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共産論(連載第35回)

2019-05-07 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(2)構想力と独創性が重視される

◇先入見的イメージの払拭
 将来の社会の担い手たる市民の育成はもっぱらフォーマルな教育制度の役割となる。このことは表面上、資本主義社会においてもほぼ同様のように見える。
 ただ、共産主義の立場から同じことを言えば、そこに「洗脳教育」という共産主義につきまといがちな先入見的イメージを重ね合わせられることがあるかもしれない。つまり、学校教育を通じて生徒に徹底的に共産主義思想を叩き込み、「狂信的共産主義者」に鍛え上げていくのではないか、と。
 おそらくこれは旧ソ連をはじめとする集産主義体制の諸国で実際に行われていた思想教育に対する戯画的イメージに基づく批判であろう。しかし、同様の洗脳的な思想教育は「反共」のナチス・ドイツや軍国日本でも逆の立場から盛んに行われていたのであり、その点はお互い様だったのだ。
 共産主義的教育は本来、画一的な思想教育とは無縁である。共産主義社会とは社会的協力=助け合いの社会であると何度も述べてきたが、これを知の側面から見れば、民衆がその知を結集させながら未来へ向けて創っていく社会ということを意味しており、これを裏から言えば、既成の知識を詰め込んだ知識人・専門家によって指導される社会ではないということになる。そのような社会では、いかなる名目であれ、画一的な詰め込み式教育は通用しないのである。

◇資本主義的知識階級制
 翻って発達した資本主義社会の実情はと言えば、それは高度の知識分業化を前提に、各界に各種スペシャリストが配され、そうした知識人・専門家が一般大衆の上に立って社会をリードするという形で成り立っている。ここから、一種の知識階級制が発展してくる。すなわち知識獲得競争に勝ち残った者が社会の指導エリート階級となり、負けた者は被指導階級となる。
 こうした点では、現代資本主義社会は封建的身分制の遺風をなお残していた近代ブルジョワ社会とも異なっており、「生まれ」よりも「能力」による支配の社会であるかのように見える。
 このような社会で指導エリートに求められる資質は記憶力とそれをベースとした反応性である。つまり既成の知識体系を何はさておき暗記し、それを前提とした各種試験で予め正解を定められた設問に対する正確かつ敏速な反応性を示した者が知的エリートとして選抜・認証されるのである。
 要するに、資本主義的教育とは―各国により若干の差はあれ―そうした記憶‐反応型知的エリートを選抜するための認証試験によって段階を区切られた一連の事務手続きにすぎない。こうした点では、資本主義的教育こそ実に画一的で無味乾燥だとは言えないだろうか。
 しかし、それは資本主義社会ではむしろ望まれていることでもある。なぜなら、資本主義経済とは商品生産‐貨幣交換の連鎖による利潤追求のシステムであって、すべての社会的活動はこのシステムのどこかに組み込まれているため、このシステムに関する知識とその適用能力さえあれば知的エリートとしては必要にして十分だからである。

◇知識資本制から知識共産制へ
 これに対して、共産主義社会の教育はさほど単純ではない。共産主義社会は貨幣も国家も持たない社会的協力を軸とする社会であるから、そこでは皆の知の結集なくしては全社会活動が停滞しかねない。共産主義社会では既成の知識体系は無駄とは言わないまでも、あまり役に立たず、各自の生活経験に根ざした構想力とそれをベースとする独創性が支えである。
 共産主義社会では知識階級制は通用しない。この社会では肉体労働者の経験知といったものさえもが重宝されるであろう。知識人・専門家任せでは動いていかないのが共産主義社会である。
 このことはもちろん、カンボジアのクメール・ルージュのように知識人を敵視し大量粛清するというような狂信を意味してはいない。知識人・専門家は共産主義社会でも当然不可欠であって、その養成は引き続き行われるが、かれらの役割は社会の指導者から助言者的なものへ転換されていくであろう。
 以上のような資本主義的教育=記憶力‐反応性、共産主義的教育=構想力‐独創性という対比は絶対的なものではなく、資本主義の枠内でも、記憶力‐反応性偏重を反省し、構想力‐独創性を重視しようとする「教育改革」の動向がないわけではない。
  しかし資本主義が資本主義であり続ける限り、記憶力‐反応性路線の教育が本質的に廃されることは期待できない。こうした資本主義的教育の下では、知識自体も一種の文化的な「資本」に化け(知識資本制)、各家庭の教育投資力とも直結して世代間で継承されていくことによって知識階級制が確立されていくのである。その構造は当然にも、家庭の教育投資力が高い有産階級子弟にとって有利に働く。
 かくして「能力主義」に見せかけられた現代資本主義社会も、本質的には生まれによって人の一生がほぼ決定づけられている階級社会にほかならないことが、教育の面から暴露されるのである。
 これに対して、共産主義的な構想力‐独創性教育の下では知識も共産され、「みんなのもの」として蓄積・開放されていくのであるから、知識資本制の下での知識階級構造も崩れ去るのである。

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