波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「ボリビアに生きた男」   ④

2019-06-10 10:22:32 | Weblog

彼もまた人の子であった。人一倍努力もし頭もよかった。そして立身出世を望んでいた。しかし人の運命はその人の思い通りにはいかない。管理職になり人の上に立って仕事ができるようになった時、突然与えられたのは南米はボリビアの事務所の責任者であった。彼の運命はそこから彼の思いとは違った方向へと進んでいったのかもしれない。当時は日本を離れて仕事をすることは家族との別れを思わせ水杯きほどの重さがあった。羽田からの出発には大勢の社員の見送りがあり、万歳の歓声が上がっていた。彼もまた小さかった二人の子供を置いての旅たちであり、複雑な思いの中での決心であったであろう。私との交わりが始まって最初に聞いた話は、ここでの10年以上生活したボリビアでの話であった。外国は台湾だけ始めていったことはあったが地球の裏側になる標高4千メートルの南米の話となると想像もつかない、珍しくまた大きな驚きと好奇心をもたらすものであった。上京し仕事を済ませて郊外にある彼の自宅へ送ると夕食をご馳走になりながら聞かされる話はボリビアの珍しい話で、それは私の好奇心を掻き立ててまるでおとぎ話を聞くように楽しかった。彼は江戸っ子の特有の歯切れのよい口調で何のこだわりもなくすべてを正直に話してくれた。私は話が始まるたびに「今日はどんな話題か?」と興味津々であった。中でも印象に残っているのは「手帳」だ。彼の手帳にはその日の事項が記されているのだが、それが一言一句正確なスペイン語である。「これだと日本では誰に見られても簡単には分からないように」というのが説明だったが、克明に描かれた分厚いその手帳は素晴らしい宝物に見えたものだった。現地での生活は日本人の大半は高山病の影響を何らかの影響を受けて普通の生活に適さないことが多い。どんなに頑丈な肉体でも血液の免疫が合わないと活動ができない。また一日の気温が零度から30度近くまで変化することなど日本では考えられない世界だ。そんな話の中で彼がぽつんと寂しそうに語り始めた。「ママ、あのおじさんいつまでいるの」