く~にゃん雑記帳

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<奈良市史料保存館> 特別陳列「奈良の桜 植桜楓之碑」

2022年04月09日 | メモ

【川路聖謨の緑化運動を記念し1850年に建立】

 奈良市の猿沢の池から興福寺の五重塔を結ぶ石段(通称「五十二段」)を上り切った所、三条通りに面して一基の古びた石碑が立つ。170年ほど前の1850年(嘉永3年)に建立された「植桜楓(しょくおうふう)之碑」。当時の奈良奉行川路聖謨(かわじ・としあきら1801~68)が展開した緑化事業を記念して建てられた。目に留める観光客は少ないものの、この緑化事業こそ今日の奈良公園の礎を築いたものといっても過言ではない。奈良市史料保存館は桜の季節に因み〝特別陳列ならまち歳時記〟として「奈良の桜 植桜楓之碑」をテーマに石碑の拓本や江戸末期の「南都名所記」など関連史料を展示している(4月24日まで)。

 川路が奈良奉行を命じられ奈良にやって来たのは1846年、45歳のとき。幕府の普請奉行を務めていた川路にとっては左遷そのものだった。当時の奈良は百姓一揆や度重なる社寺の火災などが相次いで荒れ放題。川路がまず取り組んだのが緑化事業だった。東大寺や興福寺を中心とした植樹は川路の呼び掛けで町ぐるみの運動に発展し、西は佐保川、東は高円地区まで広がった。佐保川沿いには今も「川路桜」と呼ばれる古木が残り、川の両岸約3キロに及ぶ桜並木は県内有数の桜の名所になっている。

 石碑の碑文は川路自身がしたためた。ただ漢文のうえ風化が進んでいるため読みづらいのも確か。そのため奈良ロータリークラブが15年前の2007年、読み下した解説の石碑をすぐ右側に設けた。「然れども歳月の久しき、桜や楓や枯槁の憂い無きあたわず。後人の若し能く之を補えば、則ち今日の遊観の楽しき、以て百世を閲(けみ)して替えざるべし。此れ又余の後人に望むところなり」。愛する古都奈良が後々まで緑に包まれた町であり続けてほしい――この碑文の一節にはそんな川路の熱い思いが込められている。

 奈良奉行としての務めは1851年まで5年余の長きに及んだ。この間、植樹事業以外にも、病人や貧民の救済制度の創設、集会所づくり、墨や武具製作など家内業の奨励、河川の整備、強盗・賭博の取り締まり、拷問の廃止、天皇陵の整備など様々な施策に取り組んだ。そうした善政から川路は奈良の恩人と慕われた。町民たちは別れに際し、春日社に川路の武運長久を祈る石灯篭を奉納し、何百人もが京都の木津川まで見送ったという。川路はこの後、大坂東町奉行、勘定奉行、外国奉行などの要職を歴任したが、1868年、新政府軍による江戸城総攻撃の予定日に自尽し幕政に殉じた。


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