変貌する経済 軍事化の足音③ 自社史料館 魚雷を自慢
三菱重工業の長崎造船所本工場(飽の浦町)の真ん中に、「原子爆弾の爆風にも耐えて」残ったという赤れんがの建物があります。
かつては造船所の鋳物工場に併設された「木型場」でした。現在は三菱重工長崎造船所の史料館として公開されています。

「輝かしい偉業」
入り口の外壁に、史料館の目的を彫り込んだ金属板が貼り付けられていました。
「長崎造船所が日本の近代化に果たした役割と、先輩諸賢の輝かしい偉業を、永く後世に伝えんとするものである」
史料館の内部には白黒写真や工作機械が並びます。
その一角に、戦前建造の艦艇コーナー、戦艦武蔵コーナー、戦後建造の護衛艦コーナーがありました。
建物の奥には「91式魚雷」の模造品が置かれています。全長5メートル47、重量850キログラムという大きさです。
付属の説明書には「命中率及び破壊力ともに世界に冠たる性能を有していた」。
三菱重工がたたえる長崎造船所の「輝かしい偉業」は、破壊と殺りくのための武器製造を含んでいるのです。
第2次世界大戦中、長崎市北部にあった三菱重工の長崎兵器製作所が魚雷をつくっていました。航空機から投下する91式航空魚雷は真珠湾奇襲攻撃にも使われました。米海軍の主力戦艦アリゾナは二つに裂けて沈みました。
1945年8月9日、その長崎市北部に米軍が原子爆弾を投下しました。爆心地に近い三菱重工の長崎兵器製作所と長崎製鋼所は「一瞬にして壊滅」(『三菱の百年』)しました。労働者3679人が死亡し、7819人が重軽傷を負いました。
長崎造船所本工場も「動力源は全滅、工事はまったく麻痺」(『長崎造船所150年史』)しました。長崎市北部は廃虚となりました。
アジア・太平洋地域の人びとに大惨害をもたらした日本の侵略戦争は、日本本土が焦土と化して終わりました。

三菱重工業長崎造船所の史料館に展示されている「91式魚雷」の模造品=10月6日、長崎市内
「省みて恥じず」
45年8月14日に日本が受諾したポツダム宣言の第11項は「再軍備を可能にするような産業は許されない」と記し、日本の武器生産を禁じました。
日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、三菱、三井、住友、安田など侵略戦争を支えた財閥の「解体」を指令しました。三菱本社は46年10月に解散し、本社と被支配会社の役員が総退陣しました。三菱重工は50年1月に東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業に3分割されました。
しかし、日本を「反共の防壁」にするというアメリカの政策転換により、軍需産業は息を吹き返します。
今日、三菱グループは侵略戦争に協力した歴史をつゆほども反省していません。その姿勢は、財閥解体に抵抗した三菱本社の岩崎小弥太社長(当時)の「考え方」を引用した『社史』が象徴しています。
「三菱は創業以来、国家社会に対して積極的に寄与することを根本信条としている」。「戦争遂行に全力を挙げて協力したが、これは国策に従って国民のなすべき当然の義務を果たしたものである」(『続三菱重工業社史』)
「省みてなんら恥ずるところはない」(『三菱の百年』)(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2014年11月12日付掲載
三菱重工業の自社史料館には、靖国神社の遊就館さながらの武器展示のオンパレードなんですね。
国策によって戦争協力したことに、「省みてなんら恥ずるところはない」とは、なんとも厚かましい。
三菱重工業の長崎造船所本工場(飽の浦町)の真ん中に、「原子爆弾の爆風にも耐えて」残ったという赤れんがの建物があります。
かつては造船所の鋳物工場に併設された「木型場」でした。現在は三菱重工長崎造船所の史料館として公開されています。

「輝かしい偉業」
入り口の外壁に、史料館の目的を彫り込んだ金属板が貼り付けられていました。
「長崎造船所が日本の近代化に果たした役割と、先輩諸賢の輝かしい偉業を、永く後世に伝えんとするものである」
史料館の内部には白黒写真や工作機械が並びます。
その一角に、戦前建造の艦艇コーナー、戦艦武蔵コーナー、戦後建造の護衛艦コーナーがありました。
建物の奥には「91式魚雷」の模造品が置かれています。全長5メートル47、重量850キログラムという大きさです。
付属の説明書には「命中率及び破壊力ともに世界に冠たる性能を有していた」。
三菱重工がたたえる長崎造船所の「輝かしい偉業」は、破壊と殺りくのための武器製造を含んでいるのです。
第2次世界大戦中、長崎市北部にあった三菱重工の長崎兵器製作所が魚雷をつくっていました。航空機から投下する91式航空魚雷は真珠湾奇襲攻撃にも使われました。米海軍の主力戦艦アリゾナは二つに裂けて沈みました。
1945年8月9日、その長崎市北部に米軍が原子爆弾を投下しました。爆心地に近い三菱重工の長崎兵器製作所と長崎製鋼所は「一瞬にして壊滅」(『三菱の百年』)しました。労働者3679人が死亡し、7819人が重軽傷を負いました。
長崎造船所本工場も「動力源は全滅、工事はまったく麻痺」(『長崎造船所150年史』)しました。長崎市北部は廃虚となりました。
アジア・太平洋地域の人びとに大惨害をもたらした日本の侵略戦争は、日本本土が焦土と化して終わりました。

三菱重工業長崎造船所の史料館に展示されている「91式魚雷」の模造品=10月6日、長崎市内
「省みて恥じず」
45年8月14日に日本が受諾したポツダム宣言の第11項は「再軍備を可能にするような産業は許されない」と記し、日本の武器生産を禁じました。
日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、三菱、三井、住友、安田など侵略戦争を支えた財閥の「解体」を指令しました。三菱本社は46年10月に解散し、本社と被支配会社の役員が総退陣しました。三菱重工は50年1月に東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業に3分割されました。
しかし、日本を「反共の防壁」にするというアメリカの政策転換により、軍需産業は息を吹き返します。
今日、三菱グループは侵略戦争に協力した歴史をつゆほども反省していません。その姿勢は、財閥解体に抵抗した三菱本社の岩崎小弥太社長(当時)の「考え方」を引用した『社史』が象徴しています。
「三菱は創業以来、国家社会に対して積極的に寄与することを根本信条としている」。「戦争遂行に全力を挙げて協力したが、これは国策に従って国民のなすべき当然の義務を果たしたものである」(『続三菱重工業社史』)
「省みてなんら恥ずるところはない」(『三菱の百年』)(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2014年11月12日付掲載
三菱重工業の自社史料館には、靖国神社の遊就館さながらの武器展示のオンパレードなんですね。
国策によって戦争協力したことに、「省みてなんら恥ずるところはない」とは、なんとも厚かましい。