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共産論(連載第37回)

2019-05-14 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(4)遠隔通信教育が原則となる

◇学校という名の収容所
 これまで共産主義教育の概要について論じてきたが、教育と言えばそれは学校という施設を通じて行なうということが、現代の国際常識となっている。その結果、各国で様々な種別の学校制度が用意され、先進国を標榜している諸国では大半の青少年が何らかの学校に在籍・通学しているのが通例である。
 しかし、その学校で異変が見られる。不登校やいじめ問題は、その集約的な象徴である。そもそも学校とは、生徒らを予め定められたカリキュラムとスケジュールに服従させ、学校という一定の施設に通学させ、一定時間を拘束し、無断退出を禁ずるある種の「子ども収容所」である。
 収容所という特異な環境は、人間に強いストレスをもたらすことが知られる。学校という名の収容所も同様である。学校という場の現場管理者である教師と生徒の上下関係、生徒間の長幼・学年による上下関係、同級生徒間での「カースト」関係のような施設内階級関係の形成は収容所制度の特徴であり、それが教職員を含めたすべての当事者にとってストレス要因となる。
 中でも最も深刻なのは、いじめ問題である。いじめは加害者の側から見れば、ある種のストレス発散行動とも読み解けるものである。そして学校集団内で特定の特徴を持つ同輩を弁別し、悪意をもって排斥するいじめとは子どもの領分における差別にほかならず、このような差別の訓練所となっているのは家庭以上に、集団化された学校なのである。
 他方、学校制度の効用として力説される知的な鍛錬という点に関しても、知的な興味関心や学習速度が様々な子どもたちを集団的に一斉指導する学校教育の方法論は決して効果的なものではなく、むしろカリキュラムについていけない「落ちこぼれ」を毎年連綿と何世代にもわたって輩出し続けることになる。
 とはいえ、実のところ学校という制度は共産主義教育とも両立する制度であり、学校制度廃止を共産主義から直接に導くことは論理の飛躍になりかねないが、現代的な共産主義においては、学校という制度はもはや必要なくなっていると言える。

◇脱学校化へ向けて
 現代的な共産主義は、教育の脱学校化を実行する。すなわち共産主義的教育は原則として遠隔通信制をもって提供される。この大胆な教育革命は決して夢物語ではなく、すでに資本主義下で進展している情報通信技術の発達がその技術的基盤を保証する。
 実際、資本主義社会でも遠隔通信教育はすでに多方面で開始されているが、通信制教育はあくまでも通学制学校教育の補完的・補充的な意義を担うものにとどまっている。その最大の理由は、全生徒・学生を漏れなくカバーする包摂的な教育通信ネットワークの構築が経済的に至難であるという資本主義社会における物質的な限界にある。
 これに対し、貨幣経済によらない共産主義社会では、そうした物質的な限界が取り払われることは他分野におけると同様であり、脱学校化へ向けた道が現実的に開かれるのである、具体的には、後で述べる一貫制基礎教育(義務教育)の課程も、体育のように性質上通信では実施し難い一部科目を除き、原則として通信教材をもって提供される。そのために必要な通信備品はすべて公的に無償貸与される。
 このようなシステムにおいて、教師はもはや指導管理者ではなく、学習アドバイザー的な役割に純化される。教師は生徒らの必要に応じて質問や面談に応じるが、そうした対面指導もテレビ電話などの通信手段を通じて実施することが可能であり、どちらかが出向く必要もないのである。
 このようなシステムにおいても、観念的には「学校」を想定することはでき、公教育においては地域ごとの生徒のまとまりを一単位として教育サービスを提供することが効率的であろうが、これは技術的な政策に属することである。
 こうした遠隔通信教育は「原則」であって、いくつかの例外がある。上述した通信制による提供が困難な科目はその一つであるが、個別化教育が不可欠な障碍児教育も専門教員による訪問教育のような家庭教師型の教育メソッドが併用される。
 また後に述べる生涯教育機関としての多目的大学校または専門技能学校が提供する科目のうち実技指導を要するもの、さらに医学院、法学院、教育学院等々の高度専門職学院は、実地教育が不可欠である性質上、通学制となる(ただし、性質上通信で提供可能な科目は個別に通信化され得る)。

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