波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

「死生観について考える」

2020-10-12 14:00:16 | Weblog
東京を離れて、今の住まいに来て10年が過ぎた。誰も知らないところで暮らし始めたが何時の間にか「ジジババ会」のようなものが出来て、誘いを受けて食事会に出て新しい仲間が出来ていた。みんなかなりの年配であるが、元気で車で「イチゴ狩り」に行ったり、紅葉狩り見物をしたりとできる範囲で楽しい思い出作りが出来ていた。然しそれも長く続かなかった。やがて体が悪くなる人がぽつぽつと出てきて、最初の仲間の3人が残っていた。そのうちの一人が突然「心筋梗塞」で亡くなり、あとに残された3歳上の隣人と私だけになった。その彼も最近姿を見ないと思っていたら、入院しているという話が入り、何時の間にかまた元の「独りぼっち」の状態になっていた。私とて何時どうなるかわからないが、これだけは自分でもわからない。
「死」を受け入れることを覚悟しておかなくてはならない。私の人生を振り返る時、私自身の記憶でも二度の仮死体験を覚えている。一つは「5歳ぐらいの時に3階の物干場から裏の路地へ転落、母親の手に抱かれて失神、もう一度はクリスマスの祝会の後、ほっとしたのか、突然気を失い倒れた。気が付いたら救急車の中で、盛んに名前を呼ばれていた。その間約10分近く過ぎていた。二度とも検査の結果は特別な影響もなく(わからないのだが)
今日まで過ごしてきた。こうして考えると人は何時どうなるかわからないし、自分ではどうすること御できな存在であることが分かる。従って、その時をいつでも迎えられる覚悟を詞と置くべきであろう。パウロという人は「生きるも益、死ぬもまた益」と自分の信ずる信仰に生きたといわれているが、
誰もが生きている以上、死をどのように迎えるかを生きているうちにしっかりと身に着けておくことが大事だと、考えさせられるこの頃である。