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共産論(連載第39回)

2019-05-21 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(6)真の生涯教育が保障される

◇リセット教育のシステム
 “生涯学習”といったスローガンはよく聞かれるが、そこで言われているのはせいぜい一般市民がカルチャーセンターに通って趣味の学問に触れる程度のことである。これに対して、「生涯教育」とはいつでも人生やり直しを可能とするようなリセット教育のシステムをいう。
 人間を労働力として生産活動に動員することを中心に組み立てられた資本主義社会では、何歳までにしかじかのことを済ませておかねばならないといった「ライフ・ステージ」による制約が多く、正規の学校課程を中退した者や学校課程は終えたが何らかの事情で人生に失敗し、社会生活から脱落した者などの再出発は大変に難しい。また先天的か後天的かを問わず障碍者の人生設計も大きな制約を受ける。
 総じて資本企業は標準モデルの賃金体系を適用できない規格外の労働力を好まないため、人生設計のやり直しは困難となりがちである。これに対し、賃労働制が廃される共産主義社会では、年齢や経験にかかわらず、いつでも人生やり直しをサポートし、求職者に適職を配分することが可能となるのである。

◇多目的大学校と専門技能学校
 人生やり直しをいつでも可能とするためには、適宜の継続教育によって新しい知識・技能を修得したり、もう一度学び直したりするチャンスがすべての人に等しく保障されていなければならない。
 それを可能とするため各地に設立されるのが、「多目的大学校」である。これは、すでに一貫制義務教育の課程(基礎教育課程)を終えていったん就職した人がさらに高度の、あるいはまったく別分野の知識・技能を修得できるように用意された教育機関である。
 しかし、現存大学制度とは根本的に異なり、入学試験やそれに準じた選抜はせず、先着全入制を採る。もちろん完全無償である。しかも、現存の大学よりも実用性の高い学科を数多く提供し、人生設計の練り直しを可能とする知識・技能を修得できるようにするものである。
 また一貫制義務教育を長期休学した人や、障碍者のように成長のスピードが緩やかな人のために、一貫制義務教育の内容を補習的に提供するプログラムのほか、一方では先に述べた学術研究センターと連携して学術の最先端の講座も用意するなど、まさに多目的な成人教育機関である。
 こうした成人向け大学校は、広域自治体としての地方圏が運営主体となり、地方圏内の地域圏ごとに最低1校は開設され、職業紹介所とも連携しながら修了者の就職・再就職につなげることができるように工夫される。
 同時に、各種の専門的技能を単科的に指導する「専門技能学校」の設立も促進される。これは、多目的大学校と並び、主として成人向けの再教育プログラムを提供する学校であるが、多目的大学校とは異なり、すべて私立である。
 大学が廃止される共産主義社会では、こうした多目的大学校と専門技能学校、さらに次項の高度専門職学院とが、より実践的な生涯教育体系を構成することになる。

◇高度専門職学院 
 前回、種々の高度専門職も最低5年以上の職歴を持つ有職者の中から選考・養成すると述べたが、これもまた一つの生涯教育のあり方である。従って、例えば長く別の仕事をしていた人が40歳を過ぎてから医師に転身するといったことも決して珍しいことではなくなろう。
 一方で、高度専門職の資格・免許は一度取得すれば終身間有効な特権であるべきではなく、適切な継続教育を通じて少なくとも10年程度ごとに更新されていく必要がある。これも、高度専門職の社会的責任の重さに応じた一つの生涯教育のあり方である。
 こうした高度専門職の養成は、前述した医学院、法学院、教育学院等々の高度専門職学院が担うわけであるが、いずれも“難関入試”に依存することなく、職歴や人格的要素を優先する選考によることで、より広い見識と公共奉仕の精神を備えた専門職を得ることができ、ウェーバーが近代社会全般の弊として指摘した「精神なき専門人」の問題を克服する手がかりとなることも期待できるのである。

◇ライフ・リセット社会へ
 最後に、大胆に単純化してまとめれば、資本主義、さらには資本主義的要素をなお引きずっていた社会主義も含む広義の「近代」社会とは、人生やり直しを困難にする画一的なライフ・サイクル社会であったのに対し、共産主義社会は人生やり直しをいつでも可能とする自由なライフ・リセット社会であり、これこそが「ポスト近代」社会の要件である。
 「ポスト近代」とは近代が獲得した精神の自由―言わば観念的な自由―にとどまらず、現実の人間の可能性―言葉の真の意味での自由―が最大限に開かれることを意味しているのでなければならない。現代共産主義が生涯教育に厚く配慮するのも、そうした意味での「ポスト近代」社会を現実的に保証するためなのである。


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