【史跡指定100周年・奈文研発足70周年を記念し】
奈良時代が終わって都が京都に遷って以降、平城宮跡は長く田畑になって見る影もなくなっていた。その宮跡の保存運動が急速に高まるのは1900年代の初め。当時の都跡(みあと)村の有志が1901年(明治34年)第二次大極殿の土壇跡に標木(ひょうぼく)を建てたことが運動の魁(さけがけ)となった。今年は平城宮跡の史跡指定から節目の100周年。発掘調査を担う奈良文化財研究所も発足70周年を迎えた。奈文研はそれを記念して平城宮跡資料館で春期特別展「未来につなぐ平城宮跡-保存運動のあけぼの」を開いている(会期は6月12日まで)。
会場には2本の標木や当時の運動の様子を物語る関係資料が多数展示されている。それらは既に失われていたとみられていた貴重なものばかり。近年地元の旧家に保存されていることが分かり、奈文研に昨年寄贈された。標木2本は1901年設置のものと、1910年の「平城奠都(てんと)1200年祭」の時に立てられたもの。いずれも上下2つに切断され一部が欠けていた。材質はどちらもヒノキ材。前者は「(平城)宮大極」「殿舊址」、後者は「平城宮址記」「(念)碑建設地」という文字が刻まれている(カッコ内は欠損部分)。
1901年の標木関係では建設の経緯や見取り図を記した「平城宮大極殿旧址建標録」や「建標趣旨書」「建標式挙行案内状」などの書類も展示中。「建標計画書」によると標木の高さは2間(約3.6m)。「地ならし人夫記」には延べ150人の参加者の名が記され、「建標寄付金量収帳」には村の各大字から寄せられた寄付額が書かれている。建標式の招待者は知事をはじめ約200人だったが、当時の新聞記事によると、参観者も合わせると700~800人に上ったという。地元の人々の熱気が伝わってくる。招待者の中には後に保存運動に奔走した棚田嘉十郎の名前も。棚田はこの時、平城宮跡に植える楓と桜を寄付していた。
標木を建てるため大極殿の土壇に穴を掘った際、天平年間(729~745年)製作の軒平瓦が出土した。その瓦は保存運動の関係資料とともに木箱に納められ保存されていた。箱の蓋の裏面には出土の経過などに続き「後世大切ニ保存スヘキモノナリ」という墨書。建標後、地元では平城宮跡に「平城神宮」を建設する計画が持ち上がった。尊王思想が盛り上がりを見せる中、1890年に橿原神宮、1895年には平安神宮が創建されており、そうした時流の中での構想浮上だった。展示資料の中には「平城神宮建設会会則」もあった。しかし田畑をつぶしての大規模な神社の創建には反対の声もあって、建設会の活動は数年で行き詰ってしまった。
その後、私財を投げ打って平城宮趾の保存・顕彰運動の先頭に立ったのが植木職人の棚田嘉十郎。「平城奠都1200年記念祭」の開催や2本目の標木設置も彼の尽力によるところが大きい。標木の文面「平城宮址記念碑建設地」には、いずれは石製の記念碑を建てるという強い思いが込められていた。その標木設置から3年後の1913年には東京で「奈良大極殿趾保存会」も発足した。だが、生涯を保存活動に注いできた棚田は1921年、突然自ら命を絶つ。用地買収に伴う人間関係のトラブルが原因といわれる。平城宮跡が国の史跡に指定されたのはその翌年の22年。さらに1952年には特別史跡へ格上げされ、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)も発足した。いま朱雀門そばの平城宮いざない館の前には棚田の銅像が立つ。左手に持つのは出土した瓦、右手が指差すのは標木を立てた大極殿の方向だ。