ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

共産教育論(連載第2回)

2019-05-10 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(1)共産主義と教育
 
共産主義と教育は、資本主義と教育よりも不幸な関係にある。というのも、共産主義と教育を少しでも結びつけようとすれば、歴史的に悪名高い旧ソ連やその亜流諸体制下で行なわれていた―現在も一部残存している―ような思想洗脳的イデオロギー教育が想起されてしまうからである。
 本連載のタイトルを決定するに際して、「共産主義教育論」とするかどうかで悩まされたのもそれゆえであった。しかし、このタイトルが不穏なイメージを醸し出すのも、「共産主義」という用語に塗りつけられてしまったいまだ容易に拭い去ることのできないネガティブなイメージのなせるわざである以上、これを回避することとした。
 そこで、「主義」という語を除去して「共産教育論」としたわけであるが、ここで意味するのは前回序説でも示唆したとおり、「共産主義社会における教育制度のありよう」ということに尽き、共産主義のイデオロギー教育という含意はない。その点で、旧ソ連をはじめ、「共産主義」を公称してきた諸体制、とりわけ共産党支配体制におけるイデオロギー教育とは何らの関係もない。
 これらの諸体制におけるイデオロギー教育が、共産党ないしはその亜流政党による権威主義的支配を支えるための思想教育という位置づけを持っていたことは明らかである。このような「共産主義教育」は真の意味での教育の名に値しないものであって、支配政党による宣伝活動の一環である。
 「共産教育論」として提示するのは、このような似非教育論ではなく、共産主義社会における教育とはどのようなものであり得るかという観点からの教育論である。それは現在多くの諸国で実施されているような「資本主義社会における教育」を論じることと全く並行的な関係にある。言わば「資本教育論」に対するものとしての、「共産教育論」である。
 もっとも、資本主義にせよ、共産主義にせよ、社会を成り立たせる基本原理を子どもたちに体得させることは教育の基本であるから、イデオロギー性を完全に除去することも不可能である。資本主義社会における教育は共産主義に対立する資本主義のイデオロギーから完全に自由になれないことと同様である。
 そうした前提の下、「共産教育論」の特徴を総括的に挙げるとすれば、共産主義社会=貨幣と国家という概念・制度を持たない社会の担い手たるにふさわしい知識素養及び人格を形成するための教育ということになる。すなわち、貨幣交換を行なうことなく生産・消費活動が継続され、国家という概念なくして社会運営がなされていく社会の担い手を育成するための論である。
 この簡易な総括からも、すでに具体的な教育理念をいくつか抽出することができるが、それらが本章次節以下で見ていく共産教育論の土台を成す基本理念となり、次章以下で見る教育諸制度はそれらの理念を実現するための最適な手段方法として展開されていくこととなるであろう。

コメント

共産教育論(連載第3回)

2019-05-09 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(2)教育の公共性
 古い時代ほど、教育は子どもの親の私事に委ねられていた。その結果、子どもに十分な教育を施すことのできる財力を持つ階層の親の下に出生し養育されたか否か、という子どもにとっては全くの偶然性が子どもの教育の決定的要素であった。
 実際のところ、今日でも高等教育と呼ばれる上級教育課程への進学は、多くの場合、親の資力いかんに依存するところが大きい。特に純度の高い資本主義社会では、公教育ですら、高等教育課程を有償サービスとして購買しなければならないから、親の資力=教育資本は決定的要素である。
 それに対して、共産主義社会における子どもの教育は、第一次的に社会がこれを担う。教育は将来の社会の担い手の育成という重要な営為であるからして、社会の共同事業としてこれを展開することは、まさに共産的な方法である。簡単な標語で言い換えるなら、子どもは社会が育てるということになる。
 もっとも、今日の発達した資本主義社会においても公教育の制度は導入されており、その限りでは社会が子どもを育てている一面は認められるが、徹底されておらず、ほとんどの場合、親の資力に依存する私教育と並存しており、特に高等教育課程は多くが私教育に委ねられているのが一般である。
 こうした中途半端な公私混在状況は、その当否が十分に論議されないまま、教育におけるある種の社会通念と化して放置されているところであるが、共産主義社会はそうした状況を放置せず、正面から解決することを目指し、教育の公共性を徹底するのである。
 このことは、親の養育責任の放棄を容認するものではない。養親を含めた法律上の親は、社会から子どもの教育への協力を託された受託者として、公教育課程の子どもを保護する義務を負う。その義務を懈怠することは、犯罪行為として取り締まられる。
 また、後で具体的に見るように、親による私教育の余地も完全に封じられるわけではなく、課外教育体系の中で適切な私教育を与える権利は保障される。ただし、子どもの適性と自由意志に基づかない私教育の強制は、ある種の虐待とみなされる可能性はある。
 このように、共産主義的公教育は、私教育を封殺して教育を全面的に公の統制下に置くことなく、教育責任を担う社会から委託された親の教育の義務を前提としつつ、一定の教育の自由を担保するという柔軟な構造を持つものと言えるであろう。

コメント

共産教育論(連載第4回)

2019-05-08 | 〆共産教育論

Ⅰ 共産教育総論

(3)知の共産化
 現代では、多くの諸国で出生に基づく身分階級制は消滅し、それに代わり学歴に基づいて社会的な立ち位置が決定される社会に移行しつつある。いわゆる学歴社会である。このような社会編制は出生時の身分でなく、成長期の「努力」に応じて社会的ステータスが決せられる「民主的」なあり方だとみなされがちである。
 しかし、前回も指摘したとおり、最終学歴を飾る高等教育課程は親の資力に依存するところが大きい限り、学歴社会の前提には、有産階級の親の下に出生したか否かという偶然性の要素が大きく横たわることは明らかである。ただ、それが外見上は「努力」により勝ち得た学歴に基づく「民主的」な知識階級制として発現するというだけのことである。
 資本主義社会において知は所有されるものであり、それは知的所有権のようなあからさまな所有権としてのみならず、子どもの教育に充分な私財を投入できる有識階級によって、学歴という非物質的な資本の形態でも集団的に所有されている。その結果、有識者と非有識者の階級格差―知識階級制―が生じる。
 しかし、高度情報社会を迎えた今日、非有識者も高度な知にアクセスすることが可能となった一方、有識階級が基盤としてきた大学制度の過剰な拡大増殖により、「大卒」学歴の価値下落―学歴インフレーション―が生じ、知識階級制は揺らいでいる。
 その点、共産主義社会における知は、社会全般によって、究極的には人類全般によって共産され、共有されるものであるから、学歴という資本形態は廃される。その結果、教育制度上も、初等教育‐(中等教育)‐高等教育といった階級的な段階制を採らないのである。とりわけ、今日世界中で高等教育の中心機関として定着している大学という制度が存在しないことは大きな特色となる。
 こうした言説から、かつて1970年代のカンボジア共産党独裁体制下で断行された知識人虐殺のような帰結を想定するなら、それは誤解である。真の共産主義社会における教育は、知識人を抹殺するのではなく、社会成員全般を知的に啓発することを目指すのである。
 その具体的な制度体系は後に述べるが、共産主義的な教育制度は義務的かつ段階を分けない一貫的な基礎教育課程と、生涯にわたる継続的または補充的教育を可能とする生涯教育とに大別される。かつ、この両課程は初等‐高等というような上下の階層関係になく、目的を異にする教育の種別にすぎない。
 従ってまた、基礎教育課程内部及び基礎教育課程と生涯教育課程の間に入学試験による選抜という関門プロセスは介在せず、誰でも、いつでも両教育課程にアクセスすることが可能となる。ただし、生涯教育課程に組み込まれた一部高度専門職教育課程には入学選抜があるが、それとて試験によるものではない。

コメント

共産論(連載第35回)

2019-05-07 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(2)構想力と独創性が重視される

◇先入見的イメージの払拭
 将来の社会の担い手たる市民の育成はもっぱらフォーマルな教育制度の役割となる。このことは表面上、資本主義社会においてもほぼ同様のように見える。
 ただ、共産主義の立場から同じことを言えば、そこに「洗脳教育」という共産主義につきまといがちな先入見的イメージを重ね合わせられることがあるかもしれない。つまり、学校教育を通じて生徒に徹底的に共産主義思想を叩き込み、「狂信的共産主義者」に鍛え上げていくのではないか、と。
 おそらくこれは旧ソ連をはじめとする集産主義体制の諸国で実際に行われていた思想教育に対する戯画的イメージに基づく批判であろう。しかし、同様の洗脳的な思想教育は「反共」のナチス・ドイツや軍国日本でも逆の立場から盛んに行われていたのであり、その点はお互い様だったのだ。
 共産主義的教育は本来、画一的な思想教育とは無縁である。共産主義社会とは社会的協力=助け合いの社会であると何度も述べてきたが、これを知の側面から見れば、民衆がその知を結集させながら未来へ向けて創っていく社会ということを意味しており、これを裏から言えば、既成の知識を詰め込んだ知識人・専門家によって指導される社会ではないということになる。そのような社会では、いかなる名目であれ、画一的な詰め込み式教育は通用しないのである。

◇資本主義的知識階級制
 翻って発達した資本主義社会の実情はと言えば、それは高度の知識分業化を前提に、各界に各種スペシャリストが配され、そうした知識人・専門家が一般大衆の上に立って社会をリードするという形で成り立っている。ここから、一種の知識階級制が発展してくる。すなわち知識獲得競争に勝ち残った者が社会の指導エリート階級となり、負けた者は被指導階級となる。
 こうした点では、現代資本主義社会は封建的身分制の遺風をなお残していた近代ブルジョワ社会とも異なっており、「生まれ」よりも「能力」による支配の社会であるかのように見える。
 このような社会で指導エリートに求められる資質は記憶力とそれをベースとした反応性である。つまり既成の知識体系を何はさておき暗記し、それを前提とした各種試験で予め正解を定められた設問に対する正確かつ敏速な反応性を示した者が知的エリートとして選抜・認証されるのである。
 要するに、資本主義的教育とは―各国により若干の差はあれ―そうした記憶‐反応型知的エリートを選抜するための認証試験によって段階を区切られた一連の事務手続きにすぎない。こうした点では、資本主義的教育こそ実に画一的で無味乾燥だとは言えないだろうか。
 しかし、それは資本主義社会ではむしろ望まれていることでもある。なぜなら、資本主義経済とは商品生産‐貨幣交換の連鎖による利潤追求のシステムであって、すべての社会的活動はこのシステムのどこかに組み込まれているため、このシステムに関する知識とその適用能力さえあれば知的エリートとしては必要にして十分だからである。

◇知識資本制から知識共産制へ
 これに対して、共産主義社会の教育はさほど単純ではない。共産主義社会は貨幣も国家も持たない社会的協力を軸とする社会であるから、そこでは皆の知の結集なくしては全社会活動が停滞しかねない。共産主義社会では既成の知識体系は無駄とは言わないまでも、あまり役に立たず、各自の生活経験に根ざした構想力とそれをベースとする独創性が支えである。
 共産主義社会では知識階級制は通用しない。この社会では肉体労働者の経験知といったものさえもが重宝されるであろう。知識人・専門家任せでは動いていかないのが共産主義社会である。
 このことはもちろん、カンボジアのクメール・ルージュのように知識人を敵視し大量粛清するというような狂信を意味してはいない。知識人・専門家は共産主義社会でも当然不可欠であって、その養成は引き続き行われるが、かれらの役割は社会の指導者から助言者的なものへ転換されていくであろう。
 以上のような資本主義的教育=記憶力‐反応性、共産主義的教育=構想力‐独創性という対比は絶対的なものではなく、資本主義の枠内でも、記憶力‐反応性偏重を反省し、構想力‐独創性を重視しようとする「教育改革」の動向がないわけではない。
  しかし資本主義が資本主義であり続ける限り、記憶力‐反応性路線の教育が本質的に廃されることは期待できない。こうした資本主義的教育の下では、知識自体も一種の文化的な「資本」に化け(知識資本制)、各家庭の教育投資力とも直結して世代間で継承されていくことによって知識階級制が確立されていくのである。その構造は当然にも、家庭の教育投資力が高い有産階級子弟にとって有利に働く。
 かくして「能力主義」に見せかけられた現代資本主義社会も、本質的には生まれによって人の一生がほぼ決定づけられている階級社会にほかならないことが、教育の面から暴露されるのである。
 これに対して、共産主義的な構想力‐独創性教育の下では知識も共産され、「みんなのもの」として蓄積・開放されていくのであるから、知識資本制の下での知識階級構造も崩れ去るのである。

コメント

共産論(連載第34回)

2019-05-06 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

 共産主義社会では、社会に産まれ出た子どもたちは社会が育てる。そこでは、構想力と独創性を重視した義務教育と生涯にわたっていつでもやり直せる成人教育が充実する。


(1)子どもたちは社会が育てる

◇親中心主義からの脱却
 ドイツ憲法に次のような印象的な条文がある(6条2項)。

 子の養護及び教育は両親の自然の権利であり、かつ何よりも両親の負うべき義務である。その履行に際しては、国家共同社会がこれを監督する。

 この規定が印象的であるのは、それが資本主義国家における教育のあり方を明確に語っていると同時に、そこから抜け出す出口をも指し示しているからである。
 規定前段は、「子の養護及び教育」すなわち子の養育全般を両親の「自然の」権利及び義務であると宣言することによって、子の養育を私事化している。これは極端に言えば、子は親の私物―まさに「我が子」―と認めるに等しく、ここに子どもにまで及ぶ資本主義的な私有の観念がにじみ出ている。
 しかし、そうした両親の私事たる子の養育に対して「国家共同社会(の)監督」という形でクギを刺そうとするのが規定後段である。なぜそのようにクギを刺すのかと言えば、いかに子が両親の私物であるといっても親の勝手気ままを許したのでは、資本主義が婚姻家族に期待する次世代労働力の再生産機能が働かなくなる恐れがある。そこで「国家共同社会」は両親が我が子を勤勉な労働力―賃奴―に育て上げてくれるように見張っていなければならないわけだ。
 以上はいささか毒気を含んだ“超解釈”であり、ドイツ国民にいささか申し訳なく思うが、筆者の真意はドイツ憲法を揶揄することにあるのではなく、むしろ先の規定後段を共産主義的教育への突破口としてとらえてみたいのである。
 結論から行くと、共産主義的教育は社会に産み落とされたすべての子どもたちの養育の権利と責任を、両親でなく「共同社会」―再三述べてきたとおり、共産主義社会に「国家」は存在しない―に認める。つまり、子どもたち(複数形)は社会が育てるということである。
 では、両親は?かれらは、個々の子ども(単数形)の言わば「製造元」として、共同社会による子どもたちの養育に協力する責務を負い、その限りで自ら作った子を成人するまで養護する権利という意味での親権を持つ。
 こうした構成は逆さまだと思われるかもしれないが、元来養育の力量にばらつきのある親たちに養育の全責任を押し付けることが無理なのである。「児童虐待」や「育児放棄」は―通常は「虐待」に分類されないが、過干渉や過保護も同様―、そうした無理の悲劇的な現れにほかならない。
 女が妊娠した後に婚姻届を出す男女を「出来ちゃった婚」などと揶揄する風潮も見られるが、誰しも「出来ちゃったら親」である。親になるための特別な訓練も、まして免許試験もない。そして重要なことは、子は良い親を選んで産まれ出ることはできないということである。
 となれば、社会に生まれ出た子は基本的に社会が養育すべきだということも、見やすい道理と理解できるのではないか。ただし、この場合、社会は子どもたちを将来の労働力として養育するのではなく、何よりもまず社会的な「人間」として、そして社会の担い手たる素養を備えた将来の「市民」として養育するのではあるが。

◇義務保育制
 「子どもたちは社会が育てる」という共産主義的原則がライフコースの中で最初に現れるのは、義務保育制である。今日、資本主義諸国でも義務教育制は普及しており、その限りで「子どもたちは社会が育てる」は資本主義の下でも中途半端には実現されていると言える。
 しかし、「鉄は熱いうちに打て」のたとえどおり、就学年齢前の保育は社会的な人間の育成という点では、教育に匹敵する重要性を持っている。そこで、教育のみならず、保育に関しても全員の義務とする必要性は高い。
 この義務保育制は生後6ヶ月から後で述べる一貫制基礎教育(義務教育)の就学年齢(標準では6歳)に達するまでの全乳幼児に適用される。その保育内容は単なる託児とも、いわゆる“英才教育”とも違う。“英才教育”とは子の本来的な適性や趣向を無視した親の自尊心を満たすための、こう言ってよければ親による子の可能性の搾取にほかならず、まさに子どもの私物化の表現なのである。
 義務として課せられる保育は、上述したように社会的な人間の育成を目的とする早幼児養育であって、単なる福祉ではないが、“英才教育”でもない。従って、その内容としても、まずは社会性の本質である対他関係、すなわち不和・対立といった否定的な関係をも含んだ他者との関わり方を身につけさせることに主眼が置かれる。
 とはいえ、保育には託児という生活福祉的要素も認められるため、義務保育を担うのは生活関連行政に当たる市町村となる。市町村は当然、管内の全該当乳幼児を受け入れられるだけの保育所を用意しなければならないが、前章でも見た「財源なき福祉」と同様に、およそ財源から解放される共産主義社会にあって、市町村が必要な数の保育所を用意することは十分に可能である。いわゆる「待機児童」が生じる余地はない。

◇地域少年団活動
 「子どもたちは社会が育てる」という原則は、一般に公的な教育機関を通じた教育という形をとるが、そうしたフォーマルな教育だけでは社会性を備えた人間の育成には限界がある。そこでよりインフォーマルな教育として地域をベースとした「地域少年団」が導入される。
 これは社会性の育成において最も重要な満7歳から15歳までの子どもたちを対象に、地域で年齢混合・男女混合の少年団を編成し、所定の訓練を受けた指導員の下、週末や祝日を利用して、月2回の割合で行う野外活動である(宿泊を伴う場合と伴わない場合とがある)。その目的は、社会性の本格的な発達が促進されるべき年代の子どもたちを対象に、義務教育では限界のある社会性教育を施すところにある。
 核家族化―その基本線は来たるべき共産主義社会でも変わらないであろう―の相関現象でもある少子化は、全般にきょうだいが少ないか一人っ子の子どもたちを増やし、生後最初の対他関係であるきょうだい関係―「きょうだいは他人のはじまり」―を通じて社会性を身につける機会を大幅に減少させていることから、地域をベースとして言わば「擬似きょうだい関係」を形成するのが地域少年団だと考えれば、その趣旨が読み取れるかもしれない。
 そうした趣旨に照らして、該当年齢の子どもたちは、医学的な理由から参加が困難な場合を除き、全員参加を義務付けられる。その活動内容は教科学習やスポーツのような技芸でもなく、自然観察などを通じて自然環境の中で自由に遊ぶ形式で、インフォーマルながら環境教育を兼ねたものとする。
 その実施主体は保育と同様に、市町村である。市町村では地区ごとに少年団を編成し、指導員を養成・配置する。第4章でも言及し、本章でも改めて詳しく触れるように、基礎教育課程の運営は中間自治体としての地域圏のレベルで担われるため、市町村は保育のほか、こうしたインフォーマルな教育の分野に注力できるのである。

コメント

犯則と処遇(連載第45回)

2019-05-02 | 犯則と処遇

38 矯正保護委員会

 真実委員会の審決では、委員会が証拠から認定した事実関係だけが示され、特定された犯行者に対する処遇については言及されない。そこで、真実委員会の審決はいったん人身保護監に提出され、人身保護監は犯行者として特定された者から意見を聴取したうえ、事実認定に不服がなければ事案を矯正保護委員会に送致する(不服がある場合の対応手段については後述する)。

 矯正保護委員会は、真実委員会とは完全に別個の司法機関であって、いずれも矯正員や保護観察員、矯正科学の研究者等、矯正や保護観察に関する知見を有する三人の委員から構成される。その任務は、真実委員会が認定した事実をもとに、犯行者として特定された者に対する具体的な処遇を決することにある。  
 このように、矯正保護委員会は矯正保護の専門家のみで構成された司法機関であり、犯行者の犯行内容や犯歴、人格特性、心身の病歴などを科学的に審査した上で、最適の処遇を決定する。  
 
 矯正保護委員会の審議は非公開で行なわれるが、被審人は法律家または矯正保護に関する専門知識を有する有識者を付添人として補佐させ、自らまたは付添人を通じて意見を述べることができる。

 矯正保護委員会は審議に際して、真実委員会で採用された証拠を利用することができるが、処遇を決するのに必要な限度で、新たに鑑定を実施したり、新たな証人を喚問するなどして、新証拠を収集することができる。
 ただし、真実委員会が認定した事実関係に変更を加えることはできない。矯正保護委員会はあくまでも真実委員会の事実認定を前提とした処遇の決定に特化した機関だからである。  

 矯正保護委員会の決定は委員会と被審人との合意という形で示され、被審人の意に反して強制されることはない。ただし、意を尽くして協議しても合意に達しない場合、矯正保護委員会は職権で決定を下すことができるが、その決定に不服のある被審人は、不服審査を請求することができる(詳細は後述する)。

 ちなみに、矯正保護委員会は犯行者に対する処遇の決定のほかに、決定した個々の処遇の実施に関する当事者からの苦情審査も行なう。例えば、矯正員による違法または不当な処遇の訴えがあれば、その内容を審査し、問題点を見出したときは、改善命令を発することができる。その点で、矯正保護委員会は矯正保護に関するオンブズマン的な役割も果たすことになる。

コメント

「逆走」確立のファンファーレ

2019-05-01 | 時評

元号制度を墨守する日本では、好むと好まざるとにかかわらず、歴史的時間は元号と西暦の二つのモードにより二重に区切られることになる。そこで、今般の改元は、元号モードでの新時代のスタートとなる。問題はどのような時代のスタートかである。

複数案から選択された「令和」については、一部で「違和感」も表明されているが、その焦点は「令」の字にあるようである。これが命令的な意味合いを持つため、「令和」は「和を令する」といった権威主義的な意味合いを帯びるという「違和感」である。

ただ、典拠とされた万葉集の該当箇所「初春の令月にして、気淑く風和らぐ」で使われた「令」は命令の意ではなく、「めでたい」を意味する特殊な用法であるし、「和」も「和をもって尊しとなす」の「和」ではなく、そよ風の形容である。典拠どおりに読めば、「めでたく、やわらか」といった趣意となる。

これなら権威主義とは無縁のようだが、天皇の治世と結合された元号は文学的な表現ではなく、そこに何らかの政治的な含意が込められた一種の暗号であるからして、典拠から採取した二文字を選択的に組み合わせることにより、典拠の原意からは離れていくものである。

そういう目で「令和」を読み解くなら、今般改元ではこれまで漢籍に典拠を求めてきた慣例を初めて破り、国書に典拠を求めるという政権の国粋主義的な指向が強く働いたことに鑑み、他案を押して選択された「令和」は典拠の文学的な趣意を離れ、やはり「違和感」が表明するような権威主義的意味合いが暗示されていると読むこともあながち飛躍ではないだろう。

一方で、二つ前の「昭和」の「和」が早くも復活したことからみて、ここには昭和時代―とりわけ明治憲法時代の昭和前期―をめでたき時代―そのような暗示で「令和」を読むこともできよう―として懐古する復古主義的な意図も感じ取れる。このことは、近代内閣史上最長となることがほぼ確実な安倍政権が集大成として目論む改憲とも点線でつながるように思える。

その点、与党自民党は昨年、新たにいわゆる「改憲4項目」を提示し、2020年からの実施を目論んでいるが、これは前文まで根底から書き換える実質的な憲法廃棄の企てをいったん取り下げ(取り消してはいない)、改憲派野党との合意も睨み合わせ、さしあたり4項目に絞り込む部分改憲の形を取ったものである。

まだ正式に国会全体の改憲発議案となっていないばかりか、連立第一党単独での私案にすぎないことから、4項目を逐一論評することは控えるが、自衛隊の憲法明記、非常事態措置、教育費扶助/私学助成の飴をちらつかせた教育の国家管理、道州制に道を開く地方集権制、参議院の与党支配に道を開く都道府県代表制に集約される改憲提案は、いずれも政府権力の増強に資する項目に照準を当てていることは明らかである。

このような部分改憲が、野党が断片化し、対抗力を喪失した巨大与党主導の体制で実現すれば、まさに和を令し、異を排する全体主義的な一党集中体制を確立することに寄与するだろう。そして、それを皮切りに、いずれは悲願の全面改憲へと進む道も開かれるだろう。

筆者はつとに、戦後日本の歩みを時代を逆にたどって戦前期に戻っていく「逆走の70年」として把握した戦後日本史論を公表しているが、「令和時代」は、そうした逆走路線の確立期となるのではと予測している。悲観的な予測だが、令和改元は逆走路線が確立される時代のファンファーレに聞こえる。

コメント