きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影

「しんぶん赤旗」の記事を中心に、政治・経済・労働問題などを個人的に発信。
日本共産党兵庫県委員会で働いています。

神戸憲法集会 11月3日、神戸市立西区民センターで開催

2017-10-31 11:22:54 | 平和・憲法・歴史問題について
神戸憲法集会 11月3日、神戸市立西区民センターで開催

神戸憲法集会
神戸憲法集会 posted by (C)きんちゃん

憲法施行70周年 いま日本国憲法は
神戸憲法集会

2017年11月3日(金・祝)12:30開場、13:30開演
神戸市立西区民センター・2階ホール
〇会場費・資料代1,000円(学生500円)
〇保育あり




【講演1】
今、憲法9条を守ることの意義
東京慈恵会医科大学教授 小沢隆一さん

日本国憲法施行70年にあたる今年の5月3日、安倍首相は2020年までの新憲法の施行を語り、「9条3項加憲」論まで持ち出し、そのための「露払い」として共謀罪法を成立させました。世界では、大軍拡と差別・分断政策の米トランプ政権、軍事的挑発を繰り返す北朝鮮、大国化をめざす中国など、平和を脅かす動きが続いています。そうした中で、9条改憲阻止、安倍政権打倒、核兵器のない世界への運動も力強く前進しています。いま憲法9条を光り輝かせることの意義、それがもたらす日本と世界の平和の展望について語りたいと思います。
東京慈恵会医科大学教授 1959年生まれ 一橋大学法学部卒 専攻は憲法学著書に『予算議決権の研究』(弘文堂)、『はじめて学ぶ日本国憲法』(大月書店)、「集団的自衛権容認を批判する』(共著・日本評論社)、「日米安保と戦争法に代わる選択肢』(共著・大月書店)など

【講演2】
新しい歴史をひらく核兵器禁止条約
兵庫県原水協事務局長 梶本修史さん

1948年尼崎市生れ。原水爆禁止兵庫県協議会(兵庫県原水協)事務局長、日本原水協全国担当常任理事。核兵器廃絶署名の兵庫県民過半数達成、非核宣言自治体運動、核兵器廃絶の国連要請行動、非核「神戸方式」守る運動、原爆症認定訴訟など被爆者援護・連帯活動に取り組む。

【文化行事】
ゆがふバンド

尼崎市にある向井敏二琉球音楽研究所(琉球古典安冨祖流音楽研究朝一会関西支部)で、学んでいる仲間たちのバンドです。三線・太鼓・パーカッション・キーボードその他の楽器で、沖縄のうたをどこか懐かしく陽気に華やかに、時にはしっとりとうたいます。

主催:神戸憲法集会実行委員会 連絡先・事務局:兵庫県憲法会議 TEL:078-351-0677、FAX:078-371-7376


ぜひ、ご参加を!予約はいりません。
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21年ぶり 自民独占崩す 高知2区 共産党の底力に注目

2017-10-30 17:07:30 | 総選挙(2017年)
21年ぶり 自民独占崩す 高知2区 共産党の底力に注目

自民党の元農水大臣との一騎打ちとなった衆院選高知2区で、市民と野党の共同候補、広田一氏(49)=無所属=が約2万票の大差で勝利しました。高知県内では21年ぶりに自民党独占を打ち破る歴史的快挙です。独自候補を降ろし、共闘に力を尽くした日本共産党の底力が注目されています。
(高知県・浦準一、酒井慎太郎)

「安倍政権に鉄ついを下す。そのために、重い重い決断をしてくれた」
22日夜、当確の一報を受けたインタビューで、広田氏がまず語ったのは、一本化のために立候補を取り下げた共産党の島﨑保臣氏(34)への感謝の言葉でした。「安保法制廃止の大義を貫く広田さんの決意に応えた」という島﨑氏は比例候補として駆け回り、「2区から自民党政治に代わる新しい政治をつくろう」と訴え抜きました。



訴える広田候補(中央)と応援に駆け付けた小池書記局長(右)、白川候補(左)=10月14日、高知市

流れ持続させる
選挙事務所に駆け付け、広田氏に花束を手渡した島﨑氏。その場で仲間と抱き合って喜んだ無所属県議の上田(あげた)周五さん(67)はこうした光景に「共同して本当によかった。この流れを持続させたい」と語ります。県内の「広田一さんを応援する超党派議員連盟」会長です。
広田氏が9万2179票を獲得したのに対し、自民党の山本有二氏(65)は7万1029票。広田氏は2区内の18市町村のうち15市町村で山本氏の得票を上回りました。
前回2014年の衆院選では、野党候補2氏の得票を合わせても、山本氏の得票を約1万1千票下回っていました。しかし、野党候補が広田氏に一本化された今回は一転、山本氏の得票を約2万1千票上回る圧勝でした。
上田さんは「有権者は政治が変わる可能性に一票を投じてくれたのだと思います。(勝てるという展望を示した)共闘の相乗効果ですよ」と指摘します。

今も地域根ざし
県内では、小選挙区制が導入された1996年の衆院選で共産党の故・山原健二郎氏が当選して以来、21年ぶりに自民党独占に風穴を開けました。「自民の牙城崩した『共闘』」。地元紙の高知新聞は23日付の社説で、こう見出しを立てました。
「朝日」高知版は「2区の衝撃」と題した連載の下(26日付)で、共産党の草の根の力を紹介。高知市の日曜市で国政報告し、市民と握手する故・山原氏の写真などを載せ、「地域に根ざす共産、今なお」と報じました。


高知2区 信頼という財産残した 共産党抜きに共闘語れぬ
市民と野党の共同を推進してきた市民団体、憲法アクションの事務局メンバーの一人も「自公政権に対抗し得る道は野党共同しかないことを証明した」と語ります。
「共産党の役割は大きかった」とも述べ、「選挙中のビラ11万枚のうち10万枚は共産党が配布してくれた。電話かけも熱心に動いてくれ、徹底していた」と振り返りました。
共産党の献身的な奮闘に、広田氏を支える中枢メンバーや保守層から「比例は共産党」と表明する人が相次ぎました。前出の事務局メンバーは「あんなに動いてくれたのに、共産党の比例票は伸びず、僕は無念で仕方ない」。



衆院選結果を報告し、公約実現へ決意を述べる島﨑氏(中央)=10月27日、高知市

信頼関係が醸成
27日、高 知市内の2区地域。島﨑氏は終日、街頭演説し「広田さん当選のために全力で応援してきた一人として、自分のことのようにうれしく思っています」と報告しました。
今回の画期的な勝利の意義を知ってもらおうと、投開票翌日から続けています。各所で手が振られ、声援も寄せられました。「市民が政治を変える新しい時代にふさわしく、共産党は元気いっぱい活動を発展させます」
土佐市の無所属市議で市内の広田選対の要の一人、大森陽子さん(67)は「選挙のたびに新しい友達ができ、楽しく、力いっぱいたたかえました。共産党抜きに共闘は語れん、ということがよくわかった」と力説します。
大森さんは言います。「一生懸命やれば、お互いに信頼関係が醸成されます。共産党は信頼という財産を残しましたね」

「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年10月30日付掲載


高知県の小選挙区で自民党独占に風穴を開けたのは、1996年に高知1区で山原健二郎さんが当選して以来なんですね。
前回は、共産党の第2の躍進の時期。今回は、市民と野党の共同の発展の中で…。格別の味わいがありますね。

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秩父事件を歩く④ 椋神社境内の顕彰碑

2017-10-28 19:19:38 | 赤旗記事特集
秩父事件を歩く④ 椋神社境内の顕彰碑
ツルシ カズヒコ

4月初旬。困民党総理・田代栄助が事件後、一時、身を隠していた武甲山(ぶこうさん)の山頂にはうっすらと冠雪があります。新井健二郎さん案内の秩父事件の史跡取材は、秩父市の音楽寺から下吉田の椋(むく)神社へ移動。
明治政府が進めるデフレ政策下、生糸価格の大暴落により困窮を極めた農民3000余名が椋神社に集結し、自由党員を中心に困民党を結成、蜂起したのは―
境内に立つ「秩父事件百年の碑」には、困民党が掲げた要求「負債据置年賦償還、村費軽減、小学校休校、雑収税減免の他、徴兵令改正等」が刻まれています。その再三の請願も却下され、憲法もなく世の中を変革する手段としての選挙もない、当時の民衆の生きるためのやむにやまれぬ蜂起でしたが、軍律で略奪や女性への乱暴などを厳しく禁じていました。
秩父事件顕彰運動の画期となったのは、1972年10月、吉田町で開催された「秩父事件88周年記念集会」でした。参加者500余名、県知事のメッセージが寄せられ、死刑執行された田代栄助や加藤織平(困民党副総理)の孫など事件遺族も参加。この集会で新井さんは地元町議として自ら起草した決議文を読み上げ「100周年には記念碑を建立しよう」ました。



秩父市下吉田の椋神社境内に立つ「秩父事件百年の碑」と新井さん(2017年4月)

100周年が数年後と迫ったころ。新井さんは町議会の一般質問で、秩父事件について記述した小中学校の社会科教科書を開いて見せながら、熱弁をふるいました。
「秩父事件は自由民権運動の一環で、それは全国の子どもたちにとって今や常識です。地元がいまだに暴動視していたら、全世界に恥をさらすことになります。歴史的な事実を知り認識を改め、先祖たちの名誉を回復し、誇り高く町の歴史を語れるように、町のリーダーであるみなさんが率先して取り組まねばなりません」
吉田町議は20人、共産党議員は新井さんひとり。新井さんの獅子奮迅の活動などが奏功し、記念碑を建てる場所は、椋神社と氏子と町行政の協議で同社の境内に決定。それまでにも事件に関わった遺族から同社境内に追悼碑をという要望はありましたが、氏子や神社側から拒絶され歯牙にもかけられませんでした。
篠田健一さん(現・秩父事件研究顕彰協議会会長)は「秩父事件百年の碑」について「あの碑は新井健二郎さんのたたかいを顕彰する碑でもあります」と語っています。
(編集者・ライター)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年10月25日付掲載


秩父事件は自由民権運動の一環で、それは全国の子どもたちにとって今や常識です。地元がいまだに暴動視していたら、全世界に恥をさらすことになる。
正論を吐いて、町をあげての顕彰碑建立になったのですね。

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秩父事件を歩く③ 勇気りんりん 町史を編纂

2017-10-27 10:46:22 | 赤旗記事特集
秩父事件を歩く③ 勇気りんりん 町史を編纂
ツルシ カズヒコ

シベリアから帰国した新井健二郎さんは、祖父・寅五郎が養蚕を営んでいた秩父郡吉田町下吉田(現秩父市)の狭隆な山地で酪農に挑みました。27歳で結婚し2男1女が誕生(今回の衆院選・東京17区の日本共産党候補の新井杉生さんは次男)。乳牛の飼料自給のために山地を開墾し牧草地にするなど、妻と二人三脚で酪農に精励しました。

全秩酪農組合・吉田支部長として、生産費に見合う乳価要求をする乳価闘争の先頭にも立ちました。日比谷野外音楽堂で開催された全国酪農民決起大会では、6500人の酪農民の前で団結を呼びかける演説をして、激励に来ていた林百郎さん(長野県選出の日本共産党衆議院議員)から「演説よかったですよ」と握手されて感激。
日本共産党に入党したのは1961年9月、翌年には新井さんを支部長とする同党吉田支部が誕生。新井さんが吉田町議選で初当選したのは1969年4月。町議選に初出馬し落選した前回選挙では「アカを出しては吉田町の恥」「アカは民主主義をぶちこわす」と反共勢力から誹諸中傷攻撃をされましたが、新井さんはひるむどころか「俺は一歩も引かねーぞ」と勇気りんりん、反撃の闘志を燃やしました。そのリベンジがなり、同町初の日本共産党町議の誕生でした。以後、8期連続32年間、新井さんは町議として活動します。
秩父出身の西洋史学者・井上幸治の著作『秩父事件-自由民権期の農民蜂起』(中公新書)が出版されたのは、1968年でした。“秩父事件のバイブル”ともいわれた同書の「まえがき」には、こう記されています。「わたくしは秩父事件が自由民権運動の最後にして最高の形態であり、これがわがふるさとの事件であったことを誇りと思っている」



支援者とともに吉田町議選初当選を祝福する新井さん(前列左)と安喜子夫人(前列右)=1969年4月

秩父事件の研究顕彰が活発化する中、新井さんはその顕彰を町民と行政を巻き込み、町ぐるみで取り組むことを町議活動の主要な政策に掲げました。秩父事件発祥の地でありながら、吉田町には町史がありませんでした。新井さんは町議会で町史編纂を提案し、10年の歳月をかけ1200ページ余の労作『吉田町史』が完成。
町史編纂委員長を務め「秩父事件」の項を執筆したのは、永法寺住職で当時教育長だった小林弌郎(いちろう)さん。当初、共産党に違和感を抱いていた小林さんは、新井さんとの交流を通じて、秩父事件顕彰運動のよき理解者となり、共産党の機関紙「赤旗」の購読者にもなりました。
しかし、秩父事件に対する町民の見方は「あれは暴動で、参加者は博徒で俺たちの先祖は脅されて駆り出された被害者だ」という戦前から少しも変わらぬものでした。
(編集者・ライター)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年10月18日付掲載


「町史編纂」の中で、「秩父事件」についても詳しく書かれ、町民の中にも理解がひろまったのですね。
「勇気りんりん」は、毛利りん元県議だけの専売特許じゃないんだ。
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秩父事件を歩く② 人生を決めたシベリア

2017-10-26 13:10:57 | 赤旗記事特集
秩父事件を歩く② 人生を決めたシベリア
ツルシ カズヒコ

新井健二郎さんは1925(大正14)年、小学校教員の両親の次男として、現在の秩父市荒川で生まれました。新井さんが5歳のとき、一家が父の実家、秩父郡吉田町下吉田(秩父市下吉田)に移住。
前年、精農家だった祖父・新井寅五郎が64歳で死去。寅五郎は孫兄弟をかわいがり、竹を1メートルくらいに切り、枝を4本残し足にして縄をつけて引っ張る、竹の馬を作ってくれたそうです。
秩父事件“困民党トリオ”のひとり落合寅市が、大日本帝国憲法発布の恩赦で熊谷刑務所を出獄時、身柄を引き取りに行ったのは寅五郎でした。出獄後、救世軍に加わり事件関係者の名誉回復に尽力した寅市。新井さんは救世軍の赤い帽子をかぶった、晩年の寅市の姿も記憶しています。

吉田小学校高等科を卒業後、新井さんは師範学校進学を勧めた父の意に反して、秩父農林学校に進学。姉兄も教職に就いた新井一家の異端児でした。時勢は熾烈なアジア太平洋戦争の真っただ中。秩父農林学校を卒業後、19歳で軍隊に繰り上げ召集され、北支(中国北部)に派遣されたのは1944年12月でした。
1945年8月、関東軍士官学校在学中に対ソ戦に参戦、敗戦後はシベリアに抑留され4年間の強制労働に従事。高熱やケガ、飢えと寒さ、何度も襲う死地を生き抜いた新井さんが、舞鶴港に帰還復員したのは1949年12月でした。
ウラジオストクから北へ200キロ、スパッスク=ダリニーの捕虜収容所にいたころ。新井さんはその後の人生を決定づける井出顕(あきら)さんと出会いました。



新井さん19歳、出征当日の朝(1944年12月)

新井さんより年長で慶応大学で経済を学び大学教授ふうでもあった井出さんは、毎日の作業現場への行き帰り、軍国少年のまま青年になった新井さんに、世の中の仕組みについて話してくれたのでした。
「経済学にはマルクスとアダム・スミスの経済論があってという。それから徐々に信念というか思想のようなものが芽生えました。観念論ではなく唯物史観に基づいた生き方をしよう、未来はその方向にしかないなと」
作業現場が変わり、井出さんとは生涯二度と会うことはありませんでした。社会は不動の仕組みではなく、人間の働きかけによって変えられる―そういう生き方をしようと腹を決めた新井さんは、帰国後、戦前から苛烈な弾圧にも抗して一貫して反戦平和の主張をしてきた日本共産党の存在を知り、生きる気概や勇気が湧いてきたといいます。
(編集者・ライター)

「しんぶん赤旗」日刊紙 2017年10月11日付掲載


ソ連によるシベリア抑留は許されるものではありませんが、その抑留生活の中で、新井さんの戦後の人生を決める出会いがあったのですね。社会変革の生き方を。
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