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共産論(連載第41回)

2019-05-28 | 〆共産論[増訂版]

第7章 共産主義社会の実際(六):文化

(2)誰もが作家・芸術家

◇市場の検閲
 商品価値の文化体系が自由を抑圧する作用を持つこともある。その犠牲的影響が最も大きいのは創作活動の世界である。創作の価値を「売れるか売れないか」、この一点だけで審判するのは一面的であるが、商品価値の文化体系は商品価値への反抗を許さない。
 かくして、文学・芸術生産も商品価値の論理に絡め取られていき、ここでもまがい物が横行する一方、文学的・芸術的価値はあっても作品が売れなければ世に出ることはできず、いわゆるプロフェッショナルの作家・芸術家としては認知されないことになる。
 これに対し、商品価値の文化体系を司る文化産業資本の側からは、売れるかどうか、つまりは大衆の支持を受けるかどうかという評価基準は、純粋に文学的・芸術的価値があるかどうかという評価基準よりも客観的であるとの反論もあり得よう。
 しかし、それは本末転倒の議論である。文化産業資本自らが大衆の支持をマーケティング技術によって作り出しておいて、「売れる」ように仕組んでいるとすれば、たとえは悪いが、自ら放火した者がその火を指してあの赤々と燃えている火は客観的だと評するようなものである。
 たしかに、純粋の文学的・芸術的価値というものは主観的であるから、例えばある創作者の作品Pを評価する人が世界に数人しかいないということもあり得る。しかし数人でも評価する人がいるなら、作品Pには「価値」があると言える。ところが商品として見れば、世界に数人しか買い手がつきそうにない作品Pは、商品価値を認められないから、この作品は世に出ないであろう。
 これが市場によって文学・芸術作品の価値が審査される「市場の検閲」と呼ぶべき作用である。この場合、検閲を司るのは各々の分野に応じて出版社であったり、画商であったり、音楽事務所であったりする。要するに、総体としての文化産業資本である。
 ここで、市場の検閲よりも国家の検閲の方がよほど恐ろしいという反論も聞かれよう。たしかに国家の検閲は強権的であり、しばしば恣意的でもあり、有害なものである。
 この点、共産主義は国家という主体を擁しないないから、論理上国家の検閲も当然あり得ない。そのうえに商品としての文学・芸術生産も廃されるから市場の検閲も消失するのである。これによって何が起きるか。誰もが作家・芸術家、である。

◇インターネット・コモンズの予示
 誰もが作家・芸術家になれるなどと豪語すれば失笑されるかもしれないが、しかしすでにこういう現象は一部先取り的に現実のものとなりつつある。
 インターネットの普及は「売れない」作家・芸術家が自分の作品を商品化することなく世に送り出す手段を与えている。その作品を鑑賞する人がたとえわずかであっても、発表のチャンスは失われない。その作品は無償の共有物として扱われる。インターネット空間がコモンズ(=共有地)とも称されるゆえんである。
 このインターネット・コモンズの世界ではまさにコモンズ(=庶民)が思い思いの表現活動を展開し始めている。もちろん時代はまだ資本主義であるから、そうしたコモンズの自由な作品の大多数は商品価値を認められず、従ってまた創作を「職業」として認知されるチャンスも稀である。それでもインターネットの世界は、共産主義的未来の創作活動のありようを部分的に予示しているように見える。

◇開花する表現の自由
 もちろん共産主義社会でも、作品が公衆の広い支持を受けるかどうかで創作者の評価と知名度に差が出ることは避けられないが、資本主義社会のように作品が商品として商業的成功を収めるかどうかでプロフェッショナルとアマチュアの差が分かれることはもはやなく、そもそもプロとアマの境界自体があいまいになっていくであろう。このことは、根本的な次元で、名実ともに表現の自由が確立されてくることを意味する。
 今、“リベラル”な資本主義社会では国家の検閲制度は廃止され、おおむね表現の自由の法的な保障は与えられているが、現実には市場の検閲という壁が厚く立ちはだかり、事実上表現の自由は商業的成功を収めた一部プロの「表現特権」と化している。
 これまた国際常識に反することかもしれないが、共産主義社会においてこそ、表現の自由が本当の意味で開花する。そう宣言してもよい。

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