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共産論(連載第40回)

2019-05-27 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

共産主義的文化の特徴はシンプルさ。それはがつがつした「競争」でなく、ゆったりした「共走」の文化でもある。そこでは表現の自由も大きく花咲く。そのわけは?


(1)商品崇拝から解放される

◇「人間も商品なり」の資本主義
 共産主義に固有の文化価値とは何であろうか。このような問いかけは、かつて中国社会を恐怖と混乱に陥れた「文化大革命」を思い起こさせるかもしれないが、歴史上の「文化大革命」とは中国共産党内の熾烈な権力闘争の代名詞にすぎなかった。ここで言う「文化」とは、政治闘争を離れた文字通りの文化である。
 まず対比上、資本主義的な文化価値とは何かを考えてみると、その最大のものは商品価値で間違いない。商品生産を基軸とする資本主義社会では、商品価値は経済的価値であると同時にそれ自体が文化価値でもあるからだ。商品が社会の主人公であり、ほとんどすべての事物がいったん商品という交換価値形態を取らなければ世に出ることはできない。
 人間そのものも商品とみなされる。といっても古典的な人身売買のことではない。人間に対する評価基準全般が以前にもまして「中身」=人間性(言わば人間の使用価値)云々よりも表面的な「スキル」=労働力や、より皮相的な「見た目」=容姿(言わば人間の交換価値)重視になってきている。これも人間=商品化現象の一つの証しである。
 こうした文化価値としての商品価値は大衆によっても根強く信奉されているからこそ、普遍的な文化価値となるのである。大衆自身、商品に何か特殊な力が備わっているかのように感じている。それが商品崇拝である。
 この資本主義的アニミズムの特徴は、交換価値という表面的な値札をあがめるという点にある。偽ブランド品の大量流通はその象徴である。我々は偽物をつかまされると憤慨するが、偽物と判明するまではまがい物の値札に眩惑されているのだ。
 このように、商品崇拝はまがい物の横行―人間の「まがい者」も含めて―に手を貸している。かつてマルクスの論敵であったプルードンは「所有とは盗みだ!」と叫んだが、彼はむしろ「商業とは詐欺だ!」と叫ぶべきであった。ただし、商人=詐欺師なのではなく―文字どおりの詐欺師も横行しているが、かれらは資本主義の主役ではない―、大衆があまりにも商品をあがめ、求めるから詐欺被害に遭う確率が高まるだけなのではあるが。

◇本物・中身勝負の世界へ
 これに対して、共産主義社会では商品生産が廃されることによって商品崇拝にも終止符が打たれる。モノは商品形態を剥ぎ取られて、言わば「モノ自体」として評価されるようになる。前に、共産主義は使用価値中心の世界だと論じたとおりである。
 共産主義とは、モノにせよヒトにせよ、すべてにおいて本物勝負・中身勝負の世界であるため、ある意味では本質が問われる厳しい世界だと言えるかもしれない。
 しかし、商品的仮象の世界に住み慣れている我々も、本当は心のどこかで本物・中身の世界を希求してはいないであろうか。まがい物の商品をつかまされ、まがい者の人間に支配され、人間=商品価値で優劣を判定される社会に住み続けたいという人はそれほど多くはあるまい。
 共産主義社会において言葉の真の意味での「文化大革命」があるとすれば、それは商品価値の文化体系が全面的に転覆されるということである。そのような「文化大革命」であれば、我々を恐怖と混乱に導く代わりに、商品崇拝の罠から救い出してくれるであろう。


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