宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

宗教から卒業する時代

2021年09月22日 | 精神世界を語る
いまの地球上の状況を見渡してみると、日本や欧米では、すっかり脱宗教化が進んでいる。もちろん、欧米はキリスト教社会だし、日本にも日蓮正宗系の仏教団体を初めとして、たくさんの宗教がある。「よく、あんなに信じられるもんだなあ」と思わず感心してしまうくらい、熱心な人は本当に熱心だ。でも、地球人類の意識としては、総じて脱宗教化が進んだ。今日では、神を信じていない人が多い。

その点、イスラム教の社会は、まだまだ宗教色が濃い。もちろん、イスラム教圏にだって、いろんな人がいる。マジメな信者もいれば、コーランを見て「こんなの、とても信じられませんわ」と思うような疑り深い人だっているだろう。とはいえ、日本や欧米、とくに日本と比べたら、確実に社会全体として宗教色が濃い。先進国の人から見れば、「イスラム教の連中は、いまだにあんなものを信じているとは、遅れてるなあ」と思う。

確かに、彼らは遅れている。先進国の人間の方が、意識が進んでいる。地球人類にとって、宗教が必要だった時期もあった。でも今は、宗教から卒業して、次のステージに入る時代。いつまでも、古い信仰にしがみついている場合ではない。

といっても、宗教の効果はもちろんある。意識覚醒への道は、1つではないのだ。神への信仰を限りなく強めて、神と一体化する境地を目指すという道もある。阿弥陀如来をとことん信じて、一心不乱に念仏を唱える。一心不乱に極楽往生を念じ、ひたすら唱え続ける。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」とひたすら繰り返す。そうすると、だんだんトランス状態になってくる。もうテンションが上がりすぎて、極楽に往生できるかどうかすら、どうでもよくなってしまう。念仏に限らず、「南無妙法蓮華経・・・」の題目を上げても同じ。仏教に限らずイスラム教でも、「ラーイラーハ・イッラッラー、ラーイラーハ・イッラッラー・・・」(アッラーの他に神はいない)とハテしなく唱え続けるズィクルの行により、同様な効果が得られる。

今まで、多くの宗教を体験してきた(どれも、本ブログを始める前、かなり昔の話ばかりだけど)。やっぱり、何事もやってみないとわからないからだ。念仏を唱えるとはどういうことなのか。それは、唱えてみないとわからない。もちろん、ちょっとカジったくらいでは、わからないことも当然ある。でも、まったくやらないのと比べたら、確実に理解は深まる。宗教の道も極めればすごいんだってことが、よくわかる。

というわけで、宗教についても決して否定するわけではないんだけど、それでもやっぱり、地球人類が脱宗教化へと進むのは正しい方向だと思う。世の中にはいろんな人がいるのに、皆が同じ宗教を信じているのは不自然だ。信仰は、強制されてやるものではない。やりたい人がやればいい。「信じる」というのも1種のパワーであり、人によって向き不向きがある。信仰の道が合っている人は、その道を進んだ方が早いだろう。でも、全員がそうだというわけではない。

現代人の多くは、「この世には、神も仏もいやしない」と考えている。「人生は1度きりだ。人は死ねば無になる」と信じている人は多い。これはこれで、また別の種類の信仰だ。といっても、本人たちは、それを信仰だとは思っていない。「昔の人たちのような信仰から脱却して、現実に目覚めたのだ」と考えている。でも、そんなのはお互いさまだ。「天国や地獄はある」と信じるのも、「天国も地獄もない」と信じるのも、信仰の対象が異なるだけで、何かを信じていることに変わりはない。「人は生まれ変わる」と信じるのも、「人生は1度きり」と信じるのも、以下同文。現代人は、昔の信仰から、別の信仰へと移ったにすぎない。

仏教には、「不常不断の中道」というものがある。「人は、死んでも魂が永遠に続く」というような考え方を「常見」という。一方、「人は死ねば終わりになる」というような考え方を「断見」という。イスラム教徒は常見で、先進国の現代人は断見だ。お釈迦さまは、この両方とも極論であるとし、2つの両極端から離れよと説いた。

「人は死んでも、魂が永遠に続く」という常見のどこが良くないのかというと、人が通常、「これが自分だ」と思っているものは、本当の自分ではない。仏教ではそれを「偽我」と考える。偽我が永遠に続いてしまったら困る。「ボクは健康に留意して、この世で長生きしたいなあ」というくらいならまだしも、「ボクは、死んでからも永遠に生き続けたいなあ」というのは、偽我への執着をますます強める。だから良くない。

一方、「人は死ねば終わりだ」という断見、これがいいのかっていったら、そういうわけでもない。常見も断見も、どちらも離れるべき両極端なのだ。

でも、「どちらも離れるべき」といったって、両方とも同じくらい悪いわけではない。どちらがより悪いのかは、ハッキリしている。常見より、断見の方がもっとタチが悪い。「この世がすべてだ。人は死んだら終わりだ」というのは、修行者がとるべき見方ではない。それに比べたら、常見の方がずっとマシなのは明らかだ。

というわけだけど、それでもやはり、誰もが宗教を信じていた昔の人々より、脱宗教化が進んだ現代人の方が、意識の進化段階としては次のステージに進んでいる。地球人類の意識は、ボンヤリした状態から離れて、よりクリアになってきた。それが意識の進化というものだ。ただ、それは通過点にすぎず、進化の最終形態ではないというだけ。次のステージは、さらにその先にある。

(続く)

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