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共産論(連載第36回)

2019-05-13 | 〆共産論[増訂版]

第6章 共産主義社会の実際(五):教育

(3)大学は廃止・転換される

◇知識階級制の牙城・大学
 各国で高等教育体系の頂点に立つ大学こそ、知識資本制の土台の上にそびえる知識階級制の牙城である。資本主義の下で大学が知識階級制の牙城となっているのは今日、大卒学歴は資本主義社会が提供する収入の高い職種のほとんどすべてで事実上要求されているからである。
 資本企業の経営者層も今日では創業家の世襲よりは経営幹部候補の上級労働者層―言わば資本企業版ノーメンクラツーラ(幹部候補者名簿)―の中から抜擢されるようになっているが、この上級労働者の認証資格も大卒またはその上位の大学院修了とされていることがほとんどである。
 そのうえに、大学間に序列のある諸国ではより序列の高い大学の卒業証書を獲得することが優良資本企業幹部への道を保証するため、子どもの時分から「一流大学」をめざす競争に親子ともども狂奔することになる。
 現在、こうした大学というゴールへ向けての記憶力‐反応性教育のシステムが最も発達しているのは、大学制度本家の西欧以上に、西欧から大学制度を移入したアジア諸国である。
 そこでは記憶力‐反応性をテストするための試験制度が幅を利かせているが、その頂点に大学入試がある。大学入試を突破することこそがまずは人生前半の大目標となり、それが達成されなければ、よほどの幸運に恵まれない限り、生涯一般労働者で終わることを覚悟しなければならない。そして、家庭の教育投資力が十分でない一般労働者階級の子弟はそうした覚悟を人生の早い段階で決めざるを得ない。
 もっとも、世界にはさほど明瞭に学歴に基づく知識階級制が固着していない国もあるだろう。しかし、大学が知識階級制の牙城である限り、それは本質的な差異ではない。そういうわけで、共産主義的教育革命では大学が第一の標的となる。すなわち共産主義は大学制度を廃止する。

◇学術研究センター化
 大学制度廃止などと宣言すれば、やはり知識人抹殺をたくらむクメール・ルージュの再来かと警戒されるかもしれない。しかし決してそうではない。大学を廃止するといっても大学教授たちを収容所送りにするわけではなく、大学を研究機関の集合体としての「学術研究センター」(以下、単に「研究センター」という)に転換するだけである。
 現在の大学も研究機関としての性格は持っているものの、その基本性格はあくまでも教育機関である。この二面性ゆえに、大学教員の過重負担、研究時間の不足を嘆く声も聞こえる。大学の研究センター化はこの状況を変え、研究者が本来の研究活動に専念できる環境を与えてくれるであろう。これなら収容所送りどころか、楽園送りではあるまいか。
 同時に現在、「産学連携」の名において大学が資本の従属下に置かれつつある状況をも変え、より対等かつ相互的な「学産協同」を可能にするであろう。例えば、先進的な環境技術開発をサポートする環境工学や新しい共産主義的生産組織の経営方法を考究する共産主義経営学、賃労働制廃止後の労働のあり方を省察する労働人間科学などの新しい学問分野で、研究センターと生産現場との協同が期待されるのである。
 また資本主義的産学連携と政府による研究助成名目の選別化の中で淘汰されがちな基礎科学研究分野や哲学・文学などの人文系分野も、大学の研究センター化によって再生される可能性が生まれるであろう。一方で、大学の研究センター化は一般市民向けの学術講演会やシンポジウムなどの開催をより活発化し、学術の一般普及に貢献する余地をも広げる。
 こうした大学の研究センター化は私立大学を含めて一斉に実行され、旧国公立大学については社会的所有法人型の研究センターとして公共的な性格を保持していく。
 これに伴い、従来は大学及び大学院が担っていた研究者養成は各研究センターが自前で担うことになる。すなわち各研究センターはそれぞれ独自の方法と条件で研究生を公募・採用し、センター内の固有の養成プロセスを通じて研究者を養成していく。この研究生選考は従来の大学入試をはじめとするアドミッションとは異なり、研究志望者の「就職」の一種であって、純粋に研究者養成に特化した選考システムである。
 なお、医学系、法学系、教育学系などのように高度専門職の養成を担ってきた大学(学部)または大学院課程はそれぞれ医学院、法学院、教育学院といった「高度専門職学院」として研究センターから独立させることで、より実践的な専門職養成が期待できるようになる。

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