波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

波紋       第47回

2008-12-08 09:53:45 | Weblog
トレッキング、聞きなれない言葉に戸惑っていた松山は名越の話を聞いているうちに何となく分ってきた感じだった。本格的な登山と違って、気軽に登る山登りのことらしい。しかし、そうは言っても普段の服装と言うわけには行かない。
頭の先から足の先までトレッキング用の支度が必要である。自然を相手の、場合によっては野宿も想定した準備も必要である。勿論コースもどこでも良いというのではなく、トレッキングコースが決められているようである。名越は週末になると、これを楽しんでいたらしい。しかし、それにしても何か動機があったはずだ。
松山はそれとなく、聞き出そうとしたのだが、その辺の話になると、はぐらかされてしまう。そのうち、名越の家族の人と話しているうちにその謎が解けた。
群馬の工場の従業員の女性と親しくなり、その女性の趣味であったトレッキングに誘われて夢中になったのだとの事。それから、何かと言うと、彼女と行動を共にするようになり、仕事以外には家にも帰らないのだと言う。そういうことか、松山は改めて納得するところとなったが、それもいいだろうと思っていた。少なくても
彼は無趣味で、酒も飲まず、(マージャンぐらいだったが、メンバーがいなくなり、出来なくなった。)淋しい生活だった。一度ゴルフを誘って近くの練習場へ出かける約束をした事があったが、いざとなると渋って、結局駄目になったことがある。家庭を犠牲にしていることは決してほめられないけど、過去の経緯から今に始まったことでもなく、年もとってきて、今の女性と落ち着くなら、それも仕方の無いことかなと、他人事であったが、本人は生き生きとしていた。
仕事も順調であり、楽しそうであった。月に一回の名越との出会いは続いていたのである。ある年の二月、寒い時だったが、そろそろ会って、食事でもして近況を話そうと思っていたら、名越の奥さんから電話が飛び込んできた。
「名越が脳梗塞で倒れて、出先から救急車で運ばれてきました。しばらくお会いできなくなったので、お知らせします。詳しいことはまた後ほど」寝耳に水であった。週末から出て行って、連絡も無く、いつものことと誰も心配もせず、気にもしないでいたのだが、出先の女性から知らせが合ったらしい。
絶対安静らしく、様子が全く分らないまま彼との連絡は途絶えてしまった。
そして、一ヶ月くらい過ぎた頃、奥さんから電話があり、「松山さんにお話したいことがるので、来てほしい。」と呼び出されたのである。
「好事魔多し」と言うことも聞くけど、あの元気な彼がと思うと、人間は絶対は無い、弱いものだと言うことをつくづく思わされた。

波紋      第46回

2008-12-05 10:04:25 | Weblog
名越には人に言えない事があった。それは今までの人生でいつの間にか身についてしまった習慣のようなものであった。単身赴任の生活が長いと言うこともあり、知らず知らずに、それが悪いことだとも思わなくなっていた。家族の事があまり気にならない。休みになっても家に帰る気がしない。それは仕事に夢中であったこともあるが、性格もあるかもしれなかった。家族からも連絡はなかったし、気も楽であった。妻の方もそんな主人の態度を咎めもせず、そんな人かと割り切っていて自立して、二人の子供を育て生活していたのであった。
そんな毎日を過ごしているうちに、勤務先の従業員と話をするようになる。その中にはバツイチの女性や様々な境遇の人がいて、話をするようになる。彼は酒が飲めないから、食事をしながら、(相手の女性は適当に飲んでいるのだが)
だらだらと話し込んでいる。そのうち、お互いに淋しさを埋めあうように男女の関係になっていく。それは誰も止められない、合意の行動であり、ましてさしたる愛情でもない。なりゆきであり、淋しさであり、その時の衝動的な行為なのであろう。それは大げさにはならず、お互いを拘束するものでもなく、その時だけの出会いのようなものであった。
あちこちと会社を変わる度に、そんな場面は展開し、繰り返されていた。名越はそんな生活をしているうちに家庭を捨てた、自由な人生を一人で歩き始めていたのである。偶に帰っても、それは当に義務的なものであり、父親として、主人として
家族に迎えられるのではなく、信頼関係の薄い、(社会的な表面だけの仮面家族)
存在だった。そんな生活に区切りをつけた今回の出発だった。
千葉で工場を開業し、毎日、家族と生活をするようになり、従来の家庭に戻ったかに見えていた。新居を立て、子供たちにも新しい家庭が出来、それぞれが自立した形に見えていたが、名越は外食で済ませ、(妻は彼の面倒は見ていない。)
時折、息子や娘の家で食事をする程度であった。
週末になると、ぶらっと誰にも、何にも言わずに出かけてしまう。松山がある時、聞いたことがあった。「名越さん、お休みはどうしていらっしゃるのですか。」「友達がいてね。マージャンをしに行くんだよ。」と言っていたのを思い出した。
そしてある時「松山君、トレッキングって知ってる」聞きなれない言葉に、松山は戸惑った。「トレッキング?聞いたこと無いですね。何ですか。」「今、これにはまっているんだ。」と言いながら、アルバムを出してきた。
そこには、山登り風のスタイルをした彼が、ある山の風景をバックにした立ち姿であった。「結構、楽しいもんだぜ」写真を見ながら話す彼はとても生き生きと楽しそうであった。

思いつくまま

2008-12-03 09:34:34 | Weblog
11月4日、アメリカの新大統領に民主党のバラク・オバマ氏が選ばれた。黒人として選ばれたことも初めてである。日本でも9月に新総理が着任している。
しかし、この二人の国を代表する人を比べる時、何か大きな違いのような違和感を感じるのは何故だろうか。
一つには、アメリカの場合、国民の一人一人がこの選挙に参加し、熱心に勉強し、その選択を決断した経緯があるが、日本の場合は、解散総選挙をしないで、議員による選びと言う経緯であったことがあるかもしれない。
もう一つは、その代表者の決意表明にその信念が明確にされていることである。
オバマ氏はその決定した勝利宣言の中で「私たちの生涯の中で最大の挑戦が明日から始まる。……今後の道のりは険しい。一年、いや一期かけても其処へ辿り着けないかもしれない。」と言っている。「私たちの」であって、「私の」ではない。
つまり、みんなで挑戦していきましょうと呼びかけているのである。まして、すぐよくなるとも言っていない。その謙虚な姿勢はオバマ氏の人柄を証明し、それが
アメリカの国民を動かしたといえないだろうか。
様々な民族の集まりであるアメリカの国民が、こうして立ち上がった姿に希望と期待を持ちたいと思う。
日本の場合、残念ながら私の耳に残った言葉は無かった。それは確かに大切な正しい内容であったと思われるが、あまりにも表面的なことであり、その人の言葉として伝わらなかったのである。(私だけかもしれないが、)
アメリカの存在は、世界ではやはり大きいと言わざるを得ない。アメリカが立ち直ることが、世界を変えていくことにつながる。そのためには大きな障害がいくつもある。それを越えていくことは挑戦しかない。
今、世界は中国を始め、どの国も経済の発展、文化の向上、とあらゆる分野で、目覚しい発展を遂げつつあることはとても喜ばしいことである。
しかし、よく見ると、まだまだ多くの問題を抱え、悩みもあるのである。それは
各国が各々の責任で果たしていかなければならないことなのだが、その国の国民一人一人に責任がある。まして、その国の行政を司る決定機関そしてその代表者に
よる影響は大きい。そのことを考えて選ばなければならない。
アメリカの国民がオバマ氏を選んだことを機会に私も国民の一人として、反省し、
考えさせられたのである。

波紋     第45回

2008-12-01 12:00:55 | Weblog
樹脂の成型の仕事だ。あちこちと会社を渡り歩いて辿り着いた感じもするが、本来名越はこんな仕事を自分でやりたいと思っていたのかもしれない。二人でしみじみ話し合ってみると、彼の勤めた会社は12社にも及んだのである。
しかし、どの会社でも、不正を働いて首になったのではない。会社の都合で止めざるを得なかったり、自分の都合で面白くなくて(意に沿わなくて)止めたところもある。しかし、どの会社も彼を採用したことは其処に彼の才能を認め、其処に大きなメリットを認めたからで、いい加減なものではなかった。後年、彼の働いていた会社を訪ねたことがあったが、其処の責任者の感想では「彼は素晴らしい才能があって、必要に迫られたり、新しい発想が生まれると、こつこつと一人で工夫し、それを仕上げていくことが出来た。これは彼の作った作品ですよ。」と一つの備品を見せられたことがある。松山は彼について誤解をしていたことを反省し、悪く思うことが正しい見方ではないとつくづく感じていた。
名越はその後そのオーナーの株を買い取り、事実上その会社の持ち主となった。
その誠実な仕事振りが反映して、事業は順調だった。そして横浜から千葉へ移転して、本格的に会社を拡大し、伸ばすことになった。松山もそのお祝いに招かれ、工場開きに参加した。従業員も増えて仕事も増えていた。松山は訪問するたびに彼が成長していく姿を見て、羨ましく思い、自分も事業を持っていたら、サラリーマンとは違った人生を送っていたかもしれないと考えていた。
「松山君、今度新工場を始めることにしたよ。新市場を目標に群馬のほうへ出ることにしたんだ。今度、招待するから、群馬工場のほうへ来てくれよ。」と言われた。招待を受けた松山は近くの温泉で汗を流し、馬肉の刺身をご馳走になりながら将来を語り合った。彼は元気だった。元々酒は飲まないので、その分食欲旺盛で、健啖家であった。どこそこにおいしいものがあると聞くと、そこまで行って食べるのが趣味だった。千葉の本社工場と、群馬の工場の掛け持ちが始まった。
しかし、彼には誰にもいえない悩みがあった。長い間、家を空けて、単身赴任を繰り返していたこともあって、家族はばらばらになっていた。奥さんはとっくに主人をあきらめていたようで、二人の間には信頼関係は無かった。松山は個人的に名越の奥さんから相談を受けたこともあったが、どちらともいえないことで、何もすることが出来なくて、ただ話を聞くだけだった。傍に住んでいる娘さんには何とか、両親が元に戻るように努力して欲しいと願ったが、とても無理な話だった。