ある日の新聞のエッセーにこんな記事があった。「或る老夫婦がいた。子供たちが独立して家を出て夫婦は二人きりで暮らしていた。やがて妻は寂しさのうちに庭に迷い込んできた野良猫を見つけ育てることを覚えた。ちょうど桜の咲く頃だったので、その名を「チエリー」とした。主人は無関心であったが妻はチエリーをかわいがり、一日中一緒に過ごしていた。しかし妻はやがて不治の病にかかり入院をすることになった。チエリーを連れていくことも出来ず、主人は毎日見舞いに行ったが、病気はよくならずついにホスピス病棟へと移されるようになってしまった。次第に弱っていく姿を見かねた主人はある日、見舞いにチエリーをケージに入れて連れていくことにした。内緒で妻に合わせると妻は大喜びで病気もよくなったかのように元気な様子であった。主人はこんなに喜ぶ姿を見るとは思わずチエリーとの時間を大切にすることを考えた。しかし妻はその後治療の可否もなく天国へと旅立った。一匹の猫の存在がその人の大きな支えとなり、生きがいになっていたことを表すエピソードとして読んだのだが、人の存在はこのように弱く淋しいものなのである。一人で会っても二人で会ってもそこに心の本当の結び愛がなければ支えられないほど弱いものであることが分かる。
どんなに外面的には強く見せても、いざとなれば一人であり、その力も限られている。だからこそ苦しい時、淋しい時、悩んで不安な時、そんなときに支えられるものが欲しいのである。慰めがいるのである。チエリーはその人にとってそんな存在だったのだろう。
生きている以上、人はそれぞれそんな悩みと、不安の中にある。だからこそ一人一人がその支えとなり「隣人を愛する」心をいつも持っていて、どんな時でも、どんな倍でも自分のできる支えとしての役目を持っていなければならないのだと考えあさせられてのである。
どんなに外面的には強く見せても、いざとなれば一人であり、その力も限られている。だからこそ苦しい時、淋しい時、悩んで不安な時、そんなときに支えられるものが欲しいのである。慰めがいるのである。チエリーはその人にとってそんな存在だったのだろう。
生きている以上、人はそれぞれそんな悩みと、不安の中にある。だからこそ一人一人がその支えとなり「隣人を愛する」心をいつも持っていて、どんな時でも、どんな倍でも自分のできる支えとしての役目を持っていなければならないのだと考えあさせられてのである。