波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

  オショロコマのように生きた男  第5回

2011-06-24 09:40:28 | Weblog
数日会社を休みごろごろして考えてみたが、良い考えも浮かばずそのまま辞表を出して
会社を辞めることにしてしまった。それには今の仕事への情熱がなかったこともあったし
自分の思うことが出来ない不満もあった。若さもある。仕事なんかその気になれば何とかなる。辞めることへの悲壮感は無く、気楽であった。唯一つだけ、それはあの女主人に会うことが出来なくなる事だけが心残りだった。「そうだ、一回挨拶がてら顔を出してくるかな」ちょっと照れくさい気持ちもあったが、どうしてももう一度会ってみたいという未練が強かった。会社へは何の遠慮もなくなったので、その日はいつもの仕事着ではなく、少しお洒落なスタイルで出掛けた。店はいつもの様子と違っていて、「休業中」の看板がかけてあり、戸が閉まっていた。どうしたのかと夢中で母屋の方へ回り、玄関で声をかけてみた。暫く玄関前に立っているといつもの女主人がひょっこり顔を出した。
「こんにちわ。いつもお世話になっています。どうしたんですか。お店が閉まっていたんでこちらへ廻ったんですけど」「野間さん、何時もお世話様ね。実は突然なんだけど、主人が交通事故で亡くなったもんだから、ちょっと落ち着くまで店の方をお休みしているのよ。」「そうだったんですか。ちっとも知らなくすいません。遅くなりましたけどお悔やみ申し上げます。」「ありがとう。それよりも野間さんこそどうしたの。今日はいつもと様子が違うけど何かあったの。」「いやあ、特別なことが合ったわけじゃないんですけど
会社で喧嘩しちゃって、自分から辞めちゃったんですよ。それでどうしてもこちらだけはお世話になったので、挨拶をと思ってきたんです。今、風来坊です。良い仕事が合ったら紹介してくださいよ。」と言って笑った。「そうだったの。若いわね。でも今のうちだからくよくよしないで思ったとおり何でもやったらいいわ。そう、じゃあ今日は仕事じゃないのね。ゆっくりしていらっしゃい。私ちょっと着替えてくるから待ってて」そのまま
奥へ入って行く。特別用事は無いのだから後は成り行きだった。どうなっても良いやと
待っていると外着に着替えた女将が出てきた。その様子はいつもとがらっと変わり、一段と美しく輝いて見えた。「さあ、出掛けましょう。私も気持ちがくさくさしていたところだったので、ちょうど良かったわ。美味しいものでも食べましょう。あなたはどうせ飲めないんでしょうけど」知らないと思っていた女将が、何時の間にか宏の酒の飲めないことを知っていたのだ。