きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

和の文化再生むけて 町のありようを考える

2010-02-27 20:29:43 | 赤旗記事特集
魅力いっぱい 西陣の巨町家④
和の文化再生むけて 町のありようを考える

 町家の構造についてお話しいたします。今日見かける町家が姿を現すのは元禄時代後期と考えられています。
◇京町家の定型
 町家の平面図をご覧ください。経済力をつけた町衆の家は、店も立派になり、元々空き地だった家の裏の部分に客人を迎える店玄関、内玄関、居問、座敷、座敷庭が設けられてゆきます。
 茶の湯文化の庶民への普及と相まって、市中の山居と呼ばれる趣のある作庭や、四季折々の室内の装飾がなされてゆきます。隠居が居住まいをする離れ座敷が庭の奥に設けられ、その奥には商品や建具、家財をしまっておく蔵が建てられます。
 家屋内の一方に玄関から奥蔵へと続く通り庭と呼ばれる一筋の通路が走り、それに沿って一方に部屋列が、反対側に井戸、台所、手洗いが造られます。こういった構造の家屋が京町家の定型といわれているものです。




◇うなぎの寝床?
 京の町家は、間口が狭く奥行きが深いところから「うなぎの寝床」に例えられます。この言葉が生まれたのは寛永(1624年~43年)のころとされています。当時は3間(1間は約1.8メートルの間口で一軒分の税(一軒役)が課せられました。ですから多くの庶民はできるだけ間口をせまく家を建てることにした、と、上京税務署編集の「京都と税の歴史」には解説されています。






◇地場産業振興も
 1998年度に京都市が大規模に実施した外観調査では、上京、中京、下京の各区の街区に約2万5千軒の町家が確認されました。昨年12月の新聞報道によると、町家がこの5年間で1割減少したうえ、内部がすっかり洋風化されていました。
 その背景には和文化の危機があると思います。外見から見た保存がよく語られますが、これは映画のセットであり文化の継承にはなりません。構造物を生業のなかで保つことができる、多様な地場産業を再構築する必要があるのではないでしょうか。
 11年前の調査を前後して、京町家を守る活動組織が数多く生まれました。その一つ、織り染め職人さんらが結成したNPO法人「京・ものづくり塾 和らいふ」は、京都の町の歴史と文化を踏まえ、西陣織産業の再生や良好な住環境整備を考えた町のありようを提案しています。学者や自治会役員さんたちと実行委員会を作ってシンポジウムも開催しています。
 明日を託せる、力強い活動が継続して取り組まれています。
(おわり)

「しんぶん赤旗」日刊紙(2010年2月26日掲載)


 十数年前、京都で日本共産党の人民大学に参加した時、泊まった宿は食事なしのホテルでしたので夕食に町にでました。
 その時、「せっかく京都に来たのだから」と仲間とちょっとリッチにと料亭に入って食事したことを思い出します。1人飲み物を飲んで1万円でした。
 奥の8畳ぐらいの座敷に案内されました。障子窓の外は庭らしくて虫の音が聞こえてきました。
 そんな町家が残って欲しいですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今も残るさまざまな飾り意匠 家並みの統一性にも魅力!

2010-02-26 21:58:40 | 赤旗記事特集
魅力いっぱい 西陣の京町家③
今も残るさまざまな飾り意匠 家並みの統一性にも魅力!

 職住一体型の住居である京の町家は、減少しつづけているとはいえ、2万4千軒~2万7千軒が存在し、京都市内の景観美を維持しています。
◇家並みの統一が
 千両が辻と呼ばれた大宮通今出川(上京区)界隈は、今日も西陣織の中核をなしています。登録有形文化財指定の町家で、商いが営まれています。
 このあたりの町家を外観しますと、さまざまな飾り意匠が目につきます。その連続性を備えた家並みの統一性に魅力のひとつがあります。
 町家の多くは通りに平行して棟木を配する平入り作りです。


◇瓦や窓にも工夫
 軒先瓦は、まっすぐに切り取られた「一文字瓦」を用い、連続性をもった水平線の美しさを演出します。これが波を打っている店とは取引を控えた方が良いですよ、との意味合いを持つこととなります。
 2階の窓は虫籠のようにしつらえられていますので「虫籠窓」、と呼びますが、ぴたっと一致する同じ形のものは、まずありません。家主や職人さんの美意識がそうさせたのかなと思います。
 格子は、光や風を内部に通し、外からは内部が見えにくい特徴をそなえています。職業によって格子のしつらえに違いを生じます。蒸気を生じる食品加工などの職人町家の格子は荒く、ほこりを嫌う職は細かくしたしつらえがされています。
 「犬矢来」は、通りに面した壁、柱の足元を水がかからないように竹で保護したものです。道路が舗装されていなかった時代、家屋を守る大切な役割を担っていました。
 「駒寄」は、牛馬をつなぎ止めておくもので、今でいえば駐車場です。






◇延焼防ぐ土塀も
 表塀や店格子に備え付けられた折り畳み式縁台を、ばったり出して商品陳列台として用いるのが「ばったり床机」です。
 小屋根に乗っている土人形は鍾埴です。中国の玄宗皇帝が病に伏していたとき疫病を退散させたといわれます。そんな事は庶民も知っていますよ!とでも言っているようです。
 最も怖いのは火災です。隣家への延焼を防ぐため大屋根より高く土塀を設け屋根を乗せます。「うだつ」と呼ばれているものですが古来格式を表したとも考えられています。

「しんぶん赤旗」日刊紙(2010年2月19日掲載)


京都に行った時は、神社仏閣ばかりに目が行きますが、庶民の職住一体の住宅、町家も見る必要があるようですね。
今度、行く時は注意しましょう!
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山田洋次監督の映画「おとうと」。人生負け組みでもいいんじゃないの。

2010-02-23 20:15:18 | 映画について
山田洋次監督の映画「おとうと」を観てきました。

おとうとポスター
おとうとポスター
2月21日、神戸三宮の国際松竹です。

どうしようない弟と小さいながら薬局を経営しているできた姉との兄弟愛の物語です。
それを、娘の視点から描いていきます。

鶴餅演ずる弟は突然帰ってきて娘の結婚式をめちゃくちゃしてしまいます。大阪では、大衆演劇に情熱を燃やしていますがなかなかうまくいきません。
そんな弟を、吉永早百合演ずる姉が「いっそ、たこ焼き屋で身を起こしたらどうかな。まだ結婚もできるし、子どももできるかもね」と励まします。

そんな弟なんで多額の借金をつくって元愛人が返してくれと言ってきます。それでも、なけなしの貯金をはたいて返します。
弟は、娘の名付け親なんですが、娘はつねに嫌がっています。

娘も結婚したエリート医師と心が通じなく、「他人といるみたい」と・・・。離婚してしまいます。

弟が行き倒れで担ぎもまれ、姉は飛んでいきます。そうこうするうちに、危篤状態になり、娘もご近所の大工をしている彼氏といっしょに大阪に・・・。
最後に、姉と娘で弟の最後を看取るわけですが・・・。


「人生の本当のしあわせって、なんなんだろう」って感じさせる映画ですね。
決して勝ち組がいい人生だなんて思えないし、負け組みでもいいんじゃない。
細々と調剤薬局を親子でやって行くのもいいんじゃない。
と思わせますでね。


最後、サービスで国際会館のイルミネーションをアップしておきます。
国際会館イルミネーション_02
国際会館イルミネーション_02


国際会館イルミネーション_01
国際会館イルミネーション_01

国際会館イルミネーション_04
国際会館イルミネーション_04
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神戸市北区から三木市・小野市を結ぶ神戸電鉄・粟生(あお)線が存続の危機に!

2010-02-18 22:45:41 | 公共交通・安全について
神戸市北区から三木市、小野市を結ぶ神戸電鉄・粟生(あお)線が、存続の危機にたっている!
運賃値上げ、便数削減も!

神戸電鉄・粟生線
共産党 安い・便利でこそ


赤字問題で協議会議論

 神戸市と三木市、小野市を結ぶ神戸電鉄粟生線(粟生~鈴蘭台間、20駅)の赤字が続いています。「神戸電鉄粟生線活性化協議会」が改善策を議論しており、1月28日の同協議会で神鉄側は便数削減や運賃値上げもありうることを明らかにしました。
(兵庫県・喜田光洋)




 「サービス低下はもってのほか。私は月5回も乗ったらええ方やけど、値上げされたら乗りにくくなる」
 こう語るのは、神戸市西区・押部谷地域に住む狩野林(かのう・はやし)さん(69)です。粟生線の押部谷駅か栄駅から湊川駅まで乗り、市立中央図書館や裁判所にしばしばいきます。湊川駅まで往復で1020円。いまでも重い負担です。「土地を提供したり、これまで神鉄に協力してきたのに何や」という古くからの住民の声を聞くといいます。
 神鉄によると、沿線の人口減、少子高齢化などにより、粟生線利用者が1992年度の年1420万人をピークに減り続け、2008年度は年729万人に。それにともない、2001年度以降、年10億円以上の赤字が続いています。
 このため、神鉄と神戸市、三木市、小野市などで「神戸電鉄粟生線活性化協議会」が昨年12月につくられ、3月に収支改善策を決める予定です。


今でも運賃はトップクラス
 1月28日の第2回協議会で、バスとの効果的な接続、イベント実施など利用者増の案がしめされましたが、神鉄側は「今後検討が必要になるかもしれない事項」として、ラッシュ時以外の運転本数見直しなど「効率的なダイヤ設定」や「運賃改定」を挙げました。
 神鉄は急こう配や急曲線が多く、特別にコストがかかるため、運賃はいまでも「日本でトップクラス」といわれています。新開地駅から阪急・阪神で大阪の梅田駅までいくには乗車距離約35キロで片道430円(神戸高速鉄道区間を一部含む)ですが、同じ新開地駅から鈴蘭台駅まではその4分の1以下の7.9キロで450円(同)もかかります。
 粟生線沿線には高校が七つあり、高校生が多く乗車しますが、便数が削減されると下校時などに大きな影響がでます。

意見出そうと党が呼びかけ
 日本共産党は、「粟生線を守ろう」「もっと利用しやすい粟生線に」ととりくみを広げ、複線化や運賃値下げなど住民の願いにこたえてこそ利用者は増えると訴え、協議会が募集しているパブリックコメントに意見をだそうと住民によびかけています。
 志染(しじみ)駅から粟生線を利用して神戸の三宮まで通勤している、党三木市後援会副会長の秋田貢さん(62)は、「これ以上運賃が高くなると、よけい乗客が減るでしょう。運賃を安くしたり、便利にすることが乗客を増やす道です」と強調します。

「しんぶん赤旗」日刊紙・近畿面の2010年2月16日付に掲載


 神戸電鉄は、市街地と住宅地を結ぶ鉄道ですが、「高山鉄道」の部類に入っていると聞いたことがあります。そのために、阪急や阪神と比べて飛びぬけて運賃が高くなっています。
 僕としては、有馬・三田線は使ったことがありますが、粟生線は乗ったことがありません。
 でも、三木市は用事で行くことが多いですね。今でこそ自動車で行っていますが、年ととるとそうもいかなくなることもあると思います。
 便数が減ったり運賃が上がったり、はたまた廃線になったりすると、とたんに困ってしまいます。高校生など、普通免許のない人たちなども困ります。
 使いやすくなれば、自動車より安全で、環境にやさしい電車を利用する人が増えると思いますがねえ・・・
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

職住一体の町家の登場 上ノ町に西陣織産地が・・・

2010-02-17 21:23:08 | 赤旗記事特集
魅力いっぱい 西陣の京町家②
職住一体の町家の登場
上ノ町に西陣織産地が・・・


応仁の乱(1467年~77年)で焦土と化した京の都は、洛陽地域(今の千本通から東側)の街区の上に新しい町が建設されます。

◇上京・下京の由来は?
 地図をごらんください。一条大路あたりから北の、寺之内通までの領域が上(かみ)ノ町です。三条大路から南の地域で、五条大路あたりまでが下(しも)ノ町です。
 上と下の町を、鳥丸(からすま)通の西側にある室町通が街道の役割をもって結びます。中ノ町にあたるこの地域は、聚楽(じゅらく)ゴボウなどの栽培地でした。
 上ノ町には権力者、権威者、優れた匠が住みました。下ノ町は主に商人が住む地域となり、平安の世からの住まい分けが続くこととなります。
 農業生産性の向上と相まって商業が芽生え、町家の原型が誕生します。店を構えた住居を建て、商いを営めるのは、平和の到来があってのことです。それまでは道端に立っての商い(立売り)だったのです。下立売(しもだちうり)、中立売、上立売という通り名の語源となっています。
 商人、匠が長者となり、敷地奥に蔵を建てるのは、江戸時代の元禄後期ごろです。道路に面して店を構えた職住一体型の庶民の住居、今日私たちが目にする町家の登場です。


◇権力者も匠も
 今の上京区の元になった上ノ町は、平安の世から権力者、権威者、優れた匠など、人生観のまったく違った人たちが長年同居していた唯一の地域で、特異な政治的・文化的性格を今もなお備えています。
 上京区には、京都府庁や府警本部、御所があります。東山の大文字は御所や椙国寺に正面を向けています。院でいえば、金閣寺や銀閣寺の上位にある相国寺をはじめ228力寺が営まれています。旧洛陽地域にあたる上京・中京・下京区内529力寺の4割以上です。寺社自身が国宝や重要文化財だったり、その地が『源氏物語』の舞台だったり、『方丈記』や『徒然草』に描かれた都の様子の現場だったりします。
 何よりこの地は、京都で最大規模の地場産業である西陣織の産地です。今出川通と大宮通(大宮大路)が交差するあたりは、一日に千両もの商いがされたことから千両が辻と呼ばれ、今日も西陣・織産地の中核をなしています。優れた匠が、織物以外にも一級の美術工芸品を作り出しています。




「しんぶん赤旗」日刊紙 2010年2月12日付に掲載。

 現在の京町家が形成されるようになったのは、江戸時代に入り内乱の起こらない平和な時代になって、商業が発展しだした元禄のころからなのですね。やっぱり、平和が一番!
 一昨年に京都に紅葉の写真を撮りに行った時、下立売、中立売、上立売などのバス停の名前が珍しくて興味を持ちましたが、戦乱の中で店を構えて商売ができなくて、立ち売りの商いをやっていたことから来たものなのですね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする