に、すべての答がある」と言われても、その答が、なかなか出てこないのも事実だ。そのために、結局のところ、外部から知識を取り入れることになる。
ちょうど、卵からヒヨコがかえるときのようなものだろう。ヒヨコが、内側からクチバシでつついただけでは、卵のカラを破ることは、なかなかできない。どうしても、外側から、親鳥が温めたり、いろいろ刺激する必要がある。できれば、外からも一緒にカラをつついてやるのが一番だ。
それと同じように、知識をつけただけでは意識覚醒などできないが、かといって、外部からの知的刺激がなかったならば、やっぱり意識覚醒するのは難しい。
かつて、バブル経済はなやかなりし頃、某・新興宗教団体では、「統一神理学検定試験」というのをやって、話題になったものだ。ちょうど、大学入試の共通一次やセンター試験みたいに、信者を集めて、「どれだけ教祖の著書を勉強して、教義知識をつけたか」ということがテストされていた。
「教祖の前世は、ムー大陸の王様でした」とか、「最初の地球人類の祖先は、UFOに乗ってエジプトに移住してきました」・・・(?)とかナントカいうような選択肢に、○か×をつける。その点数によって、信者としての評価はかなり左右される。講師や職員を目指すならば、もちろん重要な評価対象になる。
これは、さすがにちょっと極端なケースだったと言えるだろう。ここまでやる必要はないし、かえって本末転倒になりかねないんだけど、かといって、「教義を勉強する必要がないか」といえば、決してそんなこともない。
イスラム教徒は、子供の頃にコーランを丸暗記する。中国の儒教徒も、子供の頃に四書五経を丸暗記して、科挙の試験を受けたものだ。
4千年前の古代シュメールでも、子供たちにとって、「神様の名前を暗唱する」というのが最重要な科目とされていた。これはちょっと変わっていて、「アヌ、エンリル、エンキ、マルドゥク、ティアマト・・・」と、シュメール神話に出てくるアヌンナキ神様たちの名前を、ひたすら暗唱するのがメインだったと言われている。シュメール人にとって、これらの名前は、よほど重要な意味を持っていたのだろう。
お釈迦さまも、「教えを学んで、しっかり覚える。忘れても、また覚え直す」ということを非常に重視していた。
一方では、「まったく勉強に向いてない人でも、ちっとも知識がないにもかかわらず解脱できた」という例が、仏典ではしきりに強調される。
要するに「人それぞれ」ということなんだけど、やっぱり、ここでも「詰め込み学習」の効果は否定されていない。
(その2に続く)
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それは突然やってきました。
それまで自分だと思っていた自分が消え失せ、同時に自分の外側に広がっていた世界も消え失せ、ただ「いまここ」に脈打つ宇宙大の意識だけが存在していました。
その宇宙大の意識の中には、いままで存在したあらゆる命、この先存在するあらゆる命、そしてまさにいま存在しているあらゆる命、それらすべてが含まれていました。
すべてが自分自身であるということの発見は、すべてに対する愛と共感を呼び起こしました。
「そうだったのか。
人生とは大いなる自分が見ていた夢だったんだ。
見ていたいから見ていたわけで、誰かに強制されて夢の中にいたわけじゃない。
もとより大いなる自分しか存在していないのだから、目覚めを阻むものもいなかったんだ。
大いなる自分は、人生の脚本家であり、演出家であり、主演俳優であり、そしてその人生舞台を見つめる観客でもあった。
何から何まで、全部自分の独り相撲だったのか。
それにしても見ていた夢は、多くの義務や正しさにがんじがらめにされて、他人の目を気にしながら、重苦しい世界の中で立ち回っていた悲喜劇だった。
ということは、また再び夢を見始めるのなら、次からは自由に見たい夢を創り出していけばいいんだ。
目覚めがこんなに簡単なことなら、いつだって戻って来れるじゃないか。
もう少し夢でも見てみるか」
こうやって文字にしてみると、ずいぶん長く考えていたみたいですが、実際にはこのような思考が瞬間的に現れ、次の瞬間、また元の世界が目の前に広がっていました。
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そしていまは、夢の世界と覚醒の世界を行ったり来たりしています。
修行が足りないので、夢に飲み込まれている時間も少なくありません。
しかし一度でも真実の次元を垣間見れば、悪夢に翻弄されることはなくなります。
夢を夢だと知っていることは、大きなことだと思います。
このようなことを書くと、早く目覚めなければと焦ってしまうかもしれませんが、昨日も言ったように、我々はみんな、そうとは知らずに目覚めの準備をしているので安心してください。
今日起きることも、全部が目覚めのための準備です。
あなたを悩ます人も、そしてあなたを愛してくれる人も、すべての登場人物はあなたの目覚めのために協力してくれている、ありがたい存在です。
言うは横山やすし。