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共産教育論(連載第3回)

2019-05-09 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(2)教育の公共性
 古い時代ほど、教育は子どもの親の私事に委ねられていた。その結果、子どもに十分な教育を施すことのできる財力を持つ階層の親の下に出生し養育されたか否か、という子どもにとっては全くの偶然性が子どもの教育の決定的要素であった。
 実際のところ、今日でも高等教育と呼ばれる上級教育課程への進学は、多くの場合、親の資力いかんに依存するところが大きい。特に純度の高い資本主義社会では、公教育ですら、高等教育課程を有償サービスとして購買しなければならないから、親の資力=教育資本は決定的要素である。
 それに対して、共産主義社会における子どもの教育は、第一次的に社会がこれを担う。教育は将来の社会の担い手の育成という重要な営為であるからして、社会の共同事業としてこれを展開することは、まさに共産的な方法である。簡単な標語で言い換えるなら、子どもは社会が育てるということになる。
 もっとも、今日の発達した資本主義社会においても公教育の制度は導入されており、その限りでは社会が子どもを育てている一面は認められるが、徹底されておらず、ほとんどの場合、親の資力に依存する私教育と並存しており、特に高等教育課程は多くが私教育に委ねられているのが一般である。
 こうした中途半端な公私混在状況は、その当否が十分に論議されないまま、教育におけるある種の社会通念と化して放置されているところであるが、共産主義社会はそうした状況を放置せず、正面から解決することを目指し、教育の公共性を徹底するのである。
 このことは、親の養育責任の放棄を容認するものではない。養親を含めた法律上の親は、社会から子どもの教育への協力を託された受託者として、公教育課程の子どもを保護する義務を負う。その義務を懈怠することは、犯罪行為として取り締まられる。
 また、後で具体的に見るように、親による私教育の余地も完全に封じられるわけではなく、課外教育体系の中で適切な私教育を与える権利は保障される。ただし、子どもの適性と自由意志に基づかない私教育の強制は、ある種の虐待とみなされる可能性はある。
 このように、共産主義的公教育は、私教育を封殺して教育を全面的に公の統制下に置くことなく、教育責任を担う社会から委託された親の教育の義務を前提としつつ、一定の教育の自由を担保するという柔軟な構造を持つものと言えるであろう。

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