きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働⑤ 開眼80周年記念法要

2019-12-30 08:14:32 | 平和・憲法・歴史問題について
田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働⑤ 開眼80周年記念法要
茶谷十六

田沢湖姫観音の開眼80周年にあたる今年11月10日、記念の法要がとり行われた。実行委員会からの案内状には、次のように記されていた。

「田沢湖姫観音像開眼80周年の年にあたり、日中戦争から太平洋戦争に至る日本の歴史のもっとも不幸な時代に、もっとも困難な状況の中で、わが郷土の先達たちが姫観音像に込めた願いと祈りを改めてかみしめ、工事犠牲者の御冥福を祈りするとともに、田沢湖が豊かな生命の湖水としてよみがえり、日本と韓国・朝鮮の友好・親善が深まり、世界の平和が末永く発展することを願って、記念の法要を執行したいと思います」
当日、空には黒雲が走り、田沢湖の水面が激しく波打っていた。姫観音像前に祭壇が設けられ、僧侶の読経が続く中、100名近い列席者一人ひとりが焼香した。秋田県仙北市の市長、教育長をはじめ多くの市民が参加、在日韓国民団秋田県本部の代表、朴容民・駐仙台韓国総領事の列席もあった。この日のために韓国から駆けつけたドキュメンタリー映画監督辛(シン)ナリ女史一行、写真家の朴哲・金客旭両氏の姿もあった。
焼香の後に、日韓両国の舞踊家による鎮魂の献舞が行われた。わらび座の安達真理さんが、鹿児島県川内市につたわる盆踊り「想夫恋(そうふれん)」をもとにした舞を舞った。豊臣秀吉の朝鮮出兵に駆り出された兵士や軍夫の妻たちが、出征したまま帰らない夫をしのんで踊ったという言い伝えをもつ舞だ。哀調をおびた胡弓の調べがむせぶように流れ、能の仕舞のような緊迫した動きの中に万感の思いをこめた舞が美しかった。



姫観音像の前で鎮魂の「サルプリ」を舞う金順子さん

在日韓国人舞踊家・金順子さんが韓国の伝統舞踊「サルプリ」を舞った。哀切きわまりない伽耶琴の曲にあわせて、観音像の台座に体をすりよせて嘆き、湖・面に身を乗り出してはるかな空を見すえる姿に胸うたれた。白い絹布サルプリが激しく風になびいた。
続いて田沢寺(でんたくじ)墓地の朝鮮人無縁仏慰霊碑前で慰霊祭がとり行われ、寺の本堂で、私が「田沢湖姫観音像建立をめぐって」と題して講演した。多くの人たちにとってはじめて聞く話であったようだ。
法要後の直会(なおらい)の席で、朴総領事が、日韓両国の関係がギクシャクしている中で、日本の民間の人たちがこのような取り組みを続けてきたことへの感謝を述べられた。静かで力強い言葉が心にしみた。
田沢湖姫観音像が、日本と韓国・朝鮮との真の友好・親善のシンボルとして生き続けることを切望する。
(おわり)(ちゃだに・じゅうろく 秋田県歴史教育者協議会会長)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年12月25日付掲載


観音像の建立から80年の時を経て、改めて犠牲になった労働者たちの鎮魂の舞がおこなわれた。
日本と韓国との友好の輪です。



そして、田沢湖湖畔の元祖「辰子姫」像。僕が若い時に旅行に行った時撮影(1985年5月)


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田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働④ 犠牲者の供養と慰霊

2019-12-29 07:37:39 | 平和・憲法・歴史問題について
田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働④ 犠牲者の供養と慰霊
茶谷十六

中国への侵略戦争は泥沼化し、多くの若者たちが戦場に駆り出された。国内の労働力不足は決定的だった。そうした下で、困難をきわめた生保内発電所建設のための導水路掘削工事に、植民地統治下の朝鮮人が動員されて危険な作業に従事させられた。
工事は冬期も続行され、深い雪の中での苛酷な労働によって病に倒れ、また発破などの事故で犠牲となった労働者は少なくなかった。日本人、朝鮮人を含めて犠牲者の名前も人数も不明のままだ。朝鮮人労働者は故国を遠く離れた異郷の地で病気や事故のために命をおとし、異国の土となった。

田沢湖姫観音像は、玉川導水路の取水口のすぐ近く、かつて工事関係者たちが寝起きした飯場のあった場所に建っている。1939(昭和14)年に開眼供養されたこの像は、従来、導水路建設による毒水の流入で死滅した田沢湖の魚と湖神辰子姫の霊を慰めるために建立されたものと言われてきた。
在日韓国人二世河正雄(ハクジョンウン)氏(光州市立美術館名誉館長)の尽力で、田沢(でんたく)寺に保存されていた「姫観音像建立趣意書」から、生保内発所建設工事の犠牲となった関係者の供養と慰霊が像建立のもっとも大切な目的だったことが明らかにされたのは、1991年のことだ。
趣意書には、「附言(ふげん)」として、「開眼式を行ふ時に際しては、各会社の従業関係者にして其の職に殉じ貴き犠牲となりたるものゝ追悼慰霊の弔会(ちょうえ)式をも施行して其の冥福を祈らんとする」と明記されていた。



80年前の開眼当時の田沢湖姫観音像。後ろは工事関係者の飯場(伊藤孝祐撮影)

観音像の製作者、九代目八柳(やつやなぎ)五兵衛は、当時28歳、新進気鋭の石像彫刻家だった。岡本かの子墓地に建つ「かの子観音像」をはじめ、鎌倉長谷寺の「聖観音像」、大阪府野崎観立目境内の「悲母観音像」の制作者として知られている。
直木賞作家千葉治平は、『田沢湖風物誌』『山の湖の物語』の中で田沢湖姫観音像建立の経緯にふれ、像の建つ藁田沢(わらたざわ)のほとりにかつて朝鮮人の労務者の飯場が建っていたこと、トンネル工事の発破に打たれて死んだ朝鮮人の若者がいたこと、「この時の朝鮮人たちはだまされて連れて来られた純朴な人たちであった」ことを書きとめている。
1990年9月には、田沢湖町「よい心の会」の手で、田沢寺境内に新たに「朝鮮人無縁仏慰霊碑」が建立され、慰霊祭がとり行われた。さらに1999年、浄財を募って慰霊碑の周辺が整備され、11月11日、「よい心の碑」が建立されている。
(ちゃだに・じゅうろく 秋田県歴史教育者協議会会長)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年12月18日付掲載


今まで埋もれていた、田沢(でんたく)寺に保存されていた「姫観音像建立趣意書」が発掘。生保内発所建設工事の犠牲となった関係者の供養と慰霊が像建立のもっとも大切な目的だったことが明らかにされた。日本人労働者も朝鮮人労働者も区別せずに、1939(昭和14)年に開眼供養されたという。
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田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働③ 玉川毒水とクニマス絶滅

2019-12-28 10:50:31 | 平和・憲法・歴史問題について
田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働③ 玉川毒水とクニマス絶滅
茶谷十六

古来、田沢湖には、固有種の淡水魚クニマス(国鱒)が生息し、山間の人々にとっての貴重なたんぱく源となっていた。妊産婦が食べると丈夫な赤ちゃんが生まれ、お乳もよく出るようになるとして、高い値段で売買された。湖周辺の人々は漁業協同組合を組織し、クニマス漁を重要な生計の糧としていた。1935(昭和10)年には、人工養殖にも成功して、大きな発展が期待されていた。



当時のクニマス漁風景(伊藤孝祐撮影)

生保内発電所建設にかかわって3本の導水路が掘削されたが、そのうちの玉川導水路の上流には強酸性の玉川温泉があり、そこから流出する酸性水は「玉川毒水」として下流の住民たちから恐れられていた。
37年、この玉川毒水を田沢湖に導入しての発電計画が発表されると、豊富な魚資源が絶滅することを憂えた湖岸の住民たちは、工事計画の変更を求めて反対運動を展開した。生保内村長であった医師の鬼川(きかわ)貫一は、この年9月、直接上京して、内閣東北局長・桑原幹根(みきね)に対し槎湖(さこ)漁業協同組合長名で陳情書を提出した。国立公文書館に、当時提出された文書がそのまま保存されている。現代語にすると以下のようである。
 「陳情書
最近、東北振興の諸計画が着々と進められ、私たち東北人の生活が一新を画すに至ったことは大へん感謝するところです。ところが、東北振興電力株式会社の発電計画で玉川の毒水を田沢湖に流入させるとの企図は湖畔漁民の生活に一大脅威を与え、ひたすら憂慮焦心いたして居る次第です。
当漁業組合は明治45年以来、当局の多大なる御指導と御援助により、魚族の養殖に苦心惨憺(さんたん)の結果、近年、その功があらわれ、今や年産額3万余円を突破しました。ようやく曙光(しょこう)を見いだし、将来ますます進展すべき時に、玉肝毒水の流入による魚族の死滅がとうてい免れないのは明瞭な事実であり、当漁業組合員65名、その家族470余名は永久に生活の根拠を失い、湖畔漁村はたちまち衰亡の一路をたどるほかない次第です。
仰ぎ願わくは右の事情をとくと御洞察、御憐愍(れんびん)を垂れさせられ、適当の対策を講じていただくよう、特別の御恩典にあずかりたく、ここに非礼をかえりみず嘆願に及びました」

名文達筆で書かれた原文には鬼気迫る切迫感がある。この年7月7日の盧溝橋事件を発端として中国への本格的な侵略戦争が開始された直後、東北の一寒村の住民から提出されたこの陳情書は、「富国強兵」「産業報国」の名の下に一蹴されてしまった。毒水の流入とともにクニマスをはじめすべての魚族が絶滅し、辰子姫伝説に彩られた神秘の湖は死の湖と化してしまった。
(ちゃだに・じゅうろく 秋田県歴史教育者協議会会長)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年12月11日付掲載


生活の糧としての田沢湖のクニマス養殖。
生保内水力発電建設による玉川導水路により、毒性の高い強酸性の水が田沢湖に。
やめてほしいという名文達筆の陳情書も、国策の前に握りつぶされた。
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田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働② 生保内発電所建設工事

2019-12-27 08:22:22 | 平和・憲法・歴史問題について
田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働② 生保内発電所建設工事
茶谷十六

1940(昭和15)年に完成した生保内(おぼない)発電所建設工事は、東北地方を食糧生産と軍需産業の一大基地につくりかえようという「東北振興政策」の一環として立案された国策事業であった。

1934(昭和9)年、東北地方は冷害による空前の大凶作に襲われた。もともと窮乏にひんしていた東北地方の産業の開発と経済の振興を図るために、内閣東北局が直轄する国策会社として東北興業株式会社と東北振興電力株式会社が設立されたのは36(昭和11)年のことであった。
東北振興電力株式会社は、同地方の潤沢な水資源を活用して低廉で豊富な電力を供給することを目的として設立された。資本金3千万円、36年から45年までの10年間に、阿武隈川、田沢湖ほか数カ所に水力発電所を建設し、合計約15万キロワットの電力を開発しようという巨大プロジェクトであった。
一戸富士雄著『国家に翻弄された戦時体制下の東北振興政策―軍需品生産基地化への変貌』(文理閣)は、もともと東北地域住民への救済策として始まったはずの振興政策が、日中戦争開戦を契機に国家目的としての軍需生産推進政策へと変貌させられていく過程を詳細に解明している。



現在の東北電力生保内発電所

生保内発電所建設工事は、まさにその典型例であり、38(昭和13)年2月の着工から40年1月の運転開始までわずか2年間という、文字通りの突貫工事であった。
本来、水力発電所の建設にあたっては、河川の峡谷にダムを建設して貯水池を作り、その落下を利用して発電するというのが当然のあり方である。この常識をくつがえして、田沢湖の湖水を落下させていきなり発電しようという途方もない計画が持ち上がった。これが生保内発電所だ。
田沢湖はカルデラ湖、天然の水がめのような湖水を抜けば、たちまち水位は下がる。これを防ぐために上流から2本の導水路が掘削された。玉川導水路1・87キロ、先達川(せんだつかわ)導水路4・01キロ。これに田子(たご)の木取水口から発電所までの導水路2・63キロ、すべて手作業で行なわれたこの工事は、今日では想像もできないような難工事だった。
この途方もない工事が、いくつもの異常事態を生み出すことになる。
(ちゃだに・じゅうろく 秋田県歴史教育者協議会会長)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年12月4日付掲載


東北地方の産業復興の名目での生保内発電所建設などの一連の工事。途方もない難工事となり、様々な事態を起こすことに。
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田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働① 辰子姫伝説の湖

2019-12-26 15:54:51 | 平和・憲法・歴史問題について
田沢湖姫観音と朝鮮人強制労働① 辰子姫伝説の湖
茶谷十六
ちゃだに・じゅうろく 1941年生まれ。秋田県歴史教育者協議会会長、田沢湖姫観音像開眼80周年記念法要実行委員会事務局

秋田県の田沢湖は、水深423・4メートル、日本で最も深い湖であり、かつては北海道の摩周湖とならんで透明度日本一を誇っていた。
古くは「辰子潟」と呼ばれ、村娘・辰子が、美貌が永遠に衰えないようにと観音様に祈願してついに竜となり、湖の主となったという「辰子姫伝説」が息づく神秘の湖として親しまれてきた。

この田沢湖の湖畔に、「姫観音」と呼ばれる石像が立っている。若き彫刻家・八柳(やつやなぎ)五兵衛が銘石真鶴(まなづる)石に刻んだこの像は、みずみずしい青年像のような生気をたたえて、碧緑(へきりょく)の湖面のはるか彼方を見つめ続けている。
1939(昭和14)年11月10日に開眼供養が行なわれた像の台座には次の碑文が刻まれている。(原文はカタカナ)

夫(そ)れ往昔(おうせき)一女性辰子の美貌ありて、大蔵山(おおくらさん)に祈願するところにあり。満願にして天変地異、一大湖沼成り、姫は大龍と化せり。爾来郷人只管(じらいきょうじんひたすら)湖水の汚濁を懼(おそ)る。
即ち清明澄徴なる湖と純情無垢なる姫を護らんと、日夜祈念したるなり。偶玉(たまたま)川の毒水湖に導入せらるや、忽然(こつぜん)と観音現覚し、辰子姫積年の誓願成就にして、大衆を導いて共に宏謨(こうぼ)翼賛に邁進(まいしん)せんとの勇猛心なるべし。茲に姫観音の尊像を建立して菩薩の威神力(いじんりき)を如意ならしめんと祈念して止まさるところなり矣。
昭和十四年十一月十日開眼
槎湖(さこ)仏教会 敬白



田沢湖に向かって立つ田沢湖姫観音像(筆者撮影)

この像は、従来、玉川温泉の強酸性の毒水の流入によって死滅した魚と湖神辰子姫の霊を慰めるために建立されたものと言われてきた。田沢寺に保存されていた「姫観音像建立趣意書」から、生保内(おぼない)発電所建設に伴う隧道工事の犠牲となった工事関係者の供養と慰霊が像建立のもっとも大切な目的であったことが明らかにされたのは、1991(平成3)年のことであった。

今からちょうど80年前に建立・開眼されたこの像は、一体どのような情況の下で、誰によって、何のために建てられたのであろうか?当時の歴史をひもといてゆくと、思いもかけない激動の経緯が浮かび上がってくる。田沢湖姫観音像の建立・開眼にまつわるドラマの真相を明らかにしたい。

「しんぶん赤旗」日刊紙 2019年11月27日付掲載


辰子姫の伝説が残る田沢湖。20代のころ、旅行に行ったときにレンタサイクルで1週した覚えがある。
観音像の本当の由来が、発電所建設の工事の犠牲者を慰霊するものだとわかり、そのドラマが解き明かされる。
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